カテゴリー「沖縄」の47件の記事

2008年12月20日 (土)

「復帰」と「合同」〜教団は暗闇を見ていたのか〜

ノワール小説やハードボイルドというのは余り趣味ではないので、ほとんど読んだことがない。『不夜城』は映画で見たけれど、馳星周の小説も初めてである。

弥勒世(みるくゆー) 上 Book 弥勒世(みるくゆー) 上

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弥勒世(みるくゆー) 下 Book 弥勒世(みるくゆー) 下

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歴史は、理想やイデオロギーによって変わることもある(と、信じてる)。しかし、歴史は《きれい事》ではない。汚辱や憤懣に溢れていて、その上、捏造や隠蔽が日常茶飯に行われている。そんな薄い嘘事を引きはがすように、慎重にきれい事では済まされない歴史を描いてみたいと思っている。

本書の舞台は「本土復帰」前、米軍占領下の沖縄島。――そこには、沖縄人どうしによる宮古や奄美への差別があり、アシバー(遊び人、不良、または、ヤクザ)の暗躍があり、売春窟がある。そして、黒人米兵と白人米兵との間に根深い対立があり、米軍やCIAに飼われる「犬」がいる。「犬」は「犬」としての存在に悩み、やがて自我に目覚めたとき、その飼い主の喉笛を噛みきる。

さて、「吉原」は、本書にしばしば出てくる旧コザ市の「特殊飲食街(特飲街)」である。本書では、そこで売春が行われていると書かれているが、その「吉原」 の一角に、日本キリスト教団コザ教会はある。現在の会堂は1965年献堂というから、まさにこの小説の時代に重なっている。

以前、コザ教会で牧会経験がある牧師お二人にお話をうかがったことがある。それによると、コザ教会がこざ「吉原」に隣接する場所に建っているのは、決して偶然ではない。コザ教会は、早世したある神学生(沖縄出身者、同志社神学部の大学院在学)の提案で、「基地の街でも最も人間性が抑圧され、疎外されている地域の一隅」(日本キリスト教団コザ教会『未来への扉—沖縄戦の証言—』(同教会、1998年)p.130)を選んで建てられた。このような尊い志をもとにしてこの教会は建てられたのであるが、その志を通すには相当な困難がともなった。

この「吉原」は、「アシバー」の支配する場所でもあった。

ある日、吉原で働いているひとりの女性が牧師館を訪ねてきた。…(中略)…今のように自分この世界へ転落している原因を語り、生きているのがいやになると。また暴力団の管理からどう逃げることができるのかと、真剣に語った。…(中略)…彼女は、確か3回ほど礼拝に出席してから、それ以後ぷっつりとこなくなった。訪問してみたら、その店にはいないということだった。
教会へ行ったということで、男の人に殴られ、今どこに行ったか、だれも知らないとのこと。これまで教会の庭に来ていた彼女たちは、そのことがあってからは誰一人として来なくなった(名嘉隆一「基地の町に生きる教会」(前掲『未来への扉』に所収)pp.138-139)。

また、教会の前には現在でもちょっとした広場あり、現在はどうなっているか確認していないが、献堂当初はそとにトイレもあった。朝になると、広場の芝生には塵紙や汚物が散乱しており、トイレには嘔吐した後寝込んでしまった女性がいたという。また、広場である時は男女が重なり合ったまま眠り込んでいたともいう。当時は、教会の敷地のなかにあった牧師館に住んでいた牧師と牧師夫人の毎朝の最初の仕事は、それらの汚物や散乱する衣類を片付け、眠り込んでいる女性を起こすことからはじまったという。

その結果、「吉原」と教会の間にはブロック塀ができる。また、牧師は牧師館から離れ、教会と離れたところに住むようになったという。当時の牧師が牧師館を引っ越したその日に、牧師館はボヤで全焼した。これは、キリスト教の惨めな敗北ではない。苦闘の果ての、苦渋の決断であったろう。わたしたちは、この教会の信徒や牧師の苦悩を心に刻むべきであろう。

さて、B52の墜落事故、毒ガス漏れ事件とレッドハット作戦、コザ暴動。そのような混沌は米軍を頂点とする権力構造をも飲み込んでしまっている。そこにやってきた「活動家」と称する日本人たちは、そのような現状を全く把握できないでいる。それでいて、自分たちで沖縄に起こっている事態を解決できると信じ込んでいる節がある。彼らは、強烈な使命感があり(いったい誰に与えられたのだろうか)、その上、自らの良心を信じているだけに、その滑稽さが際だってしまっている。

そのような1970年を前にしたこの時代。日本キリスト教団(日本基督教団)は沖縄キリスト教団と合同した。

そして、その合同を実質化するという名目で、日本の教会関係者による「沖縄セミナー」が、1970年1月、沖縄で開催される。しかし、この試みは初回から躓く。

このセミナーの期間中(第三日)に全軍労の四十八時間ストが決行され、本土出席者の中には、自分の目でこれを確かめるため、また全軍労のストはセミナーに直結する問題であると考えて幾人かがこれに参加した。しかし沖縄ではこのようなことは日常的なことであり、セミナーに参加することこそ、全軍労の人々と行を共にすることである、という考えのようで、本土と沖縄の問題意識は食い違っていた。この二十五年の隔たりからくる意識の食い違いを直視することから、沖縄問題への取り組みははじまることを認識させられた。(「沖縄こそ教団の課題/沖縄セミ終わる」『教団新報』1970年1月24日)

合同した本土教団と沖縄教会の「隔たり」がはっきり現れた瞬間であった。そして、その「隔たり」の認識に沖縄教会は以後敏感になる一方、本土教団ではその後もほとんど自覚されていないように思う。セミナーに参加した本土教団の人々は少なくとも沖縄の教会を理解しようと努力し、いわゆる「沖縄問題」についても問題意識をもっていた。しかし、そのような人々でさえ、沖縄教会が本土教団に何を求めているのか全く理解できなかったということである。第1回沖縄セミナーの後、『教団新報』ではセミナーの参加者から全軍労のストへのカンパが何度も呼びかけられている。わたしは、そのことを批判することはできない。しかし、そこに沖縄教会の問いかけに応える用意はあったのであろうか。

これらに象徴される両者の認識の「隔たり」についての本土教団の過小評価により、わずか2回で中止された。

先述のコザ教会の試みは沖縄の他教会でも見られることであろう。そのような日常の伝道と宣教の営みに、寄り添うこと。それは、本土教団に所属するわたしたちにとって相当難しい、その解決継続中の課題である。

「弥勒世」。「弥勒」だから、現在仏教と強い結びつきがつよい思想というわけではない。しかし、そこに存在する憎しみや恨み、悲しみや苦しみ、混沌と暴力などを乗り越えようとする祈りがそこにある。その祈りに、当時の沖縄教会の人々は心を合わせていたに違いない。その祈りに込められた思いやその意味を、わたしは、少しでも理解したい。本書を読みながら、そう強く思った。

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2008年12月 6日 (土)

過ぎ去った“カコ”を、来るべき“ミライ”に〜池上永一『テンペスト』を読む〜

池上永一の『テンペスト』読了。


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あらすじなどは、野暮なので、詳細は省略する。両方で900ページぐらいの浩瀚な小説だが、数日で読了した。それだけ面白かったのだが、それに加えていくつか示唆を与えられることがあった。

まず、主要な登場人物やどうやら実在しないらしい。生憎、この時代の知識があまりないのだが、おそらくモデルになった人物はいるのだろう。だから、正確な歴史的事実を本書から読み取るのは無理だろうが、だからといって書かれていることは全くのフィクションではない。当然のことながら、一面では歴史の論文よりも当時の人物群像や時代状況が活写されていることはある。

さて、琉球王国は、大陸の中華帝国と「日本」に接する小国である。本書の舞台は、その琉球王国の滅亡期である。その頃には、英国、米国等々の欧米列強が中国から日本本土への足がかりとして琉球王国を席巻しようと、虎視眈々と機会を狙っていた。そんな小国でありながら、琉球王国は、1429年から1879年(72年に琉球王国は琉球藩となっている)の約450年もの間存在し続けたのである。途中、クーデタで王朝が交替し、1609年には薩摩の侵攻を受けて奄美を失い、「保護国」化することもあった。

しかし、それでも王国として存続し続けた。そこに、わたしたちが対面している琉球=沖縄の本質がある。本書で触れられているとおり、琉球王国には中国の科挙に相当する科試(コウシ)が行われていた。その内容は、中国の四書五経を中心とした確かな教養を基盤にして、「答のないところに答を見出していく能力」がタメされるものであったという。こうして、科試に合格した少数精鋭の頭脳集団が、論理の組み立てと文書の力だけによって、周辺の大国や「宗主国」からの無理難題に曝され、西欧列強に圧倒されかねない情勢の中にある諸国・琉球のあるはずがなかった新しい道を見出し、切り開きながら歴史を進んでいったことが、本書から読みとれる。

つまり、わたしが研究対象にしている戦後米軍占領下の沖縄に生きた人びとにもこのような論理の力に「情」による「血流」を生じさせ、難しい局面を切り開く潜在的な能力が備わっていたということである。その片鱗は、調査の過程でも感じていた。史料中の人物の動きや思考、そして、聞き取りや史料収集の過程で出会う人々には、豊かな教養と穏やかな物腰のなかにも芯の強さと渡り合っていく意志のようなものが感じられた。そして、それは『テンペスト』に描かれた琉球王国時代の評定所筆者(主人公が最初に就いた役職)のそれとつながっているのではないかと、わたしは感じた。

そして、わたしは、それを“ミライ”へとつなげてゆきたいと思う。ことばを紡ぎ、文書だけで誰にも打ち負かせない論理を構築し、答のないところに答を見出していく。それを、沖縄の“ミライ”につないでいきたいと思う。

大国は、強大なエゴイストだ。それを、指摘し、批判するだけでは、それがたとえ直接的な行動をもとなったとしても歴史は変わらない。外交と内政の最前線で、ことばで新しい論理を構築しながら、交渉し、相手を立てつつ説得して、自らの有利な方に情勢を導いていった本書の主人公たちのあり方は、その歴史を変えていくための一つの方策を示しているように思う。

彼ら/彼女らの試みは結果的に明治政府による琉球の併合という結果に終わったけれど、歴史は終わっていない。本書のなかで登場する清国の宦官の気味悪さと尊大さは、現在の米国のそれに通じているように思う。同時に、琉球に心を寄せつつも自らの利害にしたがって琉球を蹂躙せざるを得なかった薩摩の侍は、同時に日本本土のある種の人物像にオーバーラップする。筆者の池上氏はそのような暗喩を用い、少年(少女)官僚の思考と行動にに仮託しながら、現状を打破し、歴史を変える試みを、本書で提起しているように思った。

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2008年11月16日 (日)

問われる歴史観〜首里教会創立100周年とベッテルハイム沖縄伝道162周年〜

沖縄の首里教会(現在は日本キリスト教団)は、今年、100周年を迎えた。世の中は、「プロテスタント日本伝道150周年」、そして、先日の「植村正久生誕150周年周年」と、「周年記念」が続いている。

首里教会創立100周年の記念式典の後、1846年に来琉したベッテルハイムの講演が成されたのは、沖縄のキリスト教のある種の特色を表している。そして、壮大なアイロニーにも見えた。

1908年沖縄県公認の首里教会(日本メソヂスト首里教会)は、その頃の沖縄教会でも最も早い時期に教会形成を行っている(那覇地区の教会の方が教会形成の時期が早い)。だとするとベッテルハイムが1954年に離沖した後、1900年までの約40〜50年間、沖縄ではキリスト教の空白期に当たるということだ。

この空白期が生じた原因を、わたしは、かつて、「日本伝道への橋頭堡」ということばで表現した。つまり、中国伝道に行き詰まりを感じていた欧米各教派の宣教師たちは、そして、それらの宣教師を派遣している教派は、日本伝道に教勢のさらなる拡大の可能性を見出そうとしていた。しかし、日本は「鎖国(海禁)」状態で、キリスト教の禁令が布かれていた。そのため、宣教師・宣教師団は、まず、当時の琉球王国に到来し、日本開国の時期をまった。そして、日本本土でキリスト教が「解禁(実際には、黙認)」されると、日本本土に殺到し、沖縄の魂はほおっておかれた。そして、19世紀末になって、やっと、日本人による沖縄伝道が開始された。

この時点での沖縄伝道には、もちろん、欧米の宣教師も参加していた。そして、説教等は日本語で成されたのではないかと、わたしは推測している(なかには、沖縄のことばの達者な日本人牧師もいたらしいが)。沖縄人に対して、日本人の牧師が、日本語で説教をする。これは、朝鮮半島でも、台湾でも見られた構図だ。その一方で、これらの日本人牧師は、沖縄の青年に重大な感化を与え、そして、その感化をうけた幾人かは本土で活躍をする宗教学者になり、沖縄で伝道をする沖縄人伝道者となった。

首里教会の100年は、こうした、《 ベッテルハイムの沖縄伝道 → 50年にわたるキリスト教伝道の中断 → 19世紀末の日本人伝道者による沖縄伝道の開始 → 沖縄人伝道者の育成》の延長上にある。そのことを、まず自覚しなければならない。

そうすると、1846年からのベッテルハイムの沖縄伝道は、沖縄におけるプロテスタント伝道の端緒となり、当時は、まだ、独立王国であった琉球王国を、現在の国境線に則りそれを日本の一部であると解釈すると、それは日本伝道の端緒であると評価しうる。しかし、それは、直ちに現在存在する沖縄の教会の起源であると言い切れるのであろうか。

ベッテルハイムの沖縄伝道では、さきの首里教会創立100周年の照屋善彦氏の講演によると、数名の受洗者を得たという。しかし、それらの受洗者、あるいは、その子孫が今日の沖縄教会に連なっているのだろうか。その可能性は、限りなく低いのではなかろうか。だとすれば、19世紀後半は沖縄ではキリスト教伝道が断絶していたことになる。そして、沖縄戦だ。当時の伝道者の大半は様々な理由と名目で日本本土に「疎開」した。また、ある伝道者は戦場で落命した。しんとも、然り。疎開する者、戦場死する者。そして、1945年4月頃から米軍従軍牧師(チャプレン)の支援で集会を開き、やがて、教会堂等を整えていくことになった。それが、今日の沖縄教会に連なっているのであって、沖縄戦で戦前の教会とは断絶をしていることになる。

だから、首里教会の「100周年」はおかしいといっているのではない。そのような例は、他の日本の都市、とりわけ、原子爆弾で破壊された広島でもある。しかし、その断絶を、歴史家は漏らさず記述し、その「断絶」の意味を厳しく問うていかなければならないと思う。

それから、もうひとつ、首里教会の100周年で、腑に落ちないことがあった。それは、その「100周年」で日本メソヂスト教会に属していた「日本メソヂスト教会首里教会」(大保富哉牧師)のみが強調され、まったく無視されていた「日本基督首里教会」のことである。この教会は、1910年代に創立。沖縄人の伊江朝貞が牧師を務めた。この教会はおそらく日本基督教団首里西部教会となり、沖縄戦の前まで、多くの琉球讃美歌を残している新垣信一牧師が牧会をしていた。さて、首里教会の戦後2番目の牧師に就任した仲里朝章は、戦前の信仰歴等々や戦時中の働きからいっても、日本基督教会の系列にはいるはずである。首里教会が創立100周年で、この旧日本基督教会系列の「首里西部教会」を全く採りあげないのであれば、この教会は、その後どうなったのであろうか。

ひるがえって、今日の日本基督教団と沖縄の教会(同教団沖縄教区)との関係でいえば、両者の対立の要因は主として両者の歴史認識の相違にあるといってもいい。だからこそ、歴史はだいじにしたいものである。

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2008年11月14日 (金)

月光の沖縄

ついさっき、沖縄に着いた。こんな時間に沖縄に到着するのは初めてだ。沖縄に近づいて飛行機が高度を下げると雲のなかにはいった。その雲の切れ間から街の灯りがちらちら見える。さらに高度が下がると、オレンジ色の街路灯が、曲がり曲がり、丘や谷を、うねうねといっている。

そして、那覇空港に着陸態勢にはいると、糸満から豊見城、那覇と飛行機は旋回し、断大高度を下げていく。すると、瀬長島あたりの海面に月光が反射しはじめた。幻想的、というよりも、ちょっとした、悪戯のように、月が、飛行機を追いかけ、月影が、飛行機を追いかける。

沖縄は、本当の、ウツクシイ。

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2008年11月 9日 (日)

憧憬と超克〜沖縄のキリスト教会がもつ活力〜

この間の3連休で仕上げた論文は、昨年、キリスト教史学会で研究発表したものです。

題名は「軍事占領下における軍隊と宗教─沖縄地域社会とキリスト教─」。基本的には歴史の論文ですが、沖縄のキリスト教の現況にかかわる問題でもあります。

沖縄のキリスト教との割合は以前ここでも書いたように日本の他府県に比べると約3倍に当たります。その原因についてはこれまでもいくつか議論ありました。その中には、沖縄の宗教的風土をとりあげて、そこにその原因を見出すもものがあり、一見説得力があるように思われました。しかし、沖縄のキリスト教との人口分布を詳細に検討すると、沖縄でも宗教的な伝統が残っている地域、例えば、沖縄島の南部・北部の一部や先島・離島地域では沖縄のなかではキリスト教との比率は低いのです。だから、別の原因もあるはずなのですが、それで、わたしは、戦後の米軍との関わりに注目して、その原因を探ったのです。

今回、昨年の発表を原稿化する過程で、この問題を再考してみました。そして、最後の部分を、こう結びました。

 このように日本の教界での沖縄の教会の存在感が希薄なまま1972年の沖縄の「本土復帰」(日本側からみると「沖縄返還」)が実現する。しかし、依然として米軍は沖縄に駐留したままである。このような状況下にあって、沖縄のある教会は様々な問題をはらみながらも「祖国」日本の教会にではなく、沖縄のなかに存在する米国人の教会や米国人キリスト者たちに寄り添いながら伝道を行っている。また、別の教会は社会的な問題には全く関与せず、ひたすら沖縄人の魂の救済を専らとして伝道活動を展開している。その一方で、日本の反戦・反基地団体と連帯し、社会的な関心をもってそれらの活動の最前線に立つことで自らの信仰を証する集団もある。こうした三者三様の教会のバランスのなかで、現在でも沖縄での伝道が行われていることになる。
 こうしてみると、沖縄教会にとって米国のキリスト教とオーバーラップする軍事占領はいずれも二重の意味を持っていることがわかる。すなわち、米国のキリスト教は沖縄の教会やクリスチャンにとってあこがれであると同時に、克服すべき対象でもある。その憧憬と超克の二つの力が共存し、ある時にはせめぎ合うことで、沖縄のキリスト教は新たな活力を生みだしているのではないか。

日本のキリスト教伝道を語るときに「社会派」と「福音派」の対立がよく議論されています。このような議論のなかでは、両者は同じ教派・教団に属している場合もあるけれども、互いに理解不能で、敵対的で、大概に互いを論破するだけではなく、お互いの消滅を願い、実力を行使しているようにさえ思えます。

しかし、実際には、そうなのか。これが今回論文を執筆していて感じた率直な実感です。日本の他の地域ではどうでしょうか。それぞれに、「社会派」と「福音派」の“濃度”は違っていると思います。一般的に、「社会派」が多いところと、「福音派」が多いところ。それぞれのなかで、両者の多少はともかく、存在感として両者がせめぎ合っているところでは、案外、キリスト教が“盛ん”なのではないでしょうか。これは、仮説で、今後立証することは可能であろうと思います。

沖縄の場合、信徒の数や教会の数・規模でいうとおそらく「福音派」が「社会派」を圧倒していると思います。しかし、「社会派」はその発言や行動で沖縄の地域社会にそれなりの存在感をもっていると感じます。そして、それぞれが戦後教会を形成し、信徒を集めてきました。その過程で、全く正反対の意味で米国のキリスト教、米軍のキリスト教と拘わってきました。

「社会派」については、自覚的には1960年代になってはじめて現れてきたと思います。その「社会派」は米国・米軍をアンチテーゼ、あるいは、批判の対象としてそのキリスト教を受容し、地域社会の現状から生まれる不条理に対峙するために、米国のキリスト教を「超克」しようとした。「福音派」は、米軍や米兵を通して体感した米国のキリスト教への憧憬を抱き、それに寄り添うことで、おそらくそこから様々な支援や感化をうけたことでしょう。その沖縄のキリスト教の二つの流れは決して対決的ではなく、お互いに距離を置き、牽制しつつも、一方でお互いを気にかけているのようにわたしは感じています。

だから、例えば、日本キリスト教団という一個の集団を、どちらかひと色に染めようとすることは、明らかに間違っています。大概に互いを批判しながらも、切磋琢磨し(できるかな? でも)、併存することが日本のキリスト教の活性化につながるのではないでしょうか。思えば、日本キリスト教団にとって、現総会議長が総括した「荒野の40年」こそ、実はそのような可能性を時代ではなかったかと思うのです。しかし、実際には「福音派」が退場し、対話を拒絶し続けていました。そして、体制が整うと、クーデター的手段で「政権」を奪取したのでした。

さて、もうひとつ書き忘れていたことがあります。それは、沖縄にはいまだに魂の救いを必要とする人々や状況が存在しています。だから、キリスト教だけではなく、様々な宗教が重要な役割を果たしているのです。「信仰告白」は何のためにあるのか。教団は何のためにあるのか。もはや「救うべき魂」がなく、そこに届かない祈りや告白ばかりの教会・教団は、この地域社会に必要なのでしょうか。

沖縄のキリスト教会の強みは、一枚岩の団結の強さではなく、魂の救いに至る多様性が保証されていることろにあると思うのです。そして、その保証は、沖縄のキリスト教徒によって成されています。

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2008年10月24日 (金)

本土の教団・各個教会は、何一つ失わず、どこも傷つかない〜日本キリスト教団総会における沖縄の表象〜

先に紹介した『風』の方々が作成された総会の報告メールによれば、議案第39号「『合同のとらえなおしと実質化』特設委員会を設置する件」と第40号「『合同のとらえ直し』を自分のこととして聞き直し、再度合同関連議案を提出するために、合同記念の日を2月25日に設置する件」が否決されたという。

それからの議案の作成過程や提出者等々、わたしには情報がないので、詳しいことは何もわからない。しかし、報告メールを読んでいて、気にかかったことを二三書き記しておきたい。

まず、議論の全体的な経緯から、わたしが思ったのは、「日本基督教団」と沖縄キリスト教団との「合同のとらえ直し」を推進する側の言説を否定するために、「合同のとらえ直し」に反対する人たちが先のお二人のような方々の発言を利用しているのではないかということだった。そう。こうして沖縄はいつも日本本土からの圧力で分断されていくのだ。

それにしても、第40号議案にある「合同のとらえ直し」を「自分のこととして聞き直し」とは、どういう意味であろうか。原文を、まだ、詳細に見ていないので何とも言えない。しかし、その提案理由から推察するに、ある種の違和感を禁じ得ないのだ。この「自分」とは誰にことを指しているのだろうか。また、「『合同のとらえ直し』を自分のこととして」ということばの端々に、確かに、良心的キリスト者の真摯な自己反省を前向きな態度は読みとれる。しかし、そこにある種の欺瞞はないだろうか。沖・日両教団合同後の出来事は、いつに日本教団側が原因となっているのではなかったか。

沖縄教区が教団と距離を置くという日本キリスト教団史上初の「大事件」の責任は、執行部だけではなく、日本教団全体にあると思う。発言者や教団執行部、そして、教団総会に出席していたすべての議員、ひいては沖縄教区を除く教団全体にその責任の自覚が果たしてあるのだろうか。

また、この議案の議論の最中、沖縄からのお二人の「推薦議員」の発言があったという。与那原教会の知花正勝牧師と読谷教会の具志堅篤牧師である。具志堅牧師には一度お会いしたことがあるが、知花牧師には何度もコンタクトをとったけれども、結局会っていただけなかった。このお二人は、今年の5月まで沖縄教区の議長と副議長をなさっていた。

ところで、「推薦議員」とは、「日本基督教団教規」によると「教師または信徒で、常議員会の議決を経て教団総会議長の推薦した者30名」(第1条第3項)とある。こういう言い方をすれば、お二人に失礼かもしれないが、お二人の意識は別として、教団議長や常議員会で議長に近い人々たちはお二人とも“自分たちの側”の人間であると思われているのではないだろうか。しかし、そのお二人が議長・副議長であったときも沖縄教区からは教団総会に教区選出議員を送らなかった。今回もそうである。このように、沖縄教区では、それぞれの力が拮抗しているのだ。

わたしは、沖縄教区のことは沖縄教区で決めるべきであると思っている。これは、ごく、あたりまえのことだ。しかし、教団の本土教会から様々なてこ入れがはかられる過程で沖縄の教会は何重もの意味で分断されてきた。したがって、そのあたりまでで、極めてシンプルな「自己決定権」「自決権」が沖縄教区には保証されていない。具志堅牧師の「皆さんが言う『沖縄』とはどの『沖縄』なのか、合同のとらえなおしは一歩間違えば沖縄教区が分裂する事柄である」という発言は、はからずもそのことを露わにしている。

そして、この具志堅発言は、感情的発言などではないと思う。それを、そのように断ずるのであれば、沖縄の教会がどれほどのところまでせっぱ詰まっているのかを、全く理解していない発言であろうと思う。これらは、立場を越えて沖縄教区に広範に存在する危機感の表れではなかろうか。

沖縄教区のことは沖縄教区で決める。──そのためには、一度、本土教団が沖縄教区の離脱を認め(「離脱」という言い方は問題があるかもしれない。「合同」を解消するということ)、改めて、「再合同」へむけての話し合いをするのも、一案ではないかと思う。そして、それは、沖縄教区にとっては茨の道に踏み出すことになるだろう。しかも、本土の教団や各個教会は何一つ失うものはなく、傷つくこともない。

両者のこのような不均衡な関係性が、日本キリスト教団総会の沖縄教会をめぐる表象のなかに、かいま見えはしないだろうか。

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2008年10月 7日 (火)

「間那津」の思い出

ある人とのブログで、宮古島の朝日と夕日の写真を見ていて、思い出したことがある。あれは、2002年の盛夏、宮古島で調査をしたときのことだ。予定していた聞き取りが不可能になり、一日空白の時間が出来た。それで、島内をいろいろ見て回ろうとしたのだが、わたしは教員免許しか持っていない。ので、車を運転するわけにはいかない。そこで、ホテルの近くの自転車屋でレンタサイクルをした。あいにく、いわゆる「ママチャリ」しかなかった。

それで、いつも講義で話している「人頭税石」や「久松五勇士」の碑などを見たあと、北上して南静園に向かった。思えば、無謀な旅であった。40過ぎの身にはだいぶんこたえた。来るときに飛行機から見た宮古島は平らな島のようだったのだが、実際に自転車で走ってみるととそうとうアップダウンのあるウネウネの島だった。特に北部は。

それで、「ママチャリ」をこぎ続け、やっと南静園に到着し、見学をしたあと。残る体力と気力を振り絞って西平安名崎を目指した………。が、結局早々に力尽き、帰る決断をして方向転換をしたときに、地名表示の看板が目に入った。「間那津」………。「間那津」………、「まなつ」、「真夏」!!!!!!!! 冗談じゃない。この糞暑いのに、「まなつ」とは………。と、絶句し、しばしその場に立ち尽くしていた。

そして、よろよろと「ママチャリ」を駆り、もと来た道ではなく、別の、つまり、最短距離ではなく、回り道をして、真謝港の方から畑と山を越え、空港近くを通り、やっとホテルにたどり着いた。別に、迷ったわけではなかったのだ。ただ、初めて来たところなので同じ道を帰るのがいやだっただけなのだ。それでも、しばらく行って、ひどく後悔したが………。それから、島の南で昼食をとったときに出会った人と、島の北の方の畑の中の十字路で偶然すれ違ったときには、お互い不思議そうな顔をしながら………。そんな説明できないような、体験もした。

夕方、ホテルの部屋のバスタブにいっぱい水をためて、しばらくほてった身体をさましながら、し残した調査のことを反芻していた。あのときの調査は、それなりに充実した物であった。宮古の新聞をたくさん読むことが出来た。また、平良新亮さんという宮古島の協会員の方に長時間お話をうかがうことも出来た。それから、宮古島伝道所の礼拝では、本当偶然、平良修牧師夫妻と出会い、お話をうかがうことも出来た。それらは、神様のお導きと、それから、宮古島伝道所の星野勉牧師のご配慮であった。しかし、平良キリストの教会では面会を断られ、いくつか悔いの残るところもあった。だから、もう一度、と思っていたのだが、6年経っても、未だ、果たせないでいる。

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2008年9月17日 (水)

「平信徒の神学」は、あるのか。

今回の学会発表で、今年は3本目。あと1本ある。

さて、研究発表したのは「日本基督教学会」。わたしが所属している学会で唯一「日本」が就いている学会である。この学会には今年度の初めに入会したばかりだ。入会したてで研究発表をさせてもらえるとは思っていなかったのだが、だめもとでエントリーしたら受け付けられた。

研究発表は全部で47本。3会場に分かれて30分の持ち時間で日頃の研究成果を発表した。わたしは、二日目、第3会場の最後の発表。発表者は研究者もいるが、同志社と関学の神学部の院生、それも、相当数の留学生(韓国出身者が多いような印象)。いずれも、力の入った研究発表であったと思う。熱心なそして、少数だが東神大からの発表もあった。それぞれの神学校の教員も多数参加していた。それから、東大と京大のキリスト教学関係者の八票も多くあった。

もともと、わたしがこの学会に入会したいと思った理由はいくつかある。その最も大きな理由を自分の研究発表の冒頭に述べた。

わたしはこれまで10年あまり米軍占領下の沖縄キリスト教史の研究を続けてきました。その過程で、大変重要な史料に出会いました。しかし、その史料を読みすすめるうちに、わたしは自らの非力を自覚しました。わたしは、その史料を読み解く力を身につけたいと思っています。つきましては、この学会で、そのための研鑽を積みたいと思っています。

だいたい、以上のような内容であった。わたしは神学校(神学部)で専門的な神学教育を受けているわけではない。また、大学や大学院でキリスト教学について専門的な知識を得たわけでもない。加えて、宗教学についても、誰かに師事してその神髄を学んだわけでもない。つまり、キリスト教学にしても、宗教学にしても、専門家から見れば素人同然である。しかるに、なんどか「キリスト教学」や「宗教学」の公募に応募したこともある。今から考えれば、正に、無謀。しかし、当時は差し迫った事情があった。いまは、そのような事情とは全く質の違う事情がある。

専門的神学教育を受けていない。それは、戦争直後、按手礼をうけた沖縄の伝道者たちも同様であった。彼ら、彼女らとわたしを同列にしているのではないのだが、しかし、実際、わたしはそこのところに大変共感を持っている。そして、キリスト教学、神学の専門家を前に、自分が専門的神学教育を受けていない平信徒の自分が、同じような平信徒から伝道者となった人物が自らの神学を確立しようとする姿を、わたしは共感を持って描きたいと思った。

「キリスト教業界」の一部では、「日本プロテスタント宣教150周年」をめぐって囂しい論議がおきている。そこには、日本本土の教派・教団・教会が沖縄のキリスト教・キリスト者・教会を蔑んできた姿が現れている。それは、この一連の動き・行事に賛成する側にしろ、反対する側にしろ、見られることである。確かに、1846年から54年までベッテルハイムは沖縄に「滞在」した。しかし、結局のところ、沖縄にキリスト教は定着し得ず、19世紀の末になって日本人牧師の伝道により本格的キリスト教伝道が成されるのである。つまり、ベッテルハイムはまだしも、他の欧米宣教師は琉球伝道には全く関心を示さず、日本が開教されるまでの時間稼ぎとして琉球に滞在・通過していったに過ぎない。つまり、琉球=沖縄は日本のキリスト教にと欧米宣教師のとって「橋頭堡」に過ぎなかったのである。

「沖縄に対する蔑視」とは、そのようなことに、認識が至らないことをさしている。つまり、あからさまに、あるいは、声高に、沖縄を蔑む人物はいないが、結果的に沖縄自身の価値を認識せず、否定してしまっていることを、それは指している。「沖縄の教会・キリスト者が沖縄で伝道を進めるのに際して有利になるように、沖縄の伝統的民俗的宗教を取り込みながら伝道を進めてきた」という言説は、正に、その典型ではないだろうか。

沖縄戦後、「祖国」日本に見捨てられた体験(あるいは、沖縄戦中に、すでに、日本軍の虐待を経験してきた体験)をもち、異民族の支配を受けざるを得なかった戦後の沖縄のキリスト者が、沖縄がまだ独立国であった琉球王国時代のことを調べ直し、そこでの誇りを語るときに、それでも、それは単なる伝道のための便法であったといえるのだろうか。また、自らの民族的経験に鑑み、自分たちの「国」を「エデンの園」、あるいは、「第二のエルサレム」と呼ぶときに、それを「単に沖縄の民族的民俗的独自性」に矮小化していいものであろうか。今回の発表は、第一にそのような動きや研究動向に対する義憤もあった。

そして、仲里朝章が残した1940年代の文書(「もんじょ」。仲里が残した文書はこれだけではない)を見ていくと、自らの「貧しさ」に対する認識とそれを解消しようとする倫理的・道徳的・信仰的取り組みが明確になってきた。また、仲里自身が常に聖書に立ち返りながら、世界平和を訴え、米軍による理不尽な占領体制に対する非暴力に抵抗を常に思考していったことが跡付けられたと思っている。

そこには、異民族による軍事占領体制といった例外的情状可に置かれたキリスト者が、自らの体験を通して「平信徒」としての「神学」を構築していったのではないか。わたしは、そのように、戦後沖縄のキリスト教界をリードしてきた「第一世代」の平信徒上がりの伝道者たちの神学を、再評価したいと考えている。

さて、研究発表は、おおむね成功であった。フロアからは若干とんちんかんな質問もあったが、有益なものもあった。仲里朝章は1940年代にはロマ書やイザヤ書、ヨブの物語、それに福音書の研究を行っていた。しかし、わたしはその意味をまだ十分に評価するだけの力がない。そのことは自覚してはいたが、それを質問のなかで指摘されたのは、ありがたかった。

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2008年8月19日 (火)

祈りをもって送り出されて………。

その人は、待ち合わせの場所に自家用車を運転してやってきた。最初からお年のことを書くのも失礼かと思うが、御年93歳。白髪の老牧師で、気品と威厳があり、なお、矍鑠(カクシャク)としておられた。戦後一貫して沖縄のバプテストの指導者でっあた、I・S氏。

それから、一時間半。1940年代後半、占領初期の沖縄のキリスト教界について、いろいろ、貴重な話を伺えた。

その中で、終戦直後、伝道者となった方々が、沖縄諮詢会文化部の職員として、当時としては破格の高額の俸給を与えられていたという「伝承」について、事実ではない可能性が深まった。この点は、以前から気にかかっていたことの一つであった。当時の関係者のご家族に話を伺ったり、当事者の手記を読んでいると、当時の伝道者の生活は概して困窮しており、信徒からの農産物の差し入れや諮詢会・民政府、軍政府からの聖書・讃美歌、紙や文房具等の至急の事実はあったようだが、「給料」をもらっていたという記録も、証言も得られなかった。それが、I氏のお話でいよいよ確信に近づいた。

それから、沖縄キリスト聯盟についても、実際の資料をつきあわせての記憶の呼び起こしにねばり強くつきあっていただいた。その結果、いくつか残っていた疑問を解決することができた。

この聞き取り調査の成果については、9月に熊本で行われるキリスト教史学会の全国大会での発表に生かしたいと思っている。

さて、お話の最後にI氏は、目をつぶられ、両手を広げてわたしの前に差し出され、わたしとわたしの研究のために祈ってくださった。こうして、祈りをもって研究の場に送り出されるということは今まであまり経験をしていなかったのだが、大変感激した。そして、責任の重大さに身が引き締まる思いであった。

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2008年8月15日 (金)

忘れる速度ととどまること〜8・13と8・15〜

沖縄で8月15日を迎えるのは、ひょっとすると初めてではないか。1945年のこの日のことは、去年もブログに書いた。沖縄にとってこの日は「終戦の日」ではない。しかし、一応(というと、あれだが)、きょうの正午には黙祷があるらしく、調査の昼休みによった食堂では、遠くから聞こえてくるサイレンの音に「黙祷、黙祷」と呼びかけるひともいた。

それから、仕事を終えて、夕方、「パレットくもじ」に開かれている「     」を見に行った。2004年8月13日の金曜日、沖縄国際大学の構内に米軍のヘリが墜落してから4年目になるが、その間、一般の市民からよせられた写真(多くはいわゆる「写メール」で送られてきたという)が、それを撮った一人一人のコメント付で展示されている。写真は事故直後からはじまって、被害を受けた大学の事務棟の解体、新築までとかなりな期間続いている。

この写真展を進めてくれた沖縄在住のGさんによると、「今年も、意地でも続けている」とのこと。会場では、一見すると大学関係者には見えない女性が小学生ぐらいの子どもと一緒に店番をしていた。

さて、会場には、その日の号外や翌日の朝刊(いずれも、『沖縄タイムス』と『琉球新報』)も展示されていた。その翌日の朝刊の記事を見て、いろいろ記憶が甦ってきた。それには、一面の片隅に「アテネオリンピック、未明に開幕」とあった。そうか、4年前なのか。ちょうど北京でオリンピックが開かれている。わたしは、この年、ヘリ墜落の数日後、現地にGさんに連れて行ってもらった。そして、アテネの野球の準決勝で日本がオーストラリアに負けた(今も阪神タイガースにいるウイリアム投手のせいです)ことは、なぜか鮮明に覚えているのだが………。それにしても、その二つの記憶が同じ年の記憶として、どうも結びつかないでいる。

当時は、しっかりと心に刻みつけようと思っていたのだと思う。そして、本土ではこの事件の記事よりも、「ナベツネ」辞任のニュースが大きく扱われていたことに、憤っていたはずだ。また、今年も13日を意識はしていた。しかし、記憶というものは、こうして次第に後退していくものなのだろう。

「もう一度」、と思うけれど、沖縄でも記憶が風化しているのだろう。そして、それを必死で防ごうとしている人たちもいる。しかし、普天間基地の移設の問題は他のいくつもの変数をかかえ、説くことが不可能な連立方程式になっていて、あれ以来一歩もすすんでいない。

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2008年8月 5日 (火)

ある沖縄人キリスト者の被占領体験と新しい神学の創造〜仲里朝章の場合〜

はじめに―沖縄におけるキリスト教の概観―

 17世紀、沖縄(当時の琉球王国)に伝来したキリスト教は、その後数度の中断を経て19世紀末から本格的に広まっていく。沖縄の青年たちは日本本土(以下、「日本」)からやってきた少壮の伝道者から多くの感化を受け、次代を担う俊英となった。沖縄学の祖・伊波普猶と弟の伊波普成(ジャーナリスト)、比屋根安定(宗教学者)、比嘉春潮(歴史家)などがそれである。また、後にハワイで牧会の傍ら労働運動を指導した比嘉静観、米国ロサンゼルスで「黎明会」を結成し、社会主義思想に傾斜していった屋部憲伝や宮城与徳などは、活動の場を世界に広げた。彼らは日本のキリスト教伝道史上でもきわめてユニークな存在である。にもかかわらず、日本キリスト教史による研究はほとんどない。
 沖縄戦の最中、それまでいったん中断されたキリスト教伝道は、すでに1945年5月頃、民間人捕虜収容所ではじまっていた。そこでは、米軍のチャプレン(従軍牧師)の協力を得て、生き残った信徒を中心に集会が開かれた。また、1945年8月には、沖縄人自治的組織である沖縄諮詢会が組織され、その文化部長にクリスチャンの當山正堅が就任した。當山はキリスト教による沖縄の復興をかかげて、伝道者に優先的な位置を与えた。また、46年頃には沖縄キリスト聯盟が組織され、それまで信徒の立場で活動をしていた者たちに按手礼が授けられ「信徒の教会」と呼ばれる基礎が築かれてた。
 本発表では戦後沖縄の代表的なクリスチャンである仲里朝章をとりあげて、彼が沖縄戦や米軍占領下での体験を通して、どのように思索を重ねていったかをみていきたい。

Ⅰ.仲里朝章とその時代

 仲里朝章は、戦後沖縄のキリスト教の最も有力な指導者の一人であるだけではなく、優れた教育者であり、農業経済の研究者、思想家、そして、平和運動の推進者でもあった。本章ではそのような朝章の思想形成をたどってみたいと思う。
 朝章は、1891年、沖縄の首里当蔵(現那覇市)の旧琉球王国の士族の家に生まれた(1)。琉球処分から10年、沖縄では清国の力を借りて琉球の再独立を目ざす頑固党がまだ力をもっており、仲里家は日本への帰属に協力する少数派の開化党に属していた。朝章は、1906年に沖縄県立第一中学校に入学し、後の日本共産党の指導者・徳田球一等と級友となる。卒業後、朝章は1911年に鹿児島の第七高等学校造士館に入学する。そこで朝章は偶然にも同宿であったカント哲学者で内村鑑三の門下でもあった天野貞祐(2)の知己を得る。
 1916年には東京帝国大学文学部史学科にひきつづき、同大学経済学部経済学科で学んだ。朝章は、在学中の1921年、友人の比屋根安定の導きで「寂寥感から」キリスト教に接近し、日本基督教会富士見町教会で植村正久より受洗。そして、東京を離れた時期を除いて朝章が沖縄に帰る1939年まで同教会に在籍し、長老として信徒の指導に当たった。
 また、朝章の帝大入学と前後し、家族も旧琉球王家の家扶(3)の職を得て上京した。この東京帝大での6年間、朝章は毎日深夜まで図書館で研究に没頭したという。その研究はその後も続けられ、朝章はその成果をいずれは出版するつもりであったが、収集した資料等は沖縄戦で灰燼に帰したという。朝章は、卒業後3年間長崎で女学校の教師をし、1925年に帰京。私立三輪田女学校に奉職する。この頃、沖縄は「ソテツ地獄」とう破滅的な経済的危機に見舞われており、朝章の研究の主眼は「沖縄救済論」と沖縄の経済的自立への模索であった。また、その研究成果を沖縄出身の在京大学生と分かち合うために1927年に自宅で「耕南グループ」を組織し、沖縄の次代を担う世代のなかにしっかりとした問題意識を育てた。ここに朝章の優れた研究者・教育者としての一面を見ることができる。
 1939年に父親の看病のため沖縄に帰り、那覇市立商業高校の校長に就任。日本基督教会首里教会に属し、日曜学校長を務めた。しかし、太平洋戦争に突入後、戦況が切迫してくるとクリスチャン教師である朝章は県視学(地方教育行政官)や憲兵の監視の対象となった。また、沖縄戦では軍の要請に応え、朝章は教え子たちを鉄血勤皇隊等へ派遣し、結果的に多くの生徒を戦死させている。朝章の長女もひめゆり部隊の一員として戦死した。この時の激しい後悔が戦後の朝章の思想や行動を規定していく。
 1945年6月中旬、朝章は激戦が続く南部の喜屋武村(現糸満市)で米軍の捕虜となり島北部の宜野座村惣慶の収容所に送られる。そこで、チャプレンのハイラー大佐や軍医のルニアン・ワグナーに出会い、彼らの協力で伝道集会や日曜礼拝をひらく。そして、沖縄初の男女共学の中等教育機関として惣慶中等学院(後の宜野座高等学校)を創設した。朝章は教師のかたわら、1947年12月には按手礼を受ける。朝章は専門的神学教育を受けてはいなかったが、日本基督教会の中心教会である富士見町教会で長年長老の任に耐え、戦中には無牧の首里教会で牧師代理を務めた実力があった。こうした経験により育まれた神学は戦後「信徒の教会」として出発した沖縄のキリスト教一つの特徴と言える。
 以下では、その仲里朝章が沖縄戦と米軍による軍事占領で培った「新しい神学」を彼の歴史観、米国観、そして、沖縄救済論の側面からみていくことにする。

Ⅱ.沖縄戦の体験と「国際的平和の島」を目ざして

 仲里朝章はよく観る人であり、よく看る人であった。それは、歴史家の眼であった。
沖縄がようやく復興しつつある一方、米軍政当局が非民主的で横暴な政策を強行していた1957年の4月9日、沖縄キリスト教学院が創設され、朝章はその初代学長に就任する。彼はその開学の辞で同学院の設立の目的を次のように述べている。かつて「太平洋の孤児」と呼ばれた沖縄は複雑で矛盾をはらんだ現実に直面していたが、その沖縄を「国際的平和の島」とするためにはキリスト教の精神を身につけた人材の要請が急務である(4)、と。
 朝章が、沖縄を「国際的平和の島」とするためのモデルと考えたのがスイスやスウェーデン、デンマーク等、小国でありながら高度な「福祉社会国家」を構築している国々であった(5)。また、かつての琉球が、朝鮮半島や中国の終戦諸国だけではなく、広く東南アジア一帯の国や地域と「平和的貿易」を進めていた歴史をふまえて、国際的な交流ができる人材を養成することで「悲運の運命の島を真に解放」しようとしたものである(6)
 第Ⅰ章でも述べたとおり、朝章は沖縄戦で不本意ながら自分の教え子たちの多くを戦死させている。それに対する深い後悔と反省が、朝章をして平和運動へ駆り立てた。朝章は、まだ日本との交通が自由ではなかった1950年8月、比嘉善雄や稲嶺一郎と広島での第1回原水爆禁止大会に参加している。また、賀川豊彦等のかかわった世界連邦運動の主旨に共鳴し、世界連邦建設同盟の琉球同盟を組織する。1951年6月23日には沖縄のキリスト教界だけではなく各界の著名人に呼びかけて「世界平和促進大会」を那覇市で開催した。
 このように、仲里朝章は世界史の研究と琉球史のそれを連結させるという歴史観をもっていた。彼は、その歴史観をもとに沖縄戦で体験した悲劇を再びもたらさぬように、沖縄が大国による保護や日本への帰属ではなく、国際的な連帯を重要視して世界平和を実現していこうとした。

Ⅲ.「理想の米国」像と軍政との対峙

 仲里朝章はよく学ぶ人であり、よく知る人であった。彼は、優れた社会科学者であった。
朝章はこれまでまとまった著作を残していないといわれてきた。彼の死後編まれた遺稿集には沖縄キリスト教会の機関誌に残された十数編の散文が載せられているに過ぎない。しかし、遺族の手元には約270部に及ぶ日記、メモと説教の原稿が残されている。それらから彼の思考の特徴がわかる。まず、朝章の説教用原稿には経済用語や時事用語が多用されている。また、1950年代になると米ソ冷戦を反映し「資本主義」「共産主義」「自由主義」「社会主義」の用語が頻出しており、ワシントン、フランクリン、カーネギー、ワナメーカー、フォード等米国の著名な政治家や経済人の思想が紹介されている。それらの例から朝章は物質主義的思考や利己主義を批判し、欲望にまかせて暴利をむさぼることを誡めている。さらに、朝章は資本主義や民主主義に対して価値を見出していることもわかる。
 このように、朝章はことあるごとに米国の民主主義や経済の発展について肯定的に語っている。また、朝章は米軍の軍事占領に対し先頭に立って異議申立をすることはなかった。しかし、朝章は米軍の理不尽な支配を無条件に容認しているわけではなかった。むしろ、公正で正義を実行する理想的な米国・米国人像を強調することで、実際に沖縄に駐留する米軍政当局や兵士等関係者の行動や思考を批判した。
 沖縄(本)島近海の伊江島で米軍に奪われた土地奪還運動を粘り強く続けた阿波根昌鴻が、キリスト教界に協力を求めた際、沖縄の教会は冷淡であったといわれている。しかし、先の朝章の史料群には阿波根たちの行動について彼が強い関心をもっている記述があり、別所には朝章が収集したと思われる伊江島土地(闘争に関する文書ファイルが残されている。つまり、朝章は米軍政当局の横暴に対して実力で抗議したり、全面的に対決をしたりしないが、米国の建国当時の理想や米国人の良心を紹介することで、米軍と距離を置き、自省と内省を求めるという手法をとっていることがわかる。

Ⅳ.沖縄の自立と「沖縄救済論」

 仲里朝章は、人を育てる人であり、沖縄を耕す人であった。それは、彼が生涯教育者という側面をもっているからであり、同時にいかに沖縄の現状と将来を憂い、沖縄とそこに暮らす人々に対する愛着と愛情の表象であった。
 朝章は1946年、沖縄島中部を念頭に、沖縄戦で働き手を失い子どもをかかえて苦闘する母親のための授産所兼教養・娯楽の場として「母之村」の建設を構想している(7)。この事業は朝章が首里に帰った1949年に実現するが、その趣意書には「村の主は実に救世主イエス・キリスト様なる事」ときされている(8)
 朝章は、青年時代、内村鑑三の「デンマルク国の話」に感化され、デンマーク式の農業研究を重ねてきた。朝章は沖縄の後進性を経済的だけではなく、道徳や倫理にも拡大しつつ、大国に挟撃されている沖縄の地理的状況をデンマークの小国主義と重ねて、沖縄救済への処方箋をたどる道筋を見出していった。朝章は、大国に依存してその分け前に与るという選択ではなく、敢えて自立の道を選んだ。そして、そのような朝章の「沖縄救済論」は戦前の東京時代の耕南グループなどで沖縄の若者と共有された。朝章は、その晩年、沖縄の日本本土復帰を目前にした1972年1月30日に季刊誌『耕南時報』を自ら発刊する。そこには、若者を育て、沖縄を耕す術を模索する朝章の生き方が貫かれている。

おわりに―信徒の生きる場の神学形成を目ざして―

 「沖縄の神学」とはなんであろうか。本報告は、その試論にあたる。
 1879年、実質的に日本に併合されて(「琉球処分」)以降、沖縄の人々が経験してきた近代は、本土との格差からいわれのない差別に晒されることであり、太平洋戦争末期の沖縄戦で破壊であり、その後、27年間にわたる異民族の支配であった。1972年5月15日の日本復帰後も米軍基地は解消されず、それに由来する様々な危険や暴虐に晒されていても日本政府からの積極的な支援はまったく期待できない状態にある。このような事態は、まさに日米両国による沖縄の「再占領」状態といっても過言ではない。
 そのようななかで、沖縄のキリスト者たちは時に米軍の関係者やチャプレン、米国人宣教師、また、本土の教会関係者から支援を受けながら教会形成を続けてきた。そんな専門的神学教育も受けていない沖縄の“信徒あがり”の伝道者に自ら教会を建てていく独自の神学などあるのだろうか。大半の研究者はそのような先入観を抱いているのかもしれない。しかし、沖縄の歴史や現状が過酷であれば、信徒の生活の場であり、伝道の場でもある地域での信徒や教職者による体験や救済への模索からその地域特有の神学が生まれていたのではないかと、報告者は考えている。そして、それはら「解放の神学」や「民衆神学」に通じるところがあるのではないかと考えている。

【註】
(1) 本章での記述は、大城実「廃墟の中から—信徒伝道者の軌跡—」(日本基督教団沖縄教区『27度線の南から—沖縄キリスト者の証言—』(日本基督教団出版局、1971年)に所収)、および、石川政秀「仲里朝章先生略伝」(石川編『仲里朝章遺稿集・伝記』(仲里朝章顕彰会、1974年)に所収)による。
(2) 1884年〜1980年。哲学者・教育者で、戦後は第一高等学校校長や文部大臣を務めた。
(3) 皇族や華族(尚家は侯爵)の家で、家令の下で家務・会計に携わった人の役職名。
(4) 沖縄キリスト教学院大学のwebページ(http://www.ocjc.ac.jp/gakuin/gaiyou/souritu.htm)より。
(5) 仲里朝章「沖縄キリスト教学院開校の辞」(仲里朝章「DIARY」(1952年12月-1959年、手稿))。
(6) 同上。
(7) 仲里朝章「母之村建設趣旨」(1946年5月28日、手稿)。
(8) 仲里朝章「母の村建設の趣旨」(仲里朝章「首里母の村会員名簿」1949年1月14日に所収、孔版)

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2008年7月31日 (木)

明日から釜山。

明日から8月。1日から4日まで釜山に行きます。昨年、春についで2度目。釜山の東義大学校国際館で、東アジア宗教文化学会の創立記念国際学術大会が開かれ、それに出席するためです。

わたしは、この学会で研究発表をします。演題は

ある沖縄人キリスト者の被占領体験と新しい神学の創造
          ─仲里朝章の場合─

初めて、キリスト教史ではなくて、思想史っぽいことに挑戦しています。戦前、日本基督教会富士見町教会で植村正久から受洗し、その薫陶を受けた教育者である仲里朝章。仲里が沖縄戦を経験し、米軍の占領下にあって伝道者として建っていく中で、その困難な状況のなかで独自の神学や思想を産み出していったことを何とか伝えられたらと思います。多分、研究者の多くは、沖縄などに独自の神学があったなんて思っていないでしょうから。

6月中に報告のための原稿を提出しており、それを、日本、韓国、中国の留学生等で翻訳が行われ、当日それらが配られます。また、今月中旬には、急遽、韓国の院生の発表の指定討論者に指名されましたので、発表を日本語で読んで、コメントをします。

わたしの報告に対する指定討論者は韓国在住の日本人(?、だと思う)です(原則は日本人の発表者には韓国か中国の研究者が指定討論に立つのですが………)。そのコメントが昨日届きました。さて、日本人は案外沖縄のことを知りません。韓国や中国の研究者はなおさらです。届いたコメントを読んでいると、若干、相手方に理解不足のところがありました。それも、しかたのないことかもしれません。

わたしの使命は、沖縄のキリスト教のこと、教会のこと、キリスト者のことを世界中のなるべく多くのひとに理解してもらうことです。

会期中にはフィールドワークもあります。わたしが関心をもっているのは、鎮海にある海軍士官学校で「軍隊と宗教」に関する見学がることです。これは、占領下の沖縄のキリスト教を先行しているわたしにとっても、とても、興味があります。

さて、今回は、どんな出会いがあるのでしょうか。

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2008年7月19日 (土)

沖縄、狙い撃ち

そのお粗末な内容に、わたしは半ばあきれてしまった。だから、買ってまで、また、借りてまで読む価値がないと思うので、敢えて誌名を書かないでおくが、ある月刊誌の8月号に、沖縄戦の「集団自決」に関する、まったくひどい特集が組まれている。

なにがひどいかという、まず、数人の執筆者が同じ雑誌にいくつもの記事を書いている。これは、物書きとしてのモラルの問題であろうし、この問題に関して「軍命がなかった」と強硬に主張する人材の払底を露呈している。加えて、かつての別の号や雑誌等での記事の重複だけではなく、同一誌のなかに同じ内容がくり返されている。よっぽど、「攻撃材料」に困っているのだろう。そりゃそうだ。もともと、無理な立論なのだから。

それでも、いくつか「目新しい」内容がないわけでもないが、それがかえって執筆陣の焦りを著していると思われる。そのなかには、すでに言いがかりとしか思えないお粗末な記事もある。

そのひとつは「S日報(T協会(教会)の下部組織が発行している新聞)編集委員」のKM氏の記事である。K氏はこれまでも著書や数々の証言で自ら肉親を手にかけてきたことを告白し、「集団自決」において日本軍の軍命があったと明言されてこられた金城重明氏ことをを殺人者であり、嘘つきであると断じている。

その手法は、背景をよく知らない者に説得力があると思わせるような、巧妙な詐術が含まれている。K氏の手法は、金城氏の数々の証言や文章について、文献のみを詳細に検討し(重箱の隅をつつき)、自らの論に都合のいいところだけを全体の文脈から切り離して井雲のであり、それらのK氏がいうところの「事実」と「事実」の間を悪意にみちた推論や邪推でつないでいくというものである。

それから、この記事を読むかぎり、K氏は金城氏に一度も直接取材をした形跡がない。取材そのものをしていないのか、直接話しをきいたけれどもその内容が載せられなかったのか、また、法廷等でその証言を直接聞いたのは判然としないが、ともかく、自分が徹底的に批判しようとする人物に対して、可能であるのに直接取材をしていない(または、そのさいの出来事を公表しない)ことは、ジャーナリストとして杜撰ではなかろうか。

以上、詳細に検討することも時間の無駄と思われるような代物であるが、しかし、このままなにも表明しないでおくと、この世界(ネットの世界)でもそれが「事実」として定着されかねないので、一言、書いておく。

人間、取り返しのつかないことをしてしまったときにでも、その後も人生を生きていかなければならない。改心したと言っても、許してくれないひともいるだろう。また、神様は、はっきりと許したという意思表示をされるものでもない。「贖罪」ということばは、とても重い。金城重明氏にはこの件とは別の件で何度か一対一でじっくりお話しを聞いたことがある。氏は、その時も、そして、今でも贖罪の日々を生きてこられている。

そのような人物に正対せず、背後から脳天を打ち抜こうとする輩がこの世にはいる。そして、その輩は、ひとの志を踏みにじることで、いったいなにを守ろうとしているのだろうか。

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2008年6月23日 (月)

沖縄の「戦後」〜6・23を考える。〜

きょうは、沖縄戦の慰霊の日。慰霊したり、供養したりするためには、日を決めて、年にいっぺん………。ということなのだろうが、この日に沖縄の戦闘は終わっていない。そして、この2か月余り前に戦争が終わっていたひともいる。

最近、調べている仲里朝章(沖縄キリスト教会理事長、沖縄キリスト教学院初代学長などを歴任)という人物は、この日の4日前、「三和村喜屋武」(石川政秀編『仲里朝章遺稿集・伝記』(仲里朝章顕彰会 1974年)所収の年譜の通り。「三和村」は戦後誕生し、現在は糸満市。かむじゃたん氏のコメント参照のこと)で米軍の捕虜になり、北部の捕虜収容所(宜野座)に送られた。

これで、彼と彼の家族は戦場から離脱したわけだが、当時校長を務めていた那覇市立商業学校の生徒を多数戦場に送り、娘の光子さんはひめゆり学徒隊として家族と離れ、落命した(光子さんはその後靖国神社に合祀されていることがわかり、御遺族の仲里朝治氏(朝章の息子さん)は訴訟を起こされている。このことは、ここにご自身が記されている)。

だから、だからそれで戦争が終わったというわけではない。 さて、朝章は、宜野座地区惣慶の収容所に滞在中チャプレンの誘いで伝道集会をはじめる。つまり、南部では激戦が続いているなかで、北部ではすでに「戦後」がはじまっており、そこでは礼拝や受洗式などが日常的に行われていたのだ。

朝章は、惣慶で収容されていた男女学生をあつめて戦後初めての共学中等教育機関である惣慶中等学院(後の宜野座高校。同校の校歌は朝章の作詞)を設立し、教育に携わる一方で、周辺に精力的に伝道活動を行ったという。

この件は、また、詳しく書こう。

いずれにしろ、片方では激戦が続いているなかで、他方では収容所に入れられ自由は奪われているが、衣食住が与えられ、礼拝が開かれているというような状態。いくつもの異なった局面が同時に進行しつつあったのが、沖縄戦の特徴である。 したがって、この6月23日は、そのような特徴を覆って、慰霊と供養のために区切りをつけるのである。

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2008年5月15日 (木)

〔遅報・学会発表要旨〕一九四〇年代後半の沖縄教会〜新たに発見した史料から見る〜

本発表は、二〇〇八年九月のキリスト教史学会大会で行う研究発表のための予備的な報告である。

一九四〇年代後半の沖縄キリスト教史を叙述するとき、二次文献をもとになされる傾向にある。そして、それらの叙述は史料批判や複数の文献による検証作業がじゅうぶんになされないまま、通説化している。

ところで、当該期の史料については一次史料で現存しているのは以下の三種類が考えられる。

①政府・行政文書(米占領軍や沖縄人民政府組織の公式文書)。
②新聞・雑誌・パンフレット類。
③当事者の手記、日記、メモ類。

この内、報告者は②については沖縄の諸新聞と断片的ながら米軍やハワイ移民社会等で発行されている新聞も調査した。また、①についても、沖縄諮詢会・沖縄民政府等の文献、占領軍政関係文書の調査を継続中である。今回分析の対象としたのは、新たに発見した③の史料である。報告者はすでに複数の人物の手になる手記・メモ類についてアプローチをしている。また、公刊されている沖縄系米国人(主に、ハワイやロスアンジェルス在住者)や沖縄戦に従軍した米兵の手記等をいくつか発見し、なお調査を継続しながら、既発見史料の分析を行っている。

それら新史料で、いくつかの新しい事実が判明した。その一つは、沖縄戦の最中からはじまった初期占領体制におけるチャプレン(従軍牧師)の役割である。米軍の「第十軍行動報告」によると沖縄戦時に派遣されたチャプレンはハワイ等で充分な教育と訓練を受けた上で、太平洋の諸群島で経験を積んで派遣されたこと分かる。彼らは沖縄戦に参加し、一九四五年五月頃から米軍の占領地の民間人捕虜収容所で集会を開き、六月には洗礼式を行っている。沖縄キリスト教の「戦後」は、この頃すでにはじまっていたといえる。

同年八月の沖縄諮詢会発足により、沖縄教会やキリスト者と占領軍、あるいは、チャプレンとの関係も変化する。当時の沖縄人関係者の手記には、クリスチャン米兵やチャプレン、「宣教師」などとの交流が好意的に描かれており、以後の沖縄教会と米国のキリスト教との関係の原型が形成されていたことが示唆される。

また、この時期の伝道者は沖縄諮詢会・沖縄民政府の文化部職員として準「公務員」的な待遇で伝道活動をしていたということが定説になっている。ところが、当事者の手記によると、当時の牧師・伝道師の生活は貧しく、信徒からの寄附(食料等の現物支給)の記事が頻繁にある。また、四八年頃には沖縄キリスト聯盟(以下、「聯盟」)理事会で伝道者の給与についての予算審議が確認され、聯盟理事長の秘書には俸給の支払いがなされている。このことから、上記の説は今後詳細な検討がなされなければならない。

それから、聯盟の性格や活動についても実態の解明が進んだ。まず、その創立年月日は、従来、四七年二月六日とされてきた。しかし、今回発見した史料によると四六年には聯盟の活動記録がないが、四七年になると三月二〇日に総会が開かれて以降、ほぼ一年に一度総会が開催され、二か月に一度理事会が開催されていることから、四七年一月九日結成説の信憑性が高いように思われる。また、その組織についても従来は教派・教団ではなく、伝道者の互助会的組織であるといわれているが、上記の総会・理事会の内容からして不完全ながらすでに教団としての体裁を整えていたのではないかと思わせる。

こうした定説化(神話化?)が行われてきた背景には、沖縄教会の内部に米軍の占領体制に対してスタンスや距離の取り方に違いがあり、それにより各々の歴史的評価も違うこと挙げられる。それに加えて、研究者自身に、「沖縄戦を経験し日本の教団から切り離された沖縄教会が戦争直後に独自の教会形成をできる訳がない」といったような先入観もあり、結果的に沖縄教会の独自性に対する評価が低く見積もられてきたことがなかったか。そのことについても、自戒の念を込めながら、中止していきたい。

その他、教役者会や「YMWCA」等の組織についても次第にその活動の輪郭がつかめてきた。こうした「事実」をひとつひとつ検証していくと、従来、公的な文書やキリスト教内部の公式文書に記載されてきた一九四〇年代の沖縄教会の実態とは違った歴史像が浮かび上がってきた。今後、更にそれらの史料を精査し、この時期の沖縄キリスト教史の全体像の把握に努めたい。

(「キリスト教史学会 第2回関西支部会」(2008年 3月 8日、於関西学院大学梅田キャンパス)での研究発表要旨。『キリスト教史学』第62集(2008年7月)掲載予定)

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〔遅報・学会発表要旨〕国家、地域、教会〜沖縄キリスト教をめぐる二つの国家と地域社会〜

沖縄キリスト教史において「国家とキリスト教」という問題を措定すると、日本本土(以下「日本」)の他地域のそれとは異なった課題が生じる。近代以降も、沖縄は日本とは違った経験してきた。また、日米の二つの国家に挟撃される沖縄の位置を考慮すると、そのキリスト教史を自立的に論ずるならば、国家とキリスト教、あるいは、国家と教会との間に、地域社会を中間項に設定しなければ、そこで生じた歴史的事象をとらえきれない。

それを前提に米軍占領下の沖縄キリスト教史を粗描するならば、その構成要素は、①沖縄人(地域住民、キリスト者)、②米国人(米軍人・軍属とその家族、チャプレン(従軍牧師)、米国人宣教師)、③日本人(国民、日本の教会関係者)の三者が考えられる。そして、それぞれがそれぞれの思惑で思考し、行動する過程で、国家意思がどう実行され、貫徹されていったか、その解明が課題となる。

ここに沖縄における教会形成と国家の関わりを示す興味深い資料がある。『キリスト教年鑑』二〇〇七年度版によると、沖縄県の教会は三三〇余り、信徒数は約三九,〇〇〇名で、県人口の二.八二%が教会員となり、日本の他の地域に比べて三倍近くになる。さらに各地域別に教会数・信徒数・対人口信徒比を見ていくと、沖縄キリスト教のある特徴が鮮明になる。教会と信徒は人口分布通り、約九割が沖縄島に集中している。ところが、沖縄島でも米軍基地が集中している中部地区には、県都・那覇を含む南部よりも人口が少ないにもか拘わらず沖縄全体の四三.二〇%の教会が集中し、信徒の割合は三.七六%にもなる。これは全国平均の四倍弱である。さらに、中部地区の教会はペンテコステ系やいわゆる「福音派」系の教会が多いことがわかる。

これは、単なる偶然ではない。発表者の聞き取りによると、中部地区の「福音派」系諸教会のいくつかは、米軍基地に頻繁に出入りでき、基地内の信徒やチャペルで交流をもっているという。また、このような「福音派」系諸教会には積極的に平和運動を行っている教会もあるが、それでも米軍批判の言動はあまり聞こえてこない。沖縄におけるキリスト教人口と教会の偏在は、米軍の駐留との関連を想起させる。そして、そのような関係は、日米両国の圧力により歴史や政治の矛盾が沖縄地域社会に収斂した結果でもある。このように、駐留軍が、国家意思に基づき牧師や信者、教会を通して沖縄地域社会に自らの有用性や友好的姿勢を顕示するとき、沖縄の教会は自ずと二分されていく。

本報告では、そのような沖縄教会の現状をふまえて上で、沖縄教会と国家の関わりを省察するために、チャプレン(米軍従軍牧師)と宣教師(団)の実態とその役割について考察した。

その結果、以下のことが明らかになった。まず、一九五〇年代に本格化する米国人宣教師による沖縄伝道は沖縄占領軍や東京のGHQの奨励と支援の元で実現された。そのような宣教師は、多くの場合、米軍の沖縄駐留には肯定的で、なかには沖縄の基地外で「英語教会」と称する米国人の教会をつくり、それらを背景に沖縄のキリスト教界に大きな影響力を及ぼそうとした宣教師もいた。

また、一九六〇年から七〇年にかけて、在沖米軍基地には二〇余りのチャペルがあったが、そこで牧会にあたっているチャプレンは、牧師であると同時に現役の将校でもあった。彼らは、時に、兵士たちを軍の意向にそって教導し、監視したりもした。また、チャプレンは最寄りの教会の牧師や信徒を通じて沖縄の地域情勢に関する情報を入手し、占領軍当局の意向をそれとなく地域住民に伝えるように促した形跡がみられる。

このように、沖縄在住の米国人のキリスト者、つまり、宣教師やチャプレンたちは程度の差はあれ米国の立場を擁護する役割を担っていた。そのため、沖縄の地域住民にとっては、キリスト教は米国の宗教であり、米軍の宗教であるという認識が強く、沖縄教会は地域社会で伝道する際に米国や米軍の動向に配慮せざるを得なかったのである。

米軍基地の駐留を巡りつねに分裂を余儀なくされている沖縄地域社会と、伝道する際に地域社会の亀裂を無視できない沖縄教会の「現況」は、こうした環境下で形成されているといえる。

(「キリスト教史学会第58回大会」(2005年 9月15日、於恵泉女学園大学)での研究発表要旨。『キリスト教史学』第62集(2008年7月)掲載予定)

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4つ、それぞれの「返還」、そして、「復帰」

以下は、戦後米軍の占領下から日本に「返還」(それぞれから見れば「本土復帰」)された4つの地域(諸島)である。

(1)1952年 2月10日
(2)1953年12月25日
(3)1968年 6月16日
(4)1972年 5月15日

これらに先だって、1952年4月28日、「日本本土」は独立を回復した。因みにこの日は沖縄にとって、そして、恐らく他の3つの地域でも日本本土から切り離され、日本に切り捨てられた日として記憶されている。

さて、(4)は36年前のきょう。沖縄が「日本本土」に「復帰」した日だが、他の3つの日は人びとに36年前のきょうほど記憶されているだろうか。

(1) トカラ諸島
(2) 奄美群島
(3) 小笠原諸島

奄美では激しい復帰運動があった。小笠原では戦時中一般の住民は強制的に退去させられていたが、戦後しばらくして欧米系の島民(100数十名程度)に限り帰島が米軍より許可された。しかし、他の住民は「復帰」まで帰島が許されなかった。

最近、「芸域」を広げるため、また、軽度の「島フェチ」のため、小笠原のことを調べはじめている。小笠原になぜ欧米系の住民がいるのかについては話せば長いことになるので、ここでは省略するが、小笠原には他にも「南洋系」の住民もいる(いた)。

さて、「5・15」を記憶している人、そして、この日がどんな日かを知っている人は沖縄でも減っていると聞く。しかし、「2・10」や「12・25」、「6・16」について知っている人が、当事者以外にどれぐらいいるだろうか。そして、それまでの過程でどのような苦闘があったのか。それも、恐らく忘却されつつある。

「島フェチ」・「辺境人」として、沖縄に限らず、これらの地域についてもこれから少しずつ調べて行きたい。また、その先に、旧植民地等に視野を広げて行けたらと考えている。

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2008年4月26日 (土)

次回の学会発表

「宗教と社会」学会第16回学術大会(於南山大学、2008年6月14日、15日)で、下記の研究発表をします。

その他にも、新設学会へのお誘いもあり、その他にもう一つ学会に入ろうと思っています(これは、わたしにとっては初めて「日本」という国家名がついた学会です)。可能であれば、どちらかの学会で研究発表をしたいし、9月のキリスト教史学会でも研究発表をしたいと思います。

他にもいろいろ多忙ですが、何とか頑張ろうと思います。

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【発表趣意書】「軍事占領とキリスト教
       ─1940年代後半の沖縄における教会形成史の研究─」

 『キリスト教年鑑』(2007年版)によると、沖縄県の教会数は338(教派等の本部を含む)。信徒数は38,678人、県全体の人口の2.82%を占めている。沖縄県のキリスト教徒の割合が他よりも高いことはすでに知られている。しかし、教会、および、信徒の地域分布をみると、以下のように興味深いことが分かる。沖縄県の教会と信徒の9割以上は沖縄島に集中しており、これは沖縄県の人口分布とほぼ一致している。ところが、沖縄島では、人口の多い県都・那覇市を含む南部地区よりも、中部地区の方が教会数・信徒数とも多くなっている。また、信徒の対人口比でいうと、南部地区2.39%、中部地区3.76%で、中部地区の方が約1.5%も多い。

 一方、信徒対人口比では、宮古諸島でも1.89%、八重山諸島でも2.08%といずれも日本の他地域よりも高率である。これらの地域は、沖縄島の都市部よりも沖縄独自の宗教性が色濃く残っている。したがって、沖縄のキリスト教徒の割合が高いのは沖縄人の独特の宗教性によるという説は一定の合理性を持っている。しかし、それだけでは、都市化が進んでいる沖縄島南部地区に教会や信徒が集中しており、それ以上に中部地区に集中が見られることの説明がつかない。中部地区には多くの米軍基地が集中している (同地区の全面積の25.82%は米軍基地によって占められている)。このことは、戦後、再開された沖縄のキリスト教伝道が絶対的支配者である米軍の影響を強く受けており、現在でもそれが持続していることを物語っている。そこで、本報告では、沖縄のキリスト教に対する米軍や米国のキリスト教の影響に着目し、その原点である1940年代後半の沖縄のキリスト教や教会形成を分析の対象とする。

 これまで、1940年代後半の沖縄キリスト教史に関する文献史料はほとんどないとされてきた。しかし、当時の関係者が記した手記は未発表のものを含めていくつも存在するし、聞き取り調査も辛うじて可能な状態にある。加えて、占領軍と沖縄人の統治機構内の文書、新聞等々にキリスト教会に関する記述は散見でき、沖縄占領に参加した米軍兵士(沖縄系米国人等々)の手記も存在する。このように従来の研究で触れられてこなかった史料を活用すると、以下のような軍事占領下沖縄のキリスト教の実態が明らかになる。

 沖縄のキリスト教の戦後は、1945年の5月頃にはじまる。この時期、日本本土(以下、「日本」と表記)では空襲が相次ぎ、沖縄では嘉数高地や前田高地で日米両軍による死闘が続いていた。しかし、米軍の占領地であった北中城の島袋の民間人捕虜収容所では米軍のチャプレン(従軍牧師)によるキリスト教の伝道が開始され、6月には洗礼式が執行されたとの記録が残っている。こうして、沖縄戦で生き残った沖縄人信徒と米軍チャプレンやクリスチャンの米兵との出会いがはじまり、キリスト教の集会が形成された。そして、そこに未信者が集まるようになり、次第に教会が形成され、戦争により一時中断していたキリスト教伝道が再開される。

 当時、生き残った沖縄の地域住民は「集団自決」や日本軍による虐待を体験し、戦後は解放軍であったはずの米占領軍の暴虐に曝され、「戦果」や「体当たり」で糊口をしのぐ者もいた。この沖縄キリスト教の再出発を、あるキリスト者は「戦火によって焼きつくされた島における、砲火の洗礼を受け、国から見はなされ、異民族による軍事支配下に生きねばならない人たちの新しい、しかし希望を否定された歴史の始まりであった」と評した。本報告では、その含意をくみとりつつ、新しい史料を読み解くことで、従来の研究や通説化しつつある伝承について批判を加えながら、軍事占領というある種の例外状況下でキリスト教が果たした役割について明らかにしたいと考えている。

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2008年3月28日 (金)

さあ、これからの、長い、長い道のり〜岩波・大江「集団自決」訴訟〜

きょうは、早朝から京都行き。まさに、きょう、地裁の判決が出る『沖縄ノート』などをめぐるいわゆる岩波・大江「集団自決」訴訟のことは頭にあったが、日本基督教学会関西支部会の集まりに出かけた。まだ未加入の学会なので親しい知り合いは皆無。入会しようとしたが、紹介者がないのであきらめた。誰か紹介者になって下さい。

さて、その休憩中、沖縄の友人からのメッセージで今回の訴訟の“勝訴”を知った。帰って、沖縄の新聞のWebをチェックすると………

岩波・大江「集団自決」/訴訟『集団自決』軍が関与 岩波・大江訴訟」(『琉球新報』)
元隊長の請求棄却/「集団自決」訴訟軍命に真実相当性/大阪地裁『深く関わった』」(『沖縄タイムス』)

とある。

私事だが、大江健三郎氏は、わたしの高校の先輩。それだから、応援していたわけではないが、ともかく、一区切りついたようだ。それにしても、大江氏、だいぶん老けたのだろうか。

さて、原告は、無論、控訴するという。確信犯だから。これからも、息の長い、闘いになると思う。新聞やテレビの報道で金城重明さんが出るたびに、お元気なのだろうかと案じる。今度沖縄にいったら、是非、お会いしたいものだ。

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2008年3月21日 (金)

思わぬ出会いが………

きょうは、昨日のYさんにご教示を受けた文書を探しに、浦添市立図書館に。昨年末、いった西原町立図書館もそうだが、沖縄の市町村立図書館はそれぞれ個性的なつくりになっている一方で、郷土資料、沖縄学のコーナーが必ずある。

調べものは思いの外難航した。Yさんの記憶が曖昧で、教えて頂いた書名のキーワードがだいぶん違っていた。しかし、図書館のレファレンス室の職員の方のアドバイスで、「沖縄学」コーナー(2階)を探していると、Yさんのいわれていたものらしい文献に行きあたった。そして、必要事項をコピーして、申請用紙を「沖縄学」コーナーの職員に提出した。すると、

(職)沖縄のキリスト教についてブログを書かれているI先生ですよね。

(わ)はい、そうです。

(職)ブログ、拝見しました。

(わ)そうですか。それはどうもありがとうございます。

というような会話をして、名刺を交換した。Iさん、ブログ、読んで頂いてありがとうございます。

そのあと、このブログにちょっと書いていた沖縄の新聞に掲載されていたキリスト教関係記事のデータベースについての質問を受けた。このほかにも、わたしは自分の研究のために幾つもデータベースをつくっている。今つくっているのは、これまで収集した資料の記述のデータベースをもとにした、1940年代後半、米軍占領体制の発足期に当たるの沖縄のキリスト教の年表である。

それにしても、思いがけない出会いに、びっくりしています。それと同時に、こうして、今もどこかでこのブログを四手いただく方がいることを認識することで、これからもいい加減なことはかけないなぁと感じています。

さて、きょう行き当たった文献は『地方自治七周年記念誌』(沖縄市町村長会、1955年)。

「第一部 記録篇 文化」の「宗教」項には、仏教とキリスト教の戦後略史と当時の現況ニツイテの記録があった。そこでの気になる記述をいくつか。

先ず、戦後の仏教のことについて、わたしはほとんど知らない。1947年、「石川市の旅館で、沖縄民政府文化部の主催で第一回宗教家会議が開催され」とある。これについては、『うるま新報』の同年1月17日に「宗教協会生まる」という記事がある。この会議では、「当局」から、仏教とキリスト教が敗戦後の道徳上の問題について一致協力要請せいされていたが、「キリスト教伝道師の中の二、三人が『キリスト教を以て沖縄の国教とすべし』と提案したためにこの会合は失敗に終わった」とある。

1946年、仏教とキリスト教を中心に宗教連盟を結成する構想があったといわれているが、結局挫折している。翌年にも、このような会合が開かれたのだが、その間の事情はキリスト教側からの史料では余り見えてこない。その他、1949年に沖縄仏教会が護国寺で再組織。1951年、沖縄仏教会と沖縄キリスト教会(原文には「キリスト教連盟」とあるが、これは誤り)が主体となり「沖縄平和連盟」が結成され、「世界平和促進に協力」とある。1952年5月、仏教会とキリスト教会主体となって「沖縄救癲教会を創立」とある。

こうした仏教との協働の取り組みは、キリスト教会側の史料では、どういうわけか、余り記述がない。これは、米軍による占領下での両宗教の関係を象徴しているのかも知れないと感じた。

それから、キリスト教関係の記述についてもいくつか気になったことがあった。キリスト教に関しては、沖縄キリスト教会、バプテスト教会、沖縄聖公会、セブンスデー・アドベンチスト教会、カトリック教に分けて記述されている。沖縄キリスト教会の記述については、1940年代後半はほとんど當山正堅のキリスト聯盟とであるという印象がある。

以上。詳細については、またの機会にしたい。

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2008年3月20日 (木)

沖縄のキリスト者〜その、いくつもの顔〜

夕方、ホテルに帰って、朝買った『琉球新報』に目をとおすと、「『殺され、なぜ殉国死』 沖縄戦犠牲者の合祀批判」という記事の写真に、たったいままで話をしていた人の苦渋に満ちた顔を見た。向かって左から2目はNさんだ。

Nさんは、見るからに篤実なクリスチャンである一方、ご夫婦とも社会問題に高い関心と見識を有している方でもある。そのNさんは2002年に今回と同様の訴訟を起こす。Nさんの姉上のお一人M子さんは、沖縄戦で「ひめゆり部隊」の一員として伊原第三外科壕でなくなられている。M子さんはその後1955年に家族の了解なしに靖国神社に合祀されたという。この間の経緯は、Nさん御自身がその訴訟でしめされた「原告意見陳述書」に詳しい。

そして、Nさんの信仰に基づいた思想と行動は、Nさんのお父上のそれと繋がっている。だから、Nさんの語る姿はとてもおだやかなのだが、揺らぎがない。

その一方で、きょう、Yさんという信徒と面会した。彼のお父上も、Nさん同様、戦後沖縄のキリスト教伝道草創期を支えた牧師の一人である。Yさんは、日本キリスト教団ではない別の教派の信徒だが、沖縄の他のクリスチャン同様、他教派の事情には関心があるらしい。それで、教団のN中央教会のあららし牧師の人事や、自家用車の横っ腹に反基地のスローガンを書いている牧師のことを指して、牧師が沖縄の社会運動や政治問題に関わることに疑問をしめされた。

Yさんの考え方はわたしの考え方とは違っていて、わたし自身はどちらかというとNさんの考えに近い。しかし、Yさんの考え方もアリで、決して頭から否定すべきではないと思う。そう感じたのは、ここ数ヶ月のYさんとのやりとりからだ。Yさんは、Yさんなりに、信仰にかけて、筋を通そうとして上司と常にぶつかっていたお父上のことを、非常に親愛を込めて、肯定的に評価されている。

教会や牧師、信徒の社会運動や政治運動に消極的で、常に聖書の御言葉を生活の基盤として、絶えずそれを口にしながら、それに忠実にあろうとする信徒は、沖縄に多い(社会運動や政治活動に熱心なキリスト者が、聖書を軽んじているということはないのだが)。そのような信徒でも、やはり、抑圧や権力の横暴には敏感で、権力や権威とは距離をとりながら批判するところは批判している。

わたしは、Nさんのような仕草や表情が作れるキリスト者になりたいと思う。だからといって、Yさんの信仰を否定したりすることはできない。そんな権利はないのだ。

さて、明日は、どんな沖縄のクリスチャンやノン・クリスチャンに出会えるのだろうか。

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2008年3月19日 (水)

雲の上を行く

午前中神戸空港を経って、昼すぎに那覇空港に着いた。途中、荒天から雲の上にでるまでは少し揺れたが、厚い雲を抜けると安定した。しばらくすると機長のアナウンスがあった。

当機は、ただいま鹿児島の東の上空を通過中です。…(中略)…当機は、現在、高度約38,060フィート、11.6km、対地速度時速約750㎞で航行中です。

高度を「㎞」で聞いたのは多分初めてだと思う。「11.6㎞かぁ。『㎞』でいわれると、実感が湧く」と妙に感心しながら、窓の外に目を落とすと、真っ白い雲のフカフカのジュウタンが広がっている。しばらく、その白さと、なめらかさに目を奪われていると、直に妙な気分になってきた。窓の外の景色が全く変化しないので、乗っている飛行機がまるで止まっているような錯覚が襲ってきた。しかし、現実には、この飛行機は「対地速度時速約750㎞」の高速で那覇に向かって南下しているのだ。

その美しい風景と不思議な感覚にひたる中、ボンヤリとこれからの研究のことを考えていると、飛び立ってから現在までのことが、いまの「沖縄戦後キリスト教史」研究についてのわたしの歩みと重なって感じられた。約10年前、この研究をはじめた時、つまり、滑走から離陸の時には、ほとんど先行研究もなく、手探りの状態が続いた。しばらく沖縄に公文書館や図書館、沖縄教規資料室に通い詰めて来る日も来る日もあるかどうかも分からない「史料」を探していると、このまま目的地に到着することはないのではないかという感慨にいくどともなく襲われた。つまり、教の荒天で喘ぎつつ、ふらふらしつつ、エンジン全開で上昇するこの飛行機のようだった。

そして、今。「見つからないのでは………」という焦燥感は消えたが、かわりに、やってもやっても進んでいるように感じられない新しい感覚に捕らわれはじめている。

でも、心配は無用。の様な気がする………。飛行機は次第に高度を下げ、雲の中に突入すると、とたんにがたがたと揺れはじめた。そして、また急速に高度を下げると(「嘉手納ラプコン」のせい)、鉛色の海が見えはじめた。そして、10数分。那覇空港にランディング。

きっとそうなのだろう。これから、もう一山あって、次第に研究の最終地点が見えてくる。曇り空だが、雨は降っていない、暖かい那覇の街を歩きながら、そう思った。

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2008年3月16日 (日)

「集団自決」を心に刻んで

証言沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか (岩波新書 新赤版 1114) Book 証言沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか (岩波新書 新赤版 1114)

著者:謝花 直美
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

わたしとほぼ同世代の沖縄タイムス編集委員の著作だ。戦後生まれの著者が、「慶良間諸島へ毎週通いながら取材を重ねた」(p221)結果生まれた貴重な証言集である。これほどはっきりした証言があり、しかも、複数の証言の中にはそうとうの共通部分があり、それぞれが、違った立場、違った状況下でしている証言だけに、併せて読むと、より立体的に歴史的事実が浮かんでくる。

こうした「事実」がありながら、文書の不在を根拠に、今ごろになってその「事実」を否定しようとする者たちがいる。

沖縄戦の真実と歪曲 Book 沖縄戦の真実と歪曲

著者:大城 将保
販売元:高文研
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ここには、教科書検定の際の「集団自決」記述をめぐってのできごとと大江健三郎と岩波書店が元軍人とその遺族に訴えられた件の顛末が詳しく書かれている。ここには、沖縄戦での「集団自決(強制的集団死)」への日本軍の軍命・関与を否定するために、どのような問題の矮小化と詐術が、どのような場で行われたのかが詳述してある。つまり、「集団自決」に関する訴訟を起こし、それを理由に教科書検定を“後退”させる。このような試みは、従軍慰安婦や南京大虐殺を否定する主張を展開する時にも用いられたもので、それらを否定しようとする人脈は、繋がっているというのである。このようなことは、一部では周知のことであったが、本書で、認識を新たにした。

軍命は必ずしも文書で伝達されるものではない。わたしは以前沖縄に侵攻した米軍が日本軍から押収した「公式文書」群をマイクロフィルムで見たことがある。そこには、ありとあらゆる(と思われるほどの)命令書が前戦の部隊と司令部との間に交わされたことが見て取れた。弾薬・糧秣等々の要求と補給、 進軍計画などが細かく報告され、指示されていた。それをみながら、わたしは、戦争とは一面で、官僚機構による行政的な行為であることを知った。

しかし、だからといって、「集団自決」を命ずる軍命が、それらの文書群に存在しないことを根拠に完全に否定されるわけではない。それに加えて、軍の関係文書の大半は敗戦前後に破棄されていると見られる。自ら破棄したものを、あるいは、同じ勢力が破棄したことを確信した上で、“それ”はないと主張し、「真実」は隠蔽し、「事実」を歪曲する。

さて、謝花氏の地味だが粘り強く継続されてきた聞き取りと、それを可能のした氏の誠実さが閉じられた心を開いたことを、思う。わたしたちは、聞き取り調査の技能を一層磨き、その成果の社会への還元について真剣に考えたい。

この19日から沖縄へ行く。今回の調査の目的は「集団自決」とは別のところにある。しかし、わたしが研究の対象と指定戦後の沖縄の人びとは、多かれ少なかれ、「集団自決」や日本軍による虐殺、そして、米軍支配の暴虐を体験した人であることは、しっかりと心に刻み、調査にのぞみたい。

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2008年3月 9日 (日)

聞き取りは、史料としての価値があるのか〜ある大学院生の問いに答えて〜

きのう、一(大)仕事終わって、きょうからからしばらく東京です。

きのうの仕事というのは、キリスト教史学会関西支部会での研究発表でした。わたしの報告は、「1940年代後半の沖縄教会─新たに発見した史料から見る─」。戦後沖縄キリスト教史研究で、11940年代の史料これまでほとんどないといわれてきました。しかし、その壁を何とか突破しなければ、その後の歴史も描けないと思っています。

そして、一生懸命探したら史料はけっこうあったのですが、それでもそれが充分に使えないこともあります。その理由はいくつかありますが、現代史はまだ歴史になっていないということが最大の問題です。わたしたち歴史の研究者の仕事は、公表されている事実ばかりではなく、隠されあり、忘れ去られていたりしている事実を幾つもつなぎ合わせて、それらを歴史の文脈に位置づけていくことです。その過程で、いままで顧みられなかった事実を明らかにすることもできるし、時には卑しめられ、貶められている方々の汚名を結果的に雪ぐこともできるのです。

しかし、その一方で、わたしたちが明らかにした事実で、忘れたいと思っていたことが思い出されたり、人を傷つけることになったりすることもあります。特に、論争があったり、対立があったりする事実については、その歴史的評価に公平性を保証しようとすればするほど、そのジレンマは高まります。そして、それは、研究者だけではなく、現代史の場合、それぞれの立場に立った当事者やその遺家族ならば、より強く感じることではないかと思うのです。

わたしが、正に先述の壁を前にして直面しているのは、このようなジレンマです。ちょっと立ち止まっているのですが、でも、何とか歩いていこうと思っています。

さて、その後の懇親会で、某大学の神学部の院生(4月から牧会の現場に出るそうです)からこんなことを聞かれました。

聞き取りの史料って、史料的な価値があるのですか?

わたしの今回の報告は、公刊され、それを研究者が検証しないでそのまま引用することで一種の権威がつけられた“事実”を正しく批判し歴史に位置づけるために、そこで批判されたり、無視されたりしている“事実”を他の未刊行の史料や聞き取りによって検証していくと、「正史」に書かれていない“事実”がたくさん見つかるというのが主題でした。

このようなわたしの意図は、なかなか理解されないことは分かっています。だから、我慢強く語っていかなければと思います。で、その院生には、聞き取りも、その方法や扱い方次第で主観的な語りから客観的な史料に近づいていくことを実例をあげて丁寧に説明したつもりです。

が、少し言い忘れたことがあるので、ここでつけ足します(彼の院生君はこれを見ているだろうか。そういえば名前も聞いていませんでした………)。沖縄戦下の「集団自決」の「語り}については、またすぐに書こうと思っているのですが、言い忘れたのはそのことです。

「集団自決」については多くの聞き取りの成果があります。それが、政治的に利用されているわけですが、ここでも書かれた文書と聞き取りのどちらが信用できるかという議論があります。文書がないのだから「集団自決」の軍命はなかったのだという人がいます。一方で、「集団自決」の軍命はほとんど口頭で伝えられ、多くの人が軍命を感じたと証言しています。後者に、「はっきりとした軍命があったのですか」ときくと、多くの人は「なかった」と答えるでしょう。でもそれで、軍命がなかったと判断することが公正で公平であるといえるでしょうか。

最初に結論があっての聞き取りは意味がないと思います。そのような聞き取りは、全く資料的な価値はないとおもいます。どうでしょう。体験者がいっている「軍命を感じた」という言葉と、「文書がない。したがって、軍命はなかったのだ」という当時の責任者である軍人の言い逃れと、どちらが「真実」に近いのでしょうか。

問題の本質は、そのようなところにあると思うのです。

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2008年2月13日 (水)

霜柱〜沖縄での事件についてと「寒い感慨」〜

東京は寒い日が続いています。朝、公園を歩いていると、霜柱が立っていました。久し振りに見る霜柱。あっちにも、こっちのも。かなり大きいものもありました。それを、踏んでみました。すると、「寒い感慨」が身体の中に、湧いてきました。

霜柱は、寒い冬の日の、朝方だけ、出て、陽が昇ると融けてしまいます。
霜柱は、踏むとばりばりと音がして、靴の裏に軽い刺激があります。が、痛いというわけではありません。

沖縄で事件が起きて、それがたまに、思い出したように、本土で報道される。しかし、それは、靴の裏からの軽い刺激であって、決して、自分の足が痛む程ではない。そして、それは、日がたつと、消えてしまう。その間に、全く悪質な、論点のすり替えが起こり、達観と諦観により、物事の本質は稀釈されていく。

そんなことを、どのくらい、くり返すのでしょうか、この国は。

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2008年2月12日 (火)

早朝の那覇を発って〜「東京」というギャップ〜

未だ、朝が明け切らぬ中、モノレールに乗って那覇空港に向かった。今回は3泊4日という短い時間であったが、また、いろいろ収穫があった。そして、今回も沖縄では事件が起こり、どうやら号外(これと、これ)も出たようである。この件については、また、しばらくしてコメントを書くつもりだが、そんなことが起こっている沖縄を、心残りながら、離れた。

そして、関空着、伊丹経由で東京にやってきた。

わたしは、四国の海辺に近い田舎町で生まれた。一番近い“大都会”の松山の市街地まで、30分に一本の路線バスを待って、時々連れて行ってもらうことが、子どもながらにとてもうれしかったことをおぼえている。その後、少し大きくなって、世の中には松山よりももっと大きな“大都会”が、たくさんたくさんあることを知った。そんな“大都会”にも住むようになった。それでも、いまだに、わたしは田舎もので、“大都会”の雑踏に出て行くことが、本当に苦手なのだ。休日、家を出るのが億劫で、結局一日家にいるのは、外出がイヤなのではなく、あの三宮やその他の雑踏が苦手なだけなのだ。

ところで、朝までいた那覇も、近年、とみに“大都会”化していて、泊まっていたホテルがあった「おもろまち」周辺は、「新都心」と名付けられ、開発が進んでいる。休日で、久し振りに太陽が顔を覗かせた昨日、「サンエー那覇メインプレイス」という巨大ショッピングモールの周辺は、駐車場待ちの車で大渋滞していた。また、その周辺には高層のマンションやホテルが次々と建ちはじめている。しかし、そのような“表通り”をはなれると、そうではないところが、まだ、何処にもある。「開発されていない」というよりも、「取り残された」という印象があるのは、それだけ両者のギャップが開いてきたからなのだろう。

そんなところから、東京に来たわけだが、ここにはここだけの世界と雰囲気がある。そして、それと接するたびに、わたしは違和感を抱いていて、いっこうにこの首都に馴れない。さて、この地でも、昨日の沖縄の事件は語られている。随所で語られている。国会で、政府で、そして、街中でも。しかし、それらの言説は、沖縄のそれとは違っている。その事件そのものに関する関心の持ち方や視点が全く違っているのだ。それは、政府だけではなく、民間の企業でも、一般の住民にしても、そうなのだろう。

東京には、「怒り」がないように思う。それだけ冷静なのは、やはり距離感があるからなのだろう。「距離感」、そして、その「ギャップ」。これらは、事件そのものに対する皮膚感覚にも存在している。あるいは、“狙われている”という切迫感、危機感に対する「距離」と「ギャップ」なのだ。

いつも書いていることだが、これは、キリスト教についてもいえることだろう。沖縄の教会に歴史などない。あっても、それは本土の中央教派・教団の伝道地、いわば、植民地か新領土としての「伝道される」歴史があるだけだ。──と、本土教団史には書かれていて、今の教団の執行部はそう思っているのだろう。

しかし、それだけではない。日曜日に出席した首里教会の礼拝では、沖縄に「研修」に来たという東京のどこかの支区の一行(といっても、牧師と信徒の計2名だったが)が等々と自分の思い出話をかたり、自分が如何に沖縄に縁があるのかについて語っていた。しかし、肝心の沖縄で何を見、何を感じ、自らが何をしなければならないと感じたかについては、結局何も語られはしなかった。礼拝中の新来者“挨拶”とは、元来そのようなものかも知れない。しかし、“研修”で何程のことを学んだのか、それを自己確認ヲしなければならないといった姿勢はないのではないかと、わたしはその人たちのことを見て感じていた。

東京の大教会や大教会からの間接的支援を得ている東京の教会が、沖縄のことを理解するのは、自らの思考を逆転させたり、自らの価値観を一端白紙にしなければならなかったり、いろいろ大変だと思うのだが………。

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2008年2月 8日 (金)

遠く、慶良間諸島をのぞんで〜沖縄で聞く「集団自決」に関する教科書記述問題〜

その日、2007年12月26日の夕刻、首里城に立ち寄った。

前回(8月)訪れたときより、さらに「整備」が進んでいる。そして、さらに正殿裏などで工事が続いていて、重機の音が絶えずしている。しばらく歩いて、数年前に作られた展望台で、日が暮れていくのを、しばらく見つめていた。

それまでの2日、沖縄には珍しく晴天が続いていた。そこからは、那覇市街と遠くは北谷の浜から読谷の残波岬までが見通せる。那覇空港からは頻繁に飛行機が飛び立ち、低空で去っていく。また、ときおり、西から東へ演習帰りであろうか、米軍の輸送機が前田高地を越えて、普天間か嘉手納の方に降りていく。展望台登り口からは知念半島や中城湾も少しだが見えた。

展望台には、入れ替わり立ち替わり観光客が訪れて、歓声を上げている。家族ズレ、カップ裡、友人グループ。そして、外国人らしき人々も頻繁に訪れている。ほとんどは欧米系の人に見える。駐留米軍の関係者だろうか。体つきからそう推測してみる。

歓声を上げる人びとの視線の先に、慶良間諸島が、きょうもはっきり見えた。折しも、沖縄戦時の「集団自決」の教科書記述をめぐる検定について、この日、ひとつの結論が出た。

それを、わたしは携帯電話のニュース・サイトで知ったのだが、それ以外にも知る機会があった。夕方、買い物に寄ったスーパーでは、沖縄タイムスの号外が置いてあった。翌日立ち寄った沖縄県立博物館でも受付に同じ号外が置いてあった。沖縄では、こうして、情報が流布し、共有されていくのか。きっと、これを見ながら、いろいろと話が行われているのだろう。

さて、その結論は、実に中途半端なものであった。軍による「強制」は認めなかったが、「関与」の記述は復活させるというのだ。これについては、いくつもの見方がある。その後の新聞の記事にも様々な解釈がなされていた。

しかし、これは、「権力」による緻密な計算による結果ではないかと考えられないでもない。事実、これ以降、9月の11万人集会を実現させた結束は、この中途半端に見える結論で見事に分断された。つまり、その結束は、「集団自決」に際して、軍による強制があったとあくまでも考えているグループと、「軍による関与はあっただろうが、強制があったというと、日本(本土)との関係でまずいことになっては困る」というグループなどの連合体ではなかったが。だからこそ、軍による「関与」で満足した人びとと、それではとうてい承伏出来ない人びととの間に亀裂がはしり、沖縄は分断されていく。

いぜん、わたしは、ある集団に圧力をかけ続けるとその集団は分断されていく。こうして、沖縄では国家による統合と分断が同時に起こっているし、これまでも起こってきたと書いた。この現象が正に、ここで起こったのである。

しかし、現状を更に注意深く見ていくと、いろいろと興味深いことに気づかされる。その一つは、争われていることがらは今から63年近く前の沖縄戦でのことであるが、その判断や歴史的解釈には、沖縄が置かれている状況や、日本と米国が沖縄に対して行っている政治や政策が反映しているということである。大阪で岩波書店や大江健三郎を相手取って起こした裁判の原告になっている人びとは、それぞれ慶良間で軍の指揮に当たった当事者とその遺族である。彼らは、ひょっとすると単純に自分や自分の家族の名誉の回復をのみ願っているかも知れないが、その取り巻きは本島はそんなことは々でもよくて、日本人の名誉や軍の正当性を誇示したいがための集団であろう(この件については、機会があれば、別に詳論したい)。

同様に、今回の結論は、沖縄で起こっている大きな動きを統治の障碍と捉え、その動きを分担するために「権力」側が仕組んだ巧妙な仕掛けではないかと思うのだ。つまり、ここでも、歴史的な事実の問題よりも、現実の政治課題が優先され、その「集団自決」の当事者の心情よりも、現に今生きている人間とそれを統治する「権力」の論理が優先した格好ではないかと思う。

しかし、それでは、沖縄になにがしかの明るい展望はないのだろうか。それは、きっとある。そして、あるとすれば、それは、「米国や日本という国家が亡んでも、沖縄は沖縄であり続ける」と言うことなのではないかと思う。「もう、既に、沖縄は沖縄ではない」という見方もある。近代以降、あるいは、もっと遡って、琉球=沖縄、常に「らしさ」をそぎ落とされながら今日に至っているという見方もある。しかし、それでも、沖縄は沖縄であるとすれば、こうして分断され、切断されつつも、このようなできごとをくり返しつつ、それを乗り越えて、既に国としてのかたちが内分、国家というかたちにとらわれている大国よりも、ずっと長く存続し続けるのではないかということだ。

沖縄は抑圧され、分断され、周縁化されている。しかし、その一方で、そうした事態が常態化しているが故に、そのような事態をしたたかに乗り切り、且つ、主張する所をして、それを見事におさめていくようなあり方をしているのではないか。

さて、これらは、単に、わたしの仮説にしか過ぎない。そして、それを確かめに、明日から、また、沖縄に行く。そして、その後、東京と、しばらく旅が続く。

※ 以上は、昨年12月の沖縄調査の時から少しづつ書いていたもので、だから、少々つじつまが合わない所もあるが、ご容赦願いたい。

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2007年12月26日 (水)

「兼次伝道所 週報」

前の記事に引き続いて、西原町立図書館のこと。

ここにきたのは、前日にインターネットで蔵書検索して『日本キリスト教団 兼次伝道所 週報 第1集』(村上仁賢資料刊行会、1998年、以下『兼次伝道所 週報』)を是非みたいと思ったからである。

兼次伝道所は沖縄島北部の今帰仁村にある。2004年に花城静子牧師が就任している。北部の村にある教会の週報(※)が西原町(沖縄島では中部管区)の図書館にあるのか不明だが、沖縄の公立図書館にはここしかない。それから、この史料は、同図書館の「新川明文庫」に所収されている。

※ キリスト教会では毎週の礼拝で礼拝の式次第や一週間の予定、教会員の動静、前週の説教の要約、牧師のコラムなどを印刷して配っている。それを週報という。

兼次教会については、沖縄キリスト教協議会『沖縄キリスト教史料』(いのちのことば社、1972年)に、以下のような簡単な記述がある(同書、pp60)。

  一九四七年
 兼次教会が生まれるまで
 兼次教会は、当時文化部長であった当山正堅氏のすすめで、まず島袋昌子氏の音頭取りで、婦人会が集まり出発したものといってよい。戦前、やはり当山、島袋氏が中心になって、未亡人会とか銃後の婦人会を組織して、授産活動などをしていたが、終戦となり、それが一応用がなくなったと思われた時、再び、今度はキリスト教の伝道の下に集められることになったのである。集会場所は、島袋姉が住んでいた家の納屋などを使用した。説教は、当山氏やその他の人びとが巡回した。

その他にも、兼次伝道所(兼次教会)の記述は散見されるものの、沖縄の教会ではあまり重要視されていないよう見える。その兼次伝道所に、米軍占領下の1962年3月末に村上仁賢牧師が、本土から赴任する。村上氏は、のちに、「日本と沖縄の教会」(日本基督教団沖縄教区『27度線の南から─沖縄キリスト者の証言─』日本基督教団出版局、1971年、pp.252-270)を著している。それによると、村上氏の夫人の実家が西原村(現西原町)にあるという。そして、沖縄への赴任は沖縄の友人の薦めであって、自らのことを、「社会のことも政治の問題にも関心のない、一般的平均的日本人キリスト者」であると繰り返し述べている。この村上氏のエッセイをよむと、占領下沖縄の北部・農村に赴任した本土出身の牧師が、次第に沖縄の現実に直面して、「特殊的希少的日本人キリスト者」に変貌を遂げていく様がわかる。

わたしがきょう見た『兼次伝道所 週報』は、1962年から68年のものがつづられている。毎号1ページ。そして、ほとんど毎号、「想雲」と題して村上仁賢牧師のコメントが載せられている。その「想雲」を読むと、ベトナム戦争が激化し、占領下の沖縄の駐留米軍の性格が変貌し、東西冷戦の最前線となるなか、日本本土からやってきた日本人牧師がその時々に感じたことやその思索の変化の一端が垣間見る。

まだ詳しくそれを分析したものではないが、

キリスト教団。というものは信仰とは余り関係ありません。なぜなら王や政治家の信仰がそのまま自分の信仰ではないからです。米国や英国と同様ソ連や中共でも教会は世と戦っています(1964年10月18日)。

(前略)トレーラー落下事件〔※ここを参照=引用者〕でもベトナム戦争でも可愛そうなとか恐ろしいこととかが基準になるから身近になければ放置する。アメリカに対しても支配者と被支配者の姿勢しかない。したがって卑屈な態度しか生まれない。民主主義に主従はない(1965年6月20日)。

主のためにいるの信者は多い。教会のためにいるの信者も多い。しかし、現実の、この沖縄の為に祈る信者は何人あるか。というのは聖書の信仰によれば祈りは行動を伴うのであり換言すれば行動がないのは祈りのない証拠ともいえるのだ。沖縄のために戦後キリスト者は何をしたか。どのような発言と実践をしてきたか。現実にはキリスト者は現実肯定主義者か、逃避主義者か、無責任主義者ではないか。キリスト者の生き方がどう変わったか。それが見たいのだ(1966年1月16日)。

等々、いろいろあるが、いずれも単純に評価することが難しい発言である。村上仁賢牧師のこの関わり方には、日本本土出身の牧師として可能性もあり、限界もある。彼は彼なりに、沖縄の現状と対峙し、沖縄の教会に関わってきた。

日本基督教団議長の名において公開された『…告白』を、われわれ兼次教会一同は同じく日本人キリスト者であることの自覚にもとづき、心からこれに同意し、アーメンを唱和するものである。日本基督教団と当教団との合同についての日程が組まれ、すでにその行動が開始された今日、われわれ沖縄に住む日本人キリスト者もまた、右の告白をすり抜けては、自覚的、主体的な合同は、なし得ないと信じ、ここに役員会の名において、共に責任を負うものであることを表明する。

これは、「時のことば 『告白』に同意する」として、『教団新報』(1967年5月20日)に公表された村上仁賢牧師の言葉である。「同じく日本人キリスト者であることの自覚にもとづき」という発言をどう捕らえるか。やはり難しい問題である。

沖縄の教会には、それぞれに立場で、違った発言をし、行動をする信徒・牧師たちがいる。そして、それぞれのかたちで地域社会とかかわりをもち、日本国家や米軍と向き合いながら建てられている教会がある。わたしの仕事はこのようなさまざまな亀裂や断裂を見つけ出し、それを丁寧につなげていくことである。道のりは遠い。しかし、こうして足を使っての史料を集め、残された声に、これからも耳を澄ましていこうと思う。

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西原町立図書館

午前中、西原町立図書館へ。

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2004年に新築されたらしく、外観も内容も新しい。

図書館の前には、二つのオブジェ?がある。

(1)                                                                                          (2)
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(1)は西原町幸地で発掘された「九六式十五糎榴弾砲」。(2)は同町出身の「比嘉春長顕彰碑」。

探していた史料については、続報します。

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沖縄に来ました

昼過ぎに那覇空港到着。沖縄にしては珍しく快晴。暑い。

さっそく、コンビニで『琉球新報』を購入。

朝刊には大阪の大正区で関西沖縄文庫を主宰する金城馨氏らが、大正区で「集団自決」の体験者に対して聞き取り調査を行ったとの記事。証言集集め冊子にするという。それから、豊見城市であした、不発弾処理。その他、来年度予算の政府案のうち普天間基地移設等の対沖縄予算の記事があり。

夕刊一面には「集団自決」の教科書検定についての記事がトップ記事。「軍強制記述は『回復』」、「自民山崎氏が示唆」「実行委要請『訪中前に主唱言及』」との楽観的な記事。余談だが、同一面に高見知佳の写真を発見。わたしとは同郷の人だが最近テレビで見ないと思ったら、結婚後沖縄県内で絵本の読み聞かせや講演をしているらしい。意外であった。

それにしても、山崎氏。「記述は回復されるだろう。総理が(二十七日の)訪中前に何らかの発言をすることになるだろう」って、ほんまかいな。

夜は、おもろまち・新都心に。美術館のような日銀那覇支店(きょう営業開始らしい)と新しい県立博物館・美術館の概観を見る。

あとは、つづく。

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2007年12月15日 (土)

〔速報〕沖縄に行きます。

年末の、押し迫った、何かと、各所、お忙しい時期でしょうが、下記の通り、沖縄を訪問します。

・期 間:2007年12月25日〜30日の6日間
・目的地:沖縄・那覇近辺

今回は、前回8月の調査で目をつけていた1940年代の史料にアプローチする予定です。

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2007年9月30日 (日)

例えその場に、立てなくとも、わたしは、わたしのできることを

昨日、沖縄の宜野湾海浜公園にて、「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が開かれ、11万とも12万ともいわれる人たちが集まったという。他に、八重山・宮古でもそれぞれ数千人の人たちが集まった。その報道を、沖縄の新聞社や放送局のHPで見聞きし、その場に行くことがかなわなかったことを、寂しく感じた。

「例え、いけなくとも、心はひとつ」──とは、とてもいえないけれど、わたしは、わたしのできることをする。高校や中学校の教科書は「集団自決(より実態に即していえば、「強制集団死」)」の他にも不十分なところがいくつもある。そのなかには、学説上の論争になっているものもあるし、仕方がないことでもあるが、学問上不十分なところもある。それらの、過不足を補い、ていねいに学問的位置づけをし、誤りを正していくのは、わたしたち大学の教員の役割であると思う。

講義の授業が始まった。わたしのメインの講義は、後期、いよいよ沖縄戦と戦後占領体制に入っていく。今年は、ことに、沖縄戦の全体像と、「集団自決」、「強制集団死」についてより時間をとって話そうと思う。そして、この問題が、いまだに日本の沖縄支配に利用されていることをていねいに説明したいと思う。

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2007年9月13日 (木)

新しい発見

詳細は、いま、述べることはできないが、今回の東京行きで新しい発見があった。

戦後間もない東京で、「沖縄人キリスト教団」が設立されたというのだ。代表者になっている人物は南洋方面の伝道にも関与した人物らしい。

戦後、「沖縄人」ということをアイデンティティに廃墟の首都・東京でキリスト教団が設立された。日本基督教団から離脱したのだろうか。それとも、………。

詳細はわからないが、「沖縄キリスト教史」の射程は、さらに、入り組んで、遠くに広がっていく。

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2007年9月 6日 (木)

「幸福」の二者択一!!

この土曜、ある市民向けの講座で話をすることになっている。テーマは、「自己の『幸福』と他者の『幸福』〜沖縄の戦後史からみた『断裂』と『連帯』〜」。

毎年500万人余りの観光客が訪れる沖縄。これら沖縄県全体の人口137万人の3.65倍。その大半が、沖縄には“癒し”を求めてくる。自分のみが“癒される”ことを求めて、観光客たちは沖縄を訪れ、本土資本や外資のホテルに数日滞在し、チェーン化した土産物屋でたんまり消費して帰っていく。

自己の「幸福」と他者の「幸福」。もっとはっきり言えばよかったと思う。つまり、自分の「幸福」と他人の「幸福」が矛盾したとき、人間はどう行動するか、それを沖縄の戦後史に則しながら考えて行きたい。

沖縄の訪問者は、専ら自分や自分たちの「幸福」には大層興味あるようだが、沖縄に住む人びと達の「幸福」には興味がない。彼ら、彼女らは自ら“癒されたい”と思っているが、沖縄のひとの“癒し”には興味がない。加えて、沖縄の「暗部」や「傷痕」は隠蔽されているのだ。

さあ、そこから、どう沖縄の、そして、沖縄人たちの「幸福」を切り開いていくか。それは、難問だ。しかも、わたしは、当事者ではない。そう、沖縄人ではなく、自らが批判しようとする人びとの側と共に生活をしている。

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2007年8月30日 (木)

何のために、わたしは、この道を行くのか。

公文書館での史料収集を終え、夕方、西原町に向かった。沖縄教区のY牧師とO牧師にお会いするためだ。

Y牧師は、先日刊行された拙稿「日本基督教団における沖縄教会観の起源とその変遷」 のなかに登場する人物である。そのご当人から、拙稿に対する批評を頂いた。そのなかで、一つ、わたしが誤解していたところがある。それは、Y牧師が1966年8月、日本キリスト教団の主催で開催された「第十七回夏季教師講習会」で沖縄教会の代表として出席した経緯だ(こう書くと、Y牧師が何方なのか関係者にはわかってしまうが)。

わたしは、「比嘉盛仁・沖縄キリスト教団理事長」の代わりにこの講習会に出席したと書いた。Y牧師にご指摘頂いたのは、まず、当時は沖縄キリスト教団の代表は「理事長」ではなく、「議長」であったこと。確かに、沖縄キリスト教団は、1962年の総会で「教憲教規」を制定し、主湯教報人規則を一部変更した。その際、「理事長」は「議長」と改称されている。

そして、今ひとつは、Y牧師が代理で出席したのは比嘉盛仁・沖縄キリスト教団議長ではなく、比嘉盛二郎・同副議長の代わりであったことである。

これは、確かに重大な事実の誤認である。いつか拙稿を別のかたちで交換する際に訂正しなければいけないが、取り急ぎここに記しておきたいと思う。

さて、久しぶりにお会いしたY牧師もO牧師もお元気で、現在の沖縄教区のこと、日本キリスト教団のことなど、たくさんお話しをして頂いた。こうして、戦後、米軍占領下の沖縄で占領軍と渡り合いつつ、牧会に携わられ、「合同」・復帰後は日本政府や日本教団と対峙してこられたおふたりからは、お会いするたびに、新しい課題を頂く。そして、わたしが、何のために、この道を歩いているのか。この、だれも通ってこなかった、道を歩いていくのか。おふたりには、わたしの研究成果を見て頂きつつ、その研究の意義も再認識させられる。

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2007年8月29日 (水)

残されたもの、その声を聞きながら………

さて、フィールドワーク3日目。

沖縄キリスト教史に関して、1940年代の史料はほとんどないと言われていた。いってみれば、それに挑戦してきた日々なのだが、記録を残すことにこだわりをもつ人は、どの時代にもいる。

きのうときょう、沖縄県公文書館で蒐集した史料は、実は、個人が自らの意思で保存した資料を遺族が公文書館に寄贈したものだ。

そのような個人的営為があってわれわれ歴史家は、はじめて史料に触れることができるのだ。そして、公文書館・図書館は、故人や遺族の意をくんでそれを分け隔てなく公開する。公開された資料が、従来支配者やエリートが構築してきた歴史を揺るがすことになる。

つまり、公文書館や図書館は民主主義の砦。

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2007年8月28日 (火)

夢は、ハワイで。

二日目の沖縄。きのうは、これまでに相当たくさん夏の沖縄を経験しているわたしでもはじめて見るような晴天でした。しかし、きょうは、時折激しいにわか雨があり、いつもの8月の沖縄でした。それにしても、ここの雲の造形はすばらしい。

きょうは、一日公文書館にこもりっきりでした。いろいろ、収穫がありました。

第一に、沖縄戦のさなか沖縄人や日本兵、それから朝鮮人、中国人を民間人捕虜収容所に収容するために行われた身元調査で使われた「訊問調書」を見つけました。

それから、それを探しているうちに偶然見つけたのは、比嘉靜観(せいかん)という牧師の資料でした。これは、
沖縄からハワイに移民してその指導者になった湧川清栄氏の寄贈文書のなかにかなり大量にありました。靜観は、沖縄出身で、伊波普猷の影響を受けて沖縄の日本組合教会の牧師になります。その後、ハワイに渡り、マルクス主義に傾倒して社会運動を行っています。そして、靜観は、詩人としても有名で、彼の残した『人間・社会』(実業之布哇社、1924年)を公文書館の文書群から発見し、はじめて彼の詩集を手に取ることができました。

  牧師

彼は牧師だ
けれども
牧師でない
人間だ
彼は人間イエスと偕に
人間になりたいのだ
彼は人間
それ故に
彼は牧師だ。

もう一つ。

  愛

愛があれば
社会主義と
無政府主義と
基督教と
仏教と
人間と
人間と
国家と
国家と
民族と
民族と
相剋することはない
愛は凡てを溶かす。

戦前の話で、しかも、ハワイだから、すぐには無理だが、いつか繋がっていくといいと思う。沖縄のキリスト教。そこから、実はいろいろな流れが形成されていて、辺境のキリスト教はキリスト教の終着点ではなく、多の辺境へ向けたキリスト教の源流になっていく。その流れは、予想もしないものと合流し、本流の中で、多の何者かになっていく信仰であった。

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2007年8月27日 (月)

〔速報〕沖縄に来ました。

先週の岡山県・金光での日韓宗教研究FURAMの総括もできていないのですが、本日、昼過ぎに沖縄に到着しました。

自分の研究テーマのための沖縄フィールドワークは、約1年半ぶり。短い期間ですが、充分成果を上げたいと思います。

さて、沖縄のついたのですが、いつも様子が違っていて、車の数がずいぶん少ない。で、ある人のブログを見ていたら、きょうは、沖縄では「うーくい」とのこと。つまり旧盆の最終日。「うーくい」とは、たぶん、「お送り」のこと。因みに旧盆の初日は「うんけー」、つまり、「お迎え」。つまり、ご先祖様をお迎えして、お送りするわけです。

それで、きょうは、どこも、お店はお休み。夕食は、いつも行っているところでと思ったのですが、お目当てのところはどこもきょうまで休業。

さて、「うーくい」なら、どこかでエーサーをやっているだろうけど、きょうは禁欲して、明日からの準備をします。

それから、久しぶりに、『沖縄タイムス』に目を通し、『琉球新報』を買いました。おりしも、第二次アベ改造内閣の発足。新聞紙上では、先の防衛「省」の次官人事をめぐるごたごたが
触れられていました。沖縄では、守屋前次官は普天間基地の辺野古崎への移転をめぐって「沖縄に差別的態度をとった人物」とされているようです。小池“前”防衛「相」は仲井間沖縄県知事や島袋名護市長と旧知の仲らしいが、さりとて、沖縄の一般住民の側に立って発言しているわけでもない。

小池氏の後任は高村正彦氏とのこと。彼は沖縄に対してどんなスタンスをとるのだろうか。こうして、沖縄に来てみると、本土ではほんの小さな波動でも、それが周縁に伝わるにしたがってとてつもない津波のようになっているように思う。そして、指したる防塁もないままその津波に曝され、流され、あるいは、踏みとどまって、逆らっていることは、波動の出発点からは見えない。そんな構図を痛感しました。

さて、あした。また、報告します。

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2007年7月16日 (月)

軍事占領下沖縄における“救い”と“癒し”の陥穽─キリスト教、国家、地域社会─(※ 仮アップ。大幅変更あり)

はじめに
 沖縄は、第二次世界大戦末期の沖縄戦の後、約27年間に及ぶ異民族による植民地的支配と軍事基地化を経験した。この理不尽な占領体制は、1972年5月15日、形式的には終了する。しかし、普天間(ふてんま)基地の辺野古(へのこ)沖への移転や沖縄国際大学への軍用ヘリ墜落事件とその事後処理を見ると、沖縄は日米両国協同による「沖縄再占領」という新たな段階に直面しているのではないかとさえ思える。したがって、表題にある「軍事占領下」とは、通常、沖縄戦から「本土復帰」までを指すが、ここでは復帰後の事象も含むものとする。
 このような歴史的経験をもつ沖縄で、外来の宗教であると同時に占領者の宗教であるキリスト教は、どのような“救い”や“癒し”を提示してきたのだろうか。そもそも、沖縄は、個人的なものと同時に、歴史的な(敢えていうならば、民族的な)苦難を背負い続けている。このような沖縄という地域が背負った歴史的苦難は、今後も根本的に除かれないまま、“救い”や“癒し”を求める祈りが延々と続けられているのである。
 さて、本稿は、日米二大国のはざまに置かれた沖縄地域社会で語られ、祈られ、実践されてきた“救い”や“癒し”を政治的・軍事的・歴史的な文脈でとらえなおすことを目的としている。そうすることで、「沖縄のキリスト教」に向けられたまなざしの問題を析出し、「沖縄の」という虚構へと誘う陥穽の正体と対峙できるのではないかと考えている。

Ⅰ.沖縄のキリスト教の多様性と「周辺化」
 沖縄のキリスト教は、他の地域のそれと同様に、その形態や信仰の表明方法等々は、実に多様である。それを「沖縄のキリスト教」として表象するときに、何をもって代表させるかによってそこに見える風景は異なってしまう。
沖縄(本)島は県の政治・経済の中心で、人口の約90%が集中している。また、その約20%は米軍基地として「占領」(他に自衛隊基地もある)されており、北・中部に集中している。これらの地域では米軍が駐留することで経済的な恩恵がもたらされる一方で、いわゆる「基地被害(事件・事故、騒音・汚染等の環境破壊等々)」が横行してきた。
 キリスト教会は、沖縄島に全体の約9割があり、普天間や嘉手納(かでな)といった大規模基地がある中部には、そのうちの半数近くが集中している。県都・那覇市がある南部は中部より人口は多いが、教会数は若干少ない。しかも、沖縄バプテスト連盟(以下「沖縄バプ連」)所属教会や福音主義系の諸教派、単立の教会が多い。こられは米軍関係者の信者が多くいたりすることから、沖縄島中部への教会の偏在は米軍基地の存在と無関係ではない。中部では、沖縄人教会員でも軍用地主や基地雇用者等々基地に生活を依存者も多い。そうした中部の教会で語られる “救い”や“癒し”の福音と、大都市の那覇市近辺で語られる福音、また、同じ沖縄にあっても戦後一貫して大規模な米軍基地が存在しなかった宮古(みやこ)・八重山(やえやま)諸島(先島(さきしま))等で語られる福音は、いずれも同一ではない。
 極東最大の嘉手納基地があるコザ(現沖縄市)には米兵相手の売春街である「特殊飲食街(特飲街(とくいんがい))」がいくつかあった。その一つ「吉原(よしわら)」に隣接している日本基督教団(以下、「日基教団」)コザ教会は、基地の街でも最も人間性が抑圧されているこの地を選んで建てられた。しかし、特飲街への伝道は、そこに利権を持つ暴力団に阻まれたりして必ずしも成功していない。そこでは抽象的な平和の福音はまったく説得力を持たない。そして、これらの困難さを顧みず、沖縄のキリスト教を平和運動に直接結びつけるような短絡や、現実から逸脱した“救い”や“癒し”語る安直さは、沖縄のキリスト教の多様性と問題性を単一的なイメージに押し込め、特異性を過剰に強調することで沖縄を日本の「辺境」「周縁」に固定化することになるのではないか。
 他方、沖縄には、キリスト教に限らず、大国に依存しつつもそこから利益を得ることで、国家や国境を相対化し、国家と一定の距離や緊張感を保つバランス感覚がある。そこにも外来者が沖縄の宗教やキリスト教を見るときに陥りがちな陥穽が潜んでいる。また、沖縄には、東アジアの冷戦構造等々の国際情勢を源とする様々な「力=ベクトル」が集中しているため、沖縄で起こっている出来事は皮相の部分だけではとてもとらえきれない。そこで、筆者は、さしあたり「依存と自立」「統合と分断」「包摂と切断」という相矛盾する力学が沖縄では同時に働いていると考えている。

Ⅱ.占領体制の構築とキリスト教伝道の開始
 第二次世界大戦中、沖縄の諸教会は沖縄戦を前に事実上消滅していた。戦局悪化で日本出身牧師の大半と沖縄人牧師は信徒と教会を置き去りにして疎開船で本土へ渡った(なかには、「犬死にしたくない」と去った沖縄人牧師もいる)。沖縄戦終了時、生き残った牧師は3名。そのうち1人は45年8月にマラリアに倒れ、他の1人は伝道師、残りの1人は病身の身であった。ようやく生きのびた信徒たちは民間人捕虜収容所で、米軍のチャプレン(従軍牧師)や米兵たちの指導のもとで集会をもち、信徒指導者たちは互いに按手礼を執行して伝道者となった。戦後の沖縄教会を「信徒の教会」と呼ぶのは、それ故である。
 1945年8月15日に石川(現うるま市)の収容所に生き残った指導者が集められ、沖縄諮詢(しじゅん)会が組織されると、その主要ポスト3つをキリスト者がしめた。當山(とうやま)正堅(せいけん)は文化部長として伝道者を諮詢会職員として俸給を与え、米軍の支援を得て伝道にあたらせた。また、彼は、米本土やハワイの民間団体から届いた支援物資の集積と配分を担った。伝道者たちの互助的組織として46年初頭沖縄キリスト聯盟が組織された。これは、1950年6月、「全琉球プロテスタントの超教派的単一教会」をめざして沖縄キリスト教会となった。
 しかし、これらの見方はあくまでも沖縄人から見た戦後の沖縄の教会形成史である。米軍は当初から沖縄人キリスト者や教会を「宣撫工作」に利用した。宗教団体の指導を分掌する文化部文化課では「軍政府所属牧師」の指導が明記されていた。また、47年1月に改正された「沖縄キリスト聯盟会則」で顧問として軍政副長官(沖縄の現地最高司令官)と軍政府牧師、それに民政府知事(志喜屋(しきや)孝信(こうしん))が顧問として名を連ねていた。
 また、米国キリスト教協議会の外国伝道部門・北米外国伝道局(FMCNA)にあるメソジスト教会等を中心とした「沖縄特別委員会」では、沖縄伝道のための基本計画が1940年代には出来上がっていた。それは、宣教師による沖縄教会の組織化、合同教会の創設、カレッジの設立、病院の運用、米国の神学校への沖縄人派遣のための奨学金の創設で、これらは50年代にほとんど実現されている。
 また、既に、日本本土では、Douglas MacArthur(GHQ総司令官)が個人的に在米キリスト教各派に1,000名規模の宣教師派遣を要請したが、沖縄伝道に際しても占領軍は最大限の支援を約束した。49年5月、東京の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民間情報教育局での会議の席上、John H. Weckerling (GHQ琉球課長、准将)やBill Woodard (同宗教局代表)、比屋根(ひやね)安定(あんてい)(同宗教顧問、沖縄出身の高名な宗教学者)は、約20名のキリスト教各派の宣教師に沖縄伝道を強く働きかけて便宜を図ることを約束した。また、Weckerlingは比屋根にキリスト教による沖縄の精神的復興を目的として沖縄への伝道旅行を要請した。
 このようにGHQが日本や沖縄伝道を各派に働きかけた背景にあるのは、1940年代の終盤から50年代初頭に次々起こった東アジアの国際情勢は劇的な変化であった(中華人民共和国の成立、朝鮮戦争、対日講和条約と日米安保条約の締結)。米国は極東の防共と軍事拠点として沖縄の半永久的軍事占領を既定路線化した。そのために、沖縄の治安や社会情勢の安定は日米両国にとって重要事項になってくる。キリスト教はそのための「宣撫工作」の手段となっていったが、これは沖縄の教会関係者や沖縄人たちは知る由もなかった。
 戦後沖縄のキリスト教のもう一つの特徴は米占領軍の誘導・先導による教会組織の形成と伝道であり、その外形的目的は沖縄戦によって深く傷ついた沖縄人への“救い”や“癒し”であったが、他にもう一つ、占領地の宣撫工作という、隠された大きな目的があった。以下ではそのことの証左をいくつか挙げながら、支配者のそのような意図に対して沖縄のキリスト者はどう対応してきたかについて論じる。

Ⅲ.沖縄の軍事化とキリスト教
 1950年代FMCNAから沖縄にはじめて派遣されたOtis W. Bell宣教師は、たまたま米軍による暴力的な軍用地強制収用を目撃する。そして、それを“The Christian Century”(1954.1.20)に「沖縄人に対して公平にふるまえ」という題で寄稿する。この論文により、日米で沖縄の基地問題がはじめて顕在化した。その結果、55年10月に米国議会下院軍事委員会調査団(「プライス調査団」)が派遣された。ところで、このように大きな働きをしたBellは、55年1月、沖縄からの異動を命じられ日本本土に転任させられる。もちろん、彼の論文がこの異動の原因になったか否かは定かではない。しかし、これ以降、反軍的な発言をする米国人宣教師は沖縄から排除されるという事実が続くことになる。
 また、この年、沖縄教会が決定した信仰告白の異端性を宣教師団が指摘し、経済的援助の凍結を盾にその破棄を迫った「信仰告白」論争が起こる。米国人宣教師が、沖縄教会に異端信仰のレッテルをはって批判する。これは、さながら、植民者の被植民者に対する態度である。また、自らの主張を通すために経済的制裁をちらつかせる手法は、占領軍の沖縄人に対する恫喝そのままである。さらに、この論争を仕掛けた2名の宣教師、Harold C. RickardとMario C. Barberi Jr.が事態収拾に失敗したと見たFMCNAは、翌年年配の老練な宣教師を沖縄に派遣する。そして、それぞれ時間をおいて両宣教師を八重山に転任せさ、2人は沖縄島に戻ることはなかった。60年代になると、はっきりと軍のサイドに立ち、米軍のベトナム攻撃を防共の観点から肯定し、東アジアの安定のために沖縄人たちに忍従を強いる宣教師も現れたという。
 また、1953年11月、沖縄キリスト教会を離脱した沖縄バプ連では、同連盟普天間バプテスト教会のWilliam T. Randall牧師が反軍言動が理由に同連盟から宣教師を解任された (「ランドール宣教師解任事件」1979.6)。その背景には、この教派の複雑な事情が絡んでいる。沖縄バプ連最大の教会Central Baptist Church in Okinawaは「英語教会」「アメリカ人教会」と呼ばれており、会員のほとんどが米軍将兵またはその関係者である。この大教会とコザの二つの教会によって、米軍占領下の沖縄バプ連は支配されていた。また、その代表のEdward E. Bollinger宣教師等は在沖宣教師を沖縄人牧師・信徒と同様に指導の名のもとに監視し、反軍的言動をする宣教師を発見すると、「精神的な異常」を理由に沖縄から退去させ、一方では、沖縄の教会には潤沢な伝道資金を援助しつつ、教会を通して沖縄の地域社会に反米感情が広がらないように工作をした。
 このように沖縄の教会は、実は多様な価値観を有しており、さまざまな力学が集中する中で複雑にねじれながら存在している。

Ⅳ.沖縄の“痛み”と共犯への誘惑
 1945年〜60年の『うるま新報』、『琉球新報』、『沖縄タイムス』等々には、クリスマスやイースター等々の行事のたびに米兵個人や部隊が「恵まれない人びと」の施設に対して多くの贈り物や奉仕が行われたことが掲載されている。米兵たちが沖縄人にとって「善き隣人(Good Samaritan)」であることを、軍政当局はことあるごとにアピールした。また、将校や軍チャプレン、宣教師が米兵と沖縄人との間にできた子どもをひきとるという「美談」も繰り返し報道されたが、父親である米兵に養育を拒否され、路頭に迷っている母子がいかにして生まれるかについての言及はほとんど見られなかった。
 愛隣園は沖縄キリスト教会が在米キリスト教児童福祉団体からの資金援助で立てられたものだが、当時の理事長・Walter W. Krider宣教師の次のことばに占領体制下でのこの施設と沖縄教会の米国人による位置づけがよくあらわれている。「創設以来混血児(GI・チルドレン)が十三名収容され、その内五名は現在留まっているが、八名はすでにアメリカの家庭に養子となってアメリカに渡って行った。沖縄の子供はまだ貰われた事はない」。つまり、米人は孤児や要保護児童を父親がだれであるかで平然と選別しているのである。
 結局、愛隣園や沖縄教会はそこに米軍基地があることで社会の底辺に必然的に生じる“痛み”をともなった社会問題の解決の一端を担わされてきた。しかし、その“痛み”は絶えず再生産されており、米兵たちの慈善行為により隠蔽されているのである。しかも、これらの善意で沖縄人自身が救う側と救われる側に分断され、固定されている。同時に、救う側の沖縄人は占領体制強化のため宣撫工作を行う非公式部門に吸収されていく。そのような構造が占領下の沖縄には存在し、キリスト教会は明らかにその末端に組み込まれていた。
 60年代になると、それはより広範で露骨になった。この頃、クリスマス等になると沖縄の牧師は米軍基地に招かれ、将校用のレストランで饗応を受けることが慣例になっていた。ある年、那覇空軍基地に招いた牧師たちを、チャプレンは最高度の軍事機密であるスクランブル・エリアに導いた。そして、遠回しに米軍が沖縄や日本にとって必要であることを沖縄の地域住民に沖縄人牧師の口から伝えてほしいといわれたという。その場にいた、数人の牧師は自分たちが米軍の宣撫工作に利用されていたと認識して翌年から基地内での行事に参加しないよう申し合わせた。
 この出来事とほぼ同時期、平良(たいら)修(おさむ)(当時沖縄キリスト教短期大学学長)による「新高等弁務官就任式における祈祷」事件がおこる(1966.11.2)。平良は米国の神学者・Reinhold Niebuhrのことばを引きながら「神よ、願わくは、世界に一日も早く平和が築き上げられ、新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように、切に祈ります」と新高等弁務官と占領軍首脳、琉球政府関係者を前にして祈った。この一件は在沖米国人宣教師にとっては衝撃的な内容であったようで、平良が原稿をネイティブ・チェックのために事前にある米国人宣教師にみせたところ、彼は宣教師代表をともなって平良に「最後の高等弁務官…」の個所を削除するように強硬に申し入れをしたという。宣教師団は、自分たちが占領軍と沖縄教会の仲介をして様々な便宜を図ってきたのに、この祈祷で両者の “良好”な関係が破壊されるというのである。
 この事件の前までは沖縄キリスト教団総会や沖縄キリスト教短大の入学式・卒業式には軍装のチャプレンが来賓として臨席していた。沖縄教会はなにより戦後焼け野が原の中で信徒の教会が伝道をはじめてからチャプレンや米軍関係者から多大な援助を受けてきた。また、平良ら若い牧師たちの大半は、基地内の軍教会からの献金で奨学金を得て日本や米国本土の神学校で教育を受けてきた。これは、被植民者と統治者との関係そのままであった。その関係から沖縄教会が脱却を図ったとき、それまでの蜜月の時期の便宜供与の裏返しとして、被植民者たちは植民者からの監視と恫喝を受けることになる。新任のチャプレンがその交替の度に武装した兵士をともなって彼らの教会に「挨拶」に来たという。
 占領下にあって、その地域住民の“痛み”と日々向き合っている沖縄教会の牧師や信徒のすべてがこのように「反基地」の旗幟を鮮明にしたわけではない。しかし、沖縄のキリスト教は占領者の宗教であることから、沖縄教会は占領当局に対しても沖縄の住民に対しても微妙な距離感をもっていた。そのなかで、ある者たちは軍からの「共犯関係」の誘惑を断ち切り、反基地闘争・祖国復帰運動に傾斜する地域住民の立場にたって、その者たちの“痛み”を共有する選択をした者もいた。

おわりに─キリスト教と国家との相剋─
 沖縄のことばわざに、「物(むぬ)呉(く)ゆ者(むぬ)ど我が御主(うしゅ)」ということばがある。このことわざは2つの相対する意味があるという。ひとつは、文字通り自分たちに利益を及ぼす者であれば、どんな者であれ支配者と受け入れるという沖縄人の対権力への関係性を表している。今ひとつは、支配者が自分たちに利益をもたらさなくなったら、自らの手でその支配者を放逐するという革命の論理である。沖縄人たちはこうして日本や中国、そして、米国との国家権力の間でバランスをとりながら今日までその存在を維持してきた。そして、このような行動原理は沖縄教会でも機能しているが、それは表面にはなかなか現れない。沖縄戦や異民族による軍事支配という過酷な歴史的経験を経ても、なお逞しく生きているように見える沖縄人や沖縄教会にとっての“救い”や“癒し”を理解する困難さはここにある。
 また、沖縄の“痛み”もまた、複雑な構造と背景をもっている。それでも、敢えてその“痛み”を一言で表すならば、「恵(めぐみ)と災いを同時にもたらす“痛み”」とでも言わざるを得ない。それが災いや苦難のみをもたらすのであれば除去すればいい。しかし、それは同時に人びとの生活に深く根ざしており、生活を支え、利益や便宜を与え続けている。そこに沖縄教会で “救い”や“救い”をことばにし、行動に移すことの困難がある。つまり、その“痛み”は単純に取り除いてしまうと、自らを傷つけてしまうものであるからだ。
 沖縄は“癒し”の島と呼ばれている。その「体験者」たちが持ち帰る思い出の中の「沖縄」は予定調和的で、思い描いたとおりの「沖縄」でなければならない。そのため、戦争は遠い過去のこととして認識され、今なお続く生々しい沖縄の“痛み”は捨象され、無視され、隠蔽されている。こうして、現実とは違う「沖縄」が内外に流布されていく。研究者もまた、このようなまなざしから決して自由になってはいない。沖縄の宗教がもつ“救い”や“癒し”の力を強調する背後に、沖縄を後進的地域として認識し、そこから「失われた日本」を探索する試みがあるかどうかを、われわれ研究者は常に注視しなければならないのではないか。また、沖縄の土着的宗教や外来宗教の受容形態を日本のそれと比較し、自らの特殊性を顧みることなく、その違いをすべて沖縄の独自性に収斂させていくこと手法はまさにポストコロニアル的なそれといわざるを得ない。このような視線や手法は、沖縄で、今日もなお日々生み出されている“痛み”を沖縄が置かれた国際的・政治的位置を一切考慮に入れることなく、個人的な事象に矮小化することで、なお強化されている。

《参考文献》

  • 池上良正『悪霊と聖霊の舞台 ─沖縄の民衆キリスト教に見る救済世界─』どうぶつ社、 1991年
  • 石川政秀『沖縄キリスト教史 ─排除と容認の軌跡─』いのちのことば社、 1994年
  • 一色 哲「戦後沖縄キリスト教史のなかの地域と教会─占領軍の統治政策とキリスト教児童福祉施設・愛隣園の研究─」『キリスト教史学』第55集、2001年7月
  • ────「軍事占領と地域教会─1950年代中盤の沖縄教会を事例に─」『キリスト教史学』第57集、2003年7月
  • ────「戦後沖縄キリスト教史研究の方法と課題─地域教会形成とキリスト教交流史の試み─」『キリスト教史学』第59集、2005年7月
  • ────「沖縄理解のための方法と課題─戦後沖縄キリスト教史から学んだこと─」『福音と世界』第60巻第12号、2005年12月
  • ────『米国占領下沖縄におけるキリスト教会の自立と共生』 (科学研究費補助金基盤研究(C)(2)研究成果報告書 ; 2002年度〜2005年度)、2006年6月
  • ────「日本基督教団における沖縄教会観の起源とその変遷」『キリスト教史学』第61集、2007年7月
  • 小川 順敬「民俗宗教からキリスト教へ─ある沖縄のキリスト教会の物語─」『駒沢大学文化』第17号、1997年3月
  • 小林紀由「沖縄バプテスト連盟と『祖国復帰』」『精神科学』(日本大学哲学研究室)第38号、1997年11月
  • ────『戦後沖縄キリスト教の諸相』エーアンドエー、1999年
  • ────「「日本復帰」後の沖縄バプテスト連盟と米国教会--宣教師解任事件をめぐって」『研究紀要』(日本大学文理学部人文科学研究所)第59号、2000年
  • 日本基督教団沖縄教区編『27度線の南から─沖縄キリスト者の証言─』日本基督教団出版局、 1971年
  • 日本キリスト教団沖縄教区編『戦さ場と廃墟の中から─戦中・戦後の沖縄に生きた人々─』日本キリスト教団沖縄教区、 2004年
  • 日本基督教団宣教研究所教団史料編纂室編『日本基督教団史資料集 第3巻第3篇 日本基督教団の再編 : (1945〜1954年)、第4篇 沖縄キリスト教団の形成 : (1945〜1968年)』日本基督教団出版局、1998年
  • 古澤健太郎「信仰告白制定の経緯に見る『沖縄キリスト教会』の特質」『基督教研究』第68巻第1号、2006年8月
  • ─────「沖縄におけるキリスト教受容─沖縄バプテスト連盟と土着信仰に関係に見る─」『宗教と社会』第13号、2007年6月

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2007年4月23日 (月)

沖縄の選択

「速報」につき、要点のみ。“ウラ”が取れていないものもあるので、転載不可。

参議院議員沖縄選挙区補選が終わった。結果は与党自民党・公明党の候補、島尻安伊子氏が当選。野党共闘の候補、狩俣吉正氏との得票差は27,018票。投票率47.81%。

候補とは直接関係ないが島尻氏の夫君である島尻昇氏は元民主党沖縄県連の代表だという。詳細は確認していないこともあるので省くが、過去に何度も国政選挙に立候補しているらしい。

島尻氏自身ももともと民主党の那覇市議。加えていうならば、宮城県出身。つまり、沖縄出身者ではないのだが、恐らく沖縄出身者以外で初の参議院議員ではないだろうか。

今回の選挙では基地問題も憲法問題も争点にならずというが、沖縄の人びとにとって生活の問題は切実な問題なのであろう。生活の問題は沖縄にとっては「本土並み」を体現することでもあるのだろう。先の本土出身者の参議院議員の出現と併せて、基地問題を置き去りにしたまま、本土化が進んでいく。そこには、ポスト・コロニアルな問題があるのだが………。

翻って、自分の問題として外交や軍事の問題と生活の問題とを結びつける視点をわたしはもっているのだろうか。それを、どう表現し実践しているのだろうか。昨年の沖縄県知事選挙に続いて、今回も「敗北感」をいまは抱いている。しかし、上記の問題と問題を一介の研究者として丁寧に結びつけていきたい。

【付記】
同日行われた宜野湾市長選挙では革新候補の伊波洋一氏が当選した。

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2007年2月 2日 (金)

ある寓話

ある大きな川沿いにある、中っくらいの街のお話しです。

その街は、夏になると、たいした雨が降ったわけでもないのに、毎年決まって洪水に襲われていました。それは、わたしが、まだ、生まれる前のことでしたが、そんなにずっと前からではなく、つい最近のことでもありませんでした。ただ、ずーっとそこに住んでいるわたしの両親や祖父母たちが忘れてしまうぐらい前のことでした。

そして、ある年のこと、また夏になって、恐ろしい洪水がやってきました。まだ、小さかったわたしは、ずいぶん恐ろしい思いをしていました。ところが、その年から、洪水が終わると、どこからともなく知らない人たちがやってきて、わたしたちのための食料を配りはじめました。そして、傷ついた人の手当をし、お金に困っている人には義捐金をくれました。また、壊れた家を片づけ、泥だらけの道路を掃除し、悪い病気がはやらないように消毒をして回りました。決壊した川の堤防もとっても早く直してくれたのです。

その知らない人たちは、翌年も、そのまた翌年も、決まって洪水が終わるとやってきました。わたしたちは、はじめ、その人たちのことを不思議にも思ったし、気味悪くも思っていました。しかし、そんなことが何年も、何年も続くと、知り合いも増え、わたしたちとの交流も少しずつ盛んになってきました。

わたしたちは、はじめその人たちの話していることばがわかりませんでしたが、その人たちが建て直してくれた学校で、その人たちの話していることばを学ぶことができるようになりました。わたしたちのことばの先生はその人たちのなかで一番偉い位にいる人で、賢く、優しそうな人でした。

それから、その人たちと片言の話ができるようになるまでちょっと時間はかかりましたが、その分だけわたしたちとその人たちの絆は深まった気がしました。それは、なにより、その人たちが親切で、暖かく、また、人なつっこく、よく働く人であったからです。ですから、わたしたちは、恐ろしい洪水もそのときをしのげば、またきっとあの人たちが助けに来てくれる。そして、あの人たちがこの街にいる間は、あの人たちから珍しいお土産をもらい、知らない国のお話を聞き、楽しい時間が過ごせるようになると考えて、知らず知らずのうちにあの恐ろしかった洪水を心待ちにするようになっていたのです。

ところが、もうじゅうぶん大人になったわたしは、ある日突然、本当に唐突に、その人たちがどんなひとなのか、知りたくなっていました。それで、ある年の夏、いつものように洪水がやってきて、その人たちがどこからともなく、「やあ」とやってきて、後片づけやら何やらをさっと片づけて、ひと月ほど街のみんなと楽しい時間を去っていったとき、わたしはその人たちに気付かれないように、そっとあとをつけたのでした。

何日も、何日も、その人たちに気付かれないようについて行くのは大変でした。彼らは、険しい川沿いの山道や崖を、上流のほうへ進んでいきました。そして、半月くらい行ったときのことです。わたしたちはやっとその人たちが住む、上流の、大きな街に着きました。するとそこは高い城壁でまもられた要塞のような街でした。門番がいたり、検問があったり、いろいろ大変でしたが、何とかその街にはいることができました。

そこでは、男の人も女の人も、大人も子どもも忙しなく歩き回り、働いたり、学んだりしていました。そして、いくつもある空港からは、どこかと戦争でも始めたのでしょうか、戦闘機や輸送機が、絶え間なく離発着を繰り返していました。わたしは、そこで見たひとびとの顔が、わたしの中くらいの街で親切にわたしたちを助けてくれていた人々と同じようには、とうてい思えませんでした。

しばらくあてもなく歩き回っていると、広場にぽつんと寂しそうに座っていた老人がいました。その老人に話を聞くと、「この街は昔から周辺の街に戦争を仕掛けては、そこを破壊してきた。そして、その破壊された街に乗り込んでは、そこを修復し、困っているひとを助けることで信用を得て、その街を自分たちの勢力下においてきた。そうして「征服」された街は、いつのまにかこの街の助けがないと生きて行かれなっていくのだ」。そう、老人は寂しそうにわたしに話してくれたのです。

そのときわたしは、気がついたのです。わたしの街を毎年襲う恐ろしい洪水は、この人たちが起こしていたことを。そう、あの親切で、気さくで、世話好きで、わたしたちのためによく働いてくれた人たちが、わたしたちを毎年苦しめる洪水のもとだったこと。そして、そのことに何年も、何十年も、わたしたちは気がつかなかったことを。

いまとなっては、あの人たちをつけていったことを、とても後悔しています。その街にさえ行かなかったら、わたしたちはいまだに彼らのことを救い主だと思っていたに違いありません。そして、未来永劫続く楽しい時間を教授できたかもしれません。しかし、すべてを知ってしまったいま、その人たちと前のように笑いあうことは、わたしたちにはけっしてできなくなってしまいました。あの人たちがこれまでわたしたちにしてくれたことはとっても感謝しているのだけれど、それでも、わたしたちは二度と、笑顔を取り戻すことができなくなってしまいました。そして、人間の善意を信じることも………。

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2007年1月28日 (日)

沖縄と米兵~「辺野古へ」のコメントへのレスポンス~

先日の「辺野古へ 」にccoさんからコメントをいただいた。毎度のことで、遅くなってしまったが、この場でお返事したと思う。

まず、ccoさんとは昨年12月のクリスマスにはじめて直接お会いした。また、それ以前から、わたしのブログにしばしばいらっしゃってくださっている。そういう方と、こうして意見のやりとりができるのは、ネットの世界ならではで、うれしいことだ。

さて、先の記事で辺野古に行きたいと行った彼女(わたしの講義の受講生)が沖縄や辺野古についてどう見ているのかは、わたしが知る由もない。ccoさんの質問の主旨は、おそらくわたしが辺野古の、つまり、辺野古で基地拡張の反対闘争をしている人たちをどう思っているなということなのだろうと解釈している。

わたしは基本的に地域のことは地域で決めるべきだと考えている。当事者性がなかったり、薄かったりする問題についてあれこれ介入することはよくないことだと思っている。また、ある問題のなかで当事者性のあることに限っては発言が許されると考えているものの、それ以外はなるべく当事者の意見を尊重すべきだと、基本的にわたしは考えている。

その上でのことであるが、辺野古の場合、それ(地域問題に関する地域の「自決権」)が貫徹されていないのではないかと思っている。また、別の側面では、辺野古でおこっている問題は、地域的な問題であるとと同時に国家的な問題でもあり、日米国家間の問題でもあり、グローバルな問題でもある。だから、日本在住の一市民であるわたしにもわずかな当事者性と発生している問題についての「責任」があるように思うので、控え気味にではあるが、発言する余地がわたしにもあるだろうと思う。

さて、地域の「自決権」「自己決定権」とは、どんなものであろうか。辺野古で起きている問題については、それを争点に選挙をして住民が意思表示をするにしても、名護市の選挙になると人口の少ない辺野古地区の人びとの意見は、それが例え一致していたとしても通りにくい。沖縄県の選挙だと他の争点に紛れてしまう。また、それは、この問題を争点化するのを避けたい人たちがする一種の隠蔽工作という側面もあるだろう。とにかく、辺野古の人たちは賛成にしろ、反対にしろ、自分たちに地域に関する「自決権」「自己決定権」を充分行使できないでいる。そして、その理由を住民の意見が割れていることに帰着させることは、やはり無理であり、間違っていると思う。辺野古地区外の大きな力、小さな力が無数に絡み合い、関連しあって、そこで起きた矛盾があの狭い地域に集約され、それが住民を引き裂いているのだろうと思う。

わたし自身は前の記事でも公言しているように辺野古での運動には距離を置いている。だから、辺野古の座り込みには参加したことがないのだが、辺野古には何度か訪れている。街のなかには「社交街」があって、たなびく星条旗が壁一面に殴り書きされている建物もみた。それは、辺野古という街が、米軍と米軍兵士と「共存」してきた証しなのであろう。ccoさんがいっている地域住民と米軍基地に駐留中の“プライベート”な関係もおそらく事実なのだろうと思う。そして、もっといろんなところで辺野古の住民と米兵とは「個人的」な交流をしているのだろうと思う。

なるほど。米軍が今後半永久的に沖縄、なかんずく辺野古に駐留するのであれば、地域住民の方々は米兵となるべく摩擦を起こさないように生活するように考えるだろう。それは生きるための方便であり、米軍や米兵も同じだと思う。米軍も沖縄に駐留するかぎりはそれぞれの地域でなるべく摩擦を起こさないように過ごし、米兵はできれば快適に過ごすために地域住民との交流をはかる。敵視や疑心の中で「共存」することは、つらいことだから。しかし、わたしがこれまでの占領下沖縄の研究の過程で得た認識では、それはけして米兵たちの「個人的」な友好や友情の証しなどではなく、米軍の軍隊としての作戦・工作の一環ではないかと思う。

沖縄に駐留している米兵は、何年も沖縄にとどまったりはしない。期限が来ると帰国したり、他国の基地に移っていく。それは、通常1年とか1年半とかのサイクルだと聞いている。辺野古の住民と米兵との友好・友情関係が個人的なものであり、かつ、深いものであれば、きっと離沖した米兵と個人的な関係が続いてるだろうと思うが、実際はどうなのであろうか。わたしがかつてした聞き取りでは、辺野古ではないが、他の地域在住の牧師のところへ近くの基地のチャプレン(従軍・基地内教会所属牧師)がやってきてたいそう仲よくなり、いろんなことを話したが、そのチャプレンが離沖したあとしばらく続いていた交流が突然とぎれたことが、何度かあるとのことだ。チャプレンが地元の牧師に近づいて何をやっていたのか、また、どんな思惑があったのかは知る由もないが、しかし、だいたいの憶測はつく。

わたしは沖縄の研究をするものでありながらも、辺野古できょうも、そして、いま現在も座り込みをつづけている人たちと、一定の距離を置いている。しかし、その人たちの行為が、無駄で、意味のなことだと思ったことは一度もない。実際に辺野古に座り込んでいる人の中にはいろんな立場の人がいるだろう。そこに「ヘリポート」ができると利害得失を最も被ると自社である地域住民の方々もいるが、なかには座り込みをすることで自分の立場の正当性を証明するためにわざわざ本土からやってくる人もいるだろう。

────辺野古の自然をまもるために座る込みをするほど自然保護に関心があるのなら、まず、自分のところの自然保護運動をして下さい。自分のところでは自然を犠牲にして快適で便利な生活をしながら、辺野古に来たときだけ自然保護を主張するのはおかしいでしょう。

────そんなに辺野古に基地ができることに反対するのであれば、あなたたちは本土に帰って自分のところに普天間基地の移転先を誘致して下さい。あるいは、あなたが住んでいるところの米軍基地を撤去するために動いて下さい。それが沖縄の、辺野古のためにもなりますよ。

以前、沖縄在住のある方からこのように向けられた問いかけの答えを、わたしは未だに探し続けている。

沖縄人であるccoさんの問いかけは、日本人であるわたしの沖縄に対する立場や視座を問いかけているものだろうと思う。そして、それは、沖縄でのわたしの活動の選択肢を著しく制限するかもしれない危険なものであるとも思う。でも、言わなくてはならないことは、いつかは言わなくてならない。

沖縄の住む方々が米軍基地がこれからもずっと存続することを望んでいるのであれば、わたしはその意思を尊重しなくてはなりません。しかし、その理由を米兵との交流に局限化したり、矮小化してもいいものなのでしょうか。

そんなことを沖縄人に向かっていう資格が本土日本人であるわたしにはないことは承知しています。しかし、那覇近辺を生活圏と指定人たちには、この問題について当事者性があるのでしょうか。沖縄に米軍基地があり、辺野古に新しい基地ができることで、回りまわってわたしはその利益の一端を享受するかもしれない。だから、ごくごく間接的で、部分的ではあるけれど、わたしには当事者性の欠片があります。

その責任の一端を担おうと思っているから、わたしは、今もこうして研究を続けているのだと思います。いつか、誰か、わたしがしたささやかな研究の成果を共有し、生かしてくれるのではないかと、淡い期待を夢見つつ………。

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2007年1月25日 (木)

辺野古へ

きょう、非常勤をしていたK女学院の「キリスト教学」の定期試験があり、本年度のK女学院での授業が終わった。今年も、1年間、沖縄の戦後キリスト教史について講義した。このブログで、昨年4月13日と20日に「ガイダンス」と「第1講」をアップして以来中断しているが、講義ではなんとか60年代まで語ることができた。

ところで、答案を回収し終えるとひとりの学生がやってきた。この春休み辺野古へ行きたいと思っているとのこと。以前友人が辺野古で座り込みをやっていたのだという。そこで、話しをきいて自分も行ってみたいと思ったとのこと。

聞けばまだ沖縄には一度もいってことがないという。彼女にとって最初の沖縄は、那覇でも首里でもなく、北谷や美浜でもなく、沖縄島西海岸のリゾートでも、石垣や竹富島、西表島でもなく、宮古でも与那国でもなく、辺野古だということになる。「いきなり………」という気もしないでもないが、どうかいろんなひとに会って、いろんなところを見て、いろいろな現実を知ってほしい。

彼女が辺野古へ行きたいと思ったのはわたしの講義を聴いたからではないが、すくなくとも講義の最後に、その意思表示をして、最初の「沖縄」に辺野古を選んだことが、わたしはとても嬉しかった。

わたし自身は辺野古でのできごとには常々関心をもっているものの、そこでの「直接行動」については距離を置いてきた。一応研究者だということで言い訳をしているが、やはり後ろめたい気持ちはある。それで、その代わりに彼女を、という気は毛頭ない。しかし、わたしにできないことを、ちゃんと決断して、行こうとする若い人に、自分はこの1年で何かを伝えられたのではないか。そう、秘かに自画自賛してみるのだ。

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2006年12月25日 (月)

沖縄のクリスマス

恵まれぬ ひとにとぞいい
         誰(た)がためぞ
   ヘリで飛来す  米兵サンタ

これは、ある人のもとめでその人の「日記」に投稿したものである。

わたしの沖縄の友人である社会福祉施設で施設長をしているG牧師(わたしに沖縄のことをいろいろ教えてくださるひとです)は沖縄のクリスマスについて以下のような話をしてくれた。毎年クリスマス近くになると米軍の関係者から多数「めぐまれない子どもたち」に何か贈りたいがという問い合わせがあるのだという。そこで、G牧師は「あんたたちが沖縄から出て行ってくれることが、わたしたちにとっての一番のクリスマスプレゼントだ」と言い返すのだそうだ。

わたしは、1945年から60年までの『琉球新報』(1951年以前は『ウルマ新報』『うるま新報』)と『沖縄タイムス』を読んだ。その中でも、イースターやクリスマスの時期になると、沖縄の「めぐまれないひとの施設」つまり、当時の孤児院の「厚生園」(現沖縄県立首里厚生園)や「愛隣園」、ハンセン病施設「愛楽園」、それに沖縄各地の児童施設・小学校等々に対して、在沖米軍の兵士や将校、そしてその婦人たちの個人や団体、基地内教会(チャペル)から贈り物が贈られたという「美談」が多数載せられている。

なかには、ヘリコプターで非番の兵士がサンタクロースに扮しておりてきたという記述もあった。「愛楽園へ空からサンタ 七五歩兵の友情」(『沖縄タイムス』    1955年 12月 17日)では、75歩兵戦闘連隊が軍公衛部福祉課リーバーメン少佐とともに愛楽園を訪問しプレゼントを渡したとある。また、「空からサンタ爺さん 与那原の愛隣園に」(『沖縄タイムス』    1956年 12月 24日)では、牧港にあるQM隊がヘリコプターに乗って愛隣園を訪れたとある。冒頭の短歌はこのことを思い出して詠んだものである。

「美談」は批判できない。『沖縄タイムス』は米軍占領下という言論統制下にありながら米軍の占領に対しては批判的な記事を載せていたのだが、このようなさすがに「美談」には抗することができず、結果的に米軍の宣撫工作の一端をになわされてきた(拙稿「戦後沖縄キリスト教史のなかの地域と教会−占領軍の統治政策とキリスト教児童福祉   施設・愛隣園の研究」(『キリスト教史学』第55集、2001年7月、pp185-198)参照)。

そのような構図が、「沖縄返還」(沖縄側から見れば「本土復帰」)後、34回目のクリスマスにもなお存続しているのであろうか。さすがに今日『沖縄タイムス』や『琉球新報』でそのような「美談」が採りあげられることはないが、しかし、そのような米兵の「善意」はこの時期に最もあからさまになる。そして、そのような行為が、米軍が沖縄になお駐留し、日本政府と米国政府が「再占領」統治する沖縄の現状と問題点を「隠蔽」し続けているように思えてならない。

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「痛み」と「癒し」考〜「落差」の一件から考える〜

先日書いた「落差 」に対して、おふたりの方からコメントを頂いた。それぞれ、わたしがこれまで漠然と考えていたことを簡潔に明示して頂けたように思う。こうしてわたしの問いかけに応答し、支えて頂けることはとてもありがたい。

慰霊や追悼と、災害や戦争による犠牲、もしくは、被害には明らかに因果関係がある。しかし、今回のフィールドワークのトークセッション「『痛み』の臨床と精神文化の諸相を知る」で問題となった「痛み」と「癒し」については、その両者間に必ずしもそうした関係があるわけではない。

聖書には苦しみや困難、難儀、「痛み」に類する記述がしばしばでてくる。しかし、そこから逃れる道筋は必ずしも明確ではない。極言すれば、ひとは死によって「神の国」にはいること以外、苦悩や苦悩、「痛み」から救われることはない、と聖書は言う。だから、わたしはキリスト教とは「苦難に耐える力を養う宗教」だと考えている。

結局、キリスト教は、苦悩や苦悩、「痛み」を簡単に「癒し」たりはしはないのだ。むしろ、苦しんだり、「痛み」を感じたりしている過程にこそ、その信仰の真価が発揮されるのではないだろうか。適当に、簡単に癒されたり、解放されたりする「痛み」はたいしたことはない。エジプトとバビロニア、ペルシア等々の大国に挟まれた小国のエルサレムは歴史上何度も蹂躙され、そこに住む人びとは他国へ拉致されもした。そのような土地に生まれたこと自体、すでに大きな苦悩や苦悩、「痛み」を負っていることである。そうであれば、そこからの解放など簡単に望んでも望めないことだ。ひとは、自分自身の努力では克服できない巨大で、根深い問題に直面したときに、神、あるいは、仏に頼り、そこに信仰が芽吹いていくのではないだろうか。だからこそ、人びとはその苦悩や苦悩、「痛み」に耐えるために祈り、「死による解放」を夢みながら懸命に生きたのではなかったか。

今回のフィールドワークで何回か眼にしたことであるが、何か大きな、つまり、民族的な、あるいは、人類的な「痛み」を措定した上でそれを稀釈し、解消しようとする、あるいは、それらによって「痛み」を負わされているひとや自然を救済すべく祈祷をする型をとった宗教がある。それについて、どうもわたしたちは、「犠牲を慰霊する」のアナロジーで、「痛み」があるから「癒し」が行われる、もしく、行わなければならないと錯覚してきたのではないか。しかし、琉球民族の反映や世界平和への祈りは、それをかなえることを目ざしたそれではないのではないか、としばらくして思うようになった。そこで出会った宗教者は、祈ることで自らや直面するできごとや境遇を上手く利用し、理屈づけをしているようにみえた。それが予定調和的にも見えるし、「事後予言」的でもある。また、現実と願望の乖離が厳然と存在するとき、自らの宗教の教義や理屈を媒介にして、現実の解釈を願望に近づける。そうすることで、現実から来る「痛み」に積極的な意味づけをし、自らを肯定する知恵を、出会った宗教者の方々の発言から感じた。

そのようなに考えると、キリスト教も、今回出会った宗教も、「痛み」を身にうけることを神や仏によるめぐみであると受けとめて、「痛み」をなめ尽くす過程で、人間として、宗教者としての自己を確立して行くように見えた。そのような型の宗教は、キリスト教以外にも多数ある。そのような宗教にとって、「救済」や「癒し」は、「痛み」に対応するものでは決してない。極端にいえば、「救済」や「解放」を自らめざしはしていない宗教すらある。それに加えて、キリスト教の場合、「救済」されるか否かは、信者個人の信仰の篤さに規定されるものではないとされている。「救済」は神の主権の範囲なのであり、個々の人間が救われるか否かは神のみが神の基準に基づいて決定するとされている。キリスト者はそのことに同意をして信仰を告白しているの(はず)であり、それでを「天に宝を積む」ために日々の生活を律して信仰生活を送っているの(はず)である。

その点でいうと、沖縄での「救済」や「癒し」のあり方は、古くは薩摩による搾取や、先島(宮古・八重山)における「孤島苦=島ちゃび」(琉球王府と薩摩による二重の搾取、あるいは、在番の役人が私腹を肥やすための三重の搾取)、近代以降の内国植民地化や、苛烈な皇民化教育、それに反して増大するいわゆる「沖縄差別」等々、直接本人には起因しない「痛み」を背負わされてきた歴史がある。そして、それらが存在したままでそれらに耐える力を養い、それらにこころを折られないよう、自己を励ましてきた。その大きな力になったのは、「字」や「門中(ムンチュー)」の人間関係であり、それらを単位に行われずっと維持されてきた祭でもある。また、民謡(島唄)や踊りもそうだった。『チャンプルー・シングルズ VOL.2 〜平和の願い(戦争と移民)』(東芝EMI)というCDがある。そのなかの、沖縄戦をうたった「戦世ぬセンスル節」(平良万吉唄)や、戦後の民間人捕虜収容所の生活をうたった「PW無情〜PW節」(金城実唄)、「屋嘉節」(松田永忠・石原節子唄)を聴いていると、自分たちのおかれた境遇を島唄というかたちで表現し、それをたくさんの人びとがそれぞれの想いでうたうことによって、悲嘆や決意等々の感情を共有してきたのだと感じた。

「慰霊」や「追悼」、それに「痛み」と「癒し」についてのわたしの視野は、これでも今回ずいぶん広がったように思う。

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2006年3月20日 (月)

会いに行く。

200603202夕方、O先生に会いに沖縄キリスト教学院大学(通称「キリ短」)を訪れた。

97番(琉大線)のバスに乗り、キリスト教短大入口というバス停で降りた。しばらく坂を登っていると、二機の戦闘機がかなり低空を飛んでいく。時刻は午後5時前。きっと太平洋上での演習を終えて、嘉手納基地に帰るのであろう。一昨年、2004年8月13日沖縄国際大学に普天間基地所属のヘリが墜落した。キリ短は西原町翁長の丘の上にある。回りに米軍基地はなく、農村というか、都市近郊のベッドタウンといったこころだが、しかし、沖国大と同じようなことが起きないとも限らない。こちらの方は戦闘機なので、被害は沖国大の比ではないだろうが………。

さて、キリ短は一昨年から4年生の学院大学を併設している。
http://www.ocjc.ac.jp/index.html
この学院は沖縄がまだ米軍の占領下にあった1957年4月9日に、沖縄キリスト教団首里教会内に創設された。現在の位置に移転したのは1989年のことだ。

初代学長は仲里朝章。彼の名前は学院のチャペルの名に残されている。図書館に名前を刻むのはウォルター・クライダー。IBC派遣の宣教師である。明日は、その仲里朝章氏の遺族に会いに行く。

仲里朝章氏には、お会いしたことはないが、志の高い、大きい人である。会ったことはないが、このキリ短に来て、チャペル前の彼の名前を見るたびに、彼に会いに来たような気持ちになる。不思議なことです。

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2006年3月19日 (日)

時間がない。

きょう、午後、久しぶりに沖縄に調査のため来た。

さっそく情報収集のために友人で牧師で、社会福祉施設の施設長で、大学院生のG藤氏に会って、日本キリスト教団沖縄教区のことを聞いた。教区について、わたしは、もう、既に、じゅうぶん深入りをしているので、気にかかることは多かった。

しかし、一番ショックだったのは、今年の1月に、以前聞き取りをした那覇中央教会のO氏が亡くなったことを知ったことだ。O氏は実に温厚な人柄だったが、沖縄戦では北部に疎開しており、その後、戦後の沖縄の沖縄のキリスト教の出発にまさにかかわった人物であった。もっと話を聞きたかった。以前会ったとき、仕事も辞めてこれから時間があるので、一度家に来てゆっくり話して行きなさいといわれていたのに………。昨夏訪れたとき。多忙をいいわけに会いに行かなかった。「そのうちに………」と、思っていた。 まさに痛恨の極みです。

昨年には沖縄諮詢会の文化部長をしていた当山正堅氏のご子息が亡くなられた。まだ、一度もお会いしたことはなかったが、これも本当に痛恨の出来事であった。

時間がない。そして、O氏の手元にあるだろう資料が破棄・散逸するのも恐れています。

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