カテゴリー「訃報」の6件の記事

2008年11月 9日 (日)

「筑紫哲也」との別れ

筑紫哲也」が亡くなった。

わたしが大学生・大学院生の頃、今から思えば、たいそう滑稽で、未熟な感じだが、『朝日ジャーナル』を読んでいる自分がどこかしら誇らしくもあった。その『朝ジャ』の編集をしていたのが、亡くなった筑紫哲也さんでした。しばらくして、筑紫さんは『朝ジャ』をやめて、「NEWS23」のキャスターになりました。わたしは、それから、欠かさずその番組を見るようになりました。

そうです。わたしは、筑紫哲也さんのファンだったのです。

しかし、あることがきっかけで、筑紫さんの番組を余り見なくなりました。その「あること」とは、1995年1月17日以降の阪神大震災での筑紫さんの報道姿勢でした。ジャーナリストとして、節を曲げず、「現場主義」に徹することは必要不可欠なことです。そして、筑紫さんはそれを確かに、この時も、忠実に守ってはいたのです。しかし、彼のことばは、この圧倒的な「事実」の前に完全の浮いてしまっていたのです。現場でありながら、現場に完全に距離をとり、それなのに、それをことばで飾ろうとしている筑紫さんの姿勢に、わたしは激しい違和感を感じました。

思えば、これが、わたしと「筑紫哲也」との別れです。その後も、別れた彼女に対して冷たくできないのと同じ信条で、その後の「筑紫哲也」に適当につきあってはいたのですが、震災でも彼のことばがいつも脳裏を過ぎりました。

「筑紫哲也」は、人々が哀悼し、賞賛するに値する人物だと思います。わたしは、そのことを否定するつもりはありません。しかし、わたしは、こうして「筑紫哲也」が賛辞で埋め尽くされてこの世から送られる、少し前に、別れを告げていたのです。

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2008年7月25日 (金)

様々な実感(雑文)

先日、赤坂から銀座まで歩いてみた。東京で移動するときには、ほとんど地下鉄なので、実感はなかったが、こうして歩いてみると、巨大だと思っていた東京も案外広くないことがわかる。

そして、容赦なく照りつける夏の日差しが、わたしの身体に“今年の夏”の実感を植え付けた。その炎天下、休まず、小一時間、あるいは、2時間以上を歩き通せた実感が、心地よかった。

さて、銀座について久しぶりに教文館というキリスト教書店に立ち寄った。キリスト教史や沖縄のキリスト教についてはめぼしいものはなかったが、他では手に入れることが難しい学術雑誌を2冊と、『教団新報』(日本キリスト教団の機関誌)3号分を手に入れた。

同じ建物にある喫茶店で、汗まみれになった体を休めながら手に入れたばかりの『キリスト教社会問題研究』を開いた。この雑誌は数年前までわたしも活動をしていた同志社大学人文科学研究所が主催する「キリスト教社会問題研究会」の年刊誌である。最新号は昨年の4月に亡くなられた、T先生こと田中真人先生の追悼号であった。

研究会で顔を見知っている方々が、何名か、追悼の文章を載せておられた。そのうちのお一人は、先日亡くなられた土肥昭夫先生である。また、研究補助者として働かれていた方が、大学のポストに就かれていたりしたことを、そこで初めて知った。

喫茶店の生ぬるい冷房のなかで、それらの追悼と田中先生の思い出の文章を読んでいると、研究会での出来事がよみがえってきた。なぜか、とても、遠い日の出来事のような感覚であった。

そして、、また、それでも、田中真人先生が逝ってしまわれたという実感が、まだ、ほとんど、わたしの躯や、こころのどこにも、わいてここないことが不思議であった。ただ、心の目が同志社人文研に向けられ、目をつぶってあの暗い階段を昇っていくことを目の裏側に再現すると、その先に真っ黒な、そして、空疎な、空間が最近広がりはじめている。

実態のない実感だが、確かに、何かが、とても遠くなりつつあるのだ。

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2008年6月 4日 (水)

「歴史とは、右往左往すること」

もう少しだけ、土肥昭夫先生の追悼礼拝での出来事について書きます。

式中、6名の方が式中に土肥先生との思い出をお話しされました。

2004年9月に香港で開催された東アジアキリスト教史協議会でのわたしの研究発表に対して唯一わたしの意図を理解した質問をしてくださった徐正敏(ソジョンミン)延世大学校神科大学教授は、「今でも、土肥先生が亡くなったことが信じられません。天国に花見に行って、帰ってこられるのではないかと思っています」と語られ、8月15日に韓国で説教をされた土肥先生が数分間涙を流しながら沈黙されたエピソードを披露され、「涙は、涙でしか通訳できなかった」と結ばれました。

また、以前同志社人文科学研究所のキリスト教社会問題研究会で研究補助者(院生のアルバイト)をしていた西岡裕芳さんは、現在日本キリスト教団月寒教会の牧師になっておられました。陳腐な言い方ですが、立派になられたと思います。

そして、今回もっとも感銘を受けたのは、土肥先生のお子さんである土肥いつきさんのお話でした。話しの詳細についてはご本人がブログに書かれているので、そちらの方を参照していただく方が正確かと思いますが、印象に残っているのは土肥先生の歴史の定義と、先生が尊敬する人物が田中正造だったということ、いつきさんの小さい頃の思い出が両親に手を引かれて青空の繁華街をデモをしたことの三つでした。

土肥先生は「歴史とは何か」をという当時高校生の土肥いつきさんにたいして、「歴史とは、右往左往することである」と応えられたそうです。右往左往するのが、歴史の登場人物なのか、それとも研究者なのかは判然としませんが(でも、おそらく前者?)、とても含蓄のあるお言葉です。土肥先生のなさったお仕事(研究)そのものは、理路整然としていて、余り右往左往している風にはないのですが。それでも、先生がそう考えられており、それが歴史を見る広い視野や柔軟な評価に繋がったのでしょう。………実際、わたし自身が自分の研究対象を巡って右往左往しているのですが、でも、確かに、草創期や自体転換期のキリスト教界は右往左往しながら歴史を形成しています。

それから、土肥先生が尊敬している田中正造にお子さんの土肥いつきさんが年を経てから出会われたこと、また、土肥いつきさんが子どもの時に両親に連れられてデモに加わったことなどをうかがうと、自分と自分子どもの関係についても考えさせられました。

土肥いつきさんを通して、土肥先生から、最期の(でもないかもしれないが)大きな贈り物をいただいた思いです。

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2008年4月 1日 (火)

学恩〜恩師、急逝〜

4月1日。新年度、2008年度がはじまった。来日した韓国・釜山外国語大学校からの留学生を関西国際空港まで迎えに行って、宿舎まで送り、そのまま、大阪空港から東京に来た。

実に、慌ただしい、新年度の幕開け。そんななか、信じられないニュースが………。

日本キリスト教史の泰斗・土肥昭夫先生が急逝された。以前、わたしは、わたしには学問上の師匠はいないと書いたことがある。しかし、土肥先生には、特に多くの学恩を受けたと思っている。わたしが関西に出て来て、政治史から近代日本キリスト教史への研究テーマを変えようとした時に、わたしが所属していた大学院ではそれに関して指導のできる教員はいなかった。困り果てたわたしは、大胆にも土肥先生に修士論文をお送りし、教えを乞うたのだった。

土肥先生は、見ず知らずの、そして、押しかけた格好になったわたしに対して、自分のゼミ生に接するように懇切丁寧に拙稿についてコメントをして下さった。本当にありがたかった。そして、同志社人文科学研究所のキリスト教社会問題研究会を紹介された。その後、わたしのいくつかの作品はこの研究会での発表や討論の中から生まれた。わたしが博士論文を出せたのも、この研究会、そして、それを紹介し、研究会でもいろいろコメントを下さった土肥先生のおかげである。

また、わたしが就職後、沖縄のキリスト教史研究をはじめた時、その頃は、すでに同志社大学神学部を退職され、学会も退かれた先生であったが、わたしの沖縄キリスト教史の研究発表には、欠かさず出席をされ。きびしくて、優しいまなざしを向けられていた。

明日、前夜式、明後日、告別式という。どうしても手の放せない仕事があり、両方とも出席し、先生にお別れをすることができない。それで、先生に弔電を打ちながら、ふと、昨年も同じように東京から弔電を打ったことを思い出した。昨年、ほとんど同じ時期、やはり同志社人文研の研究会で大変お世話になった田中真人先生を、同じように送った。田中先生からも、また、わたしは大きな学恩を受けた。

実は、私事だが、わたしが今のパートナーと知り合い、生涯をともにすることを誓うことになったのも、おふたりの先生のおかげである。

お二人のかけがえのない恩師を一年間に相次いで失った。そして、わたしは、それらの先生方の学恩に報いることを、何一つしていない。正に、痛恨の極みである。

土肥昭夫先生は、同志社の良心であった。また、生成は、研究者として、他の追随を許さない孤高の存在であり、暖かく、忍耐を持って学生に臨まれ、常に公平に学生や若手の研究者に接してこられた。そんな大きな存在でした。

先生、どうか、安らかにお休み下さい。わたしは、先生にわたしの研究の成果をお見せすることは叶いませんでしたが、今後も、先生のお教えを忘れず、精進いたします。

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2007年10月11日 (木)

ふるさとの言葉〜長井健司さんの遺志〜

テレビから,不意にふるさとの言葉が聞こえてきた。ビルマ(ミャンマー)で,射殺された長井健司さんの遺骨が,ふるさと近くの空港に帰ってきたのだ。遺骨を抱いた長井さんのおかあさんがテレビ局のインタビューに答えている。

「(遺体が)ひこずられていたでしょう。(軍事政権は,息子を)人間あつかいしていないように思いました。人間扱いじゃない。人間としてもう少し普通の国になってほしい。」

「ひこずる」。わたしのふるさと・伊予の訛で「引きずる」の意。テレビのナレーションは,「おかあさんの怒り」と表現した彼女の発言は,わたしには,深い悲しみを湛えたニュアンスのように思えた。

続いて,お父さんは次のように言う。

「残念。………。ただそれだけ。何を言っても,意味ない。」

そう。そんなに自覚していないが,わたしたち愛媛の人間は「意味ない」という言葉をよく使う。しかし,本当は「意味ない」などとは思っていない。お父さんの,この言葉に,お父さんがわたしは,たぎる怒りの感情を,必死で深く鎮めようとしているのを感じた。

訛。ふるさとの言葉は,他郷の人々にはわからない,微妙なニュアンスを同郷の者たちにだけ,伝える。

言いようもなく,悲しい。ただただ,悲しいだけだけれど,わたしたちは長井さんの遺志を,自分たちのできるかたちで,受け継いでいかなければならない。そして,自分の言葉で,あふれ出る感情を押し殺しながら,語った,長井さんのご両親の,その姿を心に刻んで,“あした”に踏み出さなければならない。

なくなれ,独裁政権。なくなれ,暴力。

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2007年4月 5日 (木)

訃報 T先生

敬愛するT先生が亡くなられた。享年63歳。まだまだこれからの研究者であった。T先生は長年京都である研究所の研究会を運営されてこられた。わたしも石井十次研究会の当初からずいぶんお世話になった。このごろは、家庭の事情や職務(研究に関係のない雑務)が煩多のため、研究会からは足が遠のき、ここ3,4年ついぞお会いしてお話しすることもなかった。

T先生は、とても几帳面な方だった。ある種のこだわりをずっと持ち続けておられて、そのすさまじい記憶力には驚嘆していた。優しくて、とても、厳しい方だった。研究会のあと、参加者といつも連れ立っていった中華料理屋はもうずいぶん前に閉店したと聞いています。そのときの先生との実に他愛もないおしゃべりの数々で、どんなにか心が温かになったことか。生真面目だったけど、とてもユーモラスな先生でした。そして、わたしは、その研究会の場でかけがえのない人に出会いました。これは先生のおかげではなかったけれど、でも、先生の意思がわたしたちふたりを出会わせてくださったとも思います。

その先生がもうこの世に居られないことが、いまだに実感として自分のなかで諒解できていない。

それから、訃報を聞いてから自分の沖縄の研究について早くかたちにして、先生にお見せすることができず、返す返すも、残念でならない。

先生。実は、明日、あさってと、わたしはしなければならない仕事があるのです。だから、先生のお通夜にも告別式にも出席することができません。今日は、ひとりで先生を偲びます。少し泣くかもしれませんが、ご容赦下さい。こころに穴が開いて、頭のどこかが痺れています。

帰天された先生。また会う日まで、安らかにお眠り下さい。

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