カテゴリー「沖縄」の15件の記事

2008年4月26日 (土)

次回の学会発表

「宗教と社会」学会第16回学術大会(於南山大学、2008年6月14日、15日)で、下記の研究発表をします。

その他にも、新設学会へのお誘いもあり、その他にもう一つ学会に入ろうと思っています(これは、わたしにとっては初めて「日本」という国家名がついた学会です)。可能であれば、どちらかの学会で研究発表をしたいし、9月のキリスト教史学会でも研究発表をしたいと思います。

他にもいろいろ多忙ですが、何とか頑張ろうと思います。

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【発表趣意書】「軍事占領とキリスト教
       ─1940年代後半の沖縄における教会形成史の研究─」

 『キリスト教年鑑』(2007年版)によると、沖縄県の教会数は338(教派等の本部を含む)。信徒数は38,678人、県全体の人口の2.82%を占めている。沖縄県のキリスト教徒の割合が他よりも高いことはすでに知られている。しかし、教会、および、信徒の地域分布をみると、以下のように興味深いことが分かる。沖縄県の教会と信徒の9割以上は沖縄島に集中しており、これは沖縄県の人口分布とほぼ一致している。ところが、沖縄島では、人口の多い県都・那覇市を含む南部地区よりも、中部地区の方が教会数・信徒数とも多くなっている。また、信徒の対人口比でいうと、南部地区2.39%、中部地区3.76%で、中部地区の方が約1.5%も多い。

 一方、信徒対人口比では、宮古諸島でも1.89%、八重山諸島でも2.08%といずれも日本の他地域よりも高率である。これらの地域は、沖縄島の都市部よりも沖縄独自の宗教性が色濃く残っている。したがって、沖縄のキリスト教徒の割合が高いのは沖縄人の独特の宗教性によるという説は一定の合理性を持っている。しかし、それだけでは、都市化が進んでいる沖縄島南部地区に教会や信徒が集中しており、それ以上に中部地区に集中が見られることの説明がつかない。中部地区には多くの米軍基地が集中している (同地区の全面積の25.82%は米軍基地によって占められている)。このことは、戦後、再開された沖縄のキリスト教伝道が絶対的支配者である米軍の影響を強く受けており、現在でもそれが持続していることを物語っている。そこで、本報告では、沖縄のキリスト教に対する米軍や米国のキリスト教の影響に着目し、その原点である1940年代後半の沖縄のキリスト教や教会形成を分析の対象とする。

 これまで、1940年代後半の沖縄キリスト教史に関する文献史料はほとんどないとされてきた。しかし、当時の関係者が記した手記は未発表のものを含めていくつも存在するし、聞き取り調査も辛うじて可能な状態にある。加えて、占領軍と沖縄人の統治機構内の文書、新聞等々にキリスト教会に関する記述は散見でき、沖縄占領に参加した米軍兵士(沖縄系米国人等々)の手記も存在する。このように従来の研究で触れられてこなかった史料を活用すると、以下のような軍事占領下沖縄のキリスト教の実態が明らかになる。

 沖縄のキリスト教の戦後は、1945年の5月頃にはじまる。この時期、日本本土(以下、「日本」と表記)では空襲が相次ぎ、沖縄では嘉数高地や前田高地で日米両軍による死闘が続いていた。しかし、米軍の占領地であった北中城の島袋の民間人捕虜収容所では米軍のチャプレン(従軍牧師)によるキリスト教の伝道が開始され、6月には洗礼式が執行されたとの記録が残っている。こうして、沖縄戦で生き残った沖縄人信徒と米軍チャプレンやクリスチャンの米兵との出会いがはじまり、キリスト教の集会が形成された。そして、そこに未信者が集まるようになり、次第に教会が形成され、戦争により一時中断していたキリスト教伝道が再開される。

 当時、生き残った沖縄の地域住民は「集団自決」や日本軍による虐待を体験し、戦後は解放軍であったはずの米占領軍の暴虐に曝され、「戦果」や「体当たり」で糊口をしのぐ者もいた。この沖縄キリスト教の再出発を、あるキリスト者は「戦火によって焼きつくされた島における、砲火の洗礼を受け、国から見はなされ、異民族による軍事支配下に生きねばならない人たちの新しい、しかし希望を否定された歴史の始まりであった」と評した。本報告では、その含意をくみとりつつ、新しい史料を読み解くことで、従来の研究や通説化しつつある伝承について批判を加えながら、軍事占領というある種の例外状況下でキリスト教が果たした役割について明らかにしたいと考えている。

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2007年12月15日 (土)

〔速報〕沖縄に行きます。

年末の、押し迫った、何かと、各所、お忙しい時期でしょうが、下記の通り、沖縄を訪問します。

・期 間:2007年12月25日〜30日の6日間
・目的地:沖縄・那覇近辺

今回は、前回8月の調査で目をつけていた1940年代の史料にアプローチする予定です。

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2007年9月30日 (日)

例えその場に、立てなくとも、わたしは、わたしのできることを

昨日、沖縄の宜野湾海浜公園にて、「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が開かれ、11万とも12万ともいわれる人たちが集まったという。他に、八重山・宮古でもそれぞれ数千人の人たちが集まった。その報道を、沖縄の新聞社や放送局のHPで見聞きし、その場に行くことがかなわなかったことを、寂しく感じた。

「例え、いけなくとも、心はひとつ」──とは、とてもいえないけれど、わたしは、わたしのできることをする。高校や中学校の教科書は「集団自決(より実態に即していえば、「強制集団死」)」の他にも不十分なところがいくつもある。そのなかには、学説上の論争になっているものもあるし、仕方がないことでもあるが、学問上不十分なところもある。それらの、過不足を補い、ていねいに学問的位置づけをし、誤りを正していくのは、わたしたち大学の教員の役割であると思う。

講義の授業が始まった。わたしのメインの講義は、後期、いよいよ沖縄戦と戦後占領体制に入っていく。今年は、ことに、沖縄戦の全体像と、「集団自決」、「強制集団死」についてより時間をとって話そうと思う。そして、この問題が、いまだに日本の沖縄支配に利用されていることをていねいに説明したいと思う。

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2007年9月13日 (木)

新しい発見

詳細は、いま、述べることはできないが、今回の東京行きで新しい発見があった。

戦後間もない東京で、「沖縄人キリスト教団」が設立されたというのだ。代表者になっている人物は南洋方面の伝道にも関与した人物らしい。

戦後、「沖縄人」ということをアイデンティティに廃墟の首都・東京でキリスト教団が設立された。日本基督教団から離脱したのだろうか。それとも、………。

詳細はわからないが、「沖縄キリスト教史」の射程は、さらに、入り組んで、遠くに広がっていく。

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2007年9月 6日 (木)

「幸福」の二者択一!!

この土曜、ある市民向けの講座で話をすることになっている。テーマは、「自己の『幸福』と他者の『幸福』〜沖縄の戦後史からみた『断裂』と『連帯』〜」。

毎年500万人余りの観光客が訪れる沖縄。これら沖縄県全体の人口137万人の3.65倍。その大半が、沖縄には“癒し”を求めてくる。自分のみが“癒される”ことを求めて、観光客たちは沖縄を訪れ、本土資本や外資のホテルに数日滞在し、チェーン化した土産物屋でたんまり消費して帰っていく。

自己の「幸福」と他者の「幸福」。もっとはっきり言えばよかったと思う。つまり、自分の「幸福」と他人の「幸福」が矛盾したとき、人間はどう行動するか、それを沖縄の戦後史に則しながら考えて行きたい。

沖縄の訪問者は、専ら自分や自分たちの「幸福」には大層興味あるようだが、沖縄に住む人びと達の「幸福」には興味がない。彼ら、彼女らは自ら“癒されたい”と思っているが、沖縄のひとの“癒し”には興味がない。加えて、沖縄の「暗部」や「傷痕」は隠蔽されているのだ。

さあ、そこから、どう沖縄の、そして、沖縄人たちの「幸福」を切り開いていくか。それは、難問だ。しかも、わたしは、当事者ではない。そう、沖縄人ではなく、自らが批判しようとする人びとの側と共に生活をしている。

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2007年8月30日 (木)

何のために、わたしは、この道を行くのか。

公文書館での史料収集を終え、夕方、西原町に向かった。沖縄教区のY牧師とO牧師にお会いするためだ。

Y牧師は、先日刊行された拙稿「日本基督教団における沖縄教会観の起源とその変遷」 のなかに登場する人物である。そのご当人から、拙稿に対する批評を頂いた。そのなかで、一つ、わたしが誤解していたところがある。それは、Y牧師が1966年8月、日本キリスト教団の主催で開催された「第十七回夏季教師講習会」で沖縄教会の代表として出席した経緯だ(こう書くと、Y牧師が何方なのか関係者にはわかってしまうが)。

わたしは、「比嘉盛仁・沖縄キリスト教団理事長」の代わりにこの講習会に出席したと書いた。Y牧師にご指摘頂いたのは、まず、当時は沖縄キリスト教団の代表は「理事長」ではなく、「議長」であったこと。確かに、沖縄キリスト教団は、1962年の総会で「教憲教規」を制定し、主湯教報人規則を一部変更した。その際、「理事長」は「議長」と改称されている。

そして、今ひとつは、Y牧師が代理で出席したのは比嘉盛仁・沖縄キリスト教団議長ではなく、比嘉盛二郎・同副議長の代わりであったことである。

これは、確かに重大な事実の誤認である。いつか拙稿を別のかたちで交換する際に訂正しなければいけないが、取り急ぎここに記しておきたいと思う。

さて、久しぶりにお会いしたY牧師もO牧師もお元気で、現在の沖縄教区のこと、日本キリスト教団のことなど、たくさんお話しをして頂いた。こうして、戦後、米軍占領下の沖縄で占領軍と渡り合いつつ、牧会に携わられ、「合同」・復帰後は日本政府や日本教団と対峙してこられたおふたりからは、お会いするたびに、新しい課題を頂く。そして、わたしが、何のために、この道を歩いているのか。この、だれも通ってこなかった、道を歩いていくのか。おふたりには、わたしの研究成果を見て頂きつつ、その研究の意義も再認識させられる。

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2007年8月29日 (水)

残されたもの、その声を聞きながら………

さて、フィールドワーク3日目。

沖縄キリスト教史に関して、1940年代の史料はほとんどないと言われていた。いってみれば、それに挑戦してきた日々なのだが、記録を残すことにこだわりをもつ人は、どの時代にもいる。

きのうときょう、沖縄県公文書館で蒐集した史料は、実は、個人が自らの意思で保存した資料を遺族が公文書館に寄贈したものだ。

そのような個人的営為があってわれわれ歴史家は、はじめて史料に触れることができるのだ。そして、公文書館・図書館は、故人や遺族の意をくんでそれを分け隔てなく公開する。公開された資料が、従来支配者やエリートが構築してきた歴史を揺るがすことになる。

つまり、公文書館や図書館は民主主義の砦。

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2007年4月23日 (月)

沖縄の選択

「速報」につき、要点のみ。“ウラ”が取れていないものもあるので、転載不可。

参議院議員沖縄選挙区補選が終わった。結果は与党自民党・公明党の候補、島尻安伊子氏が当選。野党共闘の候補、狩俣吉正氏との得票差は27,018票。投票率47.81%。

候補とは直接関係ないが島尻氏の夫君である島尻昇氏は元民主党沖縄県連の代表だという。詳細は確認していないこともあるので省くが、過去に何度も国政選挙に立候補しているらしい。

島尻氏自身ももともと民主党の那覇市議。加えていうならば、宮城県出身。つまり、沖縄出身者ではないのだが、恐らく沖縄出身者以外で初の参議院議員ではないだろうか。

今回の選挙では基地問題も憲法問題も争点にならずというが、沖縄の人びとにとって生活の問題は切実な問題なのであろう。生活の問題は沖縄にとっては「本土並み」を体現することでもあるのだろう。先の本土出身者の参議院議員の出現と併せて、基地問題を置き去りにしたまま、本土化が進んでいく。そこには、ポスト・コロニアルな問題があるのだが………。

翻って、自分の問題として外交や軍事の問題と生活の問題とを結びつける視点をわたしはもっているのだろうか。それを、どう表現し実践しているのだろうか。昨年の沖縄県知事選挙に続いて、今回も「敗北感」をいまは抱いている。しかし、上記の問題と問題を一介の研究者として丁寧に結びつけていきたい。

【付記】
同日行われた宜野湾市長選挙では革新候補の伊波洋一氏が当選した。

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2007年2月 2日 (金)

ある寓話

ある大きな川沿いにある、中っくらいの街のお話しです。

その街は、夏になると、たいした雨が降ったわけでもないのに、毎年決まって洪水に襲われていました。それは、わたしが、まだ、生まれる前のことでしたが、そんなにずっと前からではなく、つい最近のことでもありませんでした。ただ、ずーっとそこに住んでいるわたしの両親や祖父母たちが忘れてしまうぐらい前のことでした。

そして、ある年のこと、また夏になって、恐ろしい洪水がやってきました。まだ、小さかったわたしは、ずいぶん恐ろしい思いをしていました。ところが、その年から、洪水が終わると、どこからともなく知らない人たちがやってきて、わたしたちのための食料を配りはじめました。そして、傷ついた人の手当をし、お金に困っている人には義捐金をくれました。また、壊れた家を片づけ、泥だらけの道路を掃除し、悪い病気がはやらないように消毒をして回りました。決壊した川の堤防もとっても早く直してくれたのです。

その知らない人たちは、翌年も、そのまた翌年も、決まって洪水が終わるとやってきました。わたしたちは、はじめ、その人たちのことを不思議にも思ったし、気味悪くも思っていました。しかし、そんなことが何年も、何年も続くと、知り合いも増え、わたしたちとの交流も少しずつ盛んになってきました。

わたしたちは、はじめその人たちの話していることばがわかりませんでしたが、その人たちが建て直してくれた学校で、その人たちの話していることばを学ぶことができるようになりました。わたしたちのことばの先生はその人たちのなかで一番偉い位にいる人で、賢く、優しそうな人でした。

それから、その人たちと片言の話ができるようになるまでちょっと時間はかかりましたが、その分だけわたしたちとその人たちの絆は深まった気がしました。それは、なにより、その人たちが親切で、暖かく、また、人なつっこく、よく働く人であったからです。ですから、わたしたちは、恐ろしい洪水もそのときをしのげば、またきっとあの人たちが助けに来てくれる。そして、あの人たちがこの街にいる間は、あの人たちから珍しいお土産をもらい、知らない国のお話を聞き、楽しい時間が過ごせるようになると考えて、知らず知らずのうちにあの恐ろしかった洪水を心待ちにするようになっていたのです。

ところが、もうじゅうぶん大人になったわたしは、ある日突然、本当に唐突に、その人たちがどんなひとなのか、知りたくなっていました。それで、ある年の夏、いつものように洪水がやってきて、その人たちがどこからともなく、「やあ」とやってきて、後片づけやら何やらをさっと片づけて、ひと月ほど街のみんなと楽しい時間を去っていったとき、わたしはその人たちに気付かれないように、そっとあとをつけたのでした。

何日も、何日も、その人たちに気付かれないようについて行くのは大変でした。彼らは、険しい川沿いの山道や崖を、上流のほうへ進んでいきました。そして、半月くらい行ったときのことです。わたしたちはやっとその人たちが住む、上流の、大きな街に着きました。するとそこは高い城壁でまもられた要塞のような街でした。門番がいたり、検問があったり、いろいろ大変でしたが、何とかその街にはいることができました。

そこでは、男の人も女の人も、大人も子どもも忙しなく歩き回り、働いたり、学んだりしていました。そして、いくつもある空港からは、どこかと戦争でも始めたのでしょうか、戦闘機や輸送機が、絶え間なく離発着を繰り返していました。わたしは、そこで見たひとびとの顔が、わたしの中くらいの街で親切にわたしたちを助けてくれていた人々と同じようには、とうてい思えませんでした。

しばらくあてもなく歩き回っていると、広場にぽつんと寂しそうに座っていた老人がいました。その老人に話を聞くと、「この街は昔から周辺の街に戦争を仕掛けては、そこを破壊してきた。そして、その破壊された街に乗り込んでは、そこを修復し、困っているひとを助けることで信用を得て、その街を自分たちの勢力下においてきた。そうして「征服」された街は、いつのまにかこの街の助けがないと生きて行かれなっていくのだ」。そう、老人は寂しそうにわたしに話してくれたのです。

そのときわたしは、気がついたのです。わたしの街を毎年襲う恐ろしい洪水は、この人たちが起こしていたことを。そう、あの親切で、気さくで、世話好きで、わたしたちのためによく働いてくれた人たちが、わたしたちを毎年苦しめる洪水のもとだったこと。そして、そのことに何年も、何十年も、わたしたちは気がつかなかったことを。

いまとなっては、あの人たちをつけていったことを、とても後悔しています。その街にさえ行かなかったら、わたしたちはいまだに彼らのことを救い主だと思っていたに違いありません。そして、未来永劫続く楽しい時間を教授できたかもしれません。しかし、すべてを知ってしまったいま、その人たちと前のように笑いあうことは、わたしたちにはけっしてできなくなってしまいました。あの人たちがこれまでわたしたちにしてくれたことはとっても感謝しているのだけれど、それでも、わたしたちは二度と、笑顔を取り戻すことができなくなってしまいました。そして、人間の善意を信じることも………。

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2007年1月28日 (日)

沖縄と米兵~「辺野古へ」のコメントへのレスポンス~

先日の「辺野古へ 」にccoさんからコメントをいただいた。毎度のことで、遅くなってしまったが、この場でお返事したと思う。

まず、ccoさんとは昨年12月のクリスマスにはじめて直接お会いした。また、それ以前から、わたしのブログにしばしばいらっしゃってくださっている。そういう方と、こうして意見のやりとりができるのは、ネットの世界ならではで、うれしいことだ。

さて、先の記事で辺野古に行きたいと行った彼女(わたしの講義の受講生)が沖縄や辺野古についてどう見ているのかは、わたしが知る由もない。ccoさんの質問の主旨は、おそらくわたしが辺野古の、つまり、辺野古で基地拡張の反対闘争をしている人たちをどう思っているなということなのだろうと解釈している。

わたしは基本的に地域のことは地域で決めるべきだと考えている。当事者性がなかったり、薄かったりする問題についてあれこれ介入することはよくないことだと思っている。また、ある問題のなかで当事者性のあることに限っては発言が許されると考えているものの、それ以外はなるべく当事者の意見を尊重すべきだと、基本的にわたしは考えている。

その上でのことであるが、辺野古の場合、それ(地域問題に関する地域の「自決権」)が貫徹されていないのではないかと思っている。また、別の側面では、辺野古でおこっている問題は、地域的な問題であるとと同時に国家的な問題でもあり、日米国家間の問題でもあり、グローバルな問題でもある。だから、日本在住の一市民であるわたしにもわずかな当事者性と発生している問題についての「責任」があるように思うので、控え気味にではあるが、発言する余地がわたしにもあるだろうと思う。

さて、地域の「自決権」「自己決定権」とは、どんなものであろうか。辺野古で起きている問題については、それを争点に選挙をして住民が意思表示をするにしても、名護市の選挙になると人口の少ない辺野古地区の人びとの意見は、それが例え一致していたとしても通りにくい。沖縄県の選挙だと他の争点に紛れてしまう。また、それは、この問題を争点化するのを避けたい人たちがする一種の隠蔽工作という側面もあるだろう。とにかく、辺野古の人たちは賛成にしろ、反対にしろ、自分たちに地域に関する「自決権」「自己決定権」を充分行使できないでいる。そして、その理由を住民の意見が割れていることに帰着させることは、やはり無理であり、間違っていると思う。辺野古地区外の大きな力、小さな力が無数に絡み合い、関連しあって、そこで起きた矛盾があの狭い地域に集約され、それが住民を引き裂いているのだろうと思う。

わたし自身は前の記事でも公言しているように辺野古での運動には距離を置いている。だから、辺野古の座り込みには参加したことがないのだが、辺野古には何度か訪れている。街のなかには「社交街」があって、たなびく星条旗が壁一面に殴り書きされている建物もみた。それは、辺野古という街が、米軍と米軍兵士と「共存」してきた証しなのであろう。ccoさんがいっている地域住民と米軍基地に駐留中の“プライベート”な関係もおそらく事実なのだろうと思う。そして、もっといろんなところで辺野古の住民と米兵とは「個人的」な交流をしているのだろうと思う。

なるほど。米軍が今後半永久的に沖縄、なかんずく辺野古に駐留するのであれば、地域住民の方々は米兵となるべく摩擦を起こさないように生活するように考えるだろう。それは生きるための方便であり、米軍や米兵も同じだと思う。米軍も沖縄に駐留するかぎりはそれぞれの地域でなるべく摩擦を起こさないように過ごし、米兵はできれば快適に過ごすために地域住民との交流をはかる。敵視や疑心の中で「共存」することは、つらいことだから。しかし、わたしがこれまでの占領下沖縄の研究の過程で得た認識では、それはけして米兵たちの「個人的」な友好や友情の証しなどではなく、米軍の軍隊としての作戦・工作の一環ではないかと思う。

沖縄に駐留している米兵は、何年も沖縄にとどまったりはしない。期限が来ると帰国したり、他国の基地に移っていく。それは、通常1年とか1年半とかのサイクルだと聞いている。辺野古の住民と米兵との友好・友情関係が個人的なものであり、かつ、深いものであれば、きっと離沖した米兵と個人的な関係が続いてるだろうと思うが、実際はどうなのであろうか。わたしがかつてした聞き取りでは、辺野古ではないが、他の地域在住の牧師のところへ近くの基地のチャプレン(従軍・基地内教会所属牧師)がやってきてたいそう仲よくなり、いろんなことを話したが、そのチャプレンが離沖したあとしばらく続いていた交流が突然とぎれたことが、何度かあるとのことだ。チャプレンが地元の牧師に近づいて何をやっていたのか、また、どんな思惑があったのかは知る由もないが、しかし、だいたいの憶測はつく。

わたしは沖縄の研究をするものでありながらも、辺野古できょうも、そして、いま現在も座り込みをつづけている人たちと、一定の距離を置いている。しかし、その人たちの行為が、無駄で、意味のなことだと思ったことは一度もない。実際に辺野古に座り込んでいる人の中にはいろんな立場の人がいるだろう。そこに「ヘリポート」ができると利害得失を最も被ると自社である地域住民の方々もいるが、なかには座り込みをすることで自分の立場の正当性を証明するためにわざわざ本土からやってくる人もいるだろう。

────辺野古の自然をまもるために座る込みをするほど自然保護に関心があるのなら、まず、自分のところの自然保護運動をして下さい。自分のところでは自然を犠牲にして快適で便利な生活をしながら、辺野古に来たときだけ自然保護を主張するのはおかしいでしょう。

────そんなに辺野古に基地ができることに反対するのであれば、あなたたちは本土に帰って自分のところに普天間基地の移転先を誘致して下さい。あるいは、あなたが住んでいるところの米軍基地を撤去するために動いて下さい。それが沖縄の、辺野古のためにもなりますよ。

以前、沖縄在住のある方からこのように向けられた問いかけの答えを、わたしは未だに探し続けている。

沖縄人であるccoさんの問いかけは、日本人であるわたしの沖縄に対する立場や視座を問いかけているものだろうと思う。そして、それは、沖縄でのわたしの活動の選択肢を著しく制限するかもしれない危険なものであるとも思う。でも、言わなくてはならないことは、いつかは言わなくてならない。

沖縄の住む方々が米軍基地がこれからもずっと存続することを望んでいるのであれば、わたしはその意思を尊重しなくてはなりません。しかし、その理由を米兵との交流に局限化したり、矮小化してもいいものなのでしょうか。

そんなことを沖縄人に向かっていう資格が本土日本人であるわたしにはないことは承知しています。しかし、那覇近辺を生活圏と指定人たちには、この問題について当事者性があるのでしょうか。沖縄に米軍基地があり、辺野古に新しい基地ができることで、回りまわってわたしはその利益の一端を享受するかもしれない。だから、ごくごく間接的で、部分的ではあるけれど、わたしには当事者性の欠片があります。

その責任の一端を担おうと思っているから、わたしは、今もこうして研究を続けているのだと思います。いつか、誰か、わたしがしたささやかな研究の成果を共有し、生かしてくれるのではないかと、淡い期待を夢見つつ………。

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2007年1月25日 (木)

辺野古へ

きょう、非常勤をしていたK女学院の「キリスト教学」の定期試験があり、本年度のK女学院での授業が終わった。今年も、1年間、沖縄の戦後キリスト教史について講義した。このブログで、昨年4月13日と20日に「ガイダンス」と「第1講」をアップして以来中断しているが、講義ではなんとか60年代まで語ることができた。

ところで、答案を回収し終えるとひとりの学生がやってきた。この春休み辺野古へ行きたいと思っているとのこと。以前友人が辺野古で座り込みをやっていたのだという。そこで、話しをきいて自分も行ってみたいと思ったとのこと。

聞けばまだ沖縄には一度もいってことがないという。彼女にとって最初の沖縄は、那覇でも首里でもなく、北谷や美浜でもなく、沖縄島西海岸のリゾートでも、石垣や竹富島、西表島でもなく、宮古でも与那国でもなく、辺野古だということになる。「いきなり………」という気もしないでもないが、どうかいろんなひとに会って、いろんなところを見て、いろいろな現実を知ってほしい。

彼女が辺野古へ行きたいと思ったのはわたしの講義を聴いたからではないが、すくなくとも講義の最後に、その意思表示をして、最初の「沖縄」に辺野古を選んだことが、わたしはとても嬉しかった。

わたし自身は辺野古でのできごとには常々関心をもっているものの、そこでの「直接行動」については距離を置いてきた。一応研究者だということで言い訳をしているが、やはり後ろめたい気持ちはある。それで、その代わりに彼女を、という気は毛頭ない。しかし、わたしにできないことを、ちゃんと決断して、行こうとする若い人に、自分はこの1年で何かを伝えられたのではないか。そう、秘かに自画自賛してみるのだ。

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2006年12月25日 (月)

沖縄のクリスマス

恵まれぬ ひとにとぞいい
         誰(た)がためぞ
   ヘリで飛来す  米兵サンタ

これは、ある人のもとめでその人の「日記」に投稿したものである。

わたしの沖縄の友人である社会福祉施設で施設長をしているG牧師(わたしに沖縄のことをいろいろ教えてくださるひとです)は沖縄のクリスマスについて以下のような話をしてくれた。毎年クリスマス近くになると米軍の関係者から多数「めぐまれない子どもたち」に何か贈りたいがという問い合わせがあるのだという。そこで、G牧師は「あんたたちが沖縄から出て行ってくれることが、わたしたちにとっての一番のクリスマスプレゼントだ」と言い返すのだそうだ。

わたしは、1945年から60年までの『琉球新報』(1951年以前は『ウルマ新報』『うるま新報』)と『沖縄タイムス』を読んだ。その中でも、イースターやクリスマスの時期になると、沖縄の「めぐまれないひとの施設」つまり、当時の孤児院の「厚生園」(現沖縄県立首里厚生園)や「愛隣園」、ハンセン病施設「愛楽園」、それに沖縄各地の児童施設・小学校等々に対して、在沖米軍の兵士や将校、そしてその婦人たちの個人や団体、基地内教会(チャペル)から贈り物が贈られたという「美談」が多数載せられている。

なかには、ヘリコプターで非番の兵士がサンタクロースに扮しておりてきたという記述もあった。「愛楽園へ空からサンタ 七五歩兵の友情」(『沖縄タイムス』    1955年 12月 17日)では、75歩兵戦闘連隊が軍公衛部福祉課リーバーメン少佐とともに愛楽園を訪問しプレゼントを渡したとある。また、「空からサンタ爺さん 与那原の愛隣園に」(『沖縄タイムス』    1956年 12月 24日)では、牧港にあるQM隊がヘリコプターに乗って愛隣園を訪れたとある。冒頭の短歌はこのことを思い出して詠んだものである。

「美談」は批判できない。『沖縄タイムス』は米軍占領下という言論統制下にありながら米軍の占領に対しては批判的な記事を載せていたのだが、このようなさすがに「美談」には抗することができず、結果的に米軍の宣撫工作の一端をになわされてきた(拙稿「戦後沖縄キリスト教史のなかの地域と教会−占領軍の統治政策とキリスト教児童福祉   施設・愛隣園の研究」(『キリスト教史学』第55集、2001年7月、pp185-198)参照)。

そのような構図が、「沖縄返還」(沖縄側から見れば「本土復帰」)後、34回目のクリスマスにもなお存続しているのであろうか。さすがに今日『沖縄タイムス』や『琉球新報』でそのような「美談」が採りあげられることはないが、しかし、そのような米兵の「善意」はこの時期に最もあからさまになる。そして、そのような行為が、米軍が沖縄になお駐留し、日本政府と米国政府が「再占領」統治する沖縄の現状と問題点を「隠蔽」し続けているように思えてならない。

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「痛み」と「癒し」考〜「落差」の一件から考える〜

先日書いた「落差 」に対して、おふたりの方からコメントを頂いた。それぞれ、わたしがこれまで漠然と考えていたことを簡潔に明示して頂けたように思う。こうしてわたしの問いかけに応答し、支えて頂けることはとてもありがたい。

慰霊や追悼と、災害や戦争による犠牲、もしくは、被害には明らかに因果関係がある。しかし、今回のフィールドワークのトークセッション「『痛み』の臨床と精神文化の諸相を知る」で問題となった「痛み」と「癒し」については、その両者間に必ずしもそうした関係があるわけではない。

聖書には苦しみや困難、難儀、「痛み」に類する記述がしばしばでてくる。しかし、そこから逃れる道筋は必ずしも明確ではない。極言すれば、ひとは死によって「神の国」にはいること以外、苦悩や苦悩、「痛み」から救われることはない、と聖書は言う。だから、わたしはキリスト教とは「苦難に耐える力を養う宗教」だと考えている。

結局、キリスト教は、苦悩や苦悩、「痛み」を簡単に「癒し」たりはしはないのだ。むしろ、苦しんだり、「痛み」を感じたりしている過程にこそ、その信仰の真価が発揮されるのではないだろうか。適当に、簡単に癒されたり、解放されたりする「痛み」はたいしたことはない。エジプトとバビロニア、ペルシア等々の大国に挟まれた小国のエルサレムは歴史上何度も蹂躙され、そこに住む人びとは他国へ拉致されもした。そのような土地に生まれたこと自体、すでに大きな苦悩や苦悩、「痛み」を負っていることである。そうであれば、そこからの解放など簡単に望んでも望めないことだ。ひとは、自分自身の努力では克服できない巨大で、根深い問題に直面したときに、神、あるいは、仏に頼り、そこに信仰が芽吹いていくのではないだろうか。だからこそ、人びとはその苦悩や苦悩、「痛み」に耐えるために祈り、「死による解放」を夢みながら懸命に生きたのではなかったか。

今回のフィールドワークで何回か眼にしたことであるが、何か大きな、つまり、民族的な、あるいは、人類的な「痛み」を措定した上でそれを稀釈し、解消しようとする、あるいは、それらによって「痛み」を負わされているひとや自然を救済すべく祈祷をする型をとった宗教がある。それについて、どうもわたしたちは、「犠牲を慰霊する」のアナロジーで、「痛み」があるから「癒し」が行われる、もしく、行わなければならないと錯覚してきたのではないか。しかし、琉球民族の反映や世界平和への祈りは、それをかなえることを目ざしたそれではないのではないか、としばらくして思うようになった。そこで出会った宗教者は、祈ることで自らや直面するできごとや境遇を上手く利用し、理屈づけをしているようにみえた。それが予定調和的にも見えるし、「事後予言」的でもある。また、現実と願望の乖離が厳然と存在するとき、自らの宗教の教義や理屈を媒介にして、現実の解釈を願望に近づける。そうすることで、現実から来る「痛み」に積極的な意味づけをし、自らを肯定する知恵を、出会った宗教者の方々の発言から感じた。

そのようなに考えると、キリスト教も、今回出会った宗教も、「痛み」を身にうけることを神や仏によるめぐみであると受けとめて、「痛み」をなめ尽くす過程で、人間として、宗教者としての自己を確立して行くように見えた。そのような型の宗教は、キリスト教以外にも多数ある。そのような宗教にとって、「救済」や「癒し」は、「痛み」に対応するものでは決してない。極端にいえば、「救済」や「解放」を自らめざしはしていない宗教すらある。それに加えて、キリスト教の場合、「救済」されるか否かは、信者個人の信仰の篤さに規定されるものではないとされている。「救済」は神の主権の範囲なのであり、個々の人間が救われるか否かは神のみが神の基準に基づいて決定するとされている。キリスト者はそのことに同意をして信仰を告白しているの(はず)であり、それでを「天に宝を積む」ために日々の生活を律して信仰生活を送っているの(はず)である。

その点でいうと、沖縄での「救済」や「癒し」のあり方は、古くは薩摩による搾取や、先島(宮古・八重山)における「孤島苦=島ちゃび」(琉球王府と薩摩による二重の搾取、あるいは、在番の役人が私腹を肥やすための三重の搾取)、近代以降の内国植民地化や、苛烈な皇民化教育、それに反して増大するいわゆる「沖縄差別」等々、直接本人には起因しない「痛み」を背負わされてきた歴史がある。そして、それらが存在したままでそれらに耐える力を養い、それらにこころを折られないよう、自己を励ましてきた。その大きな力になったのは、「字」や「門中(ムンチュー)」の人間関係であり、それらを単位に行われずっと維持されてきた祭でもある。また、民謡(島唄)や踊りもそうだった。『チャンプルー・シングルズ VOL.2 〜平和の願い(戦争と移民)』(東芝EMI)というCDがある。そのなかの、沖縄戦をうたった「戦世ぬセンスル節」(平良万吉唄)や、戦後の民間人捕虜収容所の生活をうたった「PW無情〜PW節」(金城実唄)、「屋嘉節」(松田永忠・石原節子唄)を聴いていると、自分たちのおかれた境遇を島唄というかたちで表現し、それをたくさんの人びとがそれぞれの想いでうたうことによって、悲嘆や決意等々の感情を共有してきたのだと感じた。

「慰霊」や「追悼」、それに「痛み」と「癒し」についてのわたしの視野は、これでも今回ずいぶん広がったように思う。

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2006年3月20日 (月)

会いに行く。

200603202夕方、O先生に会いに沖縄キリスト教学院大学(通称「キリ短」)を訪れた。

97番(琉大線)のバスに乗り、キリスト教短大入口というバス停で降りた。しばらく坂を登っていると、二機の戦闘機がかなり低空を飛んでいく。時刻は午後5時前。きっと太平洋上での演習を終えて、嘉手納基地に帰るのであろう。一昨年、2004年8月13日沖縄国際大学に普天間基地所属のヘリが墜落した。キリ短は西原町翁長の丘の上にある。回りに米軍基地はなく、農村というか、都市近郊のベッドタウンといったこころだが、しかし、沖国大と同じようなことが起きないとも限らない。こちらの方は戦闘機なので、被害は沖国大の比ではないだろうが………。

さて、キリ短は一昨年から4年生の学院大学を併設している。
http://www.ocjc.ac.jp/index.html
この学院は沖縄がまだ米軍の占領下にあった1957年4月9日に、沖縄キリスト教団首里教会内に創設された。現在の位置に移転したのは1989年のことだ。

初代学長は仲里朝章。彼の名前は学院のチャペルの名に残されている。図書館に名前を刻むのはウォルター・クライダー。IBC派遣の宣教師である。明日は、その仲里朝章氏の遺族に会いに行く。

仲里朝章氏には、お会いしたことはないが、志の高い、大きい人である。会ったことはないが、このキリ短に来て、チャペル前の彼の名前を見るたびに、彼に会いに来たような気持ちになる。不思議なことです。

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2006年3月19日 (日)

時間がない。

きょう、午後、久しぶりに沖縄に調査のため来た。

さっそく情報収集のために友人で牧師で、社会福祉施設の施設長で、大学院生のG藤氏に会って、日本キリスト教団沖縄教区のことを聞いた。教区について、わたしは、もう、既に、じゅうぶん深入りをしているので、気にかかることは多かった。

しかし、一番ショックだったのは、今年の1月に、以前聞き取りをした那覇中央教会のO氏が亡くなったことを知ったことだ。O氏は実に温厚な人柄だったが、沖縄戦では北部に疎開しており、その後、戦後の沖縄の沖縄のキリスト教の出発にまさにかかわった人物であった。もっと話を聞きたかった。以前会ったとき、仕事も辞めてこれから時間があるので、一度家に来てゆっくり話して行きなさいといわれていたのに………。昨夏訪れたとき。多忙をいいわけに会いに行かなかった。「そのうちに………」と、思っていた。 まさに痛恨の極みです。

昨年には沖縄諮詢会の文化部長をしていた当山正堅氏のご子息が亡くなられた。まだ、一度もお会いしたことはなかったが、これも本当に痛恨の出来事であった。

時間がない。そして、O氏の手元にあるだろう資料が破棄・散逸するのも恐れています。

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