カテゴリー「日本」の12件の記事

2008年11月11日 (火)

植村正久生誕150周年〜その遺産と今日の日本キリスト教界〜

たいそうな題名ですが、わたしは、そんなに植村正久に詳しいわけではありません。先日、休日を利用して「植村正久生誕150周年記念シンポジウム」に出かけてきました。会場は、植村が牧師として勤務していた日本キリスト教団富士見町教会でした。

最初に開会礼拝があり、その後、「植村正久と日本伝道」という主題でシンポジウムが行われました。

主 題 講 演 :大木英夫 聖学院理事長
ディスカッション:五十嵐喜和 日本キリスト教会茅ヶ崎東教会牧師
          戒能信生 日本キリスト教団東駒形教会牧師
          星野靖二 國學院大學助教

会の冒頭、武田清子氏が挨拶をされた。氏を間近で見るのは初めてのこと。思えば、いまから、20年以上前、日本キリスト教史を勉強しはじめたとき、彼女の著作を何度も繰り返し読んだ。いわば、自分の中では「伝説上の人物」であったが、さすが、「植村正久」、さすが、「富士見町教会」といったところであろうか。

実は、この富士見町教会、このブログで何度も登場している仲里朝章が徴年長老として使えてきた教会である。パネラーの発表のあと、質疑応答で植村正久の教えを受け継いでいる物の広がりについて議論が及んだとき、わたしは真っ先に仲里のことを思い浮かべた。戦前の植村による沖縄伝道(確か、植村自身が直接沖縄に行っているはずだ。もっと調べなくては)の成果について、戦後のことが一段落したら、もっと調べてみたい課題だ。小塩節フェリス理事長の父・小塩力(力の父は、家庭学校で留岡幸助の同労者であった小塩高恒)も八重山伝道を行っているのだ。

さて、パネラーのお三方は、いずれも研究会・学会でお顔を拝見したことはある。それぞれ、興味深い発題であった。その中で、戒能牧師が最後に次のような趣旨のことをおっしゃられた。

植村正久は自らの福音信仰とキリスト教の社会的役割について自覚的で、その前半生は社会的活動を重視し、後半生は福音的であったという評価は間違っている。現在の日本のキリスト教界で植村の遺志を受け継ぐといっておられる方々のなかには植村の社会的活動を無視して、福音的であることがすなわち植村を継承することだと考えておられる方がいるが、それは間違っている。

本当は、もっと簡潔な言い回しであったが、大要は間違っていないと思う。まさに、そうだ。人物を歴史の文脈に起き、そこに起こる様々な不幸や災禍などより生ずる人間の懊悩と葛藤しつつ聖書とキリストの教え・行動に導かれていく姿を見据えていくことが、わたしたち歴史家の役割である。それを、再認識した、いい会であった。

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2008年10月24日 (金)

本土の教団・各個教会は、何一つ失わず、どこも傷つかない〜日本キリスト教団総会における沖縄の表象〜

先に紹介した『風』の方々が作成された総会の報告メールによれば、議案第39号「『合同のとらえなおしと実質化』特設委員会を設置する件」と第40号「『合同のとらえ直し』を自分のこととして聞き直し、再度合同関連議案を提出するために、合同記念の日を2月25日に設置する件」が否決されたという。

それからの議案の作成過程や提出者等々、わたしには情報がないので、詳しいことは何もわからない。しかし、報告メールを読んでいて、気にかかったことを二三書き記しておきたい。

まず、議論の全体的な経緯から、わたしが思ったのは、「日本基督教団」と沖縄キリスト教団との「合同のとらえ直し」を推進する側の言説を否定するために、「合同のとらえ直し」に反対する人たちが先のお二人のような方々の発言を利用しているのではないかということだった。そう。こうして沖縄はいつも日本本土からの圧力で分断されていくのだ。

それにしても、第40号議案にある「合同のとらえ直し」を「自分のこととして聞き直し」とは、どういう意味であろうか。原文を、まだ、詳細に見ていないので何とも言えない。しかし、その提案理由から推察するに、ある種の違和感を禁じ得ないのだ。この「自分」とは誰にことを指しているのだろうか。また、「『合同のとらえ直し』を自分のこととして」ということばの端々に、確かに、良心的キリスト者の真摯な自己反省を前向きな態度は読みとれる。しかし、そこにある種の欺瞞はないだろうか。沖・日両教団合同後の出来事は、いつに日本教団側が原因となっているのではなかったか。

沖縄教区が教団と距離を置くという日本キリスト教団史上初の「大事件」の責任は、執行部だけではなく、日本教団全体にあると思う。発言者や教団執行部、そして、教団総会に出席していたすべての議員、ひいては沖縄教区を除く教団全体にその責任の自覚が果たしてあるのだろうか。

また、この議案の議論の最中、沖縄からのお二人の「推薦議員」の発言があったという。与那原教会の知花正勝牧師と読谷教会の具志堅篤牧師である。具志堅牧師には一度お会いしたことがあるが、知花牧師には何度もコンタクトをとったけれども、結局会っていただけなかった。このお二人は、今年の5月まで沖縄教区の議長と副議長をなさっていた。

ところで、「推薦議員」とは、「日本基督教団教規」によると「教師または信徒で、常議員会の議決を経て教団総会議長の推薦した者30名」(第1条第3項)とある。こういう言い方をすれば、お二人に失礼かもしれないが、お二人の意識は別として、教団議長や常議員会で議長に近い人々たちはお二人とも“自分たちの側”の人間であると思われているのではないだろうか。しかし、そのお二人が議長・副議長であったときも沖縄教区からは教団総会に教区選出議員を送らなかった。今回もそうである。このように、沖縄教区では、それぞれの力が拮抗しているのだ。

わたしは、沖縄教区のことは沖縄教区で決めるべきであると思っている。これは、ごく、あたりまえのことだ。しかし、教団の本土教会から様々なてこ入れがはかられる過程で沖縄の教会は何重もの意味で分断されてきた。したがって、そのあたりまでで、極めてシンプルな「自己決定権」「自決権」が沖縄教区には保証されていない。具志堅牧師の「皆さんが言う『沖縄』とはどの『沖縄』なのか、合同のとらえなおしは一歩間違えば沖縄教区が分裂する事柄である」という発言は、はからずもそのことを露わにしている。

そして、この具志堅発言は、感情的発言などではないと思う。それを、そのように断ずるのであれば、沖縄の教会がどれほどのところまでせっぱ詰まっているのかを、全く理解していない発言であろうと思う。これらは、立場を越えて沖縄教区に広範に存在する危機感の表れではなかろうか。

沖縄教区のことは沖縄教区で決める。──そのためには、一度、本土教団が沖縄教区の離脱を認め(「離脱」という言い方は問題があるかもしれない。「合同」を解消するということ)、改めて、「再合同」へむけての話し合いをするのも、一案ではないかと思う。そして、それは、沖縄教区にとっては茨の道に踏み出すことになるだろう。しかも、本土の教団や各個教会は何一つ失うものはなく、傷つくこともない。

両者のこのような不均衡な関係性が、日本キリスト教団総会の沖縄教会をめぐる表象のなかに、かいま見えはしないだろうか。

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2008年9月28日 (日)

「内向き」か………〜「島国根性」について考える〜

また、憂鬱な時がやってきた。「ウオッチング」を再開しなければならないのだろうか。

そして、その憂鬱の種になっている麻生内閣の閣僚のひとり、中山成彬国土交通大臣がいくつもの「失言」辞任した。彼の「失言」のうち、日教組に関することや成田空港の件については相当も問題がある。そして、「単一民族」発言についても問題があるのだが、その発言についてこれまで、何処でもほとんど問題になっていない件について、引っかかっているところがわたしにはある。

それは、「日本(人)は随分内向きな、単一民族」という部分の「内向き」ということばである。日本人は本当に昔から「内向き」だったのだろうか。列島の周縁部分に足を運び調査をしていると、現在でもそこは「内向き」では決して生きていけない「世界」であり、歴史的にもそうだったのではないかと思うことがよくある。近代以前、明確な国境や出入国に関する管理思想などなかった時代には、周縁地域の人たちは自由に他の国・地域の周縁と交流をしていた。そもそも、「周縁」という意識さえなかったのではないか。「周縁」は「中心」や「中央」が成立してはじめて生まれる概念ではないだろうか。

ともあれ、そのような環境に生きている人々は互いに言語が少々違っていても、コミュニケーションを上手にとっていただろうし、「外向き」の行動的な人たち(もちろん、皆がそうではないだろうが)によってそのような交流はになわれて来た。ただ、都や江戸の人たちはそれでも「内向き」であったろうとも思う。あるいは「藩」の「中心」にいる人たちもそうであったかもしれない。

さて、「内向き」な性格や思考・行動パターンと「単一民族」とは全く別個の問題であるが、中山元大臣のなかでは、そして、彼と同種の人間の頭の中では、それが短絡的に直結しているように思う。そして、それは、穿った見方をすれば、国民の統合のために、政治家や官僚は国民の「内向き」になるように願っているのではないかとさえ思える。「外向き」で世界的な視野を以て、海外で活躍するのは少数の政治的経済的エリートだけでよくて、「その他大勢」の国民はなまじ世界のことやこの国の名嘉にたくさんの外国人が生活していることなど知ってほしくないと、彼らは願っているように思えてならない。

しかし、彼らが思っているほど国民は「無知」ではない。また、生活は、普通の、何でもない生活は、それでもどこかで世界とつながっていて、それを生活者たちはいろいろな手段で、また、様々な機会に自覚している。働いても、働いても、自分の暮らしが貧しくなっていくのは、自分が不道徳で、怠け者であるからと、今どき、感じている人はいないだろう。それは、国際経済の要因や政府の無策でそうなっている。それを、とっくに国民は肌身で感じている。

だから、きょうび、とても「内向き」何ぞでは、生きていけない。命や生活が危うくなると皆感じている。

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2008年6月 4日 (水)

「歴史とは、右往左往すること」

もう少しだけ、土肥昭夫先生の追悼礼拝での出来事について書きます。

式中、6名の方が式中に土肥先生との思い出をお話しされました。

2004年9月に香港で開催された東アジアキリスト教史協議会でのわたしの研究発表に対して唯一わたしの意図を理解した質問をしてくださった徐正敏(ソジョンミン)延世大学校神科大学教授は、「今でも、土肥先生が亡くなったことが信じられません。天国に花見に行って、帰ってこられるのではないかと思っています」と語られ、8月15日に韓国で説教をされた土肥先生が数分間涙を流しながら沈黙されたエピソードを披露され、「涙は、涙でしか通訳できなかった」と結ばれました。

また、以前同志社人文科学研究所のキリスト教社会問題研究会で研究補助者(院生のアルバイト)をしていた西岡裕芳さんは、現在日本キリスト教団月寒教会の牧師になっておられました。陳腐な言い方ですが、立派になられたと思います。

そして、今回もっとも感銘を受けたのは、土肥先生のお子さんである土肥いつきさんのお話でした。話しの詳細についてはご本人がブログに書かれているので、そちらの方を参照していただく方が正確かと思いますが、印象に残っているのは土肥先生の歴史の定義と、先生が尊敬する人物が田中正造だったということ、いつきさんの小さい頃の思い出が両親に手を引かれて青空の繁華街をデモをしたことの三つでした。

土肥先生は「歴史とは何か」をという当時高校生の土肥いつきさんにたいして、「歴史とは、右往左往することである」と応えられたそうです。右往左往するのが、歴史の登場人物なのか、それとも研究者なのかは判然としませんが(でも、おそらく前者?)、とても含蓄のあるお言葉です。土肥先生のなさったお仕事(研究)そのものは、理路整然としていて、余り右往左往している風にはないのですが。それでも、先生がそう考えられており、それが歴史を見る広い視野や柔軟な評価に繋がったのでしょう。………実際、わたし自身が自分の研究対象を巡って右往左往しているのですが、でも、確かに、草創期や自体転換期のキリスト教界は右往左往しながら歴史を形成しています。

それから、土肥先生が尊敬している田中正造にお子さんの土肥いつきさんが年を経てから出会われたこと、また、土肥いつきさんが子どもの時に両親に連れられてデモに加わったことなどをうかがうと、自分と自分子どもの関係についても考えさせられました。

土肥いつきさんを通して、土肥先生から、最期の(でもないかもしれないが)大きな贈り物をいただいた思いです。

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2008年6月 2日 (月)

悔いのない研究生活とは

土肥昭夫先生の追悼礼拝の続きです。

わたしは、同志社大学や神学部にとって部外者です。神学部のスタッフ(教員)の顔を全員知っているわけではありません。でも、恐らく、この記念礼拝には同志社大学神学部のすべてのスタッフが出席していたわけではないようです。どうやら、当初学部葬の予定であったのが、現役の教授ではなかったことから、土肥ゼミ卒業生の有志による会になったようです。ともかく、同志社人文科学研究所や学会で知った顔があり、知らない顔があり………、の会でした。

土肥先生はそれまで手がけられておられた研究(お仕事)に一段落をつけ、次の研究に取りかかろうとした矢先に、亡くなられたということです。

先生の次の研究テーマは「戦後天皇制とキリスト教」。

戦前の天皇制とキリスト教はある一定の緊張関係があったのですが、戦後はそれが一気に薄れ、キリスト教にとって皇室や天皇はとても親和性の強いものになったのではないでしょうか。これについては異論があるかもしれません。確かに、教界では部分的に戦後も天皇制と厳しく対峙し続けた人たちがいます。しかし、一般の信徒はそうではないように思うのですが、いかがでしょうか。そのテーマを、土肥先生はどうお書きになるつもりだったのでしょう。それを拝見する機会は、永久に失われたのですね。

そのエピソードを聞きながら、研究者の死と仕事ということを、自らのことに引きつけながら、考えました。

研究者にもいずれ生の終わりがきます。それが唐突なものであれ、予告されたものであれ、どんな研究者にも死は来るのです。そのときに、し残した研究テーマが全くない研究者などいないのではないでしょうか。また、あくまでも一般論としてですが、死ぬ前にし残した研究課題がないのなら、その時点で研究者ではない、とも。キリスト教的に言えば、「神は、その者が必要である限りその生を許す。だから、その者が心残りがありながらこの世を去ったということは、神がその仕事が必要ではなくなったと判断されたのだ」という方も可能でしょうか。

いずれにしろ、研究者としてつねに“その日”が来るということを意識し、自分の仕事を大きくまとめる努力をしなければと思う年齢に、わたし自身がさしかかっていることを実感しました。

そして、気になったことを一つ。それは、そのし残した仕事(研究)を、「誰が継ぐのか」ということです。

土肥先生のお連れ合いである土肥淳子さんは、挨拶のなかで土肥先生が先述の「戦後天皇制とキリスト教」に関する研究をすでにはじめており、資料を集め、メモを作っていたことを挙げて、それを“継ぐ”研究者が現れることを期待しているというような趣旨のお話をされました。ご遺族としては、もっともな話だろうと思います。

また、それに先だって礼拝で説教を担当された原誠同志社大学神学部長も説教のなかで同様のことをいっておられました。原先生は、おそらく土肥先生の「歴史神学」研究室(?)の後継者。だから、これは一種の土肥先生の学問の正統なる継承者の選定の儀式でもあったのでしょうか。

しかし、この追悼礼拝には、わたしを含めて多彩な人たちが参列していました。そして、その誰もが、土肥先生の人柄と学問を慕い、愛していたのだと思います。そして、それぞれに自分なりの仕方で土肥先生の学問を部分的、あるいは、全面的に継承しているのではないでしょうか。だから、土肥先生がし残されたお仕事を直接継承する者だけではなく、だれもがそれを自分の血肉にして、自分の場から、自分の知恵で、道を切り開くことができるのではないかと思います。

わたしも、ゆくゆくは、土肥先生のように、自分の学問からはじまって、人柄・人格を付加しながら、だれかの心に届き、そこにこに留まる仕事をしたいと思いました。

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2008年6月 1日 (日)

【覚書】土肥昭夫同志社大学名誉教授追悼礼拝

☆いろいろ思うところがありますが、まず、感想や意見を交えず、事実だけを書きます。

2008年5月31日。わたしは、開場時間の13:30少し前に同志社大学神学館に到着した。芳名帳に記入して、ファイルをいただいた。礼拝のプログラムと御遺族による「土肥昭夫の追悼礼拝を祈念して」がファイルされていた。後者には京北教会での礼拝の説教メモ等、そして、土肥先生の直筆の村上俊・三佐保夫妻に関するメモのコピーが綴じられていた。

開始時間の14:00の5分前にはほぼ座席が埋まった。わたしは、向かって右側の一番うしろの端の席。そして、定刻良し少し前に礼拝がはじまった。

司     式:小﨑 眞氏(同志社女子大学生活科学部准教授)
奏     楽:松原玲子氏(同志社大学キリスト教文化センターオルガニスト)
聖書朗読・祈祷:平松譲二氏(同志社女子中学・高校教諭)

式次第は以下の通り。

前  奏
讃 美 歌   74 「果てしも知られぬ」
聖  書   テモテへの手紙 Ⅱ 4章1-8節
       フィリピの信徒への手紙 3章12-16節
祈  祷                      原  誠
説  教  「健全な教えを聞こうとしない時に」   原  誠
祈  祷
讃 美 歌        121 「まぶねのなかに」
土肥先生を偲んで  出村 彰 東北学院大学名誉教授(キリスト教史学会理事長)
          徐 正敏 延世大学神科大学校教授
          井田 泉 日本聖公会京都三一教会司祭
          西岡裕芳 日本基督教団月寒教会牧師
頌  栄  544 「あまつみたみも」
祝  祷                      原  誠
後  奏
遺族挨拶  土肥いつき
      土肥敦子   

土肥先生を偲んでのことばは一人5分程度と言うことであったが、それぞれ時間を大幅に超えて土肥先生との思い出を語られた。また、お子さんとお連れ合いの挨拶も時間を超過したが、それぞれ心にの盛るものであった。

16:00頃に閉会。その後、御遺族とそれぞれ言葉を交わし、16:30頃に散会。

                         以上。

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2008年3月25日 (火)

明治初年の地域社会における文化センターの役割〜岡山県井原・興譲館と柴原宗助〜

春の選抜高校野球で懐かしい名前を聞いた。「興譲館高校」。今年で創立154年になるという。

わたしが修士論文を書くため岡山県の自由民権運動とキリスト教の関係を調査するために、流れ流れて高梁に教会にあるたどり着き、牧師の許可を得てその教会で調査を始めた。あれはソウルオリンピックがあったり、前天皇の「下血報道」が行われていた時のこと。つまり、今から20年も前のことである。

その高梁では明治初期のころ、どういう訳かは分からぬが(一説には水が原因であるといわれている)新生児のうち男の子の割合が他地域よりずっと低かったという。そのため、士族や豪農・豪商の家では「跡取り」のため、他所より養子を招いていたという。そして、その養子の多くが高梁から山を越えた井原からやってきていた。

高梁の豪商のひとりで、県会議員にもなり、高梁に自由民権思想を持ち込んだ柴原宗助も井原生まれで、高梁の柴原家に養子となった。彼の実家は柳本といい、彼の兄の柳本瀧三郎は、興譲館の初代館主であった阪谷朗蘆から幹事の素読を学んだという。

維新後、朗蘆が広島藩に招かれ興譲館を去った後は甥の阪田警軒が教授にあたった。警軒は後に、初代の岡山県議会議長となり、1886年には同志社の漢文の教師として招かれた。その縁もあって、明治期、井原の興譲館で優秀な成績を収めた学生の多くは同志社へと進学していった。

また、福山の医師・窪田次郎らが中心となって結成された「細謹社」は啓蒙的な結社として、井原・福山・笠岡等を含んだ地域の文化的センターとして機能していた。その他、高梁や井原を含む岡山の備中地方には様々な啓蒙結社があり、そのうちのいくつかは、明治初年の地域社会に自由民権運動やキリスト教の「媒介」となったのである。

その後、わたしは、博士論文を仕上げてから、この地域の研究から離れたが、今でもふと気になることがある。「興譲館」。その名前を聞いて、やり残した宿題を思い出して、冷や汗を流している次第である。

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2008年2月13日 (水)

霜柱〜沖縄での事件についてと「寒い感慨」〜

東京は寒い日が続いています。朝、公園を歩いていると、霜柱が立っていました。久し振りに見る霜柱。あっちにも、こっちのも。かなり大きいものもありました。それを、踏んでみました。すると、「寒い感慨」が身体の中に、湧いてきました。

霜柱は、寒い冬の日の、朝方だけ、出て、陽が昇ると融けてしまいます。
霜柱は、踏むとばりばりと音がして、靴の裏に軽い刺激があります。が、痛いというわけではありません。

沖縄で事件が起きて、それがたまに、思い出したように、本土で報道される。しかし、それは、靴の裏からの軽い刺激であって、決して、自分の足が痛む程ではない。そして、それは、日がたつと、消えてしまう。その間に、全く悪質な、論点のすり替えが起こり、達観と諦観により、物事の本質は稀釈されていく。

そんなことを、どのくらい、くり返すのでしょうか、この国は。

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2008年2月12日 (火)

早朝の那覇を発って〜「東京」というギャップ〜

未だ、朝が明け切らぬ中、モノレールに乗って那覇空港に向かった。今回は3泊4日という短い時間であったが、また、いろいろ収穫があった。そして、今回も沖縄では事件が起こり、どうやら号外(これと、これ)も出たようである。この件については、また、しばらくしてコメントを書くつもりだが、そんなことが起こっている沖縄を、心残りながら、離れた。

そして、関空着、伊丹経由で東京にやってきた。

わたしは、四国の海辺に近い田舎町で生まれた。一番近い“大都会”の松山の市街地まで、30分に一本の路線バスを待って、時々連れて行ってもらうことが、子どもながらにとてもうれしかったことをおぼえている。その後、少し大きくなって、世の中には松山よりももっと大きな“大都会”が、たくさんたくさんあることを知った。そんな“大都会”にも住むようになった。それでも、いまだに、わたしは田舎もので、“大都会”の雑踏に出て行くことが、本当に苦手なのだ。休日、家を出るのが億劫で、結局一日家にいるのは、外出がイヤなのではなく、あの三宮やその他の雑踏が苦手なだけなのだ。

ところで、朝までいた那覇も、近年、とみに“大都会”化していて、泊まっていたホテルがあった「おもろまち」周辺は、「新都心」と名付けられ、開発が進んでいる。休日で、久し振りに太陽が顔を覗かせた昨日、「サンエー那覇メインプレイス」という巨大ショッピングモールの周辺は、駐車場待ちの車で大渋滞していた。また、その周辺には高層のマンションやホテルが次々と建ちはじめている。しかし、そのような“表通り”をはなれると、そうではないところが、まだ、何処にもある。「開発されていない」というよりも、「取り残された」という印象があるのは、それだけ両者のギャップが開いてきたからなのだろう。

そんなところから、東京に来たわけだが、ここにはここだけの世界と雰囲気がある。そして、それと接するたびに、わたしは違和感を抱いていて、いっこうにこの首都に馴れない。さて、この地でも、昨日の沖縄の事件は語られている。随所で語られている。国会で、政府で、そして、街中でも。しかし、それらの言説は、沖縄のそれとは違っている。その事件そのものに関する関心の持ち方や視点が全く違っているのだ。それは、政府だけではなく、民間の企業でも、一般の住民にしても、そうなのだろう。

東京には、「怒り」がないように思う。それだけ冷静なのは、やはり距離感があるからなのだろう。「距離感」、そして、その「ギャップ」。これらは、事件そのものに対する皮膚感覚にも存在している。あるいは、“狙われている”という切迫感、危機感に対する「距離」と「ギャップ」なのだ。

いつも書いていることだが、これは、キリスト教についてもいえることだろう。沖縄の教会に歴史などない。あっても、それは本土の中央教派・教団の伝道地、いわば、植民地か新領土としての「伝道される」歴史があるだけだ。──と、本土教団史には書かれていて、今の教団の執行部はそう思っているのだろう。

しかし、それだけではない。日曜日に出席した首里教会の礼拝では、沖縄に「研修」に来たという東京のどこかの支区の一行(といっても、牧師と信徒の計2名だったが)が等々と自分の思い出話をかたり、自分が如何に沖縄に縁があるのかについて語っていた。しかし、肝心の沖縄で何を見、何を感じ、自らが何をしなければならないと感じたかについては、結局何も語られはしなかった。礼拝中の新来者“挨拶”とは、元来そのようなものかも知れない。しかし、“研修”で何程のことを学んだのか、それを自己確認ヲしなければならないといった姿勢はないのではないかと、わたしはその人たちのことを見て感じていた。

東京の大教会や大教会からの間接的支援を得ている東京の教会が、沖縄のことを理解するのは、自らの思考を逆転させたり、自らの価値観を一端白紙にしなければならなかったり、いろいろ大変だと思うのだが………。

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2007年9月28日 (金)

軍隊とキリスト教

ある人のブログを見ていると、新防衛「大臣」の石破茂は、クリスチャンで、日本基督教団所属教会の教会員であるという。そこで、ちょっと調べてみた。(「ウィッキペディア」には正しいことが書かれているとは限らないので、注意、注意。─と、普段、学生には言っているのだが………。)

母方の曽祖父金森通倫から4代目のクリスチャンであり、日本基督教団鳥取教会に所属している。18歳のときに日本基督教団鳥取教会で洗礼を受けた石破は、幼稚園も教会附属で、「46年間、キリスト教に触れつつ信仰をもちながら生きてきた」と話した[5]

石破常七━━石破市造━━石破二朗
             ┃
             ┣━━━━石破茂
             ┃
金森通倫━━金森太郎━━和子

金森通倫は熊本バンドのメンバーで、同志社の草創に排出された日本組合基督教会の一人。『日本キリスト教歴史大事典』によると、鳥取教会の草創期には元良勇次郎、上代知新(カジロ・トヨヨシ)、デフォレストなど組合教会でも、岡山に関係の深い人物が多く名を連ねている。孤児の父として知られる石井十次や、家庭学校の創設者・留岡幸助らも鳥取教会の創設メンバーと交流をもっている。

金森は日本組合基督教会岡山教会の初代牧師。彼は、一時期教会を離れてていたこともあるが、のちに救世軍やホーリネス教会にも関係している日本キリスト教史の中でもユニークな人物である。通倫の子、石破の祖父、金森太郎は内務官僚でキリスト教徒。

さて、石破「大臣」が、キリスト教徒だから、わたしは、彼に期待している。というわけでは、決してない。むしろ、やっかいなことになったと思っている。そういえば、以前、このブログで採り上げた現防衛大学校長の五百籏頭真の父親・五百籏頭真治郎も熱心なカトリックだったということだから、その息子もキリスト教の影響を受けていないとはいえないだろう。

沖縄の、それも、米軍占領下の沖縄のキリスト教史を研究していると、実は、軍隊とキリスト教は、陰に陽に、表でも裏でも、しっかりと結びついているという実感をもっている。だから、キリスト教徒が防衛「相」になっても驚きはしない。沖縄でも、日本でも、教会のなかには「軍事オタク」もいれば、その他諸々の「オタク」もおり、自民党支持者もいれば共産党の支持者もいる。社会活動に熱心な人もいれば、教会内での政治活動は徹底的に嫌悪しつつ、「教会政治」「教団政治」には喜々として参加する輩もいる。それが、教会だ。だから、軍隊と結びつくキリスト教もありだし、平和の名のもとに戦争の僕(シモベ)になっていくキリスト教の存在も認めよう。わたしはそれらを批判し続けるだけだ。

さて、石破「大臣」が、四代目の「筋金入り(かどうかはわからんが)」のクリスチャンであることがなぜヤバイのか。理由は二つある。

(1)クリスチャンは、「召命」に弱い。「召命」というと多生誤解があるが、とにかく、石破が防衛「相」になったことを、神の召しだと感じていると、相当ヤバイ。これは、彼にとっては信仰の問題で、しかも、神の命令なのだから、恐らく、神以外の批判は受け入れないだろう。

(2)テロ特措法への反対は、「迫害」である。「自分は神の召命を受けてこの任に着き、正義を行おうとしている。しかし、世論や民主党をはじめとする野党はその正義を曲げようとしている。したがって、わたしは、このような迫害には決して負けず、おのれの信を通す」。と、石破が考えていたら相当ヤバイ。

とにかく、大半のクリスチャンはとてもまじめで、職務に忠実である。それは、天から神様が常に見ておられるから(「監視」だよ、コレ)。自分はクリスチャンであるけれども、その前に、人間であり、市民であり、父親であり、息子であり、教師であり………、というような選択があってもいいと、わたしは思っている。こうして、聖書やイエスの言動に忠実である自分と、それの背いているかも知れないけれど、でも、何とか生活している自分と、うまく折り合いをつけながら、洗礼を受ける前よりも、受けた後のほうが、よりましな生き方をする。そんな選択肢を、イエスは、決して許さないとは、決して思われない。

にもかかわらず、過剰に(コレは、主観的表現です)神からの召命を意識し、それに忠実たらんとして生活を破綻させたり、地獄までの道を舗装する天使になったりする。このような一種の選民意識に基づいたまじめな信仰が、これまで、時代を戦争へと導いてきたのではなかろうか。こういうレッテル張りはよくないと思うが、敢えて、問題の所在をハッキリさせるために書くと、「福音派」や何代目かのクリスチャンにはそのような信仰をもった人が多いのではないだろうか。

石破防衛「相」が、四代目のクリスチャンで、しかも、金森通倫の子孫であることを知って、いくつか腑に落ちることがあったが、大切なのは、信仰をもつことではなくて、どのような信仰をもつかである。そのことを痛感している。だから、わたしは、これまでも、そして、これからも、キリスト教の“あら探し”をやめない。

キリスト教には、これからもひたすらに平和を希求する宗教であって欲しい。そのために、過去に、現在に、この宗教がどれだけ、戦争に荷担し、軍隊に浸透し、平和の名のもとで平和を破壊してきたかを、本当に知りたいと思っている。

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