カテゴリー「韓国」の7件の記事

2008年8月 6日 (水)

出会い、再会

今回の釜山では、いろいろな出会いと再会がありました。

出発の空港に向かう乗り合いタクシーで出会った紳士に、金海空港で再開したときにとはとても驚きました。彼とは、一緒のホテルで、学会のでスカッションも、レセプションも、フィールドワークも、一緒。結局、帰りのタクシーでも一緒で、その時には、行きのタクシーと違って、いろいろなことを話しました。彼の家まで、わたしの自宅から徒歩で10分程度です。そんな偶然て、あるのやなぁと、今さらながらの思いました。

また、大学院で、専攻は違ったけれど、同じ授業にでたり、同じ研究室で討論したりしたかつての韓国人留学生にも、再開しました。彼がわたしを見つけてくれたのですが、今では韓国の光州で大学の教師をしているそうです。聞けば、教え子がわたしと彼が学んだ研究室の博士課程後期におり、この学会で発表するのだと言います。その教え子の発表も聞きました。荒削りで、修正したほうが良い点は多いのですが、迷いながらも、問題に真摯に取り組んだ、良い研究発表でした。

その他にも、初対面、再開も含めて、とても良い交わりの時間がもてたのですが、その中でも、一番嬉しかったのは、一昨年、我が大学で1年間学んだ釜山外国語大学校の元留学生がわざわざわたしと訪ねてきてくれたことでした。あの時の留学生は全部で4名。2名はソウルで、2名は釜山でそれぞれの道を歩んでいるとのこと。ソウルにいる1名は、実は夏休みということで、この7月半ばに日本のわたしの研究室を訪ねてきてくれました。孟一人のソウル在住の元留学生とは電話で話すことができました。

会いに来てくれたのは、釜山に住んでいる2名でした。それぞれ、仕事や勉強の都合で、一人ずつ会ったのですが、それぞれ、日本にいたときの印象と全く同じである反面、一方で、だんだん心が強くなっているなぁ、と感じました。

実は、最近、自分の教育にちょっと自信をなくしていたのですが、信じて、注ぎ込んだものは、自分が予想したり、望んでいることとは全く違う次元で、自分に返ってくるのだと感じました。

Iさん、C君、どうか元気で、自分の信じる道を歩んでください。また、再開できる費を楽しみにしております。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月31日 (木)

明日から釜山。

明日から8月。1日から4日まで釜山に行きます。昨年、春についで2度目。釜山の東義大学校国際館で、東アジア宗教文化学会の創立記念国際学術大会が開かれ、それに出席するためです。

わたしは、この学会で研究発表をします。演題は

ある沖縄人キリスト者の被占領体験と新しい神学の創造
          ─仲里朝章の場合─

初めて、キリスト教史ではなくて、思想史っぽいことに挑戦しています。戦前、日本基督教会富士見町教会で植村正久から受洗し、その薫陶を受けた教育者である仲里朝章。仲里が沖縄戦を経験し、米軍の占領下にあって伝道者として建っていく中で、その困難な状況のなかで独自の神学や思想を産み出していったことを何とか伝えられたらと思います。多分、研究者の多くは、沖縄などに独自の神学があったなんて思っていないでしょうから。

6月中に報告のための原稿を提出しており、それを、日本、韓国、中国の留学生等で翻訳が行われ、当日それらが配られます。また、今月中旬には、急遽、韓国の院生の発表の指定討論者に指名されましたので、発表を日本語で読んで、コメントをします。

わたしの報告に対する指定討論者は韓国在住の日本人(?、だと思う)です(原則は日本人の発表者には韓国か中国の研究者が指定討論に立つのですが………)。そのコメントが昨日届きました。さて、日本人は案外沖縄のことを知りません。韓国や中国の研究者はなおさらです。届いたコメントを読んでいると、若干、相手方に理解不足のところがありました。それも、しかたのないことかもしれません。

わたしの使命は、沖縄のキリスト教のこと、教会のこと、キリスト者のことを世界中のなるべく多くのひとに理解してもらうことです。

会期中にはフィールドワークもあります。わたしが関心をもっているのは、鎮海にある海軍士官学校で「軍隊と宗教」に関する見学がることです。これは、占領下の沖縄のキリスト教を先行しているわたしにとっても、とても、興味があります。

さて、今回は、どんな出会いがあるのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月 6日 (月)

留学生と「8・6」

「8・6」。原爆忌。

広島に住んでいたとき見上げたこの日の空の蒼さと、夏雲のことを思い出す。黙祷の静寂とセミの声を思い出す。早暁に川辺に蹲る老人の悲しみを、この日に、ありったけの想像力で想像してみる。8月7日、祭りの後のような広島の街を思い出す。それからまた1年、この街は、忘れ去られるのだ。果てしなく続く、核実験。大国も、小国も、豊かな国も、貧しい国も、核武装をしたがっている。

さて、ここ数年留学生向けの授業(「ニホンゴ・ニホンジジョウ」とかいう)を担当していると毎年必ず、韓国の留学生と原爆の投下についての議論になる。

韓国から来た留学生は、大多数が、広島・長崎への米軍の原爆投下は「しかたがない」ものであるとし、そのおかげで自分たちが解放されたとは言わないが、それによって戦争が終わったと認識している。また、彼らは、原爆投下により日本上陸戦は行われなくなり、日本人にも、米軍にも、“無駄な”犠牲者が出なくて済んだとも認識している。

このような認識は、一般的な米国人のそれと“瓜二つ”。恐らく、原爆関連の知識は米国や韓国駐留の米軍から得ているのであろう。

そのような認識は、明らかに、事実とは異なっているのだが、やはり、韓国人の彼らもそれを“信じて”いるのだ。その彼らに、わたしは以下のことを話す。

米国は日本が既に降伏の条件闘争(「国体護持」)に入っており、幸福寸前であったことを充分察知した上で原爆を投下している。それよりも、むしろ、米国はソ連の動向を注視しており、日本がソ連の参戦で降伏したという「事実」を既成化したくないと考えていた。また、米国は既に“次”の戦争、即ち、その時点での同盟国であるソ連とのイデオロギーをめぐる戦争(=のちの冷戦)の準備に入っており、そのために原爆の破壊力を実践で試し、できうる限りの情報を収集することが目的であった。つまり、米国にとって、広島・長崎への原爆投下は、20万人の一般市民(そのなかには、朝鮮人もいたし、米国人もいたが)を犠牲にし、それ以後の被害者をも対象とした「実験」であった。

そして、広島で被爆した朝鮮人のこと、そして、戦後、それらの朝鮮人に対する原爆症治療のための渡日治療に尽力した広島の医師たちのことや朝鮮戦争でも原爆を使用しようとして解任されたマッカーサーのことなども話す。

それでも、韓国人留学生たちは、じゅうぶん納得したわけではない。そんな彼らにわたしは、次のように説明を続ける。

広島で核廃絶を願っている人たちは、自分たちのことを一方的な被害者とは決して思っていない。日中戦争から太平洋戦争に暴走した日本軍が朝鮮半島や大陸などでしたことも充分学んだ上で、自分たちの背負った加害性も理解している。

それから、百歩譲って、原爆投下が、韓国人留学生の認識と同じ意味を持っていたとしても、そこで起こった事実は倫理的に容認できる範囲であるのか、広島に行ってそれを見て、聞いて、感じてみるべきだと、わたしは続ける。皇軍の戦争の非道の応報として、植民地支配や侵略の応報として、原爆を一般市民の上空で炸裂させるということは、論理的にも整合性がないし、当時の道徳や倫理でも決して容認しがたいということを、わたしは、彼らに直に学んで欲しいと思っている。

これまでに、留学期間内で広島を訪れた留学生はいない。しかし、わたしが彼らの心に投じた一石は、時間はかかっても確実に波紋を広げていくと、わたしは信じている。それは、核廃絶に向かう被爆者たちの絶対的な「正しさ」を信じているから。また、それを踏みにじって、その非道をなお意識しない米国人が核を保持し続けていることが、絶対に「普成」であることを信じているからである。

ヒロシマ紀元63年が、またやってくる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月30日 (金)

満開の桜をあとにして。

釜山での3日間が終わった。釜山はわたしの住んでいる神戸よりも北にある(神戸は大体北緯34度41分あたり。釜山は北緯35度近辺)。しかし、市内の至る所に桜(ソメイヨシノが中心)が咲き乱れていた。ことに訪問した釜山外国語大学校は桜の多い大学で、キャンパスが桜色になっていて、早いものは散り初めていた。

こうして、実り多い、思いで多い訪問を終えた関西空港は、まだ、肌寒くもあった。桜はまだ3分咲といったところ。まだ、まだ、これからである。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年3月29日 (木)

防塁の上に立つ

※ いろいろリサーチ不足なのですが、とりあえず見聞きしたことを覚書として書きます。記載の事項に誤りがあれば、訂正をお願いします。また、自分で気がついた誤りは適宜訂正いたしますので、真偽を確かめないままの転載はご遠慮ください。

………………………………………………………………………………

仕事で訪問した釜山外国語大学は、もともと秀吉の朝鮮侵攻の際、加藤清正が城を構えたところだと、日本語大学(韓国の「大学」は日本の「学部」にあたる)の教員が教えて下さいました。ちょうど折から桜が満開で、新学期(韓国の新学期は3月から)の活気がみちたキャンパスからは、すぐ近くに釜山港が見下ろせます。なるほど、要害の地です。

このほか、釜山周辺にはこの戦闘に利用された両軍の砦跡が残っているようです。そのうち秀吉軍のものは「倭城」と呼ばれているそうです。

午後から見学した釜山外国語大学校の新キャンパス予定地は釜山大学校近くの東莱(동래)は秀吉軍侵攻時の激戦地だそうです。ちなみに釜山外大は金井山城(금정산성)近くの48万坪に新キャンパスを建設とのこと。

その他、植民地時代のものも含めて、釜山にはいろいろな意味で日本との因縁浅からぬ場所等がありました。かってこの国を攻めたとき築かれた防塁に、いまは世界各国から学生が集いこの国のことばと文化を学んでいます。わたしの大学の学生もお世話になっています。そして、わたしはここにさらなる有効の絆を深めるためにやってきたことを実感しました。

こうして、ひとつひとつの出会いを通して、この国を身近に感じ、興味が深まりつつあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

黄砂の街に、降りたって

フィールドワーカーを自称する筆者は、実は「国外」(「海外」の方が、曖昧で都合がいいが………)にほとんど出たことがありません。いままでに、わずか2度。1981年3月(中国:北京、西安、延安、上海等)、2004年9月(香港・澳門)。そして今回初めて韓国に降り立ちました。

初めての韓国は黄砂に霞む釜山から出発です。といっても、今回は釜山のみであさって帰ります。

釜山が近づき、飛行機が降下しはじめるとやがて広大なコンテナバースやクレーンが林立する港が見え、やがて、山の中腹まで迫り立った数十階のマンション群はかつてみた香港の風景を思い出させました。滑走路の間際にはビニールハウスや屑鉄置き場のような場所が見えました。いろいろな意味で、活気ある街への期待が高まりました。

そして、飛行機は金海国際空港に着陸したのですが、滑走路を走っているわずかのあいだに3機の迷彩を施した軍用輸送機が飛び立ち、滑走路の脇では軍用ヘリがローターを回して待機していました。平時にあってのこのありように、この国の厳しい現実を認識しました。

空港から街中に入っていくと、ちょうど釜山では桜の花が満開近く。なかにわ散り初めの樹もあり。至る所に桜の花を見つけました。そして、予想していたことですが、教会がとても多く、そのどれもが大きいのには驚きました。

一旦ホテルでチェックインをすませ、また、市中に出ると、今度は釜山港の近くで10メートルおきに配置された警官を目撃しました。そして、米軍の軍用車両が街中を走っているのを目撃しました。その米軍車両にはナンバープレートがありません。運転をしている方にその理由を聞くと、「米軍は基地のなかは大韓民国ではなく外国であると言っている。その外国を走るのだから大韓民国のナンバープレートは必要ないのだと。しかし、ここは大韓民国のはずなのだが、彼らは傲慢にもここも外国だと思っているらしい」とのこと。

どっかで聞いた話ではある。というか、沖縄と似ているではないか。空港の軍用機も、然り。そんなことを釜山の第一印象として感じていたのだが、もちろんそんなことは、「釜山の第一印象はどうでしたか」と笑顔で、次々聞いてくる初対面の訪問先の方々に言うことができなかった。

いまは、遠い先のことだろうけど、こうして沖縄で紡いできたことが、韓国の現実や歴史と切り結ぶとができたらと、密かに思った一日であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月11日 (日)

釜山へ行く、この月末

研究以外の大学での雑務や教育のことは、このブログではなるべく書かないようにしている。でも、例外はある。そもそも、勤務していて次々に降りかかってくる雑務が、自分の研究や自分自身の能力の鍛錬にまったく関係のない時間の浪費だと考えると、とてもつらくてやりきれない。だから、なるだけ、それらの努力は研究に収斂していくものだと思うことにしている。

と言うわけで、仕分けのしにくいことだが、一応勤務先の用務で、この月末釜山に行くことになった。わたしの勤務先が“相互”交流協定を結んでいる釜山外国語大学校が主たる目的地となる。2泊3日なので、その他による余裕はない。しかし、初めての韓国。そこでの体験が、これからの留学生教育や自分の研究に反映していければと思っている。

| | コメント (2) | トラックバック (0)