カテゴリー「証し」の4件の記事

2009年1月 2日 (金)

「夕陽を追いかけ」られないで………〜故郷とアイデンティティ〜

チューリップの「夕陽を追いかけて」という曲がある。

しばらくぶりの ふるさとは
大きな街に 姿を変えていた

4年ぶりに生まれ故郷に来ている。どうも「かえってきた」という気がしないでいる。「からだをゆすって 走ってた/路面電車」は、今でも走っているけれども。この四国の街は、すっかり変わり果ててしまっていた。

もどっちゃだめと 自分に言った
切り捨てたはずの ふるさとだから

そうなんです。開発で変わってしまったわたしの生まれ故郷。子どもの頃に登った山の横っ腹にはマルで鼻毛が飛び出すようなトンネルが二つあき、空港から市街地にぬけるバイパスができている。それでも、たぶんそこに住んでいるひとは、ずいぶん便利になったのだろう。子どもの頃は大通りだと思っていたのに、いまは、曲がりくねった脇道になってしまった通学路。わたしは、そこを、毎日、往復5㎞歩いていた。

そこを、高校が終わると出て行くのだが、そのころすでに生まれ故郷を切り捨てる準備をはじめていたのだろう。生まれ故郷。そこには、今のわたしを型づくる鋳型のようなものがある。生まれ故郷を離れ、迷ったときに、悲しみに暮れ、途方に暮れるときに、思い出し、かえってきた生まれ故郷。

しかし、40をとおに過ぎ、「青春の影」がわたしから抜け落ちた今、その鋳型が、わたしの生き様に、すっきりと重ならなくなっている。変わり果て、暗い影が取り払われ、妙に明るくなった街並み。それでも、わたしが生きていた頃に、わたしが歩き、自転車で疾走したその街並みの痕跡が、断片的に残され、ゆくわたしの瞳に、写っては、途切れ、また写っては、途切れ………。そのたびに、苦く、酸っぱい思い出が口のおくによみがえってくるのだけれど。やはり、断片ではだめなのだ。わたしのこころの、わたしの生き様の「鋳型」、アイデンティティの核となるものは、現実に、きょう、4年ぶりに足をおろしたこの地には、完全になくなっている。

いつだって 真剣に
僕は生きて きたはずだけど
いつでも そこには
孤独だけが 残されていた

そう。たくさんの友だちや暖かい家族の愛情に囲まれつつも、わたしは生まれ故郷では、絶えず、孤独に苛まれていた。その孤独は、次第にわたしのなかから薄れつつある。護られていることから、護る立場に。そして、理解される/されないという想いから、理解しなければならない立場に。わたしの立場は、この何年かで、そう、劇的に変わった。

そんななかで、わたしの「鋳型」が、もし、どこかにあるとしたら、それは、この生まれ故郷で、かつて、認められ、許され、愛されてきた、その記憶のなかに、その過去のなかに、あるのだと思う。

さて、これから、旧友との再会である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月 4日 (水)

「歴史とは、右往左往すること」

もう少しだけ、土肥昭夫先生の追悼礼拝での出来事について書きます。

式中、6名の方が式中に土肥先生との思い出をお話しされました。

2004年9月に香港で開催された東アジアキリスト教史協議会でのわたしの研究発表に対して唯一わたしの意図を理解した質問をしてくださった徐正敏(ソジョンミン)延世大学校神科大学教授は、「今でも、土肥先生が亡くなったことが信じられません。天国に花見に行って、帰ってこられるのではないかと思っています」と語られ、8月15日に韓国で説教をされた土肥先生が数分間涙を流しながら沈黙されたエピソードを披露され、「涙は、涙でしか通訳できなかった」と結ばれました。

また、以前同志社人文科学研究所のキリスト教社会問題研究会で研究補助者(院生のアルバイト)をしていた西岡裕芳さんは、現在日本キリスト教団月寒教会の牧師になっておられました。陳腐な言い方ですが、立派になられたと思います。

そして、今回もっとも感銘を受けたのは、土肥先生のお子さんである土肥いつきさんのお話でした。話しの詳細についてはご本人がブログに書かれているので、そちらの方を参照していただく方が正確かと思いますが、印象に残っているのは土肥先生の歴史の定義と、先生が尊敬する人物が田中正造だったということ、いつきさんの小さい頃の思い出が両親に手を引かれて青空の繁華街をデモをしたことの三つでした。

土肥先生は「歴史とは何か」をという当時高校生の土肥いつきさんにたいして、「歴史とは、右往左往することである」と応えられたそうです。右往左往するのが、歴史の登場人物なのか、それとも研究者なのかは判然としませんが(でも、おそらく前者?)、とても含蓄のあるお言葉です。土肥先生のなさったお仕事(研究)そのものは、理路整然としていて、余り右往左往している風にはないのですが。それでも、先生がそう考えられており、それが歴史を見る広い視野や柔軟な評価に繋がったのでしょう。………実際、わたし自身が自分の研究対象を巡って右往左往しているのですが、でも、確かに、草創期や自体転換期のキリスト教界は右往左往しながら歴史を形成しています。

それから、土肥先生が尊敬している田中正造にお子さんの土肥いつきさんが年を経てから出会われたこと、また、土肥いつきさんが子どもの時に両親に連れられてデモに加わったことなどをうかがうと、自分と自分子どもの関係についても考えさせられました。

土肥いつきさんを通して、土肥先生から、最期の(でもないかもしれないが)大きな贈り物をいただいた思いです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 1日 (木)

キリストに出会う。

K女学院大学チャペルアワーでの奨励

奨励題:キリストに出会う。

讃美歌:讃美歌21 399番 1,2節

1 さすらいの民よ、荒れた大地に
  いつまで空しい 夢を追うのか。
  「神に立ち帰り いのちを受けよ」
  きびしいみ声が 天からひびく。
  われらはいま立つ、主の民として。
 
2 なぜつぶやくのか、さすらいの民、
  果てない旅路の 重荷にあえぎ。
  イェスを待ち望め、十字架のイェスを、
  闇路をみちびく 復活の光を。
  われらはいま立つ、主の民として。
 
3 われらは主の民、日々の歩みが
  明日への希望に 続くようにと、
  愛の聖霊に ひたすら頼み
  あらたな賜物 この日も求め、
  われらはいま立つ、主の民として。 

聖 書:新約 マタイによる福音書 第27章第32節

「兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた」(マタイ 27:32)

 

 わたしは、日本のキリスト教史の研究をしています。なぜ、この研究をはじめた動機はいくつかありますが、そのうちのひとつは、明治時代になって、生まれて初めて教会に行った人たちは、どうやってキリスト教に出会ったのだろうかということを知りたいと思ったからです。わたしは、20代の半ばになってふとしたことから近くにある教会の礼拝に出席しました。なぜ、わたしがそのとき教会に行こうと思ったのか。それさえ思い出せないほど些細な動機で教会に通いはじめたわけなのですが、その些細な出来事がその後のわたしの人生を大きく変えました。

私がキリスト教史の研究をはじめようとしたのは、その教会で洗礼受けた前後です。洗礼を受けてクリスチャンになったのにもかかわらず、それでも、「人はどのようにキリストと出会ったのか」ということに関心があったのか。それは、それまでに様々な教会員やクリスチャンに出会い、礼拝の説教もメモをとりながら聴き、聖書もたくさん読み、讃美歌も覚えましたが、この時点でもなお、イエス・キリストに出会ったという実感というか、確信が持てなかったからだと、いま思い返して考えると、そう思います。

 さて、きょう読んでいただいた聖書の箇所を「イエスとの出会い」の文脈で繙いてみたいと思います。「シモンという名前のキレネ人」がどんな人物であるのか、聖書では詳しく述べられていません。キレネというのは北アフリカの一都市の名前です。同じ新約聖書の「マルコによる福音書」(「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」(マルコ 15:21))や「ルカによる福音書」(「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」(ルカ 23:26))にもこの場面が描かれていますが、それらの福音書では、シモンは「田舎から出て来た」とあります。とにかく、このシモンが巡礼か何かの目的でエルサレムにやっていた時に、イエスの処刑の場面に出くわすのです。

 聖書によると、すでに死刑の判決を受けて自ら十字架を背負って処刑場であるゴルゴダの丘に向かっていたイエスは、途中で力尽きます。するとローマの兵士たちは、偶然その場に居合わせたキレネ人・シモンに無理矢理その十字架を担がせて、イエスの後を歩かせたのです。このときシモンは自分が担いでいる十字架にやがてつけられるイエスがキリスト、つまり、救世主であることは知る由もなかったのではないでしょうか。それどころか、恐らく、彼はイエスとは初対面だったでしょう。たまたま通りがかったばっかりに、シモンは、運の悪いことに全くの赤の他人を処刑するための十字架を担がされてしまいます。

 もし、シモンがそれを断ることができれば、他の誰かがそれをすることになったでしょう。要するに、それは、だれでもよかったのです。だれでもよかったのだけれど、よりによって、こうした最悪かたちでキレネ人のシモンはイエス・キリストと出会ったのです。このキレネ人のシモンのほかにも、このときにイエス・キリストと衝撃的な出会いをした人物が幾人か描かれています。例えば、極悪人の強盗でイエスと一緒に処刑されるはずであったバラバという人物は、ユダヤの祭りの風習により、釈放されてしまいます。その後この人物がどうなったかについて聖書は全く触れていないのですが、釈放されてからもその場にいてイエスの処刑の場面をバラバが見届けたとすると、バラバもこうして、普通にはありえないかたちでキリストであるイエスに出会ったのです。

 スウェーデンの作家・ラーゲルクヴィストの『バラバ』(岩波文庫)という小説があります。そこでは、バラバは、この後、一旦強盗団に戻りますが、最後はキリスト教徒とともにローマで殉教しています。また、キレネ人のシモンも後にキリスト教徒になったのではないかと思わせる記述が聖書のなかにあります(マルコ 15:21)

 彼らはどのようにしてキリスト教徒になったのか。それを詳しく知る手がかりは、現在、全く残っていません。ただ、「たまたまイエスの処刑の場面に出くわし、そこで不思議な光景を見て、イエスが救世主であることを悟り、感化され、後にキリスト教徒になった」というような単純なお話しではないように、わたしは思うのです。

 シモンは、イエスがキリストであったことを知った時に、「自分はなぜ、あのとき、イエス様の十字架を担ぐことになったのだろう」、「こんな事なら、強引にでも断るべきだった」、「それにしても、神様は、なぜ、あのような仕方で、わたしをイエス様に会わせられたのだろうか」等とずいぶん悩んだのではないでしょうか。バラバも同じです。「なぜ、全く無実であったキリストが処刑され、極悪人であった自分が許されてしまったのだろうか」。

 これは、二人にとってとても大きな「問い」ではなかったのでしょうか。イエスに出会うということは、物理的に出会うだけではなく、こうして、聖書を読み、イエスに物語に触れ、イエスの弟子たちや其の他の人物の生き様をたどることで、自分が抱えている困難や課題に呼応するように、自分だけの、大きな「問い」を持つこと。これが、イエスと出会うことではないかとわたしは思います。そして、そのような「問い」を持つことで、今度は、その「問い」に対する「答え」を探すという全く新しい人生がはじまるのではないでしょうか。

 翻って、みなさんにとっての「問い」はなんでしょうか。例えば、わたしの「問い」は、こうです。聖書には、大層為になることが書かれているし、その通りのことがこの世の中に実現すれば、とてもすばらしい世界になるはずなのに、現実はそうではない。だから、聖書は、所詮現実に対しては無力なのだ。──これでは「問い」になりません。聖書の教えに忠実なはずのクリスチャンやキリスト教国が、それを実行できないのは「なぜ」か。ここから「問い」がはじまるのです。

自分がたてたその「問い」に対する「答え」はなかなか見つかりません。しかし、その「問い」に対する「答え」を真摯に見つけようとする過程で、きっと、わたしたちは理想の社会を実現するための方法を幾つも考えつくことになると思うのです。

そのような「問い」を生み出すきっかけは、みなさん自身やみなさんの周辺、そして、この地球上にあふれています。「人は人を傷つけないと生きていけないのか」。「いくら努力しても、報われない人がいるのはなぜか」。「真実の愛なんて、あるのだろうか」。………

 さて、みなさんは、現在どんな「問い」をお持ちですか。そして、これからどんな「問い」をご自分で立てて行かれるのでしょうか。その「問い」が大きければ大きいほどそれに対する「答え」も大きくなり、それが深ければ深いほど「答え」も豊かになるのではないでしょうか。聖書には、みなさんが、そうした大きくて深い「問い」にたどり着くための糸口がちりばめられています。

 それでは、静かに目を閉じて、それぞれ、自分の言葉でお祈りをしてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月26日 (木)

「最も小さい者」になりなさい。

【K女学院大学の「チャペルアワー」での証し】

「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである』」(「マタイによる福音書」 25章40節)。

わたしが教会に通いはじめたころ、この聖書の言葉に感心した覚えがあります。キリスト教という宗教は、「最も小さい者」、つまり、自分より立場の弱いひとや、ハンディキャップを負っているひと、それから、貧しいひとのために何かをしてあげることが、「わたし」、つまり、イエス・キリストにしてあげたことと同じことである。そう、牧師が礼拝の説教で述べたのです。それまで、わたしはひとを助けるということをそういうふうに考えていなかったのです。だから、わたしにとって、この聖書の言葉は魅力的に響いたのです。

ひとを助けるという発想は、決して悪いことではありません。そして、敢えていいますが、ひとを助けるということは一種の快感です。なぜなら、ひとを助けているときに、「自分にはひとを助ける資格や能力があるということが自他共に認められた」と、感じるからです。でも、それは、自分はもしかすると本当は助けられる存在かもしれないことを忘れた、高慢で、驕った考え方だと、みなさんも思うでしょう。助けられる方は気持ちがいいけれども、助けてあげていると思われている方はどうなのだろうかと考えると、問題は複雑になります。そんな、驕った気持ちがあのころのわたしにはあったのです。わたしは、あのころ、確かに誰かの役に立ちたいと真剣に思っていたし、それが自分にできるものだと思っていたのです。でも、いまから思い返すと、そのころのわたしはずいぶん思い上がっていたのでしょうね。

そう思うようになったのには、いくつか理由があります。

まず、この聖書のことばの本当の意味です。この「最も小さい者」ということばには、貧しいとか、劣っているとかいうことばは本来ありません。だから、このことばは、わたしがはじめに教会で聞いたときのような単純な話ではないのです。マタイによる福音書第25章第31節からはじまるこの一連の物語のあらすじは、こうです。

この個所には、わたしたちの聖書には「すべての民族を裁く」という表題がついています。まず、イエスが栄光の座に就いたとき、すべての国の人びとはイエスの前に集められます。そして、右と左にわけられます。「羊を右、山羊を左」と聖書にはありますが、なぜ羊と山羊なのか、なぜ右と左なのかといった細かいことは気にせずに物語をつづけましょう。こうして人びとを分け終わると、イエスは最初に右側の人に向かって話しはじめます。「あなたたちはわたし(=イエス)が飢えていたときには食べ物を与え、のどが渇いているときには水を飲ませ、旅をしていたときには宿を貸し、着るものがなくて困っていたときには服を与え、病気のときには見舞いをし、牢獄につながれているときには訪ねてきてくれた。だから、あなたたちは祝福されるのだ」と。しかし、それを聞いていた右側の「羊グループ」の人は、そんなことをした覚えがまったくないのです。だから、イエスに聞き直します。「わたしたちは、いつそのようなことをあなたにしたのでしょうか」と。そこでイエスはいいます。「あなた方は、確かにわたしにはなにもしていない。しかし、『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人』に、あなたたちはわたしが言ったことをしたではないか。彼らにしたことはわたしにしたことにもなるのだよ」と。

物語の後半は、これまでのあらすじと、まさに、ネガとポジの関係です。つまり、左側のひとたちは、「最も小さい」人たちになにもしなかったので、呪われるというお話しです。

話を戻すと、この「最も小さい」という言葉には、自分より劣っているとか、貧しいとか、あるいは、子どもであるとかという意味は、本来ないのです。狭い意味ではイエスの教えに共鳴して、その教えを旅をしながら伝えている人のことです。もっと広い意味では、キリスト教の信仰を持っていて、働いて日々の生活の糧を得、自分の生活や労働の中で聖書の教えを実践しているごく普通の庶民のことだという解釈も可能かもしれません。

だから、わたしがここでこだわりたいのは、「最も小さい者」とは誰かということです。このことばには、本来、人を卑下するような意味は込められていませんでした。しかし、人を助けるということを、聖書を使って正当化しようとするあまり、「助けられる人」のを勝手に「小さい者」、つまり、劣っている、病んでいる、貧しい、傷害を負っているひとというふうに決めつけるという都合のいい解釈をして、自分はいつの間にか助ける側に回って、「助ける、助ける」といいながら、心理的優位に立って「助けられる人」を知らず知らずのうちに見下すようになっているのではないでしょうか。しかも、このように助けるひとと助けられるひとの人間関係が上下関係(支配・被支配の関係など)として固定化されようになるのです。そうなると、「ひとを助ける」という本来の姿からは、大きく逸脱してしまっているといえるでしょう。「ひとを助けるということは、一種の快感です」といったのはそういう意味です。聖書はこんな行為を肯定はしていませんし、奨励もしていないのです。

もうひとつ、この物語には大切なメッセージが込められています。それは、「イエス・キリストはどこにいるのか」ということです。聖書を注意深く読むとすぐにわかることですが、イエスは何かをしてあげる側には立っていません。わたしたちに何かをしてもらう立場に立っています。もっというと、食料や飲み物、服や宿をめぐんでもらい、看病され、見舞われる立場に、イエス・キリストは立っておられるということです。

これは、かわいそうな人、恵まれない人にたいしては、イエス・キリストにするつもりで丁寧な扱いをしなさいというような比喩的な意味ではありません。イエスに従うということは、自らそのような立場に身を置きながら、キリストの福音を宣べ伝えるということです。そして、キリスト教の信仰をもつということは、人の高見に立って自分が誰かを救えると思いこむことではありません。経済的にまったく満たされない生活をしながら、福音を説き、傷ついたりやんだりするひとの友となり、泣いているひととともに泣きながら、福音を宣べ伝える一生をおくった。そして、ついには、わたしたちの罪と苦しみの一切を引き受けて十字架にかけられて殺された。そんな、見ようによってまったく報われない、惨めな一生をおくったひとりの人間を救い主だと告白することが、キリスト教の信仰なのです。

イエスはこの物語を語り終えられたあと、「人の子は、十字架にかけられるために引き渡される」(マタイ、26:2)という預言をされます。つまり、自分はまもなく逮捕され、罪がないまま裁かれて、十字架にかけられるのだと、弟子たちの前で預言されたのです。

自分たちが救い主だと期待し、自分たちの住んでいる時代や世界を変えてくれるのではないかという思惑をもってイエスに従ってきた人に、イエスはこの謎のような言葉を残して、やがて十字架の上で最期を迎えられる。その衝撃的なできごとに直面して、弟子たちはたいそう混乱します。しかし、彼らは、イエスの死からしばらくしてから、イエスが本当に救い主であったということを悟りまし。そして、彼らは、それからひとが変わったように死に物狂いでイエスの教えを全世界に伝えはじめます。まさに、イエスがいった「最も小さい者」のひとりとして。

経済的に恵まれたひとが恵まれたひとを援助する。権力や腕力が強いひとが弱いひとを助ける。そのようなことがあたりまえだと思っていたわたしたちに、イエスは自分は助ける人の側にはいなくて、物を乞い、助けられる人の側にいるのだとおっしゃる。そして、イエスは自分と同じ「最も小さい者」たちがしている働きを支えなさいとおっしゃっているのです。

このような思想と行動は、確かにわたしたちの世界観を変えます。そして、それによってわたしたちの住んでいる世界は、少しずつ良い方向に変わっていくのではないかと、わたしは期待しています。

それでは、それぞれのことばで、それぞれにお祈りをしましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)