カテゴリー「フィールドワーク」の7件の記事

2007年8月30日 (木)

何のために、わたしは、この道を行くのか。

公文書館での史料収集を終え、夕方、西原町に向かった。沖縄教区のY牧師とO牧師にお会いするためだ。

Y牧師は、先日刊行された拙稿「日本基督教団における沖縄教会観の起源とその変遷」 のなかに登場する人物である。そのご当人から、拙稿に対する批評を頂いた。そのなかで、一つ、わたしが誤解していたところがある。それは、Y牧師が1966年8月、日本キリスト教団の主催で開催された「第十七回夏季教師講習会」で沖縄教会の代表として出席した経緯だ(こう書くと、Y牧師が何方なのか関係者にはわかってしまうが)。

わたしは、「比嘉盛仁・沖縄キリスト教団理事長」の代わりにこの講習会に出席したと書いた。Y牧師にご指摘頂いたのは、まず、当時は沖縄キリスト教団の代表は「理事長」ではなく、「議長」であったこと。確かに、沖縄キリスト教団は、1962年の総会で「教憲教規」を制定し、主湯教報人規則を一部変更した。その際、「理事長」は「議長」と改称されている。

そして、今ひとつは、Y牧師が代理で出席したのは比嘉盛仁・沖縄キリスト教団議長ではなく、比嘉盛二郎・同副議長の代わりであったことである。

これは、確かに重大な事実の誤認である。いつか拙稿を別のかたちで交換する際に訂正しなければいけないが、取り急ぎここに記しておきたいと思う。

さて、久しぶりにお会いしたY牧師もO牧師もお元気で、現在の沖縄教区のこと、日本キリスト教団のことなど、たくさんお話しをして頂いた。こうして、戦後、米軍占領下の沖縄で占領軍と渡り合いつつ、牧会に携わられ、「合同」・復帰後は日本政府や日本教団と対峙してこられたおふたりからは、お会いするたびに、新しい課題を頂く。そして、わたしが、何のために、この道を歩いているのか。この、だれも通ってこなかった、道を歩いていくのか。おふたりには、わたしの研究成果を見て頂きつつ、その研究の意義も再認識させられる。

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2007年8月29日 (水)

残されたもの、その声を聞きながら………

さて、フィールドワーク3日目。

沖縄キリスト教史に関して、1940年代の史料はほとんどないと言われていた。いってみれば、それに挑戦してきた日々なのだが、記録を残すことにこだわりをもつ人は、どの時代にもいる。

きのうときょう、沖縄県公文書館で蒐集した史料は、実は、個人が自らの意思で保存した資料を遺族が公文書館に寄贈したものだ。

そのような個人的営為があってわれわれ歴史家は、はじめて史料に触れることができるのだ。そして、公文書館・図書館は、故人や遺族の意をくんでそれを分け隔てなく公開する。公開された資料が、従来支配者やエリートが構築してきた歴史を揺るがすことになる。

つまり、公文書館や図書館は民主主義の砦。

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2007年4月 3日 (火)

初心、研究者としての出発に立ち戻り

はじめて研究目的で沖縄に渡ったときの心細さを、いまだに魘されるように、思い出すことがある。

すでに職を得て研究者としての歩みをはじめて1年目の夏(1998年)。その年偶然あたった科研費を手にして、無謀にも2週間ちょっとの予定で沖縄に渡った。ちょうど2度目の沖縄。ホテルについて、まず、途方に暮れてしまった。その時の行動録には次のようにある。

日本基督教団沖縄教区事務所に電話。

  • 那覇中央教会(〔電話番号、住所〕)に電話、教区事務所の所在確認。
  • 教区事務所=沖縄キリスト教センターは、〔電話番号〕、宜野湾市志真志。
  • 牧志・市外線バス停で、那覇交通25番線(石川線)、27番線(安ケ名)乗車。
  • 中部商業高校前下車、信号わたって琉大方面に250m。
  • 対応 → 〔K〕さん。
  • 教区資料の閲覧申し入れ。 → 書記に確認の上、明日9:00に電話。

それをみると、ホテルに着いてから、約2時間。考えあぐねていたことが判る。そして、この翌日から沖縄教区資料室の史料との格闘がはじまる。

一件整然と見える史料だが、すでに史料保存のために第一次の史料保存者以外の人の手がいくつも入っている形跡が見られる。そのため、史料群は原形をとどめていない。その上、すべてバインダーにとじられているので、パンチで穴が開けられており、そこから紙がちぎれて脱落しそうになっているものもある。この手の史料のハシッコには、会議の名前だとか、年月日、場所等の重要情報が記載されているが、それが判別できないものもある。また、バインダーで綴じられているとはいえ、縦置きになっているので、史料全体が反り繰り返りはじめていた。

そう、またしても、そこでわたしは途方に暮れてしまったのである。クーラーが効いた資料室のベランダの窓を開けると、眩しい陽射しと、湧き上がる雲、そして、体にまとわりつく熱気と湿気。ときおり、低く、高く飛ぶ米軍の戦闘機やヘリの爆音。

それらを全身に感じて、やらねばならないことを整理し、反芻し、そして、部屋に戻った。

バラバラになった史料群なら、それをどうにかして復元するしかない。そのためにデータベースづくりをはじめた。離ればなれになった史料のひとつひとつを目録にとっていけば、きっと同じ時期の史料に行きあたるに違いない。途方もなく回り道だけれど、それ以上に確実な方法はない。そう確信して、毎日毎日、那覇から宜野湾まで通い続け、来る日も来る日も、ときには昼飯もとらず史料と格闘し、データベースを構築していった。データの数は、その資料室の史料群のごく一部であったが、優に1,000を超えた。

そのデータベースづくりで得た人の名前や役職とそれぞれの関係、会議の名称や話し合われている内容、そのひとつひとつが、それ以降のわたしの糧になり、何度目下の沖縄行きで、戦後沖縄キリスト教史の概略が朧気に浮かび上がった。いまでもその時の作業とそこで得た知識と感覚(インスピレーション)、構図と構想は、わたしの研究の基盤になっている。

その後、沖縄県公文書館で1945年から60年代初めの『ウルマ新報』『うるま新報』『琉球新報』『沖縄タイムス』を“読破”した。そこには、やはり1,000を超える教会やキリスト者の記事があった。朝9時から5時まで数回トイレと水分補給をする以外はマイクロリーダーを離れず、ひたすらマイクロフィルムを見続けた。そして、関連記事を見ては興奮し、歴史的な出来事の記事を見てはついつい読みふけりながらもコピーを重ねた。そして、ホテルに帰ってその日コピーをしたものを深夜まで目録にとり続けた。こうして作り上げたデータベースに、教会のほかの史料のデータを重ね、ある時期からは沖縄教会の機関誌である『道しるべ』(創刊当初は『道標』)の記事を重ねた。そして、それらを時系列に並び替えてつくった「戦後沖縄キリスト教史年表」は、わたしだけのオリジナルな「年表」であった。それは、いまでも学会発表や論文執筆の力になっている。

それらの作業に一区切りをつけ、その後は、聞き取り調査を併用するようになった。歴史の構造がわからぬままにただただひとの話しをきいてどうなるのだろうか。やはり、基礎作業に肉付けをし、研究に厚みを持たせ、確実性を付与するためには、地道な基礎作業が必要だと、いまでも思う。だから、いまでも、ときどき、沖縄県公文書館や図書館に足を向ける。

1998年8月下旬、たとえようもない心細さ。そして、その後何度も繰り返された絶望感と徒労感。途方に暮れた瞬間。そこから、わたしの研究ははじまった。実は、いまも論文を書いている。行きづまっているわけではないが、もう一度原点に返って、自分を奮い立たせてから、自分の論文に向きあいたいと思っている。

【追記】

先日、このブログで触れた「若い研究者」から何度かメールが来た。最近のメールには、このようにあった。

謝罪の手紙を出したいのだが、出していいかどうか、メールで返事をして下さい。

もう、無視しようと思う。「謝ってやるからメールをよこせ」とか、「メールで返事した謝ってやる」とか。そんな風にとってしまうのは、やはりわたしが「小さい」からだろう。また、謝る、謝るといいながら、その実、やっぱり自分は間違っていないと主張しているように思うのも、わたしがきっと狭量なのだろう。

で、わたしは、別に謝って欲しいわけではないのだ。その「若い研究者」が論文に書いた記述に対して、根拠を示してほしいだけなのだ。しかし、そのことは、「ひとまず置い」て、とにかく謝りたいそうなのだが。でも、重ねていうけど、わたしは謝って欲しいわけではないのです。

わたしは特別器用でも優秀でもないけれど、とにかく我慢強く、ねばり強く食らいついてきた。それを要領よく自分の業績にして、キャリア・アップをすることもできないでいます。勤務先では理不尽な目に遭い、全くの雑事に忙殺される中、それでもこの夏沖縄に行って調査をすることが心の支えになっている。それほど、追いつめられてしまっている。しかし、どこの馬の骨と知らぬ見ず知らずのわたしに快く資料を公開して下さったり、話しをきかせて頂いたりして方々のことが、いまでも目に浮かぶのです。

そうした方々にせめても真摯に向きあうために、あの途方に暮れた日々があり、荒野を歩くような心細さに耐えてきた。それが、わたしのたったひとつの矜持でもあるのです。

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2007年3月21日 (水)

“先行研究と若い研究者”、その後

先日、3月18日にこのブログにアップした「先行研究』について〜若い研究者への接し方〜」を一旦下書きの状態にもどします。コメントを投稿していただいた「ぱすと〜る」さんには申し訳ないのですが、よろしく了解のほどをお願いします。時期が来れば、その後の経過とともに修正せずに、再びアップいたします。

さて、その理由は以下の通りです。昨日、問題の論文が掲載された雑誌の発行元の所属長にわたしの論文の抜き刷りを添えて「反論・反証」の機会を与えてほしい旨手紙を出しました。そのことを当の「若い研究者」にメールで告知したところ、改めて問題解決に前向きに取り組みたいので(自分自身で考えて)もう少し時間的猶予がほしいとの返信がありました。

それで、その「若い研究者」が問題の核心や本質を理解し、実際に行動に移せるのかしばらく待とうと思います。

先行研究の精査と批判、史料批判と多角的な考証、聞き取り相手や関係者への配慮、論文を執筆する際のルールや作法の遵守と尊重等々、研究者の発言と行動、それに規範や倫理に対する自戒の念を込めて、「待つ」という決断をいたしました。

みなさん、どうかご了承ください。

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2007年3月18日 (日)

「先行研究」について〜若い研究者への接し方〜

新設の小規模私立大学で、しかも、キリスト教にも宗教にも余りかかわりのないところに勤務していると、文献へのアクセスが難しくなる。ことに学術雑誌については、非常勤先を利用したりはしているが、まったく不十分だ。勢い、細心の研究動向の把握が甘くなる。そんなことを痛感した出来事があった。

この一種のハンディを克服する手段として、NDL-OPAC (国立国会図書館 蔵書検索・申込システム)というインターネットによる雑誌記事索引と文献の複写サービスはとても有効である。そのサービスを使っていくつか文献をまとめて取り寄せたときのこと。

以前学会で軽くあいさつした程度の院生(おそらく博士後期課程)が2006年8月に公刊した論文を先日はじめて読んだ。その論文のテーマは、2003年に学会誌の発表したのと全く同じテーマであった。にもかかわらず、「2.先行研究について」で「この問題について直接論じられた研究はない」と断言されてしまった。そして、その直後にわたしの名前を出して、彼が参考にした日本基督教団沖縄教区資料室の史料をわたしが整理したかのような全くの虚偽の記述があった。

そのことはともかく、わたしの名前が中途半端に出て来るものだから、この著者はわたしのことやわたしの仕事のことを知ったうえで、先の拙稿(「わたしの論文」)が全くの「拙稿(拙い論文)」であると判断したのだろうと考えた。わたしはわたしなりに調査をし、かなり力を入れてその拙稿を書いたつもりだったのでとても心外であった。

それで、ほかにもこれはどうしてもおかしいだろうと思うけれど、知らない人が読んだら本気にしそうなところがいくつもあった。沖縄キリスト教史については、確かに先行研究が少ない。だからこそ、間違ったことを論文にしてしまうと、それが「事実」として一人歩きしてしまう危険がある。だから、細かいことでも、きちんと「事実」を詰めていかなくてはならないと思う。

加えてくだんの論文が掲載されたのはある大学の神学部の紀要で、研究者というよりもその神学部を卒業した牧師等がそれを読み、それぞれの教会で彼が記述した内容が「事実」であるとして語られる機会があるかもしれない。

それで、とりあえず著者と連絡を取ってみた。昨日までに何度かメールのやりとりをしたが、結局、執筆段階でわたしの論文の存在を知らなかったとのこと。それもおかしな話で、彼の指導教員(だと思うのだが)には某学会でまさにこのテーマについて議論をし、拙稿の抜き刷りを送ったにもかかわらず、このようなことが公然と起こっている。先行研究を押さえないで論文を書くのは一義的にまったく本人の責任だが、それにしてもまだ院生なのだし、まわりの教員は誰ひとりとして注意しなかったのだろうか。

ともかく、非公開の場でいくらやりとりをしても余り生産的ではない。だから、なんとか方法を考えて、反論をしたいと思う。このブログもその一環で、本人とのやりとりに一区切りつき、本人の同意があれば、ここでも論点を出して、修正と反論を加えたいと思う。

でも、わたしのやり方は、子どもじみているだろうか。

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2006年3月20日 (月)

会いに行く。

200603202夕方、O先生に会いに沖縄キリスト教学院大学(通称「キリ短」)を訪れた。

97番(琉大線)のバスに乗り、キリスト教短大入口というバス停で降りた。しばらく坂を登っていると、二機の戦闘機がかなり低空を飛んでいく。時刻は午後5時前。きっと太平洋上での演習を終えて、嘉手納基地に帰るのであろう。一昨年、2004年8月13日沖縄国際大学に普天間基地所属のヘリが墜落した。キリ短は西原町翁長の丘の上にある。回りに米軍基地はなく、農村というか、都市近郊のベッドタウンといったこころだが、しかし、沖国大と同じようなことが起きないとも限らない。こちらの方は戦闘機なので、被害は沖国大の比ではないだろうが………。

さて、キリ短は一昨年から4年生の学院大学を併設している。
http://www.ocjc.ac.jp/index.html
この学院は沖縄がまだ米軍の占領下にあった1957年4月9日に、沖縄キリスト教団首里教会内に創設された。現在の位置に移転したのは1989年のことだ。

初代学長は仲里朝章。彼の名前は学院のチャペルの名に残されている。図書館に名前を刻むのはウォルター・クライダー。IBC派遣の宣教師である。明日は、その仲里朝章氏の遺族に会いに行く。

仲里朝章氏には、お会いしたことはないが、志の高い、大きい人である。会ったことはないが、このキリ短に来て、チャペル前の彼の名前を見るたびに、彼に会いに来たような気持ちになる。不思議なことです。

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2006年3月19日 (日)

時間がない。

きょう、午後、久しぶりに沖縄に調査のため来た。

さっそく情報収集のために友人で牧師で、社会福祉施設の施設長で、大学院生のG藤氏に会って、日本キリスト教団沖縄教区のことを聞いた。教区について、わたしは、もう、既に、じゅうぶん深入りをしているので、気にかかることは多かった。

しかし、一番ショックだったのは、今年の1月に、以前聞き取りをした那覇中央教会のO氏が亡くなったことを知ったことだ。O氏は実に温厚な人柄だったが、沖縄戦では北部に疎開しており、その後、戦後の沖縄の沖縄のキリスト教の出発にまさにかかわった人物であった。もっと話を聞きたかった。以前会ったとき、仕事も辞めてこれから時間があるので、一度家に来てゆっくり話して行きなさいといわれていたのに………。昨夏訪れたとき。多忙をいいわけに会いに行かなかった。「そのうちに………」と、思っていた。 まさに痛恨の極みです。

昨年には沖縄諮詢会の文化部長をしていた当山正堅氏のご子息が亡くなられた。まだ、一度もお会いしたことはなかったが、これも本当に痛恨の出来事であった。

時間がない。そして、O氏の手元にあるだろう資料が破棄・散逸するのも恐れています。

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