カテゴリー「沖縄」の49件の記事

2009年11月18日 (水)

キリスト教(特にプロテスタント)の排他性〜寛容で協調的なキリスト教は存在するか〜

民主党の小沢一郎幹事長が、先日の仏教関係者との会談で、「キリスト教は排他的」と述べたとのことである。実際には、キリスト教だけではなく、イスラム教も排他的であると述べたという。この件に関して、記事の最後は「キリスト教やイスラム教に対する強い批判は、今後、波紋を広げる可能性もある」とあるが、この記事を読んで、反発するキリスト教関係者もいるだろうが、内心その通りだと思っている関係者もいると思う。

実は、わたしも、キリスト教はだいぶん排他的な宗教で、その排他性を売り物にしてこれまで日本で伝道してきているのではないかと思う。先の小沢氏の発言は無論キリスト教やイスラム教の内実を知った上での発言ではなく、仏教の寛容性を強調したものだろう。その仏教は寛容かといえば、それはすべてそうとは言えないが、頷ける側面もある。だから、少なくともキリスト教は世間様から排他的と見られているということを、キリスト教関係者は肝に銘じるべきであろう。

さて、そのキリスト教の排他性であるが、それは、「外部」に対する排他性だけではない。キリスト教、特にプロテスタントでは、他教派や教派内の対立するものどうしは相当対立しており、互いに排他的でもある。その排他性が、宗教としての伝道活力にもつながってるのだろうが、しかし、この問題は相当深刻でもある。その対立や排他性に関するいくつかの例をあげて、それでも、協調的で寛容なキリスト教のあり方を模索したい。

まず、「プロテスタント日本伝道150周年」をめぐる問題である。わたしの理解では、「日本」のプロテスタント伝道は、欧米の宣教師たちが、ベッテルハイム等による琉球伝道を足がかりに、今から150年前に横浜・長崎に上陸したことするという、琉球伝道と日本本土伝道が連結された“一連”の出来事により開始されたと思われる。そして、日本でのプロテスタントの本格的伝道はそれから数十年を待たなければならなかった、ともいえる。

しかし、プロテスタントの内部にはこうした琉球におけるベッテルハイムの伝道を認識しつつも、頑なに横浜伝道150周年が「日本伝道150周年」であると主張しつづける人びとがいる。この件については、以前にも批判的に述べた。重ねていうが、わたしはこの人たちの排他性が気になってしかたがない。彼らの排他性の刃は、明らかにキリスト教、プロテスタント、そして、日本キリスト教団の内部に向かっている。

そして、最近になって、ベッテルハイムが離琉したあと、ベッテルハイムが沖縄社会でどのように表象されてきたかを調べている。実際には、文献史料は乏しいわけだが、それでも、戦前から少なくとも以下の5回にわたってベッテルハイムに関する記念行事が開催されている。

  (1) 19265月:「博士ベッテルハイム渡来満八拾年記念伝道講演会」「博士ベッテルハイム渡来満八拾年記念礼拝」(5/2)「ベッテルハイム渡来八十年記念運動」(5/18-20)

  (2) 19375月:「ベッテルハイム来島90周年記念式典」と関連行事。ベッテルハイ ムの孫・ベス・プラット夫人来沖。

  (3) 19549月:「ベッテルハイム百年祭行事」:1)頌徳碑修復(琉球政府文教局)2)ベッテルハイムに関するパンフレット出版、3)頌徳記念碑除幕式(9/1)4)「ベッテルハイム百年記念式典並講演会」(9/1)

 (4) 19665月:「ベッテルハイム師沖縄上陸百二十年記念式」(5/3)

 (5) 19965月:「ベッテルハイム来沖15096おきなわ 聖書展」:聖書展・ミニ講演会・特別講演会・ビデオ上映(5/8-13)

そして、特に(1)(3)では沖縄の政界や医師会などを中心にキリスト教徒ではない市民が多数参加している。(2)では、護国寺の名幸芳章住職外2名の仏教関係者の名前も見える。本土復帰後開催された(5)では、本土やカトリック関係から招いた講演者による連続講演会が、教会施設ではなく、複合商業施設で市民に公開された。

こうした、公開性や開放性、エキュメニカルを越えた、宗教の枠を越えたつながりは、「閉鎖的」の対極にあるのではないか。

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2009年10月24日 (土)

「沖縄」の決断か。国民の決断か。はたまた、政府の決断か。〜再び霧のなかの普天間・辺野古〜

────普天間基地の辺野古沖移設か、県外移設か、嘉手納統合か。

この問題を、鳩山由紀夫首相は次期県知事選や名護市長選で示された「沖縄」の民意にしたがうと一時期いっていたという。選挙で示された「民意」をみて態度を決めるというのは、単に民主主義の偽装に過ぎない。そもそも沖縄の米軍基地は「沖縄」の問題ではないのだ。それは、国家の問題であり、国民の問題でもある。それを、なにゆえに、沖縄県民や名護市民に判断するように強要するのだ。

米軍基地が決して日本国民を守るためのものではないことは明白だが、百歩譲ってそのような日米両政府の主張にしたがうにしても、それならなさら、普天間基地周辺の危険性も、守ってもらっている日本国民の問題なのだ。だから、自分が住んでいる地域に積極的に米軍基地を受けいれる意思がないのなら、せめて国民ひとりひとりの判断で、普天間基地の県外移設を足がかりに、沖縄の米軍および日本軍(自衛隊)基地の撤去を目ざして、発言し、日本政府(民主党・国民新党・社民党連立政権)に圧力をかけよう。

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2008年12月20日 (土)

「復帰」と「合同」〜教団は暗闇を見ていたのか〜

ノワール小説やハードボイルドというのは余り趣味ではないので、ほとんど読んだことがない。『不夜城』は映画で見たけれど、馳星周の小説も初めてである。

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弥勒世(みるくゆー) 下 Book 弥勒世(みるくゆー) 下

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歴史は、理想やイデオロギーによって変わることもある(と、信じてる)。しかし、歴史は《きれい事》ではない。汚辱や憤懣に溢れていて、その上、捏造や隠蔽が日常茶飯に行われている。そんな薄い嘘事を引きはがすように、慎重にきれい事では済まされない歴史を描いてみたいと思っている。

本書の舞台は「本土復帰」前、米軍占領下の沖縄島。――そこには、沖縄人どうしによる宮古や奄美への差別があり、アシバー(遊び人、不良、または、ヤクザ)の暗躍があり、売春窟がある。そして、黒人米兵と白人米兵との間に根深い対立があり、米軍やCIAに飼われる「犬」がいる。「犬」は「犬」としての存在に悩み、やがて自我に目覚めたとき、その飼い主の喉笛を噛みきる。

さて、「吉原」は、本書にしばしば出てくる旧コザ市の「特殊飲食街(特飲街)」である。本書では、そこで売春が行われていると書かれているが、その「吉原」 の一角に、日本キリスト教団コザ教会はある。現在の会堂は1965年献堂というから、まさにこの小説の時代に重なっている。

以前、コザ教会で牧会経験がある牧師お二人にお話をうかがったことがある。それによると、コザ教会がこざ「吉原」に隣接する場所に建っているのは、決して偶然ではない。コザ教会は、早世したある神学生(沖縄出身者、同志社神学部の大学院在学)の提案で、「基地の街でも最も人間性が抑圧され、疎外されている地域の一隅」(日本キリスト教団コザ教会『未来への扉—沖縄戦の証言—』(同教会、1998年)p.130)を選んで建てられた。このような尊い志をもとにしてこの教会は建てられたのであるが、その志を通すには相当な困難がともなった。

この「吉原」は、「アシバー」の支配する場所でもあった。

ある日、吉原で働いているひとりの女性が牧師館を訪ねてきた。…(中略)…今のように自分この世界へ転落している原因を語り、生きているのがいやになると。また暴力団の管理からどう逃げることができるのかと、真剣に語った。…(中略)…彼女は、確か3回ほど礼拝に出席してから、それ以後ぷっつりとこなくなった。訪問してみたら、その店にはいないということだった。
教会へ行ったということで、男の人に殴られ、今どこに行ったか、だれも知らないとのこと。これまで教会の庭に来ていた彼女たちは、そのことがあってからは誰一人として来なくなった(名嘉隆一「基地の町に生きる教会」(前掲『未来への扉』に所収)pp.138-139)。

また、教会の前には現在でもちょっとした広場あり、現在はどうなっているか確認していないが、献堂当初はそとにトイレもあった。朝になると、広場の芝生には塵紙や汚物が散乱しており、トイレには嘔吐した後寝込んでしまった女性がいたという。また、広場である時は男女が重なり合ったまま眠り込んでいたともいう。当時は、教会の敷地のなかにあった牧師館に住んでいた牧師と牧師夫人の毎朝の最初の仕事は、それらの汚物や散乱する衣類を片付け、眠り込んでいる女性を起こすことからはじまったという。

その結果、「吉原」と教会の間にはブロック塀ができる。また、牧師は牧師館から離れ、教会と離れたところに住むようになったという。当時の牧師が牧師館を引っ越したその日に、牧師館はボヤで全焼した。これは、キリスト教の惨めな敗北ではない。苦闘の果ての、苦渋の決断であったろう。わたしたちは、この教会の信徒や牧師の苦悩を心に刻むべきであろう。

さて、B52の墜落事故、毒ガス漏れ事件とレッドハット作戦、コザ暴動。そのような混沌は米軍を頂点とする権力構造をも飲み込んでしまっている。そこにやってきた「活動家」と称する日本人たちは、そのような現状を全く把握できないでいる。それでいて、自分たちで沖縄に起こっている事態を解決できると信じ込んでいる節がある。彼らは、強烈な使命感があり(いったい誰に与えられたのだろうか)、その上、自らの良心を信じているだけに、その滑稽さが際だってしまっている。

そのような1970年を前にしたこの時代。日本キリスト教団(日本基督教団)は沖縄キリスト教団と合同した。

そして、その合同を実質化するという名目で、日本の教会関係者による「沖縄セミナー」が、1970年1月、沖縄で開催される。しかし、この試みは初回から躓く。

このセミナーの期間中(第三日)に全軍労の四十八時間ストが決行され、本土出席者の中には、自分の目でこれを確かめるため、また全軍労のストはセミナーに直結する問題であると考えて幾人かがこれに参加した。しかし沖縄ではこのようなことは日常的なことであり、セミナーに参加することこそ、全軍労の人々と行を共にすることである、という考えのようで、本土と沖縄の問題意識は食い違っていた。この二十五年の隔たりからくる意識の食い違いを直視することから、沖縄問題への取り組みははじまることを認識させられた。(「沖縄こそ教団の課題/沖縄セミ終わる」『教団新報』1970年1月24日)

合同した本土教団と沖縄教会の「隔たり」がはっきり現れた瞬間であった。そして、その「隔たり」の認識に沖縄教会は以後敏感になる一方、本土教団ではその後もほとんど自覚されていないように思う。セミナーに参加した本土教団の人々は少なくとも沖縄の教会を理解しようと努力し、いわゆる「沖縄問題」についても問題意識をもっていた。しかし、そのような人々でさえ、沖縄教会が本土教団に何を求めているのか全く理解できなかったということである。第1回沖縄セミナーの後、『教団新報』ではセミナーの参加者から全軍労のストへのカンパが何度も呼びかけられている。わたしは、そのことを批判することはできない。しかし、そこに沖縄教会の問いかけに応える用意はあったのであろうか。

これらに象徴される両者の認識の「隔たり」についての本土教団の過小評価により、わずか2回で中止された。

先述のコザ教会の試みは沖縄の他教会でも見られることであろう。そのような日常の伝道と宣教の営みに、寄り添うこと。それは、本土教団に所属するわたしたちにとって相当難しい、その解決継続中の課題である。

「弥勒世」。「弥勒」だから、現在仏教と強い結びつきがつよい思想というわけではない。しかし、そこに存在する憎しみや恨み、悲しみや苦しみ、混沌と暴力などを乗り越えようとする祈りがそこにある。その祈りに、当時の沖縄教会の人々は心を合わせていたに違いない。その祈りに込められた思いやその意味を、わたしは、少しでも理解したい。本書を読みながら、そう強く思った。

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2008年12月 6日 (土)

過ぎ去った“カコ”を、来るべき“ミライ”に〜池上永一『テンペスト』を読む〜

池上永一の『テンペスト』読了。


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あらすじなどは、野暮なので、詳細は省略する。両方で900ページぐらいの浩瀚な小説だが、数日で読了した。それだけ面白かったのだが、それに加えていくつか示唆を与えられることがあった。

まず、主要な登場人物やどうやら実在しないらしい。生憎、この時代の知識があまりないのだが、おそらくモデルになった人物はいるのだろう。だから、正確な歴史的事実を本書から読み取るのは無理だろうが、だからといって書かれていることは全くのフィクションではない。当然のことながら、一面では歴史の論文よりも当時の人物群像や時代状況が活写されていることはある。

さて、琉球王国は、大陸の中華帝国と「日本」に接する小国である。本書の舞台は、その琉球王国の滅亡期である。その頃には、英国、米国等々の欧米列強が中国から日本本土への足がかりとして琉球王国を席巻しようと、虎視眈々と機会を狙っていた。そんな小国でありながら、琉球王国は、1429年から1879年(72年に琉球王国は琉球藩となっている)の約450年もの間存在し続けたのである。途中、クーデタで王朝が交替し、1609年には薩摩の侵攻を受けて奄美を失い、「保護国」化することもあった。

しかし、それでも王国として存続し続けた。そこに、わたしたちが対面している琉球=沖縄の本質がある。本書で触れられているとおり、琉球王国には中国の科挙に相当する科試(コウシ)が行われていた。その内容は、中国の四書五経を中心とした確かな教養を基盤にして、「答のないところに答を見出していく能力」がタメされるものであったという。こうして、科試に合格した少数精鋭の頭脳集団が、論理の組み立てと文書の力だけによって、周辺の大国や「宗主国」からの無理難題に曝され、西欧列強に圧倒されかねない情勢の中にある諸国・琉球のあるはずがなかった新しい道を見出し、切り開きながら歴史を進んでいったことが、本書から読みとれる。

つまり、わたしが研究対象にしている戦後米軍占領下の沖縄に生きた人びとにもこのような論理の力に「情」による「血流」を生じさせ、難しい局面を切り開く潜在的な能力が備わっていたということである。その片鱗は、調査の過程でも感じていた。史料中の人物の動きや思考、そして、聞き取りや史料収集の過程で出会う人々には、豊かな教養と穏やかな物腰のなかにも芯の強さと渡り合っていく意志のようなものが感じられた。そして、それは『テンペスト』に描かれた琉球王国時代の評定所筆者(主人公が最初に就いた役職)のそれとつながっているのではないかと、わたしは感じた。

そして、わたしは、それを“ミライ”へとつなげてゆきたいと思う。ことばを紡ぎ、文書だけで誰にも打ち負かせない論理を構築し、答のないところに答を見出していく。それを、沖縄の“ミライ”につないでいきたいと思う。

大国は、強大なエゴイストだ。それを、指摘し、批判するだけでは、それがたとえ直接的な行動をもとなったとしても歴史は変わらない。外交と内政の最前線で、ことばで新しい論理を構築しながら、交渉し、相手を立てつつ説得して、自らの有利な方に情勢を導いていった本書の主人公たちのあり方は、その歴史を変えていくための一つの方策を示しているように思う。

彼ら/彼女らの試みは結果的に明治政府による琉球の併合という結果に終わったけれど、歴史は終わっていない。本書のなかで登場する清国の宦官の気味悪さと尊大さは、現在の米国のそれに通じているように思う。同時に、琉球に心を寄せつつも自らの利害にしたがって琉球を蹂躙せざるを得なかった薩摩の侍は、同時に日本本土のある種の人物像にオーバーラップする。筆者の池上氏はそのような暗喩を用い、少年(少女)官僚の思考と行動にに仮託しながら、現状を打破し、歴史を変える試みを、本書で提起しているように思った。

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2008年11月16日 (日)

問われる歴史観〜首里教会創立100周年とベッテルハイム沖縄伝道162周年〜

沖縄の首里教会(現在は日本キリスト教団)は、今年、100周年を迎えた。世の中は、「プロテスタント日本伝道150周年」、そして、先日の「植村正久生誕150周年周年」と、「周年記念」が続いている。

首里教会創立100周年の記念式典の後、1846年に来琉したベッテルハイムの講演が成されたのは、沖縄のキリスト教のある種の特色を表している。そして、壮大なアイロニーにも見えた。

1908年沖縄県公認の首里教会(日本メソヂスト首里教会)は、その頃の沖縄教会でも最も早い時期に教会形成を行っている(那覇地区の教会の方が教会形成の時期が早い)。だとするとベッテルハイムが1954年に離沖した後、1900年までの約40〜50年間、沖縄ではキリスト教の空白期に当たるということだ。

この空白期が生じた原因を、わたしは、かつて、「日本伝道への橋頭堡」ということばで表現した。つまり、中国伝道に行き詰まりを感じていた欧米各教派の宣教師たちは、そして、それらの宣教師を派遣している教派は、日本伝道に教勢のさらなる拡大の可能性を見出そうとしていた。しかし、日本は「鎖国(海禁)」状態で、キリスト教の禁令が布かれていた。そのため、宣教師・宣教師団は、まず、当時の琉球王国に到来し、日本開国の時期をまった。そして、日本本土でキリスト教が「解禁(実際には、黙認)」されると、日本本土に殺到し、沖縄の魂はほおっておかれた。そして、19世紀末になって、やっと、日本人による沖縄伝道が開始された。

この時点での沖縄伝道には、もちろん、欧米の宣教師も参加していた。そして、説教等は日本語で成されたのではないかと、わたしは推測している(なかには、沖縄のことばの達者な日本人牧師もいたらしいが)。沖縄人に対して、日本人の牧師が、日本語で説教をする。これは、朝鮮半島でも、台湾でも見られた構図だ。その一方で、これらの日本人牧師は、沖縄の青年に重大な感化を与え、そして、その感化をうけた幾人かは本土で活躍をする宗教学者になり、沖縄で伝道をする沖縄人伝道者となった。

首里教会の100年は、こうした、《 ベッテルハイムの沖縄伝道 → 50年にわたるキリスト教伝道の中断 → 19世紀末の日本人伝道者による沖縄伝道の開始 → 沖縄人伝道者の育成》の延長上にある。そのことを、まず自覚しなければならない。

そうすると、1846年からのベッテルハイムの沖縄伝道は、沖縄におけるプロテスタント伝道の端緒となり、当時は、まだ、独立王国であった琉球王国を、現在の国境線に則りそれを日本の一部であると解釈すると、それは日本伝道の端緒であると評価しうる。しかし、それは、直ちに現在存在する沖縄の教会の起源であると言い切れるのであろうか。

ベッテルハイムの沖縄伝道では、さきの首里教会創立100周年の照屋善彦氏の講演によると、数名の受洗者を得たという。しかし、それらの受洗者、あるいは、その子孫が今日の沖縄教会に連なっているのだろうか。その可能性は、限りなく低いのではなかろうか。だとすれば、19世紀後半は沖縄ではキリスト教伝道が断絶していたことになる。そして、沖縄戦だ。当時の伝道者の大半は様々な理由と名目で日本本土に「疎開」した。また、ある伝道者は戦場で落命した。しんとも、然り。疎開する者、戦場死する者。そして、1945年4月頃から米軍従軍牧師(チャプレン)の支援で集会を開き、やがて、教会堂等を整えていくことになった。それが、今日の沖縄教会に連なっているのであって、沖縄戦で戦前の教会とは断絶をしていることになる。

だから、首里教会の「100周年」はおかしいといっているのではない。そのような例は、他の日本の都市、とりわけ、原子爆弾で破壊された広島でもある。しかし、その断絶を、歴史家は漏らさず記述し、その「断絶」の意味を厳しく問うていかなければならないと思う。

それから、もうひとつ、首里教会の100周年で、腑に落ちないことがあった。それは、その「100周年」で日本メソヂスト教会に属していた「日本メソヂスト教会首里教会」(大保富哉牧師)のみが強調され、まったく無視されていた「日本基督首里教会」のことである。この教会は、1910年代に創立。沖縄人の伊江朝貞が牧師を務めた。この教会はおそらく日本基督教団首里西部教会となり、沖縄戦の前まで、多くの琉球讃美歌を残している新垣信一牧師が牧会をしていた。さて、首里教会の戦後2番目の牧師に就任した仲里朝章は、戦前の信仰歴等々や戦時中の働きからいっても、日本基督教会の系列にはいるはずである。首里教会が創立100周年で、この旧日本基督教会系列の「首里西部教会」を全く採りあげないのであれば、この教会は、その後どうなったのであろうか。

ひるがえって、今日の日本基督教団と沖縄の教会(同教団沖縄教区)との関係でいえば、両者の対立の要因は主として両者の歴史認識の相違にあるといってもいい。だからこそ、歴史はだいじにしたいものである。

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2008年11月14日 (金)

月光の沖縄

ついさっき、沖縄に着いた。こんな時間に沖縄に到着するのは初めてだ。沖縄に近づいて飛行機が高度を下げると雲のなかにはいった。その雲の切れ間から街の灯りがちらちら見える。さらに高度が下がると、オレンジ色の街路灯が、曲がり曲がり、丘や谷を、うねうねといっている。

そして、那覇空港に着陸態勢にはいると、糸満から豊見城、那覇と飛行機は旋回し、断大高度を下げていく。すると、瀬長島あたりの海面に月光が反射しはじめた。幻想的、というよりも、ちょっとした、悪戯のように、月が、飛行機を追いかけ、月影が、飛行機を追いかける。

沖縄は、本当の、ウツクシイ。

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2008年11月 9日 (日)

憧憬と超克〜沖縄のキリスト教会がもつ活力〜

この間の3連休で仕上げた論文は、昨年、キリスト教史学会で研究発表したものです。

題名は「軍事占領下における軍隊と宗教─沖縄地域社会とキリスト教─」。基本的には歴史の論文ですが、沖縄のキリスト教の現況にかかわる問題でもあります。

沖縄のキリスト教との割合は以前ここでも書いたように日本の他府県に比べると約3倍に当たります。その原因についてはこれまでもいくつか議論ありました。その中には、沖縄の宗教的風土をとりあげて、そこにその原因を見出すもものがあり、一見説得力があるように思われました。しかし、沖縄のキリスト教との人口分布を詳細に検討すると、沖縄でも宗教的な伝統が残っている地域、例えば、沖縄島の南部・北部の一部や先島・離島地域では沖縄のなかではキリスト教との比率は低いのです。だから、別の原因もあるはずなのですが、それで、わたしは、戦後の米軍との関わりに注目して、その原因を探ったのです。

今回、昨年の発表を原稿化する過程で、この問題を再考してみました。そして、最後の部分を、こう結びました。

 このように日本の教界での沖縄の教会の存在感が希薄なまま1972年の沖縄の「本土復帰」(日本側からみると「沖縄返還」)が実現する。しかし、依然として米軍は沖縄に駐留したままである。このような状況下にあって、沖縄のある教会は様々な問題をはらみながらも「祖国」日本の教会にではなく、沖縄のなかに存在する米国人の教会や米国人キリスト者たちに寄り添いながら伝道を行っている。また、別の教会は社会的な問題には全く関与せず、ひたすら沖縄人の魂の救済を専らとして伝道活動を展開している。その一方で、日本の反戦・反基地団体と連帯し、社会的な関心をもってそれらの活動の最前線に立つことで自らの信仰を証する集団もある。こうした三者三様の教会のバランスのなかで、現在でも沖縄での伝道が行われていることになる。
 こうしてみると、沖縄教会にとって米国のキリスト教とオーバーラップする軍事占領はいずれも二重の意味を持っていることがわかる。すなわち、米国のキリスト教は沖縄の教会やクリスチャンにとってあこがれであると同時に、克服すべき対象でもある。その憧憬と超克の二つの力が共存し、ある時にはせめぎ合うことで、沖縄のキリスト教は新たな活力を生みだしているのではないか。

日本のキリスト教伝道を語るときに「社会派」と「福音派」の対立がよく議論されています。このような議論のなかでは、両者は同じ教派・教団に属している場合もあるけれども、互いに理解不能で、敵対的で、大概に互いを論破するだけではなく、お互いの消滅を願い、実力を行使しているようにさえ思えます。

しかし、実際には、そうなのか。これが今回論文を執筆していて感じた率直な実感です。日本の他の地域ではどうでしょうか。それぞれに、「社会派」と「福音派」の“濃度”は違っていると思います。一般的に、「社会派」が多いところと、「福音派」が多いところ。それぞれのなかで、両者の多少はともかく、存在感として両者がせめぎ合っているところでは、案外、キリスト教が“盛ん”なのではないでしょうか。これは、仮説で、今後立証することは可能であろうと思います。

沖縄の場合、信徒の数や教会の数・規模でいうとおそらく「福音派」が「社会派」を圧倒していると思います。しかし、「社会派」はその発言や行動で沖縄の地域社会にそれなりの存在感をもっていると感じます。そして、それぞれが戦後教会を形成し、信徒を集めてきました。その過程で、全く正反対の意味で米国のキリスト教、米軍のキリスト教と拘わってきました。

「社会派」については、自覚的には1960年代になってはじめて現れてきたと思います。その「社会派」は米国・米軍をアンチテーゼ、あるいは、批判の対象としてそのキリスト教を受容し、地域社会の現状から生まれる不条理に対峙するために、米国のキリスト教を「超克」しようとした。「福音派」は、米軍や米兵を通して体感した米国のキリスト教への憧憬を抱き、それに寄り添うことで、おそらくそこから様々な支援や感化をうけたことでしょう。その沖縄のキリスト教の二つの流れは決して対決的ではなく、お互いに距離を置き、牽制しつつも、一方でお互いを気にかけているのようにわたしは感じています。

だから、例えば、日本キリスト教団という一個の集団を、どちらかひと色に染めようとすることは、明らかに間違っています。大概に互いを批判しながらも、切磋琢磨し(できるかな? でも)、併存することが日本のキリスト教の活性化につながるのではないでしょうか。思えば、日本キリスト教団にとって、現総会議長が総括した「荒野の40年」こそ、実はそのような可能性を時代ではなかったかと思うのです。しかし、実際には「福音派」が退場し、対話を拒絶し続けていました。そして、体制が整うと、クーデター的手段で「政権」を奪取したのでした。

さて、もうひとつ書き忘れていたことがあります。それは、沖縄にはいまだに魂の救いを必要とする人々や状況が存在しています。だから、キリスト教だけではなく、様々な宗教が重要な役割を果たしているのです。「信仰告白」は何のためにあるのか。教団は何のためにあるのか。もはや「救うべき魂」がなく、そこに届かない祈りや告白ばかりの教会・教団は、この地域社会に必要なのでしょうか。

沖縄のキリスト教会の強みは、一枚岩の団結の強さではなく、魂の救いに至る多様性が保証されていることろにあると思うのです。そして、その保証は、沖縄のキリスト教徒によって成されています。

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2008年10月24日 (金)

本土の教団・各個教会は、何一つ失わず、どこも傷つかない〜日本キリスト教団総会における沖縄の表象〜

先に紹介した『風』の方々が作成された総会の報告メールによれば、議案第39号「『合同のとらえなおしと実質化』特設委員会を設置する件」と第40号「『合同のとらえ直し』を自分のこととして聞き直し、再度合同関連議案を提出するために、合同記念の日を2月25日に設置する件」が否決されたという。

それからの議案の作成過程や提出者等々、わたしには情報がないので、詳しいことは何もわからない。しかし、報告メールを読んでいて、気にかかったことを二三書き記しておきたい。

まず、議論の全体的な経緯から、わたしが思ったのは、「日本基督教団」と沖縄キリスト教団との「合同のとらえ直し」を推進する側の言説を否定するために、「合同のとらえ直し」に反対する人たちが先のお二人のような方々の発言を利用しているのではないかということだった。そう。こうして沖縄はいつも日本本土からの圧力で分断されていくのだ。

それにしても、第40号議案にある「合同のとらえ直し」を「自分のこととして聞き直し」とは、どういう意味であろうか。原文を、まだ、詳細に見ていないので何とも言えない。しかし、その提案理由から推察するに、ある種の違和感を禁じ得ないのだ。この「自分」とは誰にことを指しているのだろうか。また、「『合同のとらえ直し』を自分のこととして」ということばの端々に、確かに、良心的キリスト者の真摯な自己反省を前向きな態度は読みとれる。しかし、そこにある種の欺瞞はないだろうか。沖・日両教団合同後の出来事は、いつに日本教団側が原因となっているのではなかったか。

沖縄教区が教団と距離を置くという日本キリスト教団史上初の「大事件」の責任は、執行部だけではなく、日本教団全体にあると思う。発言者や教団執行部、そして、教団総会に出席していたすべての議員、ひいては沖縄教区を除く教団全体にその責任の自覚が果たしてあるのだろうか。

また、この議案の議論の最中、沖縄からのお二人の「推薦議員」の発言があったという。与那原教会の知花正勝牧師と読谷教会の具志堅篤牧師である。具志堅牧師には一度お会いしたことがあるが、知花牧師には何度もコンタクトをとったけれども、結局会っていただけなかった。このお二人は、今年の5月まで沖縄教区の議長と副議長をなさっていた。

ところで、「推薦議員」とは、「日本基督教団教規」によると「教師または信徒で、常議員会の議決を経て教団総会議長の推薦した者30名」(第1条第3項)とある。こういう言い方をすれば、お二人に失礼かもしれないが、お二人の意識は別として、教団議長や常議員会で議長に近い人々たちはお二人とも“自分たちの側”の人間であると思われているのではないだろうか。しかし、そのお二人が議長・副議長であったときも沖縄教区からは教団総会に教区選出議員を送らなかった。今回もそうである。このように、沖縄教区では、それぞれの力が拮抗しているのだ。

わたしは、沖縄教区のことは沖縄教区で決めるべきであると思っている。これは、ごく、あたりまえのことだ。しかし、教団の本土教会から様々なてこ入れがはかられる過程で沖縄の教会は何重もの意味で分断されてきた。したがって、そのあたりまでで、極めてシンプルな「自己決定権」「自決権」が沖縄教区には保証されていない。具志堅牧師の「皆さんが言う『沖縄』とはどの『沖縄』なのか、合同のとらえなおしは一歩間違えば沖縄教区が分裂する事柄である」という発言は、はからずもそのことを露わにしている。

そして、この具志堅発言は、感情的発言などではないと思う。それを、そのように断ずるのであれば、沖縄の教会がどれほどのところまでせっぱ詰まっているのかを、全く理解していない発言であろうと思う。これらは、立場を越えて沖縄教区に広範に存在する危機感の表れではなかろうか。

沖縄教区のことは沖縄教区で決める。──そのためには、一度、本土教団が沖縄教区の離脱を認め(「離脱」という言い方は問題があるかもしれない。「合同」を解消するということ)、改めて、「再合同」へむけての話し合いをするのも、一案ではないかと思う。そして、それは、沖縄教区にとっては茨の道に踏み出すことになるだろう。しかも、本土の教団や各個教会は何一つ失うものはなく、傷つくこともない。

両者のこのような不均衡な関係性が、日本キリスト教団総会の沖縄教会をめぐる表象のなかに、かいま見えはしないだろうか。

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2008年10月 7日 (火)

「間那津」の思い出

ある人とのブログで、宮古島の朝日と夕日の写真を見ていて、思い出したことがある。あれは、2002年の盛夏、宮古島で調査をしたときのことだ。予定していた聞き取りが不可能になり、一日空白の時間が出来た。それで、島内をいろいろ見て回ろうとしたのだが、わたしは教員免許しか持っていない。ので、車を運転するわけにはいかない。そこで、ホテルの近くの自転車屋でレンタサイクルをした。あいにく、いわゆる「ママチャリ」しかなかった。

それで、いつも講義で話している「人頭税石」や「久松五勇士」の碑などを見たあと、北上して南静園に向かった。思えば、無謀な旅であった。40過ぎの身にはだいぶんこたえた。来るときに飛行機から見た宮古島は平らな島のようだったのだが、実際に自転車で走ってみるととそうとうアップダウンのあるウネウネの島だった。特に北部は。

それで、「ママチャリ」をこぎ続け、やっと南静園に到着し、見学をしたあと。残る体力と気力を振り絞って西平安名崎を目指した………。が、結局早々に力尽き、帰る決断をして方向転換をしたときに、地名表示の看板が目に入った。「間那津」………。「間那津」………、「まなつ」、「真夏」!!!!!!!! 冗談じゃない。この糞暑いのに、「まなつ」とは………。と、絶句し、しばしその場に立ち尽くしていた。

そして、よろよろと「ママチャリ」を駆り、もと来た道ではなく、別の、つまり、最短距離ではなく、回り道をして、真謝港の方から畑と山を越え、空港近くを通り、やっとホテルにたどり着いた。別に、迷ったわけではなかったのだ。ただ、初めて来たところなので同じ道を帰るのがいやだっただけなのだ。それでも、しばらく行って、ひどく後悔したが………。それから、島の南で昼食をとったときに出会った人と、島の北の方の畑の中の十字路で偶然すれ違ったときには、お互い不思議そうな顔をしながら………。そんな説明できないような、体験もした。

夕方、ホテルの部屋のバスタブにいっぱい水をためて、しばらくほてった身体をさましながら、し残した調査のことを反芻していた。あのときの調査は、それなりに充実した物であった。宮古の新聞をたくさん読むことが出来た。また、平良新亮さんという宮古島の協会員の方に長時間お話をうかがうことも出来た。それから、宮古島伝道所の礼拝では、本当偶然、平良修牧師夫妻と出会い、お話をうかがうことも出来た。それらは、神様のお導きと、それから、宮古島伝道所の星野勉牧師のご配慮であった。しかし、平良キリストの教会では面会を断られ、いくつか悔いの残るところもあった。だから、もう一度、と思っていたのだが、6年経っても、未だ、果たせないでいる。

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2008年9月17日 (水)

「平信徒の神学」は、あるのか。

今回の学会発表で、今年は3本目。あと1本ある。

さて、研究発表したのは「日本基督教学会」。わたしが所属している学会で唯一「日本」が就いている学会である。この学会には今年度の初めに入会したばかりだ。入会したてで研究発表をさせてもらえるとは思っていなかったのだが、だめもとでエントリーしたら受け付けられた。

研究発表は全部で47本。3会場に分かれて30分の持ち時間で日頃の研究成果を発表した。わたしは、二日目、第3会場の最後の発表。発表者は研究者もいるが、同志社と関学の神学部の院生、それも、相当数の留学生(韓国出身者が多いような印象)。いずれも、力の入った研究発表であったと思う。熱心なそして、少数だが東神大からの発表もあった。それぞれの神学校の教員も多数参加していた。それから、東大と京大のキリスト教学関係者の八票も多くあった。

もともと、わたしがこの学会に入会したいと思った理由はいくつかある。その最も大きな理由を自分の研究発表の冒頭に述べた。

わたしはこれまで10年あまり米軍占領下の沖縄キリスト教史の研究を続けてきました。その過程で、大変重要な史料に出会いました。しかし、その史料を読みすすめるうちに、わたしは自らの非力を自覚しました。わたしは、その史料を読み解く力を身につけたいと思っています。つきましては、この学会で、そのための研鑽を積みたいと思っています。

だいたい、以上のような内容であった。わたしは神学校(神学部)で専門的な神学教育を受けているわけではない。また、大学や大学院でキリスト教学について専門的な知識を得たわけでもない。加えて、宗教学についても、誰かに師事してその神髄を学んだわけでもない。つまり、キリスト教学にしても、宗教学にしても、専門家から見れば素人同然である。しかるに、なんどか「キリスト教学」や「宗教学」の公募に応募したこともある。今から考えれば、正に、無謀。しかし、当時は差し迫った事情があった。いまは、そのような事情とは全く質の違う事情がある。

専門的神学教育を受けていない。それは、戦争直後、按手礼をうけた沖縄の伝道者たちも同様であった。彼ら、彼女らとわたしを同列にしているのではないのだが、しかし、実際、わたしはそこのところに大変共感を持っている。そして、キリスト教学、神学の専門家を前に、自分が専門的神学教育を受けていない平信徒の自分が、同じような平信徒から伝道者となった人物が自らの神学を確立しようとする姿を、わたしは共感を持って描きたいと思った。

「キリスト教業界」の一部では、「日本プロテスタント宣教150周年」をめぐって囂しい論議がおきている。そこには、日本本土の教派・教団・教会が沖縄のキリスト教・キリスト者・教会を蔑んできた姿が現れている。それは、この一連の動き・行事に賛成する側にしろ、反対する側にしろ、見られることである。確かに、1846年から54年までベッテルハイムは沖縄に「滞在」した。しかし、結局のところ、沖縄にキリスト教は定着し得ず、19世紀の末になって日本人牧師の伝道により本格的キリスト教伝道が成されるのである。つまり、ベッテルハイムはまだしも、他の欧米宣教師は琉球伝道には全く関心を示さず、日本が開教されるまでの時間稼ぎとして琉球に滞在・通過していったに過ぎない。つまり、琉球=沖縄は日本のキリスト教にと欧米宣教師のとって「橋頭堡」に過ぎなかったのである。

「沖縄に対する蔑視」とは、そのようなことに、認識が至らないことをさしている。つまり、あからさまに、あるいは、声高に、沖縄を蔑む人物はいないが、結果的に沖縄自身の価値を認識せず、否定してしまっていることを、それは指している。「沖縄の教会・キリスト者が沖縄で伝道を進めるのに際して有利になるように、沖縄の伝統的民俗的宗教を取り込みながら伝道を進めてきた」という言説は、正に、その典型ではないだろうか。

沖縄戦後、「祖国」日本に見捨てられた体験(あるいは、沖縄戦中に、すでに、日本軍の虐待を経験してきた体験)をもち、異民族の支配を受けざるを得なかった戦後の沖縄のキリスト者が、沖縄がまだ独立国であった琉球王国時代のことを調べ直し、そこでの誇りを語るときに、それでも、それは単なる伝道のための便法であったといえるのだろうか。また、自らの民族的経験に鑑み、自分たちの「国」を「エデンの園」、あるいは、「第二のエルサレム」と呼ぶときに、それを「単に沖縄の民族的民俗的独自性」に矮小化していいものであろうか。今回の発表は、第一にそのような動きや研究動向に対する義憤もあった。

そして、仲里朝章が残した1940年代の文書(「もんじょ」。仲里が残した文書はこれだけではない)を見ていくと、自らの「貧しさ」に対する認識とそれを解消しようとする倫理的・道徳的・信仰的取り組みが明確になってきた。また、仲里自身が常に聖書に立ち返りながら、世界平和を訴え、米軍による理不尽な占領体制に対する非暴力に抵抗を常に思考していったことが跡付けられたと思っている。

そこには、異民族による軍事占領体制といった例外的情状可に置かれたキリスト者が、自らの体験を通して「平信徒」としての「神学」を構築していったのではないか。わたしは、そのように、戦後沖縄のキリスト教界をリードしてきた「第一世代」の平信徒上がりの伝道者たちの神学を、再評価したいと考えている。

さて、研究発表は、おおむね成功であった。フロアからは若干とんちんかんな質問もあったが、有益なものもあった。仲里朝章は1940年代にはロマ書やイザヤ書、ヨブの物語、それに福音書の研究を行っていた。しかし、わたしはその意味をまだ十分に評価するだけの力がない。そのことは自覚してはいたが、それを質問のなかで指摘されたのは、ありがたかった。

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