出張で、我が国の首都・東京に来ている。夜10時前に羽田について、京急・JRと乗り継いで11過ぎにやっとホテルに着いた。明日から3日間、カン詰めの会議。
さて、大阪の空港を飛び立つ前からわたしを波状的に襲ってくる違和感は、どうしたものだろう。空港の待合室での乗客の会話。それを聞きながら、言いようのない不安定な違和感に襲われている。
こんな感情はわたしのフィールドである沖縄では決してなかった。以前よく調査に行っていた北海道でもついぞ感じていない。また、今日、関西空港に迎えに行った韓国・光州からの留学生と話していても感じない。先日行った韓国・釜山でも感じなかった。
空港に着いてから乗った京浜急行の車内で感じたのは、きっと、「違和感」に違いない。「この電車は品川行き急行です。ただいま、午後○○時○○分に△△駅と□□駅の間で発生した人身事故の影響で、この電車はこの☆☆駅でこの先の単線区間で行き違う予定の羽田空港行きを待っています。なお、この電車は品川行き急行ですが、運行状況によっては種別と行き先を変更することがありますので、ご了承下さい」って、了承できるわけないやろ。と、関西弁でツッコミを入れてみる。
こんな状況で、なんで、東京のひとは平然としていられるのでしょうか。ここに来て、感じるのは、緊張感だと、理解しました。無用の緊張を与えて、それでも、平然としている街、首都・東京。
“われわれ”とはいったい何なのでしょうか。われわれを覆っている“われわれ”はその表層では「ひとつなる“われわれ”」ようです。しかし、それは、既にいろいろなところでほころび、そして、亀裂を生じている。だからこそ、われわれの国家は「ひとつなる“われわれ”」を演出してきたし、その乖離と分裂の危機感が高まれば高まるほどその演出は過剰になっていく。しかし、その国家の首都は、“われわれ”の一員である“わたし”に緊張感を強いるのです。そして、この都市には、“新しい人びと”が“いろいろ”な国からやってきています。
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