カテゴリー「講義」の6件の記事

2008年4月 5日 (土)

尊厳について〜4人の新入生に〜

みなさん、ご入学おめでとうございます。

みなさんは、入学式に出てびっくりされたではないかと思いますが、みなさんの同級生は4名です。たった4名。ではありますが、それをふまえた上で、なお、わたしはこのような事態をわたしたち教員や大学にとっても、無論、あなたたち新入生にとっても幸いなことであると思い、祝意を表したいと思います。

みなさんは人間の尊厳について考えたことがあるでしょうか。これは、難しいことではありません。みなさんが、これまで家庭で、若しくは、学校で、或いは、社会で大事にされてきたかどうか。また、みなさんが、それぞれの場で、他者を思いやり大切にしてきたかということです。人間は、それまでに自分がじゅうぶんに大事にされ、尊重された記憶があれば、多少の辛いことや悲しいことは乗り切ることができます。しかし、そのような経験や記憶がないと、自分を守れなくなったり、他者に対して暴力的に接するようになってしまうのではないかと思うのです。

さて、新入生4名に、教員が6名。これは、お互いにお互いのことをよく知り、励まし合い、尊重し合うのに最善の環境ではないでしょうか。わたしたちは、入学式で、早速みなさん全員の名前と顔を覚えることができました。これからも、みなさん方が、仲良く、ともに励み、ともに尊重し合うことを、わたしたちは望んでいます。そして、そのためにともに力を合わせたいと思っています。

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2008年3月 1日 (土)

そして、それは、だれのものでもない。

話題のNHKの朝ドラ「ちりとてちん」のなかにこういう場面はあった。正確な表現ではないが、

落語家にとって落語というものは、飯の種です。けどそんな大事なもんを師匠たちは、一銭のお金を取るでもなく惜しげも無く教えてくれはるんですね。そないして伝わってきたっていうところが、落語の素晴らしいところだとわたしは思うてます。

つまり、落語というのは落語家の共有財産だから、個人や一門がそれを独占するのではなく、請われれば、自分の弟子ではなく、他の師匠の弟子であっても、稽古代をとるでもなく、レッスン料をとるでもなく、快く、気前よく教えてくれる。落語というのは、そういうことをずーっと続けて、代々伝えられてきた伝道芸のであるというのである。

これは、実は、学問の世界にもいえることである。わたしは保育所から大学院の博士後期課程までずっと公立学校に通ってきた。だから、いまわたしの「飯の種」になっている学識(たいしたことはないのだが………)は、実は自分の努力だけではなく、自分の「師匠」だけではなく(わたしには、実は、これというはっきりとしたひとりの師匠はいないのだが)、他学の「師匠方」、上の学年や同級生、下の学年の学生たちのおかげで修得できたのだ。そして、そこには、膨大な公費…国費が投じられている。金の話をこんなところですると汚いようだが、だからこそ、わたしの知識や経験、学問の方法論等々は学界や教育の場での共有財産ということになる。

だから、自分の弟子にだけ、「一子相伝」で伝えるべきものではない。また、自分の大学の、自分の学部の、自分の学科の、自分のゼミの学生のみに伝えるべきものでもない。請われれば、わたしはわたしの知り得たすべてを公にする義務があるのだ。本の出版というかたちであれ、論文の公表というかたちであれ、講義・講演というかたちであれ、学会発表というかたちであれ、とにかく、すべてを公にする義務がある。このブログでも然り。

わたしは、今、大学で教務委員という仕事をしていて、非常勤講師をお世話する立場にある。来年度も、わたしたちの大学、わたしたちの学部、わたしたちの学科では本来教えることができないことを研究しておられる専門家の方々が、その知識や学識を惜しげもなく、大学の枠を越えて、わたしたちの学生に教えて下さることになっている。実に、ありがたいことである。

大学の非常勤講師については、すでに他大学で専任の職にあるものが出講することに対する議論があることは承知している。非常勤の職は「限られたパイ」なのだから、すでに他所で給与を得ている研究者は遠慮すべきであるという論理は、それは、それで、筋が通っていると思う。しかし、同時に、公共財である個々人の「学識」を請う者ならだれにでも公開すべきであるという主張は正当であろう。

さて、わたしは、それらの人びとと比して、どれだけの者をこの社会に還元できているのだろうか。それを考えると、甚だ心許なくなってくる。

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2007年10月21日 (日)

沖縄の人口

後期がはじまったK女学院での講義。最初に聞いてみた。

わたし 沖縄県の人口は?
学生A 5万人ぐらい。
わたし 君,それ,本気で言ってんの?
学生A ええ〜。それじゃぁ,1万人。
わたし ………(絶句)
    (何で少ない方を言うんだ。まったく。)

その他,10万人位と答えた学生もそう少なくない。また,わたしの本務校でも,同じように答える学生はいくらもいる。これらの学生は,いったい,沖縄をどんなイメージで捉えているのだろうか。先日の教科書検定をめぐる県民大会で,11万人が集まったという報道を,そのような学生は受け流しているのだろう。例え聞いていても,関心がないので,わたしの設問には決して結びつかないのだ。このニュースに関心があったら,5万人や,10万人なんて言うはずがない。

さて,正解は,1,373,244人(2007年9月1日現在,沖縄県調べ)。つまり,約137万人で,人口は増え続けている。しかも,その増加率は0.76%で,全国1位をあの首都・東京都と常に争っている。が,人口は増え続けているのに,失業率は全国一(7.80%)。だから,若者が少なくて,老人ばかりの島かというと,それは,まったく間違いです。年少人口割合(0〜14歳/総人口)は18.89%で全国一。反対に,老齢化指数は81.64で全国最下位。だから,結構若い人口があまっている。(※ 統計は,ちょっと古いが,2004年7月現在)

しかし,こんな基本的なことが,案外知られていない。どおりで,こちらが話していることが,実感として伝わらないはずだ。

5万や,1万人が住んでいるとってもちっちゃな島で,みんなホテルの従業員や土産物屋の店員さんで構成されている沖縄で,何で,米軍基地が問題になっているのか。そして,何で,キリスト教なんかのはなしを一生懸命にするのだろうか。

ということになっているのだろうか。こうして,現実とは別の宇宙を生きている学生たちだから,優秀な扇動家が現れれば,たちまちそちらの言説の引きずられていくのだろう。と,思う。しかし,絶望なんてしていられない。力づくでも,説得づくでも,彼女たち,彼らを,本当の世界に引きずり戻し,その世界が例えとるに足らない,辺境の,ちっぽけなことであっても,否,だからこそ,そこには,わたしたちの存在を相対化し,わたしたちもを自由にするものが含まれていることを,説き続けなければならない。

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2007年9月 6日 (木)

「幸福」の二者択一!!

この土曜、ある市民向けの講座で話をすることになっている。テーマは、「自己の『幸福』と他者の『幸福』〜沖縄の戦後史からみた『断裂』と『連帯』〜」。

毎年500万人余りの観光客が訪れる沖縄。これら沖縄県全体の人口137万人の3.65倍。その大半が、沖縄には“癒し”を求めてくる。自分のみが“癒される”ことを求めて、観光客たちは沖縄を訪れ、本土資本や外資のホテルに数日滞在し、チェーン化した土産物屋でたんまり消費して帰っていく。

自己の「幸福」と他者の「幸福」。もっとはっきり言えばよかったと思う。つまり、自分の「幸福」と他人の「幸福」が矛盾したとき、人間はどう行動するか、それを沖縄の戦後史に則しながら考えて行きたい。

沖縄の訪問者は、専ら自分や自分たちの「幸福」には大層興味あるようだが、沖縄に住む人びと達の「幸福」には興味がない。彼ら、彼女らは自ら“癒されたい”と思っているが、沖縄のひとの“癒し”には興味がない。加えて、沖縄の「暗部」や「傷痕」は隠蔽されているのだ。

さあ、そこから、どう沖縄の、そして、沖縄人たちの「幸福」を切り開いていくか。それは、難問だ。しかも、わたしは、当事者ではない。そう、沖縄人ではなく、自らが批判しようとする人びとの側と共に生活をしている。

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2007年4月16日 (月)

戦後沖縄キリスト教史講義 第1講 イントロダクション そのⅠ

Ⅰ.この講義でなにを目ざすのか

 この講義はキリスト教の講義です。つまり、キリスト教や教会、キリスト教徒の歴史の講義です。歴史 とは、理念や理想ではなく、現実や実態です。つまり、キリスト教史は聖書にどんなすばらしいことが書いてあって、教会やクリスチャンはそれをどれだけ忠実 に守っているかという事実だけを集めて、教会やキリスト教を検証することが目的ではないとわたしは思っています。むしろ、聖書に書かれている事柄がいかに 守られていないか、また、いかにねじ曲げられているか、あるいは、聖書を解釈することでキリストや聖書の精神が歪曲されていったかの事実を探求する学問で あると思っています。だから、キリスト教がかかわって引き起こされた悲劇や事件、誤解や摩擦などを生んできた実態を解明することだと思っています。
 このように、キリスト教にとって都合の悪い事実は教会や聖職者によって隠蔽されている恐れがあります。だから、ときとしてそのような隠された事実を“暴く”ことは必要になってくるかもしれません。

 それから、この講義ではキリスト教は“ひとつ”ではなく、“いくつも”あると考えています。通常、キリスト教史で“いくつものキリスト教”という と、カトリックとプロテスタント、正教会の別、あるいはプロテスタントの教派が想起されます。しかし、ここでいう“いくつものキリスト教”とはそのことで はありません。
 わたしは信徒ですから、自分が通っている教会はどんな教派・教団に属していて、牧師はどこの神学校出身かなどということは余り重 要ではないと考えています。それよりも、自分の信仰の中身が大事だと思っています。日々直面する様々な問題に自分がどのように立ち向かい、生活や仕事の場 でクリスチャンとしてどのように生きていくのか。また、社会問題や政治問題に対してキリスト教の信仰を根幹に据え、その上で自分の思想・信条に照らし合わ せてどうブレない自分を構築していくのか。そんなことが重要だと考えています。これは、キリスト教(神学)的にいえば、自分がどのような信仰を神様に向 かって告白するかということでしょうか。
 だから、たとえ同じ教派・教団の属していても、また、同じ教会で同じ時間に礼拝にでて、同じ牧師の同じ 説教を聞いたとしても、それぞれの信仰は一様ではないと考えています。つまり、それぞれの信仰の中身は性差や階級意識、貧富の差、地位や立場によって規定 されているのであって、他教派・教団や他教会の信徒であっても同じ信仰を告白するものはいるのだし、極言すればキリスト者でなくても通じあう信条があり、 問題意識を共有することもあると思います。そのような可能性に目を向けるため、この講義では「地域教会」という概念を用います。

 教会は地域社会の中に建っている。こう改めて認識したのは、あの阪神大震災のときでした。当時、わたしは大阪のT教会の信徒だったのですが、震災 後約1年経過して神戸の教会に転会しました。先の認識は、神戸の教会での体験がもとになっています。教会は地域に建っている。地域社会は信徒や求道者の生 活の場です。同時に、地域社会は教会にとって伝道の最前線です。そして、そこでは日々いろいろな問題が起こっており、地域社会の住民はその問題群の解決を 迫られています。
 地域に建つ教会は、その問題の解決のために、なにをなし得たのか、あるいは、なし得なかったのか。わたしのキリスト教史はそれを検証する場であると考えています。そのような検討を通じて、日本社会のなかにあってマイノリティであるキリスト教の存在意義や可能性が探ることができるように思います。

 それから、もうひとつこの講義で問題にしたいことがあります。それは、政治とキリスト教の関わりです。
 荒っぽい言い方ですが、福音主義的な傾向の強い教会、あるいは教派・教団では教会や教会員が社会や時制との関わりを極力さける傾向があります。反対に、近代化や民主化の過程でキリスト教は重要な役割を果たしたのだから、キリスト教は政治的な公正や正義を追究するために積極的に政治や社会問題にかかわっていかなければならないとする立場もあります。
 この講義では、戦争や軍事占領、植民地下での支配者と被支配者との双方のキリスト教を採りあげます。ついてに、傍観者(=日本本土)のキリスト教についても少し考えたいと思っています。
 宗教はひとをまとめる力をもっています。同時に、宗教はひとを排除する力ももっています。また、宗教はひとを動かす力をもっています。宗教の重要な要素は“救い”や“癒し”ですが、それだけではない宗教の姿、平和の宗教とばかりいえないキリスト教の実相が、戦後の沖縄のキリスト教を詳細に調査することで見えてくると思うのです。

 最後になりましたが、「ひとが、ひとを助ける」とはどういうことなのでしょうか。新約聖書の「マタイによる福音書」第25章第40節に次のようなことばがあります。

わたしたちの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。

この「わたし」はイエス・キリストのことです。みなさんはこの聖句をどう思いますか。この「小さい者」とは誰のことでしょうか。また、「小さい者の一人にした」とはどういうことでしょうか。「慈善」や「チャリティー」といったことばはキリスト教の、いわば「専売特許」のようになっています。しかし、このことばに偽善の匂いを嗅ぎとるひともいることでしょう。また、それこそがキリスト教の象徴であると主張するひともいるでしょう。
 上記の聖句は、本来、救う者と救われる者の立場の逆転が描かれていると思うのですが、現実は、残念ながらそうではありません。現実には、救う者と救われる者との立場が固定化し、それが政治的経済的支配と被支配の構造と結びつくことで、救うという行為がある種の臭気を放ちながら《支配する側=救う側》と《支配される側=救われる側》との関係が恒常化していくのではないかと思うのです。
 軍事支配・占領下における支配者の宗教としてのキリスト教を被支配者が信仰することで、キリスト教伝道の最前線としての「地域社会」と地元のキリスト教会・信徒の間にいかなる摩擦や軋轢、また、協力や癒着、羨望と感化など、複雑で絡み合った感情が巻き起こってきたかを考察できると思うのです。

 さて、この講義は、ひょっとするとあなたのキリスト教観や教会観、クリスチャンの見方を変えるかもしれません。
 キリスト教(イエス・キリスト)を信じているひとには、自分の信仰に一度疑問を抱いて、それを根本から見直す機会にしてほしいと思います。また、キリスト教を疑ったり、反感や敵意を持っているひと、あるいは、キリスト教などどうでもいいと思っているひとには、信じるというのはどういうことかを、一度考え直すきっかけにしてほしいと思います。

 次回は、「ガイダンス その2」として、なぜ、「戦後」の、「沖縄」のキリスト教史を採りあげるかについて、述べます。

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2007年4月12日 (木)

戦後沖縄キリスト教史講義 やりなおし 予告

去年、この時期に挫折した「戦後沖縄キリスト教史講義」の掲載を再びはじめたいと思います。できるだけ、気長に頑張りたい。

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