カテゴリー「フィールドワーク」の18件の記事

2008年5月 3日 (土)

ディープ・オーサカ・フィールドワーク(1)

※ 「(1)」ですから、(2)や(3)があると思うのですが、乞うご期待。

5月1日。我が勤務校は創立記念日で休校。

午前中のK女学院大学でのチャペルアワーの奉仕の後、昼過ぎに学生と西宮北口で待ち合わせて、本年度初めての、フィールドワーク、題して「ディープ・オーサカ・フィールドワーク」に出かけました。参加者は、わたしと韓国・釜山からきている短期留学生4名と日本人学生1名。これは、諸般の事情で休講にしたり、これから休講にしなければならなくなったりしている留学生の日本理解のための講義(「○○語・○○事情Ⅳ」)の補講でした。

前の講義の時間に事前のレクチャーを1時間ほどしていました。

コースは、だいたい以下の通り。

西宮北口から阪急で梅田 → JR大阪駅から環状線で鶴橋 → 鶴橋「国際マーケット」 → 猪飼野・御幸森神社 → 御幸森商店街・コリアタウン → 平野運河 → 今里新地 → 近鉄今里駅から鶴橋 → 鶴橋でお買い物 → JR環状線で大阪へ → 解散

ご存じの通り、生野区は人口約135,000人のうち、約33,000人は外国人(外国人登録者数)で、そのうち約31,000人が在日韓国・朝鮮人であるといわれている。いわゆる「在日」といわれている人の中には日本国籍を取得している人もいるので、この区の4分の1は「在日」である。

鶴橋近辺を学生を連れてフィールドワークするのは4,5年ぶりか。それでも、街のたたずまいはそれほど変わっていないように思えた。高架下あたりの「国際マーケット」も以前のままで、キムチを売る店が並んでいる通りの角にある婦人服の店のちょっと太めのおばさんのマネキンも昔のままであった。猪飼野のコリアタウンも神戸の南京町風にアレンジされてから1,2度いったので、わたし自身は驚くこともなかった。

今里新地は、今から10年近く前、今里に住んでいた留学生を訪ねて訪れて以来であった。当日、曇り(“フィールドワーク日和”)であったせいか(前回もそうであったような)、街全体は霞んでいるようでもあり、くすんでいるようでもあった。きっと夜になると、全く別の街になるのであろう。しかし、大学院時代の恩師である杉原達氏の著書『越境する民─近代大阪の朝鮮人史研究─』(新幹社、1998年)にある通り、街を歩くとヘップ・サンダルを作るときの圧着機の音や段ボール工場、それに「韓国の主要都市がぐるりと一回りできるほどに、朝鮮・韓国にまつわる店」([杉原 1998]p23)が立ち並んでいた。済州島特有の「トルハルバン」とう石像も至る所にみられる。

鶴橋や猪飼野、今里には日本人のとっての「外国人」である「在日」や中国人などが多く住んでいる。しかし、「在日」といっても、それぞれ一様ではない。1920年代になって盛んになった朝鮮人の日本内地への渡航の時期にわたってきたいわゆる「一世」とその子孫である「二世」、「三世」………。それに、近年日本に渡ってきたいわゆる「ニューカマー」の人々。その国籍も「韓国籍」、「朝鮮籍」、そして、正確には「在日」ではないが「日本国籍」を取得した人々と、一様ではない。

そのような事実はおおむね事前学習で伝えてはおいたが、今回同行した韓国人留学生と日本人学生はどのようなことを感じたのだろうか。

以前に比べて、いくぶん観光客らしき人が増えていた生野の街。でも、きょろきょろしながらそぞろ歩きする「外来者」への住民の視線は、必ずしも暖かいものばかりではない。日本人の学生は今里新地を歩いているときから、少し顔が青ざめていたような気がしたが、かえって感想を聞くと「怖かった。もう行きたくない」といった。韓国人の留学生は、「街の人の言葉(韓国・朝鮮語)が済州島の訛があって、釜山から出身の自分にとっては懐かしかった」という感想を述べる一方で、「店の人に韓国語で話しかけたのだけれど、いやな顔をされた」と驚いていた。また、商店街で話をしていた店番の年配のご婦人5,6人は、それまで日本語で話をされていたのに、我々の姿を見とがめると急に韓国語で話しをし始めたりした。

このように、フィールドワークをするわたしたちに対する視線を自覚することは、それでも、有意義なことであったと思う。

さらに旧猪飼野の入り口にある御幸森神社(御幸森天神宮)には、至る所に天皇系の紋章である「菊花紋」があり、境内の隅には「遙拝所」があった。その説明書きには「遠く遙かふるさとを思いながら………」というような文面があり、当世風の粉飾がなされてはいるが、天皇家と天皇信仰にまつわるものがコリアタウンの直近にある。そして、そこでは年に何回か「日本式」のお祭りがあり、それには近隣に住む「在日」の方々も参加や寄進をされていいる由。もともとこのあたりには百済から移住者が多いといわれていてる。多民族・多文化環境での「共生」のあり方はとは、どのようなことなのかを、自分自身も身をもって知り、留学生や日本人学生にも知ってもらいたかった。

さて、次回は、どこへ?

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2008年3月21日 (金)

思わぬ出会いが………

きょうは、昨日のYさんにご教示を受けた文書を探しに、浦添市立図書館に。昨年末、いった西原町立図書館もそうだが、沖縄の市町村立図書館はそれぞれ個性的なつくりになっている一方で、郷土資料、沖縄学のコーナーが必ずある。

調べものは思いの外難航した。Yさんの記憶が曖昧で、教えて頂いた書名のキーワードがだいぶん違っていた。しかし、図書館のレファレンス室の職員の方のアドバイスで、「沖縄学」コーナー(2階)を探していると、Yさんのいわれていたものらしい文献に行きあたった。そして、必要事項をコピーして、申請用紙を「沖縄学」コーナーの職員に提出した。すると、

(職)沖縄のキリスト教についてブログを書かれているI先生ですよね。

(わ)はい、そうです。

(職)ブログ、拝見しました。

(わ)そうですか。それはどうもありがとうございます。

というような会話をして、名刺を交換した。Iさん、ブログ、読んで頂いてありがとうございます。

そのあと、このブログにちょっと書いていた沖縄の新聞に掲載されていたキリスト教関係記事のデータベースについての質問を受けた。このほかにも、わたしは自分の研究のために幾つもデータベースをつくっている。今つくっているのは、これまで収集した資料の記述のデータベースをもとにした、1940年代後半、米軍占領体制の発足期に当たるの沖縄のキリスト教の年表である。

それにしても、思いがけない出会いに、びっくりしています。それと同時に、こうして、今もどこかでこのブログを四手いただく方がいることを認識することで、これからもいい加減なことはかけないなぁと感じています。

さて、きょう行き当たった文献は『地方自治七周年記念誌』(沖縄市町村長会、1955年)。

「第一部 記録篇 文化」の「宗教」項には、仏教とキリスト教の戦後略史と当時の現況ニツイテの記録があった。そこでの気になる記述をいくつか。

先ず、戦後の仏教のことについて、わたしはほとんど知らない。1947年、「石川市の旅館で、沖縄民政府文化部の主催で第一回宗教家会議が開催され」とある。これについては、『うるま新報』の同年1月17日に「宗教協会生まる」という記事がある。この会議では、「当局」から、仏教とキリスト教が敗戦後の道徳上の問題について一致協力要請せいされていたが、「キリスト教伝道師の中の二、三人が『キリスト教を以て沖縄の国教とすべし』と提案したためにこの会合は失敗に終わった」とある。

1946年、仏教とキリスト教を中心に宗教連盟を結成する構想があったといわれているが、結局挫折している。翌年にも、このような会合が開かれたのだが、その間の事情はキリスト教側からの史料では余り見えてこない。その他、1949年に沖縄仏教会が護国寺で再組織。1951年、沖縄仏教会と沖縄キリスト教会(原文には「キリスト教連盟」とあるが、これは誤り)が主体となり「沖縄平和連盟」が結成され、「世界平和促進に協力」とある。1952年5月、仏教会とキリスト教会主体となって「沖縄救癲教会を創立」とある。

こうした仏教との協働の取り組みは、キリスト教会側の史料では、どういうわけか、余り記述がない。これは、米軍による占領下での両宗教の関係を象徴しているのかも知れないと感じた。

それから、キリスト教関係の記述についてもいくつか気になったことがあった。キリスト教に関しては、沖縄キリスト教会、バプテスト教会、沖縄聖公会、セブンスデー・アドベンチスト教会、カトリック教に分けて記述されている。沖縄キリスト教会の記述については、1940年代後半はほとんど當山正堅のキリスト聯盟とであるという印象がある。

以上。詳細については、またの機会にしたい。

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2008年3月20日 (木)

沖縄のキリスト者〜その、いくつもの顔〜

夕方、ホテルに帰って、朝買った『琉球新報』に目をとおすと、「『殺され、なぜ殉国死』 沖縄戦犠牲者の合祀批判」という記事の写真に、たったいままで話をしていた人の苦渋に満ちた顔を見た。向かって左から2目はNさんだ。

Nさんは、見るからに篤実なクリスチャンである一方、ご夫婦とも社会問題に高い関心と見識を有している方でもある。そのNさんは2002年に今回と同様の訴訟を起こす。Nさんの姉上のお一人M子さんは、沖縄戦で「ひめゆり部隊」の一員として伊原第三外科壕でなくなられている。M子さんはその後1955年に家族の了解なしに靖国神社に合祀されたという。この間の経緯は、Nさん御自身がその訴訟でしめされた「原告意見陳述書」に詳しい。

そして、Nさんの信仰に基づいた思想と行動は、Nさんのお父上のそれと繋がっている。だから、Nさんの語る姿はとてもおだやかなのだが、揺らぎがない。

その一方で、きょう、Yさんという信徒と面会した。彼のお父上も、Nさん同様、戦後沖縄のキリスト教伝道草創期を支えた牧師の一人である。Yさんは、日本キリスト教団ではない別の教派の信徒だが、沖縄の他のクリスチャン同様、他教派の事情には関心があるらしい。それで、教団のN中央教会のあららし牧師の人事や、自家用車の横っ腹に反基地のスローガンを書いている牧師のことを指して、牧師が沖縄の社会運動や政治問題に関わることに疑問をしめされた。

Yさんの考え方はわたしの考え方とは違っていて、わたし自身はどちらかというとNさんの考えに近い。しかし、Yさんの考え方もアリで、決して頭から否定すべきではないと思う。そう感じたのは、ここ数ヶ月のYさんとのやりとりからだ。Yさんは、Yさんなりに、信仰にかけて、筋を通そうとして上司と常にぶつかっていたお父上のことを、非常に親愛を込めて、肯定的に評価されている。

教会や牧師、信徒の社会運動や政治運動に消極的で、常に聖書の御言葉を生活の基盤として、絶えずそれを口にしながら、それに忠実にあろうとする信徒は、沖縄に多い(社会運動や政治活動に熱心なキリスト者が、聖書を軽んじているということはないのだが)。そのような信徒でも、やはり、抑圧や権力の横暴には敏感で、権力や権威とは距離をとりながら批判するところは批判している。

わたしは、Nさんのような仕草や表情が作れるキリスト者になりたいと思う。だからといって、Yさんの信仰を否定したりすることはできない。そんな権利はないのだ。

さて、明日は、どんな沖縄のクリスチャンやノン・クリスチャンに出会えるのだろうか。

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2008年3月 9日 (日)

聞き取りは、史料としての価値があるのか〜ある大学院生の問いに答えて〜

きのう、一(大)仕事終わって、きょうからからしばらく東京です。

きのうの仕事というのは、キリスト教史学会関西支部会での研究発表でした。わたしの報告は、「1940年代後半の沖縄教会─新たに発見した史料から見る─」。戦後沖縄キリスト教史研究で、11940年代の史料これまでほとんどないといわれてきました。しかし、その壁を何とか突破しなければ、その後の歴史も描けないと思っています。

そして、一生懸命探したら史料はけっこうあったのですが、それでもそれが充分に使えないこともあります。その理由はいくつかありますが、現代史はまだ歴史になっていないということが最大の問題です。わたしたち歴史の研究者の仕事は、公表されている事実ばかりではなく、隠されあり、忘れ去られていたりしている事実を幾つもつなぎ合わせて、それらを歴史の文脈に位置づけていくことです。その過程で、いままで顧みられなかった事実を明らかにすることもできるし、時には卑しめられ、貶められている方々の汚名を結果的に雪ぐこともできるのです。

しかし、その一方で、わたしたちが明らかにした事実で、忘れたいと思っていたことが思い出されたり、人を傷つけることになったりすることもあります。特に、論争があったり、対立があったりする事実については、その歴史的評価に公平性を保証しようとすればするほど、そのジレンマは高まります。そして、それは、研究者だけではなく、現代史の場合、それぞれの立場に立った当事者やその遺家族ならば、より強く感じることではないかと思うのです。

わたしが、正に先述の壁を前にして直面しているのは、このようなジレンマです。ちょっと立ち止まっているのですが、でも、何とか歩いていこうと思っています。

さて、その後の懇親会で、某大学の神学部の院生(4月から牧会の現場に出るそうです)からこんなことを聞かれました。

聞き取りの史料って、史料的な価値があるのですか?

わたしの今回の報告は、公刊され、それを研究者が検証しないでそのまま引用することで一種の権威がつけられた“事実”を正しく批判し歴史に位置づけるために、そこで批判されたり、無視されたりしている“事実”を他の未刊行の史料や聞き取りによって検証していくと、「正史」に書かれていない“事実”がたくさん見つかるというのが主題でした。

このようなわたしの意図は、なかなか理解されないことは分かっています。だから、我慢強く語っていかなければと思います。で、その院生には、聞き取りも、その方法や扱い方次第で主観的な語りから客観的な史料に近づいていくことを実例をあげて丁寧に説明したつもりです。

が、少し言い忘れたことがあるので、ここでつけ足します(彼の院生君はこれを見ているだろうか。そういえば名前も聞いていませんでした………)。沖縄戦下の「集団自決」の「語り}については、またすぐに書こうと思っているのですが、言い忘れたのはそのことです。

「集団自決」については多くの聞き取りの成果があります。それが、政治的に利用されているわけですが、ここでも書かれた文書と聞き取りのどちらが信用できるかという議論があります。文書がないのだから「集団自決」の軍命はなかったのだという人がいます。一方で、「集団自決」の軍命はほとんど口頭で伝えられ、多くの人が軍命を感じたと証言しています。後者に、「はっきりとした軍命があったのですか」ときくと、多くの人は「なかった」と答えるでしょう。でもそれで、軍命がなかったと判断することが公正で公平であるといえるでしょうか。

最初に結論があっての聞き取りは意味がないと思います。そのような聞き取りは、全く資料的な価値はないとおもいます。どうでしょう。体験者がいっている「軍命を感じた」という言葉と、「文書がない。したがって、軍命はなかったのだ」という当時の責任者である軍人の言い逃れと、どちらが「真実」に近いのでしょうか。

問題の本質は、そのようなところにあると思うのです。

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2008年2月21日 (木)

「記録する」ということ。

仕事柄、全国各地の公文書館や図書館をよく訪れる。公文書館や図書館は、よく「民主主義の砦」と呼ばれる。権力が覆い隠したり、バラバラにして、偽装したりしているものを、明るみに出すためには、地道に隠され、バラバラにされ、偽装されたものを、掘り出したり、つなげ合わせたり、暴いたりしなければならない。

さて、きょうも、沖縄でフィリピン人女性が犠牲者になる事件が発生。今度は、容疑者の米兵は基地に逃げ込み、まだ、逮捕されていない。

それから、イージス艦と漁船の衝突事故。「イージス艦、漁船団を避けず直進 僚船GPSで裏付け」とのこと。10数トンに満たない漁船の残したGPSの記録が、自衛隊が隠し、防衛「省」が隠しているかも知れないことを、暴き出している。

「記録する」ということ。やはり、これはわたしたちの民主主義を守り、権力を告発するための重要な手段である。

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2008年2月12日 (火)

スティグマ〜歴史の「傷」〜

詳しくははくことが出来ないが、今から60年も前に受けた理不尽な「傷」の「物語り(ナラティブ)」を聞く機会があった。わたしは、できれば、その「傷」のもとになった物事の仔細を明らかにし、傷つき、貶められ、卑しめられた人がいるとしたら、その汚名を雪ぎたいと思う。

包帯のような嘘を 見破ることで
学者は世間を 見たような気になる
       (中島みゆき「世情」)

わたし(たち)は、人が隠そうとしていることも、結果的に暴くことになる。汚名を雪ぐこともあれば、こうあり、名を遂げた人物の「虚像」を剥ぐこともある。それは、歴史の調査や記述がわたしなりの“闘争”の手段である以上、さけられないことである。しかし、現に生きている人の生活の平安や心の安定を、かき乱す権利など、研究者にはないのだということを、同時に感じている。

「歴史」になりきっていない「歴史」が、今のわたしの課題には存在している。それを、歴史化し、公の場に引き出してきて、公平に評価していくことが、わたし(たち)の使命であるのだが、もう一歩踏み出すことに、逡巡している。だから、長期戦で、粘り強く、対話と働きかけを続けていく他に、途はない。

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早朝の那覇を発って〜「東京」というギャップ〜

未だ、朝が明け切らぬ中、モノレールに乗って那覇空港に向かった。今回は3泊4日という短い時間であったが、また、いろいろ収穫があった。そして、今回も沖縄では事件が起こり、どうやら号外(これと、これ)も出たようである。この件については、また、しばらくしてコメントを書くつもりだが、そんなことが起こっている沖縄を、心残りながら、離れた。

そして、関空着、伊丹経由で東京にやってきた。

わたしは、四国の海辺に近い田舎町で生まれた。一番近い“大都会”の松山の市街地まで、30分に一本の路線バスを待って、時々連れて行ってもらうことが、子どもながらにとてもうれしかったことをおぼえている。その後、少し大きくなって、世の中には松山よりももっと大きな“大都会”が、たくさんたくさんあることを知った。そんな“大都会”にも住むようになった。それでも、いまだに、わたしは田舎もので、“大都会”の雑踏に出て行くことが、本当に苦手なのだ。休日、家を出るのが億劫で、結局一日家にいるのは、外出がイヤなのではなく、あの三宮やその他の雑踏が苦手なだけなのだ。

ところで、朝までいた那覇も、近年、とみに“大都会”化していて、泊まっていたホテルがあった「おもろまち」周辺は、「新都心」と名付けられ、開発が進んでいる。休日で、久し振りに太陽が顔を覗かせた昨日、「サンエー那覇メインプレイス」という巨大ショッピングモールの周辺は、駐車場待ちの車で大渋滞していた。また、その周辺には高層のマンションやホテルが次々と建ちはじめている。しかし、そのような“表通り”をはなれると、そうではないところが、まだ、何処にもある。「開発されていない」というよりも、「取り残された」という印象があるのは、それだけ両者のギャップが開いてきたからなのだろう。

そんなところから、東京に来たわけだが、ここにはここだけの世界と雰囲気がある。そして、それと接するたびに、わたしは違和感を抱いていて、いっこうにこの首都に馴れない。さて、この地でも、昨日の沖縄の事件は語られている。随所で語られている。国会で、政府で、そして、街中でも。しかし、それらの言説は、沖縄のそれとは違っている。その事件そのものに関する関心の持ち方や視点が全く違っているのだ。それは、政府だけではなく、民間の企業でも、一般の住民にしても、そうなのだろう。

東京には、「怒り」がないように思う。それだけ冷静なのは、やはり距離感があるからなのだろう。「距離感」、そして、その「ギャップ」。これらは、事件そのものに対する皮膚感覚にも存在している。あるいは、“狙われている”という切迫感、危機感に対する「距離」と「ギャップ」なのだ。

いつも書いていることだが、これは、キリスト教についてもいえることだろう。沖縄の教会に歴史などない。あっても、それは本土の中央教派・教団の伝道地、いわば、植民地か新領土としての「伝道される」歴史があるだけだ。──と、本土教団史には書かれていて、今の教団の執行部はそう思っているのだろう。

しかし、それだけではない。日曜日に出席した首里教会の礼拝では、沖縄に「研修」に来たという東京のどこかの支区の一行(といっても、牧師と信徒の計2名だったが)が等々と自分の思い出話をかたり、自分が如何に沖縄に縁があるのかについて語っていた。しかし、肝心の沖縄で何を見、何を感じ、自らが何をしなければならないと感じたかについては、結局何も語られはしなかった。礼拝中の新来者“挨拶”とは、元来そのようなものかも知れない。しかし、“研修”で何程のことを学んだのか、それを自己確認ヲしなければならないといった姿勢はないのではないかと、わたしはその人たちのことを見て感じていた。

東京の大教会や大教会からの間接的支援を得ている東京の教会が、沖縄のことを理解するのは、自らの思考を逆転させたり、自らの価値観を一端白紙にしなければならなかったり、いろいろ大変だと思うのだが………。

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2007年12月26日 (水)

「兼次伝道所 週報」

前の記事に引き続いて、西原町立図書館のこと。

ここにきたのは、前日にインターネットで蔵書検索して『日本キリスト教団 兼次伝道所 週報 第1集』(村上仁賢資料刊行会、1998年、以下『兼次伝道所 週報』)を是非みたいと思ったからである。

兼次伝道所は沖縄島北部の今帰仁村にある。2004年に花城静子牧師が就任している。北部の村にある教会の週報(※)が西原町(沖縄島では中部管区)の図書館にあるのか不明だが、沖縄の公立図書館にはここしかない。それから、この史料は、同図書館の「新川明文庫」に所収されている。

※ キリスト教会では毎週の礼拝で礼拝の式次第や一週間の予定、教会員の動静、前週の説教の要約、牧師のコラムなどを印刷して配っている。それを週報という。

兼次教会については、沖縄キリスト教協議会『沖縄キリスト教史料』(いのちのことば社、1972年)に、以下のような簡単な記述がある(同書、pp60)。

  一九四七年
 兼次教会が生まれるまで
 兼次教会は、当時文化部長であった当山正堅氏のすすめで、まず島袋昌子氏の音頭取りで、婦人会が集まり出発したものといってよい。戦前、やはり当山、島袋氏が中心になって、未亡人会とか銃後の婦人会を組織して、授産活動などをしていたが、終戦となり、それが一応用がなくなったと思われた時、再び、今度はキリスト教の伝道の下に集められることになったのである。集会場所は、島袋姉が住んでいた家の納屋などを使用した。説教は、当山氏やその他の人びとが巡回した。

その他にも、兼次伝道所(兼次教会)の記述は散見されるものの、沖縄の教会ではあまり重要視されていないよう見える。その兼次伝道所に、米軍占領下の1962年3月末に村上仁賢牧師が、本土から赴任する。村上氏は、のちに、「日本と沖縄の教会」(日本基督教団沖縄教区『27度線の南から─沖縄キリスト者の証言─』日本基督教団出版局、1971年、pp.252-270)を著している。それによると、村上氏の夫人の実家が西原村(現西原町)にあるという。そして、沖縄への赴任は沖縄の友人の薦めであって、自らのことを、「社会のことも政治の問題にも関心のない、一般的平均的日本人キリスト者」であると繰り返し述べている。この村上氏のエッセイをよむと、占領下沖縄の北部・農村に赴任した本土出身の牧師が、次第に沖縄の現実に直面して、「特殊的希少的日本人キリスト者」に変貌を遂げていく様がわかる。

わたしがきょう見た『兼次伝道所 週報』は、1962年から68年のものがつづられている。毎号1ページ。そして、ほとんど毎号、「想雲」と題して村上仁賢牧師のコメントが載せられている。その「想雲」を読むと、ベトナム戦争が激化し、占領下の沖縄の駐留米軍の性格が変貌し、東西冷戦の最前線となるなか、日本本土からやってきた日本人牧師がその時々に感じたことやその思索の変化の一端が垣間見る。

まだ詳しくそれを分析したものではないが、

キリスト教団。というものは信仰とは余り関係ありません。なぜなら王や政治家の信仰がそのまま自分の信仰ではないからです。米国や英国と同様ソ連や中共でも教会は世と戦っています(1964年10月18日)。

(前略)トレーラー落下事件〔※ここを参照=引用者〕でもベトナム戦争でも可愛そうなとか恐ろしいこととかが基準になるから身近になければ放置する。アメリカに対しても支配者と被支配者の姿勢しかない。したがって卑屈な態度しか生まれない。民主主義に主従はない(1965年6月20日)。

主のためにいるの信者は多い。教会のためにいるの信者も多い。しかし、現実の、この沖縄の為に祈る信者は何人あるか。というのは聖書の信仰によれば祈りは行動を伴うのであり換言すれば行動がないのは祈りのない証拠ともいえるのだ。沖縄のために戦後キリスト者は何をしたか。どのような発言と実践をしてきたか。現実にはキリスト者は現実肯定主義者か、逃避主義者か、無責任主義者ではないか。キリスト者の生き方がどう変わったか。それが見たいのだ(1966年1月16日)。

等々、いろいろあるが、いずれも単純に評価することが難しい発言である。村上仁賢牧師のこの関わり方には、日本本土出身の牧師として可能性もあり、限界もある。彼は彼なりに、沖縄の現状と対峙し、沖縄の教会に関わってきた。

日本基督教団議長の名において公開された『…告白』を、われわれ兼次教会一同は同じく日本人キリスト者であることの自覚にもとづき、心からこれに同意し、アーメンを唱和するものである。日本基督教団と当教団との合同についての日程が組まれ、すでにその行動が開始された今日、われわれ沖縄に住む日本人キリスト者もまた、右の告白をすり抜けては、自覚的、主体的な合同は、なし得ないと信じ、ここに役員会の名において、共に責任を負うものであることを表明する。

これは、「時のことば 『告白』に同意する」として、『教団新報』(1967年5月20日)に公表された村上仁賢牧師の言葉である。「同じく日本人キリスト者であることの自覚にもとづき」という発言をどう捕らえるか。やはり難しい問題である。

沖縄の教会には、それぞれに立場で、違った発言をし、行動をする信徒・牧師たちがいる。そして、それぞれのかたちで地域社会とかかわりをもち、日本国家や米軍と向き合いながら建てられている教会がある。わたしの仕事はこのようなさまざまな亀裂や断裂を見つけ出し、それを丁寧につなげていくことである。道のりは遠い。しかし、こうして足を使っての史料を集め、残された声に、これからも耳を澄ましていこうと思う。

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西原町立図書館

午前中、西原町立図書館へ。

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2004年に新築されたらしく、外観も内容も新しい。

図書館の前には、二つのオブジェ?がある。

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(1)は西原町幸地で発掘された「九六式十五糎榴弾砲」。(2)は同町出身の「比嘉春長顕彰碑」。

探していた史料については、続報します。

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2007年8月30日 (木)

何のために、わたしは、この道を行くのか。

公文書館での史料収集を終え、夕方、西原町に向かった。沖縄教区のY牧師とO牧師にお会いするためだ。

Y牧師は、先日刊行された拙稿「日本基督教団における沖縄教会観の起源とその変遷」 のなかに登場する人物である。そのご当人から、拙稿に対する批評を頂いた。そのなかで、一つ、わたしが誤解していたところがある。それは、Y牧師が1966年8月、日本キリスト教団の主催で開催された「第十七回夏季教師講習会」で沖縄教会の代表として出席した経緯だ(こう書くと、Y牧師が何方なのか関係者にはわかってしまうが)。

わたしは、「比嘉盛仁・沖縄キリスト教団理事長」の代わりにこの講習会に出席したと書いた。Y牧師にご指摘頂いたのは、まず、当時は沖縄キリスト教団の代表は「理事長」ではなく、「議長」であったこと。確かに、沖縄キリスト教団は、1962年の総会で「教憲教規」を制定し、主湯教報人規則を一部変更した。その際、「理事長」は「議長」と改称されている。

そして、今ひとつは、Y牧師が代理で出席したのは比嘉盛仁・沖縄キリスト教団議長ではなく、比嘉盛二郎・同副議長の代わりであったことである。

これは、確かに重大な事実の誤認である。いつか拙稿を別のかたちで交換する際に訂正しなければいけないが、取り急ぎここに記しておきたいと思う。

さて、久しぶりにお会いしたY牧師もO牧師もお元気で、現在の沖縄教区のこと、日本キリスト教団のことなど、たくさんお話しをして頂いた。こうして、戦後、米軍占領下の沖縄で占領軍と渡り合いつつ、牧会に携わられ、「合同」・復帰後は日本政府や日本教団と対峙してこられたおふたりからは、お会いするたびに、新しい課題を頂く。そして、わたしが、何のために、この道を歩いているのか。この、だれも通ってこなかった、道を歩いていくのか。おふたりには、わたしの研究成果を見て頂きつつ、その研究の意義も再認識させられる。

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2007年8月29日 (水)

残されたもの、その声を聞きながら………

さて、フィールドワーク3日目。

沖縄キリスト教史に関して、1940年代の史料はほとんどないと言われていた。いってみれば、それに挑戦してきた日々なのだが、記録を残すことにこだわりをもつ人は、どの時代にもいる。

きのうときょう、沖縄県公文書館で蒐集した史料は、実は、個人が自らの意思で保存した資料を遺族が公文書館に寄贈したものだ。

そのような個人的営為があってわれわれ歴史家は、はじめて史料に触れることができるのだ。そして、公文書館・図書館は、故人や遺族の意をくんでそれを分け隔てなく公開する。公開された資料が、従来支配者やエリートが構築してきた歴史を揺るがすことになる。

つまり、公文書館や図書館は民主主義の砦。

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2007年8月28日 (火)

夢は、ハワイで。

二日目の沖縄。きのうは、これまでに相当たくさん夏の沖縄を経験しているわたしでもはじめて見るような晴天でした。しかし、きょうは、時折激しいにわか雨があり、いつもの8月の沖縄でした。それにしても、ここの雲の造形はすばらしい。

きょうは、一日公文書館にこもりっきりでした。いろいろ、収穫がありました。

第一に、沖縄戦のさなか沖縄人や日本兵、それから朝鮮人、中国人を民間人捕虜収容所に収容するために行われた身元調査で使われた「訊問調書」を見つけました。

それから、それを探しているうちに偶然見つけたのは、比嘉靜観(せいかん)という牧師の資料でした。これは、
沖縄からハワイに移民してその指導者になった湧川清栄氏の寄贈文書のなかにかなり大量にありました。靜観は、沖縄出身で、伊波普猷の影響を受けて沖縄の日本組合教会の牧師になります。その後、ハワイに渡り、マルクス主義に傾倒して社会運動を行っています。そして、靜観は、詩人としても有名で、彼の残した『人間・社会』(実業之布哇社、1924年)を公文書館の文書群から発見し、はじめて彼の詩集を手に取ることができました。

  牧師

彼は牧師だ
けれども
牧師でない
人間だ
彼は人間イエスと偕に
人間になりたいのだ
彼は人間
それ故に
彼は牧師だ。

もう一つ。

  愛

愛があれば
社会主義と
無政府主義と
基督教と
仏教と
人間と
人間と
国家と
国家と
民族と
民族と
相剋することはない
愛は凡てを溶かす。

戦前の話で、しかも、ハワイだから、すぐには無理だが、いつか繋がっていくといいと思う。沖縄のキリスト教。そこから、実はいろいろな流れが形成されていて、辺境のキリスト教はキリスト教の終着点ではなく、多の辺境へ向けたキリスト教の源流になっていく。その流れは、予想もしないものと合流し、本流の中で、多の何者かになっていく信仰であった。

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2007年8月27日 (月)

〔速報〕沖縄に来ました。

先週の岡山県・金光での日韓宗教研究FURAMの総括もできていないのですが、本日、昼過ぎに沖縄に到着しました。

自分の研究テーマのための沖縄フィールドワークは、約1年半ぶり。短い期間ですが、充分成果を上げたいと思います。

さて、沖縄のついたのですが、いつも様子が違っていて、車の数がずいぶん少ない。で、ある人のブログを見ていたら、きょうは、沖縄では「うーくい」とのこと。つまり旧盆の最終日。「うーくい」とは、たぶん、「お送り」のこと。因みに旧盆の初日は「うんけー」、つまり、「お迎え」。つまり、ご先祖様をお迎えして、お送りするわけです。

それで、きょうは、どこも、お店はお休み。夕食は、いつも行っているところでと思ったのですが、お目当てのところはどこもきょうまで休業。

さて、「うーくい」なら、どこかでエーサーをやっているだろうけど、きょうは禁欲して、明日からの準備をします。

それから、久しぶりに、『沖縄タイムス』に目を通し、『琉球新報』を買いました。おりしも、第二次アベ改造内閣の発足。新聞紙上では、先の防衛「省」の次官人事をめぐるごたごたが
触れられていました。沖縄では、守屋前次官は普天間基地の辺野古崎への移転をめぐって「沖縄に差別的態度をとった人物」とされているようです。小池“前”防衛「相」は仲井間沖縄県知事や島袋名護市長と旧知の仲らしいが、さりとて、沖縄の一般住民の側に立って発言しているわけでもない。

小池氏の後任は高村正彦氏とのこと。彼は沖縄に対してどんなスタンスをとるのだろうか。こうして、沖縄に来てみると、本土ではほんの小さな波動でも、それが周縁に伝わるにしたがってとてつもない津波のようになっているように思う。そして、指したる防塁もないままその津波に曝され、流され、あるいは、踏みとどまって、逆らっていることは、波動の出発点からは見えない。そんな構図を痛感しました。

さて、あした。また、報告します。

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2007年4月 3日 (火)

初心、研究者としての出発に立ち戻り

はじめて研究目的で沖縄に渡ったときの心細さを、いまだに魘されるように、思い出すことがある。

すでに職を得て研究者としての歩みをはじめて1年目の夏(1998年)。その年偶然あたった科研費を手にして、無謀にも2週間ちょっとの予定で沖縄に渡った。ちょうど2度目の沖縄。ホテルについて、まず、途方に暮れてしまった。その時の行動録には次のようにある。

日本基督教団沖縄教区事務所に電話。

  • 那覇中央教会(〔電話番号、住所〕)に電話、教区事務所の所在確認。
  • 教区事務所=沖縄キリスト教センターは、〔電話番号〕、宜野湾市志真志。
  • 牧志・市外線バス停で、那覇交通25番線(石川線)、27番線(安ケ名)乗車。
  • 中部商業高校前下車、信号わたって琉大方面に250m。
  • 対応 → 〔K〕さん。
  • 教区資料の閲覧申し入れ。 → 書記に確認の上、明日9:00に電話。

それをみると、ホテルに着いてから、約2時間。考えあぐねていたことが判る。そして、この翌日から沖縄教区資料室の史料との格闘がはじまる。

一件整然と見える史料だが、すでに史料保存のために第一次の史料保存者以外の人の手がいくつも入っている形跡が見られる。そのため、史料群は原形をとどめていない。その上、すべてバインダーにとじられているので、パンチで穴が開けられており、そこから紙がちぎれて脱落しそうになっているものもある。この手の史料のハシッコには、会議の名前だとか、年月日、場所等の重要情報が記載されているが、それが判別できないものもある。また、バインダーで綴じられているとはいえ、縦置きになっているので、史料全体が反り繰り返りはじめていた。

そう、またしても、そこでわたしは途方に暮れてしまったのである。クーラーが効いた資料室のベランダの窓を開けると、眩しい陽射しと、湧き上がる雲、そして、体にまとわりつく熱気と湿気。ときおり、低く、高く飛ぶ米軍の戦闘機やヘリの爆音。

それらを全身に感じて、やらねばならないことを整理し、反芻し、そして、部屋に戻った。

バラバラになった史料群なら、それをどうにかして復元するしかない。そのためにデータベースづくりをはじめた。離ればなれになった史料のひとつひとつを目録にとっていけば、きっと同じ時期の史料に行きあたるに違いない。途方もなく回り道だけれど、それ以上に確実な方法はない。そう確信して、毎日毎日、那覇から宜野湾まで通い続け、来る日も来る日も、ときには昼飯もとらず史料と格闘し、データベースを構築していった。データの数は、その資料室の史料群のごく一部であったが、優に1,000を超えた。

そのデータベースづくりで得た人の名前や役職とそれぞれの関係、会議の名称や話し合われている内容、そのひとつひとつが、それ以降のわたしの糧になり、何度目下の沖縄行きで、戦後沖縄キリスト教史の概略が朧気に浮かび上がった。いまでもその時の作業とそこで得た知識と感覚(インスピレーション)、構図と構想は、わたしの研究の基盤になっている。

その後、沖縄県公文書館で1945年から60年代初めの『ウルマ新報』『うるま新報』『琉球新報』『沖縄タイムス』を“読破”した。そこには、やはり1,000を超える教会やキリスト者の記事があった。朝9時から5時まで数回トイレと水分補給をする以外はマイクロリーダーを離れず、ひたすらマイクロフィルムを見続けた。そして、関連記事を見ては興奮し、歴史的な出来事の記事を見てはついつい読みふけりながらもコピーを重ねた。そして、ホテルに帰ってその日コピーをしたものを深夜まで目録にとり続けた。こうして作り上げたデータベースに、教会のほかの史料のデータを重ね、ある時期からは沖縄教会の機関誌である『道しるべ』(創刊当初は『道標』)の記事を重ねた。そして、それらを時系列に並び替えてつくった「戦後沖縄キリスト教史年表」は、わたしだけのオリジナルな「年表」であった。それは、いまでも学会発表や論文執筆の力になっている。

それらの作業に一区切りをつけ、その後は、聞き取り調査を併用するようになった。歴史の構造がわからぬままにただただひとの話しをきいてどうなるのだろうか。やはり、基礎作業に肉付けをし、研究に厚みを持たせ、確実性を付与するためには、地道な基礎作業が必要だと、いまでも思う。だから、いまでも、ときどき、沖縄県公文書館や図書館に足を向ける。

1998年8月下旬、たとえようもない心細さ。そして、その後何度も繰り返された絶望感と徒労感。途方に暮れた瞬間。そこから、わたしの研究ははじまった。実は、いまも論文を書いている。行きづまっているわけではないが、もう一度原点に返って、自分を奮い立たせてから、自分の論文に向きあいたいと思っている。

【追記】

先日、このブログで触れた「若い研究者」から何度かメールが来た。最近のメールには、このようにあった。

謝罪の手紙を出したいのだが、出していいかどうか、メールで返事をして下さい。

もう、無視しようと思う。「謝ってやるからメールをよこせ」とか、「メールで返事した謝ってやる」とか。そんな風にとってしまうのは、やはりわたしが「小さい」からだろう。また、謝る、謝るといいながら、その実、やっぱり自分は間違っていないと主張しているように思うのも、わたしがきっと狭量なのだろう。

で、わたしは、別に謝って欲しいわけではないのだ。その「若い研究者」が論文に書いた記述に対して、根拠を示してほしいだけなのだ。しかし、そのことは、「ひとまず置い」て、とにかく謝りたいそうなのだが。でも、重ねていうけど、わたしは謝って欲しいわけではないのです。

わたしは特別器用でも優秀でもないけれど、とにかく我慢強く、ねばり強く食らいついてきた。それを要領よく自分の業績にして、キャリア・アップをすることもできないでいます。勤務先では理不尽な目に遭い、全くの雑事に忙殺される中、それでもこの夏沖縄に行って調査をすることが心の支えになっている。それほど、追いつめられてしまっている。しかし、どこの馬の骨と知らぬ見ず知らずのわたしに快く資料を公開して下さったり、話しをきかせて頂いたりして方々のことが、いまでも目に浮かぶのです。

そうした方々にせめても真摯に向きあうために、あの途方に暮れた日々があり、荒野を歩くような心細さに耐えてきた。それが、わたしのたったひとつの矜持でもあるのです。

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2007年3月21日 (水)

“先行研究と若い研究者”、その後

先日、3月18日にこのブログにアップした「先行研究』について〜若い研究者への接し方〜」を一旦下書きの状態にもどします。コメントを投稿していただいた「ぱすと〜る」さんには申し訳ないのですが、よろしく了解のほどをお願いします。時期が来れば、その後の経過とともに修正せずに、再びアップいたします。

さて、その理由は以下の通りです。昨日、問題の論文が掲載された雑誌の発行元の所属長にわたしの論文の抜き刷りを添えて「反論・反証」の機会を与えてほしい旨手紙を出しました。そのことを当の「若い研究者」にメールで告知したところ、改めて問題解決に前向きに取り組みたいので(自分自身で考えて)もう少し時間的猶予がほしいとの返信がありました。

それで、その「若い研究者」が問題の核心や本質を理解し、実際に行動に移せるのかしばらく待とうと思います。

先行研究の精査と批判、史料批判と多角的な考証、聞き取り相手や関係者への配慮、論文を執筆する際のルールや作法の遵守と尊重等々、研究者の発言と行動、それに規範や倫理に対する自戒の念を込めて、「待つ」という決断をいたしました。

みなさん、どうかご了承ください。

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2007年3月18日 (日)

「先行研究」について〜若い研究者への接し方〜

新設の小規模私立大学で、しかも、キリスト教にも宗教にも余りかかわりのないところに勤務していると、文献へのアクセスが難しくなる。ことに学術雑誌については、非常勤先を利用したりはしているが、まったく不十分だ。勢い、細心の研究動向の把握が甘くなる。そんなことを痛感した出来事があった。

この一種のハンディを克服する手段として、NDL-OPAC (国立国会図書館 蔵書検索・申込システム)というインターネットによる雑誌記事索引と文献の複写サービスはとても有効である。そのサービスを使っていくつか文献をまとめて取り寄せたときのこと。

以前学会で軽くあいさつした程度の院生(おそらく博士後期課程)が2006年8月に公刊した論文を先日はじめて読んだ。その論文のテーマは、2003年に学会誌の発表したのと全く同じテーマであった。にもかかわらず、「2.先行研究について」で「この問題について直接論じられた研究はない」と断言されてしまった。そして、その直後にわたしの名前を出して、彼が参考にした日本基督教団沖縄教区資料室の史料をわたしが整理したかのような全くの虚偽の記述があった。

そのことはともかく、わたしの名前が中途半端に出て来るものだから、この著者はわたしのことやわたしの仕事のことを知ったうえで、先の拙稿(「わたしの論文」)が全くの「拙稿(拙い論文)」であると判断したのだろうと考えた。わたしはわたしなりに調査をし、かなり力を入れてその拙稿を書いたつもりだったのでとても心外であった。

それで、ほかにもこれはどうしてもおかしいだろうと思うけれど、知らない人が読んだら本気にしそうなところがいくつもあった。沖縄キリスト教史については、確かに先行研究が少ない。だからこそ、間違ったことを論文にしてしまうと、それが「事実」として一人歩きしてしまう危険がある。だから、細かいことでも、きちんと「事実」を詰めていかなくてはならないと思う。

加えてくだんの論文が掲載されたのはある大学の神学部の紀要で、研究者というよりもその神学部を卒業した牧師等がそれを読み、それぞれの教会で彼が記述した内容が「事実」であるとして語られる機会があるかもしれない。

それで、とりあえず著者と連絡を取ってみた。昨日までに何度かメールのやりとりをしたが、結局、執筆段階でわたしの論文の存在を知らなかったとのこと。それもおかしな話で、彼の指導教員(だと思うのだが)には某学会でまさにこのテーマについて議論をし、拙稿の抜き刷りを送ったにもかかわらず、このようなことが公然と起こっている。先行研究を押さえないで論文を書くのは一義的にまったく本人の責任だが、それにしてもまだ院生なのだし、まわりの教員は誰ひとりとして注意しなかったのだろうか。

ともかく、非公開の場でいくらやりとりをしても余り生産的ではない。だから、なんとか方法を考えて、反論をしたいと思う。このブログもその一環で、本人とのやりとりに一区切りつき、本人の同意があれば、ここでも論点を出して、修正と反論を加えたいと思う。

でも、わたしのやり方は、子どもじみているだろうか。

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2006年3月20日 (月)

会いに行く。

200603202夕方、O先生に会いに沖縄キリスト教学院大学(通称「キリ短」)を訪れた。

97番(琉大線)のバスに乗り、キリスト教短大入口というバス停で降りた。しばらく坂を登っていると、二機の戦闘機がかなり低空を飛んでいく。時刻は午後5時前。きっと太平洋上での演習を終えて、嘉手納基地に帰るのであろう。一昨年、2004年8月13日沖縄国際大学に普天間基地所属のヘリが墜落した。キリ短は西原町翁長の丘の上にある。回りに米軍基地はなく、農村というか、都市近郊のベッドタウンといったこころだが、しかし、沖国大と同じようなことが起きないとも限らない。こちらの方は戦闘機なので、被害は沖国大の比ではないだろうが………。

さて、キリ短は一昨年から4年生の学院大学を併設している。
http://www.ocjc.ac.jp/index.html
この学院は沖縄がまだ米軍の占領下にあった1957年4月9日に、沖縄キリスト教団首里教会内に創設された。現在の位置に移転したのは1989年のことだ。

初代学長は仲里朝章。彼の名前は学院のチャペルの名に残されている。図書館に名前を刻むのはウォルター・クライダー。IBC派遣の宣教師である。明日は、その仲里朝章氏の遺族に会いに行く。

仲里朝章氏には、お会いしたことはないが、志の高い、大きい人である。会ったことはないが、このキリ短に来て、チャペル前の彼の名前を見るたびに、彼に会いに来たような気持ちになる。不思議なことです。

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2006年3月19日 (日)

時間がない。

きょう、午後、久しぶりに沖縄に調査のため来た。

さっそく情報収集のために友人で牧師で、社会福祉施設の施設長で、大学院生のG藤氏に会って、日本キリスト教団沖縄教区のことを聞いた。教区について、わたしは、もう、既に、じゅうぶん深入りをしているので、気にかかることは多かった。

しかし、一番ショックだったのは、今年の1月に、以前聞き取りをした那覇中央教会のO氏が亡くなったことを知ったことだ。O氏は実に温厚な人柄だったが、沖縄戦では北部に疎開しており、その後、戦後の沖縄の沖縄のキリスト教の出発にまさにかかわった人物であった。もっと話を聞きたかった。以前会ったとき、仕事も辞めてこれから時間があるので、一度家に来てゆっくり話して行きなさいといわれていたのに………。昨夏訪れたとき。多忙をいいわけに会いに行かなかった。「そのうちに………」と、思っていた。 まさに痛恨の極みです。

昨年には沖縄諮詢会の文化部長をしていた当山正堅氏のご子息が亡くなられた。まだ、一度もお会いしたことはなかったが、これも本当に痛恨の出来事であった。

時間がない。そして、O氏の手元にあるだろう資料が破棄・散逸するのも恐れています。

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