カテゴリー「神戸」の5件の記事

2009年1月17日 (土)

忘れ得ぬ日

14年目。神戸を離れて、その時を想っている。ここ東京には、すでにその痕跡すらなくなっている。もともと、1・17から数ヶ月後、東京は例の事件で騒然となり、それ以来、神戸の震災のことを忘れ去ってしまっている。それが、この国の首都の現実だ。そして、この大都市にも、いつか破局の地鳴りが来るのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月17日 (木)

13年目〜阪神大震災、そして、許すこと、こだわらないこと。〜

阪神大震災から13年目。私事だが、この日はわたしの息子の誕生日でもある。彼は、震災後、六年して生まれた。その息子は、きのうからしきりに震災の日のわたしのことを聞いてくる。きょうは、小学校で震災のことを聞いてきたらしく、担任の先生の震災体験を話してくれた。

あらたまって、自分の震災体験を聞かれると困ってしまう。体験をしていない人に、何をどう伝えるのか。それから、わたしは震災の被害の周縁にいたので、命の危険を感じるような“被害”をうけていないこと。また、被災地にいたにもかかわらず、自分が出来ることさえ、じゅうぶんに出来なかったのではないかという慚愧の念に、いまでも時に苛まれることがあること。等々、いまだに語ることを躊躇する理由は幾つもある。

昨年、それまで溜まっていたことを一度書いてしまったので、少しずつだが、気持は軽くなっている。いつまでも恨み言を言うのはやめよう。そして、なすべきと子が出来なった自分を一端許して、今度同じようなことが起こった時にどう行動するか、それを考えながら、腹をくくろうと、いまは思い始めている。

明日から、東京。どうやらずいぶん寒いらしい。そして、旅先で、13年前のきょうと同じことが起こったら………。自分の命に、そして、隣人の命に、どれだけの配慮が出来るだろうか。自分も、みんなも、凡て、みんな、生き残り、生き抜こう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年8月28日 (火)

黒いクジラは動かない、決して、動こうとしない。

書くのを忘れていたことがあります。

昨日の朝、空港へ向かうポートライナーから窓の外を見ると、神戸港の沖になにか黒い、大きなものが見えました。黒いもの正体は、クジラでした。

P8270361














では、ありません。 黒い、大きなものの正体は、どう見ても潜水艦。

P8270373














黒い、大きな潜水艦が、ずっと動かずにいるのです。空港に着いてからも、ずっと、ずっといるのです。

その黒い、動かない潜水艦野分を、白い船が通り過ぎていきました。それは、日常。そして、非日常。ポートライナーに乗っている人は、だれ一人としてそれに気がつかず、空港について、展望台にのぼってもそれに気がついているふうな人は一人もない。

日常生活に、戦争が、忍び寄る。そんなことを、ついつい想像してしまいました。それは、わたしが沖縄に行くからでしょうか。
これは、敏感になって、気がつかないといけないことではないかと思うのです。そして、平和な民間の港湾になぜ、その軍の潜水艦が停泊しているのか、追求しなければならない。

こちらに来てから、空港にいる短時間に、自衛隊の戦闘機が何度も、何度も飛び立つ爆音が聞こえました。那覇空港は、軍民共用空港。ここにも日常生活と戦争が隣り合わせになっています。

※ 写真は、クリックすれば大きくなります。かな?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 2日 (金)

不発弾撤去の街角で

この3月4日、私の住んでいる街で不発弾の撤去作業が行われる。神戸市は、「東灘区青木 不発弾の処理作業について」等で広報しているし、新聞にでも採りあげられている。4日の日曜日の朝には、約10,000人の大規模な避難が行われるという。

このニュースを聞いたとき、なぜこんなところに不発弾がと思った。しかし、調べてみると、青木から深江にかけては、戦前飛行艇などを製造していた「川西航空機(現新明和工業)」甲南製作所があったという。今回発見された米国製の不発弾は、おそらくそこを標的に落とされたものだと思われる。

※ 神戸の空襲については、ここを参照のこと。

ところで、先月初め、東灘区民広報誌『東灘コミコミ』の臨時増刊号が配付された。内容は上記の「不発弾撤去作業」についてだ。その広報誌の第一面を見て気がついたことがある。それは、5つの言語(日本語を除く)で注意書きがされていることである。はじめに英語、次に中国語、ハングル、ポルトガル語、スペイン語、そして、ヴェトナム語の順になっている。

神戸には近代以降、さまざまな国の人々がわたってきて、住み着いている。西岡本にはジーメンスの「ヘルマンハイツ」があり、旧居留地や南京町もある。長田や須磨もまた、それぞれ、違った意味で、“国際的”な街である。また、神戸は明治初期には北海道開拓のため神戸と旧三田藩の人々により結成された「赤心社」の本拠地になり、奄美や沖縄等の南東からの人々を吸い寄せた。神戸は、戦前から戦後にかけて、ブラジル等にゆく移民の収容施設があった。

実は、今回不発弾が見つかった深江あたりに、戦前、欧米から来た芸術家たちが別荘を造っていたらしい。しかし、現在このあたりの住んでいる人たちは、そのような人たちではない。以前、用があり、阪神深江駅で下車し、しばらく海側に歩いたことがあった。時刻は、ちょうど、昼下がり。そこですれ違った人びとは、ポルトガル語かスペイン語らしきことばを話していた。

梶原久美子「神戸市東灘区における日系ブラジル人コミュニティを考える」(関西学院大学社会学部、 2000年度安田賞受賞論文、『社会学部紀要』第90号に所収)によると、ここに暮らす日系ブラジル人や中国人、韓国人たちはこの周辺にある食品工場で主としてコンビニで販売されている弁当やおにぎりなどをつくっているという。くだんの東灘区の広報で使用されている言語はこのような人たちのためであったと推察される。

けれども、それでも、心配なことがある。この間の避難について、ネット上のいくつかのサイトでは避難する、しないをめぐって日本人が議論している。また、市は警察力を動員して、一軒一軒家をめぐるという人海戦術で避難するように住民を説得しているという。そのような説得は、ここに暮らす多くの外国人・日系人に届くのであろうか。また、そうすることが、彼ら、彼女らのためになるのだろうか。しや警察は、「震災の経験に基づいて」というけれど、このようなところにもその経験が生きているのだろうか。

数年前のこの街をあるいたのは、阪神深江駅から国道43号線を通り越して海側にしばらく歩いたところにあった「多文化保育園」を訪ねたときのことであった。そこは、ポルトガル語、スペイン語、英語、中国語、韓国語のできる保育スタッフがいて、日本人の子どもも受け入れていた。しかし、この保育園も2005年8月に閉園したという。そこに通っていた子どもたちやその親たちは、その後どうなったのだろうか。そして、今回の不発弾処理をめぐるできごとをどう思っており、どのように行動するのであろうか。

異国で暮らす外国人たち、なかんずく、子どもたちはこの日をどのように迎え、どのように記憶していくのだろうか。なかには、不発弾、地雷等々が日常生活にあったところから来た人もいただろう。そして、平和な国・ニッポンに来たはずだったのに………。

現実の平和国家・ニッポンには、もっと深刻で過酷な現実がある。そこにあるわたしたちの目に届きにくい亀裂や断裂が、しかし、たしかに存在するこの街に、今回のできごとは「騒動」としてわき起こり、短時日に記憶され、そして、忘却されるのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月17日 (水)

忘れてしまいたいこと、聞いてほしいことと~12年目の「1.17」によせて~

いまだに、阪神大震災という言葉を聞いただけで動悸がして、涙が溢れてくる。震災とその後の出来事はわたしにとって忘れてしまいたいことであるが、同時にだれかに無性に聞いて欲しくなることでもある。

あの日、わたしは大阪府下T市のアパートで、小舟に乗ってゆっくりと、しかし強く流されるような夢を見ていた。そして、夢だと思ったのに、その流れが急カーブを切ったとき目が覚めた。

1995年1月17日は火曜日。直後の聖日礼拝で、わたしはT教会で礼拝の司式をした。司式者の祈祷で何を祈ったのか詳しく覚えていなが、神様に必死に訴えたことだけは微かに覚えている。その礼拝後、T教会ではかねてから予定されていた特別伝道集会が粛々と行われた。しかし、教会事務室では副牧師と青年会の数人がその時点で不明の教会員・求道者の安否を必死に確認していた。その震災後の教会の風景にわたしは強い違和感を覚えていた。また、T教会では社会委員会や青年会を中心に教会で毎月一定の額を継続的に集め、被災地に送る活動がはじまった。わたしたちはその募金が教会に関係なく被災地の必要なひとに届けられるものだと理解していたが、いつの間にかT教会の被災者のみに配られることになってしまっていた。

キリスト教は常に隣人とは誰かを厳しく問うてきた。しかし、震災後、「隣人」をめぐって教会内にはさまざまな亀裂が生じた。その亀裂は地域社会と教会の間にも生じ、やがて、わたしの信仰の中にも生じた。ごく一部の方々の奮闘を除いて、教会は、特に比較的被害の軽かった被災地周辺地域の諸教会は震災とその後の事態に対してほとんど無力であった。そのことだけは、歴史に明記しておきたいと思う。

さて、その他にもいくつも嫌なことがあった。そのたびに、教会に対するわたしの失望はいよいよ深くなった。わたしは、キリスト教の信仰を失ったのだ。と、その時感じていた。しばらくの苦悶の時を経て、わたしの足は遂に教会から遠のいてしまった。そんな鬱々たる日々を送っていたある日、わたしは以前読んだ『近代日本と神戸教会』のことをふと思い出した。そして、なお数週間の迷った末、1995年12月31日、神戸教会の礼拝にはじめて出席した。

その時点で、わたしの中にはある想いが確信となりはじめていた。「被災者や被災地のためにわたしができることはあまりない。しかし、神戸の教会に連なることで神戸ともにありたい」。その後、翌年4月神戸教会転入会。さらに97年3月神戸市東灘区に転居。ただ、わたしは震災のときもその後の自体が進行中である今日も、ほんとうに何もしていない。ただ、神戸と寄り添い、震災後の神戸や阪神間の移り変わりを見つめてきただけだ。そんなことしかできなかったが、それでも、それだけはできたのだと思っている。

ところで、震災に関する記述はいまだにそれぞれの個人的体験の集積の域を出ていない。一年に一度1月17日に繰り返される報道の中で語られるできごとは、それぞれがとても貴重なものであっても、震災の全体像を論理的にのべたものではなく、あくまでも自分や自分の周囲に起こったことを思い起こし、言語化したに過ぎない場合が大半である。したがって、体験者以外の人々にとって、それらは非論理的で、断片的な体験の羅列と感じられたかもしれない。しかし、震災時のその周縁にいたわたしは自分の似たような体験と重ね合わせて共感したり、忘れたい記憶を苦々しく思い起こしたり、欠けたピースを見つけたようにその断片を水からの記憶に加えたり、現状を見ながらそれを照らし合わせるなどして、それぞれに証言を理解することができる。

震災から12年。体験者と非体験者の記憶の格差と印象の落差はどんどん開いているのではないか。思い出したくないできごとはひとときでも忘れていたいと思う。しかし、だれかに聞いてもらわないと救われない。黙っていたら伝わらない。でも、話しはじめると気持ちをうまく伝えることができない。そんなもどかしさを、この12年のあいだ、ずっと、わたしは感じていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)