カテゴリー「戦争」の18件の記事

2008年11月17日 (月)

明日の神話(改)

※ 試しに、携帯でブログに投稿してみたので、文章を打ち込んでいませんでした。

岡本太郎の「明日の神話」です。東京・渋谷の京王井の頭線へ向かう通路では、数ヵ月前から工事が行われていいました。この日(今月17日)夕方に通りかかると、完成していました。当分はガードマンがつくそうです。

     明日の神話
 

         明日の神話

さて、わたしは、どちらかというと「広島贔屓」なので、この壁画、やっぱり広島にあるべきではないかと思う次第です。しかし、この通路、どこにそんなにひとが住んでいるのか、一日に35万人の人が通るそうです。35万人といえば、宝塚市の人口の約1.5倍。高知市や吹田市の人口に匹敵する規模。多くの人に、見てもらいたいということなのでしょうか。

この日は、最初だからみんな(わたしもそうですが………)携帯をかかげて、ぱちぱちやっていました。しかし、毎日眺めていると、風景化しそう。35万人とときどき通るひとり(わたし)は、何を思うことなく、通り過ぎていくような気がするのですが。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年8月15日 (金)

忘れる速度ととどまること〜8・13と8・15〜

沖縄で8月15日を迎えるのは、ひょっとすると初めてではないか。1945年のこの日のことは、去年もブログに書いた。沖縄にとってこの日は「終戦の日」ではない。しかし、一応(というと、あれだが)、きょうの正午には黙祷があるらしく、調査の昼休みによった食堂では、遠くから聞こえてくるサイレンの音に「黙祷、黙祷」と呼びかけるひともいた。

それから、仕事を終えて、夕方、「パレットくもじ」に開かれている「     」を見に行った。2004年8月13日の金曜日、沖縄国際大学の構内に米軍のヘリが墜落してから4年目になるが、その間、一般の市民からよせられた写真(多くはいわゆる「写メール」で送られてきたという)が、それを撮った一人一人のコメント付で展示されている。写真は事故直後からはじまって、被害を受けた大学の事務棟の解体、新築までとかなりな期間続いている。

この写真展を進めてくれた沖縄在住のGさんによると、「今年も、意地でも続けている」とのこと。会場では、一見すると大学関係者には見えない女性が小学生ぐらいの子どもと一緒に店番をしていた。

さて、会場には、その日の号外や翌日の朝刊(いずれも、『沖縄タイムス』と『琉球新報』)も展示されていた。その翌日の朝刊の記事を見て、いろいろ記憶が甦ってきた。それには、一面の片隅に「アテネオリンピック、未明に開幕」とあった。そうか、4年前なのか。ちょうど北京でオリンピックが開かれている。わたしは、この年、ヘリ墜落の数日後、現地にGさんに連れて行ってもらった。そして、アテネの野球の準決勝で日本がオーストラリアに負けた(今も阪神タイガースにいるウイリアム投手のせいです)ことは、なぜか鮮明に覚えているのだが………。それにしても、その二つの記憶が同じ年の記憶として、どうも結びつかないでいる。

当時は、しっかりと心に刻みつけようと思っていたのだと思う。そして、本土ではこの事件の記事よりも、「ナベツネ」辞任のニュースが大きく扱われていたことに、憤っていたはずだ。また、今年も13日を意識はしていた。しかし、記憶というものは、こうして次第に後退していくものなのだろう。

「もう一度」、と思うけれど、沖縄でも記憶が風化しているのだろう。そして、それを必死で防ごうとしている人たちもいる。しかし、普天間基地の移設の問題は他のいくつもの変数をかかえ、説くことが不可能な連立方程式になっていて、あれ以来一歩もすすんでいない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月 7日 (木)

ことばで伝える、広島8・6

63年目の「8・6」。この日の朝は、いつも、暑かった広島の夏を思い出す。

さて、最近、韓国からの留学生に広島のことを話す機会がありました。広島が、まだ、「廣島」だったころのいわゆる「加害の歴史」、原爆投下の経緯と理由、その後の「ヒロシマ」のことも話しました。また、広島・長崎での被爆と沖縄戦の比較、在韓被爆者など広島と韓国の関わりについても話をしました。

広島での出来事について写真集や編集されたビデオ(ちょうどわたしが広島で学生生活を送っていた頃「3フィート運動」というのがありました)など、視覚に訴えて話をすることも可能でしょうが、わたしは、文字と話にこだわりました。

広島大学の一般教養の講義であった「戦争と平和に関する総合的考察」で、二つの写真を見せられました。いずれもベトナム戦争時の写真でしたが、一枚はB52が爆弾を多数党化している写真、もう一枚は南ベトナム軍兵士が北のベトコンを射殺している写真。それらの写真を見せたうえで、講師はどちらの写真がより残酷であると思うか、学生に問いました。

大半の学生が後者の方が残酷であると答えたのですが、講師に指摘されずとも、前者に「写された多数の爆弾の行く末を想像すると、そこには阿鼻叫喚の地獄があり、多数の犠牲者が確実にいるのです。それなのに、目の前で殺されている一人の方が残酷だと、人間は思ってしまうのです。

だから、わたしは、文字とことばにこだわっています。

写真やビデオをただただ提示するだけでは、広島の被爆の意味が「戦争」に一般化されてしまう恐れがあります。また、徒に感情に訴えることは、単純なメッセージしか生みません。それは、それなりに力をもつのですが、わたしはそれに加えて考えてほしいことがありました。広島や長崎の原爆の特殊性を強調するためではありません。

戦争はどうして起こるのか。

その結末はどうなるのか。

そして、それを止めるために、自分や世界はなにができるのか。

そんなことを、これを機会に考えてほしかったからです。

さて、あしたから、また、「ヒロシマ紀元」からかぞえはじめた年数が一つ加えられます。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2008年7月19日 (土)

沖縄、狙い撃ち

そのお粗末な内容に、わたしは半ばあきれてしまった。だから、買ってまで、また、借りてまで読む価値がないと思うので、敢えて誌名を書かないでおくが、ある月刊誌の8月号に、沖縄戦の「集団自決」に関する、まったくひどい特集が組まれている。

なにがひどいかという、まず、数人の執筆者が同じ雑誌にいくつもの記事を書いている。これは、物書きとしてのモラルの問題であろうし、この問題に関して「軍命がなかった」と強硬に主張する人材の払底を露呈している。加えて、かつての別の号や雑誌等での記事の重複だけではなく、同一誌のなかに同じ内容がくり返されている。よっぽど、「攻撃材料」に困っているのだろう。そりゃそうだ。もともと、無理な立論なのだから。

それでも、いくつか「目新しい」内容がないわけでもないが、それがかえって執筆陣の焦りを著していると思われる。そのなかには、すでに言いがかりとしか思えないお粗末な記事もある。

そのひとつは「S日報(T協会(教会)の下部組織が発行している新聞)編集委員」のKM氏の記事である。K氏はこれまでも著書や数々の証言で自ら肉親を手にかけてきたことを告白し、「集団自決」において日本軍の軍命があったと明言されてこられた金城重明氏ことをを殺人者であり、嘘つきであると断じている。

その手法は、背景をよく知らない者に説得力があると思わせるような、巧妙な詐術が含まれている。K氏の手法は、金城氏の数々の証言や文章について、文献のみを詳細に検討し(重箱の隅をつつき)、自らの論に都合のいいところだけを全体の文脈から切り離して井雲のであり、それらのK氏がいうところの「事実」と「事実」の間を悪意にみちた推論や邪推でつないでいくというものである。

それから、この記事を読むかぎり、K氏は金城氏に一度も直接取材をした形跡がない。取材そのものをしていないのか、直接話しをきいたけれどもその内容が載せられなかったのか、また、法廷等でその証言を直接聞いたのは判然としないが、ともかく、自分が徹底的に批判しようとする人物に対して、可能であるのに直接取材をしていない(または、そのさいの出来事を公表しない)ことは、ジャーナリストとして杜撰ではなかろうか。

以上、詳細に検討することも時間の無駄と思われるような代物であるが、しかし、このままなにも表明しないでおくと、この世界(ネットの世界)でもそれが「事実」として定着されかねないので、一言、書いておく。

人間、取り返しのつかないことをしてしまったときにでも、その後も人生を生きていかなければならない。改心したと言っても、許してくれないひともいるだろう。また、神様は、はっきりと許したという意思表示をされるものでもない。「贖罪」ということばは、とても重い。金城重明氏にはこの件とは別の件で何度か一対一でじっくりお話しを聞いたことがある。氏は、その時も、そして、今でも贖罪の日々を生きてこられている。

そのような人物に正対せず、背後から脳天を打ち抜こうとする輩がこの世にはいる。そして、その輩は、ひとの志を踏みにじることで、いったいなにを守ろうとしているのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月23日 (月)

沖縄の「戦後」〜6・23を考える。〜

きょうは、沖縄戦の慰霊の日。慰霊したり、供養したりするためには、日を決めて、年にいっぺん………。ということなのだろうが、この日に沖縄の戦闘は終わっていない。そして、この2か月余り前に戦争が終わっていたひともいる。

最近、調べている仲里朝章(沖縄キリスト教会理事長、沖縄キリスト教学院初代学長などを歴任)という人物は、この日の4日前、「三和村喜屋武」(石川政秀編『仲里朝章遺稿集・伝記』(仲里朝章顕彰会 1974年)所収の年譜の通り。「三和村」は戦後誕生し、現在は糸満市。かむじゃたん氏のコメント参照のこと)で米軍の捕虜になり、北部の捕虜収容所(宜野座)に送られた。

これで、彼と彼の家族は戦場から離脱したわけだが、当時校長を務めていた那覇市立商業学校の生徒を多数戦場に送り、娘の光子さんはひめゆり学徒隊として家族と離れ、落命した(光子さんはその後靖国神社に合祀されていることがわかり、御遺族の仲里朝治氏(朝章の息子さん)は訴訟を起こされている。このことは、ここにご自身が記されている)。

だから、だからそれで戦争が終わったというわけではない。 さて、朝章は、宜野座地区惣慶の収容所に滞在中チャプレンの誘いで伝道集会をはじめる。つまり、南部では激戦が続いているなかで、北部ではすでに「戦後」がはじまっており、そこでは礼拝や受洗式などが日常的に行われていたのだ。

朝章は、惣慶で収容されていた男女学生をあつめて戦後初めての共学中等教育機関である惣慶中等学院(後の宜野座高校。同校の校歌は朝章の作詞)を設立し、教育に携わる一方で、周辺に精力的に伝道活動を行ったという。

この件は、また、詳しく書こう。

いずれにしろ、片方では激戦が続いているなかで、他方では収容所に入れられ自由は奪われているが、衣食住が与えられ、礼拝が開かれているというような状態。いくつもの異なった局面が同時に進行しつつあったのが、沖縄戦の特徴である。 したがって、この6月23日は、そのような特徴を覆って、慰霊と供養のために区切りをつけるのである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年5月15日 (木)

〔遅報・学会発表要旨〕国家、地域、教会〜沖縄キリスト教をめぐる二つの国家と地域社会〜

沖縄キリスト教史において「国家とキリスト教」という問題を措定すると、日本本土(以下「日本」)の他地域のそれとは異なった課題が生じる。近代以降も、沖縄は日本とは違った経験してきた。また、日米の二つの国家に挟撃される沖縄の位置を考慮すると、そのキリスト教史を自立的に論ずるならば、国家とキリスト教、あるいは、国家と教会との間に、地域社会を中間項に設定しなければ、そこで生じた歴史的事象をとらえきれない。

それを前提に米軍占領下の沖縄キリスト教史を粗描するならば、その構成要素は、①沖縄人(地域住民、キリスト者)、②米国人(米軍人・軍属とその家族、チャプレン(従軍牧師)、米国人宣教師)、③日本人(国民、日本の教会関係者)の三者が考えられる。そして、それぞれがそれぞれの思惑で思考し、行動する過程で、国家意思がどう実行され、貫徹されていったか、その解明が課題となる。

ここに沖縄における教会形成と国家の関わりを示す興味深い資料がある。『キリスト教年鑑』二〇〇七年度版によると、沖縄県の教会は三三〇余り、信徒数は約三九,〇〇〇名で、県人口の二.八二%が教会員となり、日本の他の地域に比べて三倍近くになる。さらに各地域別に教会数・信徒数・対人口信徒比を見ていくと、沖縄キリスト教のある特徴が鮮明になる。教会と信徒は人口分布通り、約九割が沖縄島に集中している。ところが、沖縄島でも米軍基地が集中している中部地区には、県都・那覇を含む南部よりも人口が少ないにもか拘わらず沖縄全体の四三.二〇%の教会が集中し、信徒の割合は三.七六%にもなる。これは全国平均の四倍弱である。さらに、中部地区の教会はペンテコステ系やいわゆる「福音派」系の教会が多いことがわかる。

これは、単なる偶然ではない。発表者の聞き取りによると、中部地区の「福音派」系諸教会のいくつかは、米軍基地に頻繁に出入りでき、基地内の信徒やチャペルで交流をもっているという。また、このような「福音派」系諸教会には積極的に平和運動を行っている教会もあるが、それでも米軍批判の言動はあまり聞こえてこない。沖縄におけるキリスト教人口と教会の偏在は、米軍の駐留との関連を想起させる。そして、そのような関係は、日米両国の圧力により歴史や政治の矛盾が沖縄地域社会に収斂した結果でもある。このように、駐留軍が、国家意思に基づき牧師や信者、教会を通して沖縄地域社会に自らの有用性や友好的姿勢を顕示するとき、沖縄の教会は自ずと二分されていく。

本報告では、そのような沖縄教会の現状をふまえて上で、沖縄教会と国家の関わりを省察するために、チャプレン(米軍従軍牧師)と宣教師(団)の実態とその役割について考察した。

その結果、以下のことが明らかになった。まず、一九五〇年代に本格化する米国人宣教師による沖縄伝道は沖縄占領軍や東京のGHQの奨励と支援の元で実現された。そのような宣教師は、多くの場合、米軍の沖縄駐留には肯定的で、なかには沖縄の基地外で「英語教会」と称する米国人の教会をつくり、それらを背景に沖縄のキリスト教界に大きな影響力を及ぼそうとした宣教師もいた。

また、一九六〇年から七〇年にかけて、在沖米軍基地には二〇余りのチャペルがあったが、そこで牧会にあたっているチャプレンは、牧師であると同時に現役の将校でもあった。彼らは、時に、兵士たちを軍の意向にそって教導し、監視したりもした。また、チャプレンは最寄りの教会の牧師や信徒を通じて沖縄の地域情勢に関する情報を入手し、占領軍当局の意向をそれとなく地域住民に伝えるように促した形跡がみられる。

このように、沖縄在住の米国人のキリスト者、つまり、宣教師やチャプレンたちは程度の差はあれ米国の立場を擁護する役割を担っていた。そのため、沖縄の地域住民にとっては、キリスト教は米国の宗教であり、米軍の宗教であるという認識が強く、沖縄教会は地域社会で伝道する際に米国や米軍の動向に配慮せざるを得なかったのである。

米軍基地の駐留を巡りつねに分裂を余儀なくされている沖縄地域社会と、伝道する際に地域社会の亀裂を無視できない沖縄教会の「現況」は、こうした環境下で形成されているといえる。

(「キリスト教史学会第58回大会」(2005年 9月15日、於恵泉女学園大学)での研究発表要旨。『キリスト教史学』第62集(2008年7月)掲載予定)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月28日 (金)

さあ、これからの、長い、長い道のり〜岩波・大江「集団自決」訴訟〜

きょうは、早朝から京都行き。まさに、きょう、地裁の判決が出る『沖縄ノート』などをめぐるいわゆる岩波・大江「集団自決」訴訟のことは頭にあったが、日本基督教学会関西支部会の集まりに出かけた。まだ未加入の学会なので親しい知り合いは皆無。入会しようとしたが、紹介者がないのであきらめた。誰か紹介者になって下さい。

さて、その休憩中、沖縄の友人からのメッセージで今回の訴訟の“勝訴”を知った。帰って、沖縄の新聞のWebをチェックすると………

岩波・大江「集団自決」/訴訟『集団自決』軍が関与 岩波・大江訴訟」(『琉球新報』)
元隊長の請求棄却/「集団自決」訴訟軍命に真実相当性/大阪地裁『深く関わった』」(『沖縄タイムス』)

とある。

私事だが、大江健三郎氏は、わたしの高校の先輩。それだから、応援していたわけではないが、ともかく、一区切りついたようだ。それにしても、大江氏、だいぶん老けたのだろうか。

さて、原告は、無論、控訴するという。確信犯だから。これからも、息の長い、闘いになると思う。新聞やテレビの報道で金城重明さんが出るたびに、お元気なのだろうかと案じる。今度沖縄にいったら、是非、お会いしたいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月20日 (木)

沖縄のキリスト者〜その、いくつもの顔〜

夕方、ホテルに帰って、朝買った『琉球新報』に目をとおすと、「『殺され、なぜ殉国死』 沖縄戦犠牲者の合祀批判」という記事の写真に、たったいままで話をしていた人の苦渋に満ちた顔を見た。向かって左から2目はNさんだ。

Nさんは、見るからに篤実なクリスチャンである一方、ご夫婦とも社会問題に高い関心と見識を有している方でもある。そのNさんは2002年に今回と同様の訴訟を起こす。Nさんの姉上のお一人M子さんは、沖縄戦で「ひめゆり部隊」の一員として伊原第三外科壕でなくなられている。M子さんはその後1955年に家族の了解なしに靖国神社に合祀されたという。この間の経緯は、Nさん御自身がその訴訟でしめされた「原告意見陳述書」に詳しい。

そして、Nさんの信仰に基づいた思想と行動は、Nさんのお父上のそれと繋がっている。だから、Nさんの語る姿はとてもおだやかなのだが、揺らぎがない。

その一方で、きょう、Yさんという信徒と面会した。彼のお父上も、Nさん同様、戦後沖縄のキリスト教伝道草創期を支えた牧師の一人である。Yさんは、日本キリスト教団ではない別の教派の信徒だが、沖縄の他のクリスチャン同様、他教派の事情には関心があるらしい。それで、教団のN中央教会のあららし牧師の人事や、自家用車の横っ腹に反基地のスローガンを書いている牧師のことを指して、牧師が沖縄の社会運動や政治問題に関わることに疑問をしめされた。

Yさんの考え方はわたしの考え方とは違っていて、わたし自身はどちらかというとNさんの考えに近い。しかし、Yさんの考え方もアリで、決して頭から否定すべきではないと思う。そう感じたのは、ここ数ヶ月のYさんとのやりとりからだ。Yさんは、Yさんなりに、信仰にかけて、筋を通そうとして上司と常にぶつかっていたお父上のことを、非常に親愛を込めて、肯定的に評価されている。

教会や牧師、信徒の社会運動や政治運動に消極的で、常に聖書の御言葉を生活の基盤として、絶えずそれを口にしながら、それに忠実にあろうとする信徒は、沖縄に多い(社会運動や政治活動に熱心なキリスト者が、聖書を軽んじているということはないのだが)。そのような信徒でも、やはり、抑圧や権力の横暴には敏感で、権力や権威とは距離をとりながら批判するところは批判している。

わたしは、Nさんのような仕草や表情が作れるキリスト者になりたいと思う。だからといって、Yさんの信仰を否定したりすることはできない。そんな権利はないのだ。

さて、明日は、どんな沖縄のクリスチャンやノン・クリスチャンに出会えるのだろうか。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年3月16日 (日)

「集団自決」を心に刻んで

証言沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか (岩波新書 新赤版 1114) Book 証言沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか (岩波新書 新赤版 1114)

著者:謝花 直美
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

わたしとほぼ同世代の沖縄タイムス編集委員の著作だ。戦後生まれの著者が、「慶良間諸島へ毎週通いながら取材を重ねた」(p221)結果生まれた貴重な証言集である。これほどはっきりした証言があり、しかも、複数の証言の中にはそうとうの共通部分があり、それぞれが、違った立場、違った状況下でしている証言だけに、併せて読むと、より立体的に歴史的事実が浮かんでくる。

こうした「事実」がありながら、文書の不在を根拠に、今ごろになってその「事実」を否定しようとする者たちがいる。

沖縄戦の真実と歪曲 Book 沖縄戦の真実と歪曲

著者:大城 将保
販売元:高文研
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ここには、教科書検定の際の「集団自決」記述をめぐってのできごとと大江健三郎と岩波書店が元軍人とその遺族に訴えられた件の顛末が詳しく書かれている。ここには、沖縄戦での「集団自決(強制的集団死)」への日本軍の軍命・関与を否定するために、どのような問題の矮小化と詐術が、どのような場で行われたのかが詳述してある。つまり、「集団自決」に関する訴訟を起こし、それを理由に教科書検定を“後退”させる。このような試みは、従軍慰安婦や南京大虐殺を否定する主張を展開する時にも用いられたもので、それらを否定しようとする人脈は、繋がっているというのである。このようなことは、一部では周知のことであったが、本書で、認識を新たにした。

軍命は必ずしも文書で伝達されるものではない。わたしは以前沖縄に侵攻した米軍が日本軍から押収した「公式文書」群をマイクロフィルムで見たことがある。そこには、ありとあらゆる(と思われるほどの)命令書が前戦の部隊と司令部との間に交わされたことが見て取れた。弾薬・糧秣等々の要求と補給、 進軍計画などが細かく報告され、指示されていた。それをみながら、わたしは、戦争とは一面で、官僚機構による行政的な行為であることを知った。

しかし、だからといって、「集団自決」を命ずる軍命が、それらの文書群に存在しないことを根拠に完全に否定されるわけではない。それに加えて、軍の関係文書の大半は敗戦前後に破棄されていると見られる。自ら破棄したものを、あるいは、同じ勢力が破棄したことを確信した上で、“それ”はないと主張し、「真実」は隠蔽し、「事実」を歪曲する。

さて、謝花氏の地味だが粘り強く継続されてきた聞き取りと、それを可能のした氏の誠実さが閉じられた心を開いたことを、思う。わたしたちは、聞き取り調査の技能を一層磨き、その成果の社会への還元について真剣に考えたい。

この19日から沖縄へ行く。今回の調査の目的は「集団自決」とは別のところにある。しかし、わたしが研究の対象と指定戦後の沖縄の人びとは、多かれ少なかれ、「集団自決」や日本軍による虐殺、そして、米軍支配の暴虐を体験した人であることは、しっかりと心に刻み、調査にのぞみたい。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年3月 9日 (日)

聞き取りは、史料としての価値があるのか〜ある大学院生の問いに答えて〜

きのう、一(大)仕事終わって、きょうからからしばらく東京です。

きのうの仕事というのは、キリスト教史学会関西支部会での研究発表でした。わたしの報告は、「1940年代後半の沖縄教会─新たに発見した史料から見る─」。戦後沖縄キリスト教史研究で、11940年代の史料これまでほとんどないといわれてきました。しかし、その壁を何とか突破しなければ、その後の歴史も描けないと思っています。

そして、一生懸命探したら史料はけっこうあったのですが、それでもそれが充分に使えないこともあります。その理由はいくつかありますが、現代史はまだ歴史になっていないということが最大の問題です。わたしたち歴史の研究者の仕事は、公表されている事実ばかりではなく、隠されあり、忘れ去られていたりしている事実を幾つもつなぎ合わせて、それらを歴史の文脈に位置づけていくことです。その過程で、いままで顧みられなかった事実を明らかにすることもできるし、時には卑しめられ、貶められている方々の汚名を結果的に雪ぐこともできるのです。

しかし、その一方で、わたしたちが明らかにした事実で、忘れたいと思っていたことが思い出されたり、人を傷つけることになったりすることもあります。特に、論争があったり、対立があったりする事実については、その歴史的評価に公平性を保証しようとすればするほど、そのジレンマは高まります。そして、それは、研究者だけではなく、現代史の場合、それぞれの立場に立った当事者やその遺家族ならば、より強く感じることではないかと思うのです。

わたしが、正に先述の壁を前にして直面しているのは、このようなジレンマです。ちょっと立ち止まっているのですが、でも、何とか歩いていこうと思っています。

さて、その後の懇親会で、某大学の神学部の院生(4月から牧会の現場に出るそうです)からこんなことを聞かれました。

聞き取りの史料って、史料的な価値があるのですか?

わたしの今回の報告は、公刊され、それを研究者が検証しないでそのまま引用することで一種の権威がつけられた“事実”を正しく批判し歴史に位置づけるために、そこで批判されたり、無視されたりしている“事実”を他の未刊行の史料や聞き取りによって検証していくと、「正史」に書かれていない“事実”がたくさん見つかるというのが主題でした。

このようなわたしの意図は、なかなか理解されないことは分かっています。だから、我慢強く語っていかなければと思います。で、その院生には、聞き取りも、その方法や扱い方次第で主観的な語りから客観的な史料に近づいていくことを実例をあげて丁寧に説明したつもりです。

が、少し言い忘れたことがあるので、ここでつけ足します(彼の院生君はこれを見ているだろうか。そういえば名前も聞いていませんでした………)。沖縄戦下の「集団自決」の「語り}については、またすぐに書こうと思っているのですが、言い忘れたのはそのことです。

「集団自決」については多くの聞き取りの成果があります。それが、政治的に利用されているわけですが、ここでも書かれた文書と聞き取りのどちらが信用できるかという議論があります。文書がないのだから「集団自決」の軍命はなかったのだという人がいます。一方で、「集団自決」の軍命はほとんど口頭で伝えられ、多くの人が軍命を感じたと証言しています。後者に、「はっきりとした軍命があったのですか」ときくと、多くの人は「なかった」と答えるでしょう。でもそれで、軍命がなかったと判断することが公正で公平であるといえるでしょうか。

最初に結論があっての聞き取りは意味がないと思います。そのような聞き取りは、全く資料的な価値はないとおもいます。どうでしょう。体験者がいっている「軍命を感じた」という言葉と、「文書がない。したがって、軍命はなかったのだ」という当時の責任者である軍人の言い逃れと、どちらが「真実」に近いのでしょうか。

問題の本質は、そのようなところにあると思うのです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年2月21日 (木)

「記録する」ということ。

仕事柄、全国各地の公文書館や図書館をよく訪れる。公文書館や図書館は、よく「民主主義の砦」と呼ばれる。権力が覆い隠したり、バラバラにして、偽装したりしているものを、明るみに出すためには、地道に隠され、バラバラにされ、偽装されたものを、掘り出したり、つなげ合わせたり、暴いたりしなければならない。

さて、きょうも、沖縄でフィリピン人女性が犠牲者になる事件が発生。今度は、容疑者の米兵は基地に逃げ込み、まだ、逮捕されていない。

それから、イージス艦と漁船の衝突事故。「イージス艦、漁船団を避けず直進 僚船GPSで裏付け」とのこと。10数トンに満たない漁船の残したGPSの記録が、自衛隊が隠し、防衛「省」が隠しているかも知れないことを、暴き出している。

「記録する」ということ。やはり、これはわたしたちの民主主義を守り、権力を告発するための重要な手段である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

命は、守らない。そして、また、隠すのか。

在沖・日米軍兵士による、相次ぐ事件。ワザとか、と思われるほど続いている。誘拐・監禁・強姦、飲酒運転、家宅侵入、偽札使用………。きっと、もっと、続くだろう。そして、だめ押しが、海上自衛隊(海の日本軍)のイージス艦と釣り船との衝突事故。

軍隊は、人を守らない。このことは、既に周知のことだ。

無論、軍隊の中にも、市民・国民を守りたいと思ってその職に就いた人はたくさんいるだろうし、その志が軍隊に入ってからも変わっていない人もいるだろう。しかし、そのような志とは別に、軍隊の目的やシステムから見ると、軍隊に市民をどんなときも守らなければならない義務はない。軍隊にとって外に大事なことはたくさんある。そして、その国民の生命財産よりも大切なものを守ることを第一義的な義務として軍隊は存在している。その結果、救われる国民のあるだろうが、それは、あくまでも副次的なものでしかない。

さて、千葉の漁師さんたちが「軍艦」と呼ぶ巨大船に真っ二つ(実際には中央の環境部分が失われているので、残ったのは船尾部分と船首部分)にされた船は、現場検証のために何処に運ばれた、御存知だろうか。

答えは、「   神奈川県横須賀市の海上自衛隊船越基地」。

つまり、容疑者となり被告となる可能性の高い組織の排他的領域へと「犯罪」の証拠物になるであろうものが運び込まれている。そして、二転三転する、一方の当事者の「証言」と、いまだに発見されていない、つまり、肉声の聞くことができない他方の当事者。このアンバランスの中で、事実は隠蔽されようとしているのではないかと危惧する。

何年か前の潜水艦と大型釣り船の衝突事故では、航泊日誌が改ざんされたという。また、少し次元の違う話だが、「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」、そして、以前にここでも触れた沖縄戦での「集団自決」などの諸問題でも、軍隊は、軍隊の上層部とそれに連なる政府機関は、国民の平和や唖然、安心のためではなく、自らの名誉を守り、ひいては、自らが所属する国家の名誉を汚さぬように、事実を隠蔽し、新しい事実を捏造し、それを文字に記し、敷衍して、歴史を作りだすことで、目的を達成しようとしてきた。

──また、隠すのか。(※ 例えば、ここ)

その、思いだけが、無念と一緒に募っていく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月 8日 (金)

遠く、慶良間諸島をのぞんで〜沖縄で聞く「集団自決」に関する教科書記述問題〜

その日、2007年12月26日の夕刻、首里城に立ち寄った。

前回(8月)訪れたときより、さらに「整備」が進んでいる。そして、さらに正殿裏などで工事が続いていて、重機の音が絶えずしている。しばらく歩いて、数年前に作られた展望台で、日が暮れていくのを、しばらく見つめていた。

それまでの2日、沖縄には珍しく晴天が続いていた。そこからは、那覇市街と遠くは北谷の浜から読谷の残波岬までが見通せる。那覇空港からは頻繁に飛行機が飛び立ち、低空で去っていく。また、ときおり、西から東へ演習帰りであろうか、米軍の輸送機が前田高地を越えて、普天間か嘉手納の方に降りていく。展望台登り口からは知念半島や中城湾も少しだが見えた。

展望台には、入れ替わり立ち替わり観光客が訪れて、歓声を上げている。家族ズレ、カップ裡、友人グループ。そして、外国人らしき人々も頻繁に訪れている。ほとんどは欧米系の人に見える。駐留米軍の関係者だろうか。体つきからそう推測してみる。

歓声を上げる人びとの視線の先に、慶良間諸島が、きょうもはっきり見えた。折しも、沖縄戦時の「集団自決」の教科書記述をめぐる検定について、この日、ひとつの結論が出た。

それを、わたしは携帯電話のニュース・サイトで知ったのだが、それ以外にも知る機会があった。夕方、買い物に寄ったスーパーでは、沖縄タイムスの号外が置いてあった。翌日立ち寄った沖縄県立博物館でも受付に同じ号外が置いてあった。沖縄では、こうして、情報が流布し、共有されていくのか。きっと、これを見ながら、いろいろと話が行われているのだろう。

さて、その結論は、実に中途半端なものであった。軍による「強制」は認めなかったが、「関与」の記述は復活させるというのだ。これについては、いくつもの見方がある。その後の新聞の記事にも様々な解釈がなされていた。

しかし、これは、「権力」による緻密な計算による結果ではないかと考えられないでもない。事実、これ以降、9月の11万人集会を実現させた結束は、この中途半端に見える結論で見事に分断された。つまり、その結束は、「集団自決」に際して、軍による強制があったとあくまでも考えているグループと、「軍による関与はあっただろうが、強制があったというと、日本(本土)との関係でまずいことになっては困る」というグループなどの連合体ではなかったが。だからこそ、軍による「関与」で満足した人びとと、それではとうてい承伏出来ない人びととの間に亀裂がはしり、沖縄は分断されていく。

いぜん、わたしは、ある集団に圧力をかけ続けるとその集団は分断されていく。こうして、沖縄では国家による統合と分断が同時に起こっているし、これまでも起こってきたと書いた。この現象が正に、ここで起こったのである。

しかし、現状を更に注意深く見ていくと、いろいろと興味深いことに気づかされる。その一つは、争われていることがらは今から63年近く前の沖縄戦でのことであるが、その判断や歴史的解釈には、沖縄が置かれている状況や、日本と米国が沖縄に対して行っている政治や政策が反映しているということである。大阪で岩波書店や大江健三郎を相手取って起こした裁判の原告になっている人びとは、それぞれ慶良間で軍の指揮に当たった当事者とその遺族である。彼らは、ひょっとすると単純に自分や自分の家族の名誉の回復をのみ願っているかも知れないが、その取り巻きは本島はそんなことは々でもよくて、日本人の名誉や軍の正当性を誇示したいがための集団であろう(この件については、機会があれば、別に詳論したい)。

同様に、今回の結論は、沖縄で起こっている大きな動きを統治の障碍と捉え、その動きを分担するために「権力」側が仕組んだ巧妙な仕掛けではないかと思うのだ。つまり、ここでも、歴史的な事実の問題よりも、現実の政治課題が優先され、その「集団自決」の当事者の心情よりも、現に今生きている人間とそれを統治する「権力」の論理が優先した格好ではないかと思う。

しかし、それでは、沖縄になにがしかの明るい展望はないのだろうか。それは、きっとある。そして、あるとすれば、それは、「米国や日本という国家が亡んでも、沖縄は沖縄であり続ける」と言うことなのではないかと思う。「もう、既に、沖縄は沖縄ではない」という見方もある。近代以降、あるいは、もっと遡って、琉球=沖縄、常に「らしさ」をそぎ落とされながら今日に至っているという見方もある。しかし、それでも、沖縄は沖縄であるとすれば、こうして分断され、切断されつつも、このようなできごとをくり返しつつ、それを乗り越えて、既に国としてのかたちが内分、国家というかたちにとらわれている大国よりも、ずっと長く存続し続けるのではないかということだ。

沖縄は抑圧され、分断され、周縁化されている。しかし、その一方で、そうした事態が常態化しているが故に、そのような事態をしたたかに乗り切り、且つ、主張する所をして、それを見事におさめていくようなあり方をしているのではないか。

さて、これらは、単に、わたしの仮説にしか過ぎない。そして、それを確かめに、明日から、また、沖縄に行く。そして、その後、東京と、しばらく旅が続く。

※ 以上は、昨年12月の沖縄調査の時から少しづつ書いていたもので、だから、少々つじつまが合わない所もあるが、ご容赦願いたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月23日 (火)

括弧付き「実証主義」〜数値の魔術、数値の魔力〜

いささか、旧聞に帰するが、この時期に触れることは消して無意味ではないと思う。

先日、沖縄で行われた「教科書検定意見撤回を求める県民大会」の参加人数をめぐって、大会主催者の発表した11万人という数字に対して、主として右翼陣営から批判は出ている。

例えば、あるものは、会場となった公園の面積を測り、「人口密度」を出して、11万はあり得ず、多くて4,5万だろうという。また、新聞(どこの新聞かは明示がない。恐らく『琉球新報』や『沖縄タイムス』ではないだろう)に載った会場の写真に写った人間の頭をひとつひとつ塗りつぶして数えたそうである。そうして、積算された人数はせいぜい1万人だったという。

こういう数字は、特に主催者側のそれでは、おおめに発表されるのが常だ。もし、今回も相だとしても、1万人などと言うことはありえない。それより、一件実証的な手段や手続をとりながら、是が非でも、その数を少なく見積もろうとする、右翼・ネットウヨ連中の涙ぐましい努力が、かえって涙を誘う。

新聞に写った人間の頭は、もし、その数が正確だったとしても(それも、とっても難しいことだけど)、それは、その新聞に載った人間の数が1万人ということであって、参加者が1万人ということはないのだが、論理がすり替えられている。面積・人口密度説もしかり。このような主張をする人たちは、だれ一人として、その場にはいなかった(はず)。あたりまえだ。その集会には、阪大だもの。多少多めだとしても、その場にいた人たちのカウントより、その場におらず、机上の空論で算出された数字のほうが正確なんてことはありえない。そして、このような論法は、彼ら・彼女らのなかにしばしば見られる。つまり、「空論的実証主義」だ。もし、本当に正確な数字がそんなに必要で、しかも、それが実証的に正しいことを証明するのであれば、今からでも遅くはない。至急沖縄に渡って、沖縄県民約137万人ひとりひとりに参加したか、いなかを訊ねることをおすすめする。

ところで、ひょっとすると、このブログの前の記事で書いたように、右翼やネットウヨのみなさんは、沖縄について関心がなく、どんなところかも知らないので、沖縄の人口がとっても少ないと思いこんでいるのかも知れない。例えば、沖縄の人口が40万人だと思いこんでいたとすると、11万人も集まってしまうと、沖縄の4分の1の人が当日集まったことになってしまう。それは相当困ると、とでも思っているのではなかろうか。

当日の参加人数は、先島(宮古島と石垣島)で集まった数千人を加えて12万人としても、沖縄県全体の人口の約8.76%に過ぎない。そして、この12万人のなかには、相当数の本土からの集団が入っているので、沖縄在住の人に限ると、もっとパーセンテージは下がるだろう。だから、先の4分の1(これは、仮定の数字です。実際に沖縄県民の4分の1となると35万人ということになります)という数字なんてことはありえない。

それよりも、もっと大事なことがある。その会場にいなくても、また、自分の所属団体から例え動員されたとしても、例えば、会場までの臨時バスを運転した多数の運転手の方々は、その11万人と言う数字にはカウントされていないのではないか。そして、なにより、今回の問題については憤慨していて、検定意見の撤回をするのは当然だと思っていても、単なる時間の都合ではなく、自らの意思でその場には行かなかった沖縄人も多数いるだろう。つまり、あの場所にいた人間は、恐らく確実に、沖縄戦で起こった「集団自決」に日本軍の関与があったと確信しているだろうが、その場にいない人も、数はわからないけれど、相当数がそう確信していることは間違いない。だから、この11万人という数字は、実は、論理的に見て最低の数字であって、実際はその数倍、数十倍(テナ事はありえないが)の人数が、心の中で参加したり、参加しなくても、怒りや悔しさを共有しているのだ。

そして、今ひとつ。沖縄が、意見を言うときには、なぜ、「島ぐるみ」でないと、全島・全県一丸とならないと、それが日本人に聞き届けられないのだろうか。決して小さな島ではない、そして、広範囲に島々が点在し、そこにはいろいろな考え方の人が住んでいる沖縄。県外にも、海外にも、たくさんの沖縄人が生きて、生活している。そのような人々が「一枚岩」のわけがない。むしろ、そうでない方が健全とさえいえる。なのに、何で「全島・全県一丸」で、「一枚岩」なのか。

極論だが、例え一人でも、真摯に反対の意思表示をするものには、耳を傾けるべきである。そして、それは、自分と異なる意見であっても、その問いかけが、何か他の不純な目的をカムフラージュするものではなく、心からのものであれば、わたしたちは、それに耳を傾け、誠意には誠実で答えなければならないと思う。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2007年8月16日 (木)

終戦ではない「終戦の日」によせて

8月15日。1945.8.15。この日は本当は終戦の日ではないことは、既にここで言及した。したがって、きょうは、本当は、終戦の日ではない。しかし、年にたった一度でも戦争と平和について考えることは、意味がある。

NHKの番組で「憲法9条」について議論が交わされていた。それをまじめに見ていたわけではないのだが、いくつかおもしろい意見があった。例えば、最初の質問で改憲か護憲かを参加者に聞いたときに、「改憲」の札を上げていたひとが、その理由を次のように言った。自分はこの「9条」では不十分なので、この条項を変えて、絶対に軍隊をもてないようにするべきだと。政治的選択としてはどうかと思うが、その思いは悪くない。

それから、「9条」を変えて軍隊をもつ、あるいは、自衛隊を「自衛軍」としたと思っているひとの中には、完全に軍隊に幻想をもっている人たちが多いと思った。「軍隊は、わたしたち国民を、必ず、きっと、絶対に守ってくれるのだ」という奴である。しかし、軍隊は国民を守ったりはしない。どの国の軍隊でも、どの時代の軍隊でも。軍隊には、そもそも、その能力も意思もない。

なのに、次のような意見。覚えている範囲で、それを記述すると、「わたしたちは、有史以来はじめて国民の軍隊をもった。それまでは、「皇軍」で、国民の軍隊ではなかった。だから、先の大戦で軍隊が住民を守らなかったことを引き合いに出すことはおかしい。わたしたちは、自分たちの軍隊をもつことができたのだから、自衛隊を軍隊として認知すべきだ」と。

でも、真相は、違っている。これは、屁理屈のたぐいだ。それを証拠に、その大戦で海外各地で闘って戦死・戦病死した人たちの遺骨の大半は、まだその土地に置き去りにされている。そして、戦後、政府が行った遺骨収集は、決して積極的と評価できるものではなかった。その事業を沖縄や海外で、62年も経って、必死に行っている人たちは、政府や自衛隊を含む行政の人間ではなく、一般人である。つまり、戦後、民主的に成立した政府であっても、日本国民である兵士の骸を、見捨てて、決して顧みもせぬ者たちが、一般の国民を守るという意志を持たないことは明白であろう。原爆症の認定も然り。原爆のような大量殺戮兵器の人道に悖った使用を国際社会に告発もしていない。

軍隊は、決して、市民を、住民を助けることはない。戦場に置いて生き残るのは、結果的に、ほぼ偶然に助かるのみである。わたしたちを戦争から守ってくれるものがあるとしたら、それは、自らが戦争をしないという意思表示のみではないだろうか。

さて、62年前のきょう、この夜。市民たちは、戦闘の、空襲のないこの夜を、どう過ごしたのだろうか。それぞれの胸中に去来する者は、どんな思いだったのだろうか。そして、「明日」から続く未来を、どう見通していたのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年8月 6日 (月)

留学生と「8・6」

「8・6」。原爆忌。

広島に住んでいたとき見上げたこの日の空の蒼さと、夏雲のことを思い出す。黙祷の静寂とセミの声を思い出す。早暁に川辺に蹲る老人の悲しみを、この日に、ありったけの想像力で想像してみる。8月7日、祭りの後のような広島の街を思い出す。それからまた1年、この街は、忘れ去られるのだ。果てしなく続く、核実験。大国も、小国も、豊かな国も、貧しい国も、核武装をしたがっている。

さて、ここ数年留学生向けの授業(「ニホンゴ・ニホンジジョウ」とかいう)を担当していると毎年必ず、韓国の留学生と原爆の投下についての議論になる。

韓国から来た留学生は、大多数が、広島・長崎への米軍の原爆投下は「しかたがない」ものであるとし、そのおかげで自分たちが解放されたとは言わないが、それによって戦争が終わったと認識している。また、彼らは、原爆投下により日本上陸戦は行われなくなり、日本人にも、米軍にも、“無駄な”犠牲者が出なくて済んだとも認識している。

このような認識は、一般的な米国人のそれと“瓜二つ”。恐らく、原爆関連の知識は米国や韓国駐留の米軍から得ているのであろう。

そのような認識は、明らかに、事実とは異なっているのだが、やはり、韓国人の彼らもそれを“信じて”いるのだ。その彼らに、わたしは以下のことを話す。

米国は日本が既に降伏の条件闘争(「国体護持」)に入っており、幸福寸前であったことを充分察知した上で原爆を投下している。それよりも、むしろ、米国はソ連の動向を注視しており、日本がソ連の参戦で降伏したという「事実」を既成化したくないと考えていた。また、米国は既に“次”の戦争、即ち、その時点での同盟国であるソ連とのイデオロギーをめぐる戦争(=のちの冷戦)の準備に入っており、そのために原爆の破壊力を実践で試し、できうる限りの情報を収集することが目的であった。つまり、米国にとって、広島・長崎への原爆投下は、20万人の一般市民(そのなかには、朝鮮人もいたし、米国人もいたが)を犠牲にし、それ以後の被害者をも対象とした「実験」であった。

そして、広島で被爆した朝鮮人のこと、そして、戦後、それらの朝鮮人に対する原爆症治療のための渡日治療に尽力した広島の医師たちのことや朝鮮戦争でも原爆を使用しようとして解任されたマッカーサーのことなども話す。

それでも、韓国人留学生たちは、じゅうぶん納得したわけではない。そんな彼らにわたしは、次のように説明を続ける。

広島で核廃絶を願っている人たちは、自分たちのことを一方的な被害者とは決して思っていない。日中戦争から太平洋戦争に暴走した日本軍が朝鮮半島や大陸などでしたことも充分学んだ上で、自分たちの背負った加害性も理解している。

それから、百歩譲って、原爆投下が、韓国人留学生の認識と同じ意味を持っていたとしても、そこで起こった事実は倫理的に容認できる範囲であるのか、広島に行ってそれを見て、聞いて、感じてみるべきだと、わたしは続ける。皇軍の戦争の非道の応報として、植民地支配や侵略の応報として、原爆を一般市民の上空で炸裂させるということは、論理的にも整合性がないし、当時の道徳や倫理でも決して容認しがたいということを、わたしは、彼らに直に学んで欲しいと思っている。

これまでに、留学期間内で広島を訪れた留学生はいない。しかし、わたしが彼らの心に投じた一石は、時間はかかっても確実に波紋を広げていくと、わたしは信じている。それは、核廃絶に向かう被爆者たちの絶対的な「正しさ」を信じているから。また、それを踏みにじって、その非道をなお意識しない米国人が核を保持し続けていることが、絶対に「普成」であることを信じているからである。

ヒロシマ紀元63年が、またやってくる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月16日 (月)

軍事占領下沖縄における“救い”と“癒し”の陥穽─キリスト教、国家、地域社会─(※ 仮アップ。大幅変更あり)

はじめに
 沖縄は、第二次世界大戦末期の沖縄戦の後、約27年間に及ぶ異民族による植民地的支配と軍事基地化を経験した。この理不尽な占領体制は、1972年5月15日、形式的には終了する。しかし、普天間(ふてんま)基地の辺野古(へのこ)沖への移転や沖縄国際大学への軍用ヘリ墜落事件とその事後処理を見ると、沖縄は日米両国協同による「沖縄再占領」という新たな段階に直面しているのではないかとさえ思える。したがって、表題にある「軍事占領下」とは、通常、沖縄戦から「本土復帰」までを指すが、ここでは復帰後の事象も含むものとする。
 このような歴史的経験をもつ沖縄で、外来の宗教であると同時に占領者の宗教であるキリスト教は、どのような“救い”や“癒し”を提示してきたのだろうか。そもそも、沖縄は、個人的なものと同時に、歴史的な(敢えていうならば、民族的な)苦難を背負い続けている。このような沖縄という地域が背負った歴史的苦難は、今後も根本的に除かれないまま、“救い”や“癒し”を求める祈りが延々と続けられているのである。
 さて、本稿は、日米二大国のはざまに置かれた沖縄地域社会で語られ、祈られ、実践されてきた“救い”や“癒し”を政治的・軍事的・歴史的な文脈でとらえなおすことを目的としている。そうすることで、「沖縄のキリスト教」に向けられたまなざしの問題を析出し、「沖縄の」という虚構へと誘う陥穽の正体と対峙できるのではないかと考えている。

Ⅰ.沖縄のキリスト教の多様性と「周辺化」
 沖縄のキリスト教は、他の地域のそれと同様に、その形態や信仰の表明方法等々は、実に多様である。それを「沖縄のキリスト教」として表象するときに、何をもって代表させるかによってそこに見える風景は異なってしまう。
沖縄(本)島は県の政治・経済の中心で、人口の約90%が集中している。また、その約20%は米軍基地として「占領」(他に自衛隊基地もある)されており、北・中部に集中している。これらの地域では米軍が駐留することで経済的な恩恵がもたらされる一方で、いわゆる「基地被害(事件・事故、騒音・汚染等の環境破壊等々)」が横行してきた。
 キリスト教会は、沖縄島に全体の約9割があり、普天間や嘉手納(かでな)といった大規模基地がある中部には、そのうちの半数近くが集中している。県都・那覇市がある南部は中部より人口は多いが、教会数は若干少ない。しかも、沖縄バプテスト連盟(以下「沖縄バプ連」)所属教会や福音主義系の諸教派、単立の教会が多い。こられは米軍関係者の信者が多くいたりすることから、沖縄島中部への教会の偏在は米軍基地の存在と無関係ではない。中部では、沖縄人教会員でも軍用地主や基地雇用者等々基地に生活を依存者も多い。そうした中部の教会で語られる “救い”や“癒し”の福音と、大都市の那覇市近辺で語られる福音、また、同じ沖縄にあっても戦後一貫して大規模な米軍基地が存在しなかった宮古(みやこ)・八重山(やえやま)諸島(先島(さきしま))等で語られる福音は、いずれも同一ではない。
 極東最大の嘉手納基地があるコザ(現沖縄市)には米兵相手の売春街である「特殊飲食街(特飲街(とくいんがい))」がいくつかあった。その一つ「吉原(よしわら)」に隣接している日本基督教団(以下、「日基教団」)コザ教会は、基地の街でも最も人間性が抑圧されているこの地を選んで建てられた。しかし、特飲街への伝道は、そこに利権を持つ暴力団に阻まれたりして必ずしも成功していない。そこでは抽象的な平和の福音はまったく説得力を持たない。そして、これらの困難さを顧みず、沖縄のキリスト教を平和運動に直接結びつけるような短絡や、現実から逸脱した“救い”や“癒し”語る安直さは、沖縄のキリスト教の多様性と問題性を単一的なイメージに押し込め、特異性を過剰に強調することで沖縄を日本の「辺境」「周縁」に固定化することになるのではないか。
 他方、沖縄には、キリスト教に限らず、大国に依存しつつもそこから利益を得ることで、国家や国境を相対化し、国家と一定の距離や緊張感を保つバランス感覚がある。そこにも外来者が沖縄の宗教やキリスト教を見るときに陥りがちな陥穽が潜んでいる。また、沖縄には、東アジアの冷戦構造等々の国際情勢を源とする様々な「力=ベクトル」が集中しているため、沖縄で起こっている出来事は皮相の部分だけではとてもとらえきれない。そこで、筆者は、さしあたり「依存と自立」「統合と分断」「包摂と切断」という相矛盾する力学が沖縄では同時に働いていると考えている。

Ⅱ.占領体制の構築とキリスト教伝道の開始
 第二次世界大戦中、沖縄の諸教会は沖縄戦を前に事実上消滅していた。戦局悪化で日本出身牧師の大半と沖縄人牧師は信徒と教会を置き去りにして疎開船で本土へ渡った(なかには、「犬死にしたくない」と去った沖縄人牧師もいる)。沖縄戦終了時、生き残った牧師は3名。そのうち1人は45年8月にマラリアに倒れ、他の1人は伝道師、残りの1人は病身の身であった。ようやく生きのびた信徒たちは民間人捕虜収容所で、米軍のチャプレン(従軍牧師)や米兵たちの指導のもとで集会をもち、信徒指導者たちは互いに按手礼を執行して伝道者となった。戦後の沖縄教会を「信徒の教会」と呼ぶのは、それ故である。
 1945年8月15日に石川(現うるま市)の収容所に生き残った指導者が集められ、沖縄諮詢(しじゅん)会が組織されると、その主要ポスト3つをキリスト者がしめた。當山(とうやま)正堅(せいけん)は文化部長として伝道者を諮詢会職員として俸給を与え、米軍の支援を得て伝道にあたらせた。また、彼は、米本土やハワイの民間団体から届いた支援物資の集積と配分を担った。伝道者たちの互助的組織として46年初頭沖縄キリスト聯盟が組織された。これは、1950年6月、「全琉球プロテスタントの超教派的単一教会」をめざして沖縄キリスト教会となった。
 しかし、これらの見方はあくまでも沖縄人から見た戦後の沖縄の教会形成史である。米軍は当初から沖縄人キリスト者や教会を「宣撫工作」に利用した。宗教団体の指導を分掌する文化部文化課では「軍政府所属牧師」の指導が明記されていた。また、47年1月に改正された「沖縄キリスト聯盟会則」で顧問として軍政副長官(沖縄の現地最高司令官)と軍政府牧師、それに民政府知事(志喜屋(しきや)孝信(こうしん))が顧問として名を連ねていた。
 また、米国キリスト教協議会の外国伝道部門・北米外国伝道局(FMCNA)にあるメソジスト教会等を中心とした「沖縄特別委員会」では、沖縄伝道のための基本計画が1940年代には出来上がっていた。それは、宣教師による沖縄教会の組織化、合同教会の創設、カレッジの設立、病院の運用、米国の神学校への沖縄人派遣のための奨学金の創設で、これらは50年代にほとんど実現されている。
 また、既に、日本本土では、Douglas MacArthur(GHQ総司令官)が個人的に在米キリスト教各派に1,000名規模の宣教師派遣を要請したが、沖縄伝道に際しても占領軍は最大限の支援を約束した。49年5月、東京の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民間情報教育局での会議の席上、John H. Weckerling (GHQ琉球課長、准将)やBill Woodard (同宗教局代表)、比屋根(ひやね)安定(あんてい)(同宗教顧問、沖縄出身の高名な宗教学者)は、約20名のキリスト教各派の宣教師に沖縄伝道を強く働きかけて便宜を図ることを約束した。また、Weckerlingは比屋根にキリスト教による沖縄の精神的復興を目的として沖縄への伝道旅行を要請した。
 このようにGHQが日本や沖縄伝道を各派に働きかけた背景にあるのは、1940年代の終盤から50年代初頭に次々起こった東アジアの国際情勢は劇的な変化であった(中華人民共和国の成立、朝鮮戦争、対日講和条約と日米安保条約の締結)。米国は極東の防共と軍事拠点として沖縄の半永久的軍事占領を既定路線化した。そのために、沖縄の治安や社会情勢の安定は日米両国にとって重要事項になってくる。キリスト教はそのための「宣撫工作」の手段となっていったが、これは沖縄の教会関係者や沖縄人たちは知る由もなかった。
 戦後沖縄のキリスト教のもう一つの特徴は米占領軍の誘導・先導による教会組織の形成と伝道であり、その外形的目的は沖縄戦によって深く傷ついた沖縄人への“救い”や“癒し”であったが、他にもう一つ、占領地の宣撫工作という、隠された大きな目的があった。以下ではそのことの証左をいくつか挙げながら、支配者のそのような意図に対して沖縄のキリスト者はどう対応してきたかについて論じる。

Ⅲ.沖縄の軍事化とキリスト教
 1950年代FMCNAから沖縄にはじめて派遣されたOtis W. Bell宣教師は、たまたま米軍による暴力的な軍用地強制収用を目撃する。そして、それを“The Christian Century”(1954.1.20)に「沖縄人に対して公平にふるまえ」という題で寄稿する。この論文により、日米で沖縄の基地問題がはじめて顕在化した。その結果、55年10月に米国議会下院軍事委員会調査団(「プライス調査団」)が派遣された。ところで、このように大きな働きをしたBellは、55年1月、沖縄からの異動を命じられ日本本土に転任させられる。もちろん、彼の論文がこの異動の原因になったか否かは定かではない。しかし、これ以降、反軍的な発言をする米国人宣教師は沖縄から排除されるという事実が続くことになる。
 また、この年、沖縄教会が決定した信仰告白の異端性を宣教師団が指摘し、経済的援助の凍結を盾にその破棄を迫った「信仰告白」論争が起こる。米国人宣教師が、沖縄教会に異端信仰のレッテルをはって批判する。これは、さながら、植民者の被植民者に対する態度である。また、自らの主張を通すために経済的制裁をちらつかせる手法は、占領軍の沖縄人に対する恫喝そのままである。さらに、この論争を仕掛けた2名の宣教師、Harold C. RickardとMario C. Barberi Jr.が事態収拾に失敗したと見たFMCNAは、翌年年配の老練な宣教師を沖縄に派遣する。そして、それぞれ時間をおいて両宣教師を八重山に転任せさ、2人は沖縄島に戻ることはなかった。60年代になると、はっきりと軍のサイドに立ち、米軍のベトナム攻撃を防共の観点から肯定し、東アジアの安定のために沖縄人たちに忍従を強いる宣教師も現れたという。
 また、1953年11月、沖縄キリスト教会を離脱した沖縄バプ連では、同連盟普天間バプテスト教会のWilliam T. Randall牧師が反軍言動が理由に同連盟から宣教師を解任された (「ランドール宣教師解任事件」1979.6)。その背景には、この教派の複雑な事情が絡んでいる。沖縄バプ連最大の教会Central Baptist Church in Okinawaは「英語教会」「アメリカ人教会」と呼ばれており、会員のほとんどが米軍将兵またはその関係者である。この大教会とコザの二つの教会によって、米軍占領下の沖縄バプ連は支配されていた。また、その代表のEdward E. Bollinger宣教師等は在沖宣教師を沖縄人牧師・信徒と同様に指導の名のもとに監視し、反軍的言動をする宣教師を発見すると、「精神的な異常」を理由に沖縄から退去させ、一方では、沖縄の教会には潤沢な伝道資金を援助しつつ、教会を通して沖縄の地域社会に反米感情が広がらないように工作をした。
 このように沖縄の教会は、実は多様な価値観を有しており、さまざまな力学が集中する中で複雑にねじれながら存在している。

Ⅳ.沖縄の“痛み”と共犯への誘惑
 1945年〜60年の『うるま新報』、『琉球新報』、『沖縄タイムス』等々には、クリスマスやイースター等々の行事のたびに米兵個人や部隊が「恵まれない人びと」の施設に対して多くの贈り物や奉仕が行われたことが掲載されている。米兵たちが沖縄人にとって「善き隣人(Good Samaritan)」であることを、軍政当局はことあるごとにアピールした。また、将校や軍チャプレン、宣教師が米兵と沖縄人との間にできた子どもをひきとるという「美談」も繰り返し報道されたが、父親である米兵に養育を拒否され、路頭に迷っている母子がいかにして生まれるかについての言及はほとんど見られなかった。
 愛隣園は沖縄キリスト教会が在米キリスト教児童福祉団体からの資金援助で立てられたものだが、当時の理事長・Walter W. Krider宣教師の次のことばに占領体制下でのこの施設と沖縄教会の米国人による位置づけがよくあらわれている。「創設以来混血児(GI・チルドレン)が十三名収容され、その内五名は現在留まっているが、八名はすでにアメリカの家庭に養子となってアメリカに渡って行った。沖縄の子供はまだ貰われた事はない」。つまり、米人は孤児や要保護児童を父親がだれであるかで平然と選別しているのである。
 結局、愛隣園や沖縄教会はそこに米軍基地があることで社会の底辺に必然的に生じる“痛み”をともなった社会問題の解決の一端を担わされてきた。しかし、その“痛み”は絶えず再生産されており、米兵たちの慈善行為により隠蔽されているのである。しかも、これらの善意で沖縄人自身が救う側と救われる側に分断され、固定されている。同時に、救う側の沖縄人は占領体制強化のため宣撫工作を行う非公式部門に吸収されていく。そのような構造が占領下の沖縄には存在し、キリスト教会は明らかにその末端に組み込まれていた。
 60年代になると、それはより広範で露骨になった。この頃、クリスマス等になると沖縄の牧師は米軍基地に招かれ、将校用のレストランで饗応を受けることが慣例になっていた。ある年、那覇空軍基地に招いた牧師たちを、チャプレンは最高度の軍事機密であるスクランブル・エリアに導いた。そして、遠回しに米軍が沖縄や日本にとって必要であることを沖縄の地域住民に沖縄人牧師の口から伝えてほしいといわれたという。その場にいた、数人の牧師は自分たちが米軍の宣撫工作に利用されていたと認識して翌年から基地内での行事に参加しないよう申し合わせた。
 この出来事とほぼ同時期、平良(たいら)修(おさむ)(当時沖縄キリスト教短期大学学長)による「新高等弁務官就任式における祈祷」事件がおこる(1966.11.2)。平良は米国の神学者・Reinhold Niebuhrのことばを引きながら「神よ、願わくは、世界に一日も早く平和が築き上げられ、新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように、切に祈ります」と新高等弁務官と占領軍首脳、琉球政府関係者を前にして祈った。この一件は在沖米国人宣教師にとっては衝撃的な内容であったようで、平良が原稿をネイティブ・チェックのために事前にある米国人宣教師にみせたところ、彼は宣教師代表をともなって平良に「最後の高等弁務官…」の個所を削除するように強硬に申し入れをしたという。宣教師団は、自分たちが占領軍と沖縄教会の仲介をして様々な便宜を図ってきたのに、この祈祷で両者の “良好”な関係が破壊されるというのである。
 この事件の前までは沖縄キリスト教団総会や沖縄キリスト教短大の入学式・卒業式には軍装のチャプレンが来賓として臨席していた。沖縄教会はなにより戦後焼け野が原の中で信徒の教会が伝道をはじめてからチャプレンや米軍関係者から多大な援助を受けてきた。また、平良ら若い牧師たちの大半は、基地内の軍教会からの献金で奨学金を得て日本や米国本土の神学校で教育を受けてきた。これは、被植民者と統治者との関係そのままであった。その関係から沖縄教会が脱却を図ったとき、それまでの蜜月の時期の便宜供与の裏返しとして、被植民者たちは植民者からの監視と恫喝を受けることになる。新任のチャプレンがその交替の度に武装した兵士をともなって彼らの教会に「挨拶」に来たという。
 占領下にあって、その地域住民の“痛み”と日々向き合っている沖縄教会の牧師や信徒のすべてがこのように「反基地」の旗幟を鮮明にしたわけではない。しかし、沖縄のキリスト教は占領者の宗教であることから、沖縄教会は占領当局に対しても沖縄の住民に対しても微妙な距離感をもっていた。そのなかで、ある者たちは軍からの「共犯関係」の誘惑を断ち切り、反基地闘争・祖国復帰運動に傾斜する地域住民の立場にたって、その者たちの“痛み”を共有する選択をした者もいた。

おわりに─キリスト教と国家との相剋─
 沖縄のことばわざに、「物(むぬ)呉(く)ゆ者(むぬ)ど我が御主(うしゅ)」ということばがある。このことわざは2つの相対する意味があるという。ひとつは、文字通り自分たちに利益を及ぼす者であれば、どんな者であれ支配者と受け入れるという沖縄人の対権力への関係性を表している。今ひとつは、支配者が自分たちに利益をもたらさなくなったら、自らの手でその支配者を放逐するという革命の論理である。沖縄人たちはこうして日本や中国、そして、米国との国家権力の間でバランスをとりながら今日までその存在を維持してきた。そして、このような行動原理は沖縄教会でも機能しているが、それは表面にはなかなか現れない。沖縄戦や異民族による軍事支配という過酷な歴史的経験を経ても、なお逞しく生きているように見える沖縄人や沖縄教会にとっての“救い”や“癒し”を理解する困難さはここにある。
 また、沖縄の“痛み”もまた、複雑な構造と背景をもっている。それでも、敢えてその“痛み”を一言で表すならば、「恵(めぐみ)と災いを同時にもたらす“痛み”」とでも言わざるを得ない。それが災いや苦難のみをもたらすのであれば除去すればいい。しかし、それは同時に人びとの生活に深く根ざしており、生活を支え、利益や便宜を与え続けている。そこに沖縄教会で “救い”や“救い”をことばにし、行動に移すことの困難がある。つまり、その“痛み”は単純に取り除いてしまうと、自らを傷つけてしまうものであるからだ。
 沖縄は“癒し”の島と呼ばれている。その「体験者」たちが持ち帰る思い出の中の「沖縄」は予定調和的で、思い描いたとおりの「沖縄」でなければならない。そのため、戦争は遠い過去のこととして認識され、今なお続く生々しい沖縄の“痛み”は捨象され、無視され、隠蔽されている。こうして、現実とは違う「沖縄」が内外に流布されていく。研究者もまた、このようなまなざしから決して自由になってはいない。沖縄の宗教がもつ“救い”や“癒し”の力を強調する背後に、沖縄を後進的地域として認識し、そこから「失われた日本」を探索する試みがあるかどうかを、われわれ研究者は常に注視しなければならないのではないか。また、沖縄の土着的宗教や外来宗教の受容形態を日本のそれと比較し、自らの特殊性を顧みることなく、その違いをすべて沖縄の独自性に収斂させていくこと手法はまさにポストコロニアル的なそれといわざるを得ない。このような視線や手法は、沖縄で、今日もなお日々生み出されている“痛み”を沖縄が置かれた国際的・政治的位置を一切考慮に入れることなく、個人的な事象に矮小化することで、なお強化されている。

《参考文献》

  • 池上良正『悪霊と聖霊の舞台 ─沖縄の民衆キリスト教に見る救済世界─』どうぶつ社、 1991年
  • 石川政秀『沖縄キリスト教史 ─排除と容認の軌跡─』いのちのことば社、 1994年
  • 一色 哲「戦後沖縄キリスト教史のなかの地域と教会─占領軍の統治政策とキリスト教児童福祉施設・愛隣園の研究─」『キリスト教史学』第55集、2001年7月
  • ────「軍事占領と地域教会─1950年代中盤の沖縄教会を事例に─」『キリスト教史学』第57集、2003年7月
  • ────「戦後沖縄キリスト教史研究の方法と課題─地域教会形成とキリスト教交流史の試み─」『キリスト教史学』第59集、2005年7月
  • ────「沖縄理解のための方法と課題─戦後沖縄キリスト教史から学んだこと─」『福音と世界』第60巻第12号、2005年12月
  • ────『米国占領下沖縄におけるキリスト教会の自立と共生』 (科学研究費補助金基盤研究(C)(2)研究成果報告書 ; 2002年度〜2005年度)、2006年6月
  • ────「日本基督教団における沖縄教会観の起源とその変遷」『キリスト教史学』第61集、2007年7月
  • 小川 順敬「民俗宗教からキリスト教へ─ある沖縄のキリスト教会の物語─」『駒沢大学文化』第17号、1997年3月
  • 小林紀由「沖縄バプテスト連盟と『祖国復帰』」『精神科学』(日本大学哲学研究室)第38号、1997年11月
  • ────『戦後沖縄キリスト教の諸相』エーアンドエー、1999年
  • ────「「日本復帰」後の沖縄バプテスト連盟と米国教会--宣教師解任事件をめぐって」『研究紀要』(日本大学文理学部人文科学研究所)第59号、2000年
  • 日本基督教団沖縄教区編『27度線の南から─沖縄キリスト者の証言─』日本基督教団出版局、 1971年
  • 日本キリスト教団沖縄教区編『戦さ場と廃墟の中から─戦中・戦後の沖縄に生きた人々─』日本キリスト教団沖縄教区、 2004年
  • 日本基督教団宣教研究所教団史料編纂室編『日本基督教団史資料集 第3巻第3篇 日本基督教団の再編 : (1945〜1954年)、第4篇 沖縄キリスト教団の形成 : (1945〜1968年)』日本基督教団出版局、1998年
  • 古澤健太郎「信仰告白制定の経緯に見る『沖縄キリスト教会』の特質」『基督教研究』第68巻第1号、2006年8月
  • ─────「沖縄におけるキリスト教受容─沖縄バプテスト連盟と土着信仰に関係に見る─」『宗教と社会』第13号、2007年6月

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 2日 (金)

不発弾撤去の街角で

この3月4日、私の住んでいる街で不発弾の撤去作業が行われる。神戸市は、「東灘区青木 不発弾の処理作業について」等で広報しているし、新聞にでも採りあげられている。4日の日曜日の朝には、約10,000人の大規模な避難が行われるという。

このニュースを聞いたとき、なぜこんなところに不発弾がと思った。しかし、調べてみると、青木から深江にかけては、戦前飛行艇などを製造していた「川西航空機(現新明和工業)」甲南製作所があったという。今回発見された米国製の不発弾は、おそらくそこを標的に落とされたものだと思われる。

※ 神戸の空襲については、ここを参照のこと。

ところで、先月初め、東灘区民広報誌『東灘コミコミ』の臨時増刊号が配付された。内容は上記の「不発弾撤去作業」についてだ。その広報誌の第一面を見て気がついたことがある。それは、5つの言語(日本語を除く)で注意書きがされていることである。はじめに英語、次に中国語、ハングル、ポルトガル語、スペイン語、そして、ヴェトナム語の順になっている。

神戸には近代以降、さまざまな国の人々がわたってきて、住み着いている。西岡本にはジーメンスの「ヘルマンハイツ」があり、旧居留地や南京町もある。長田や須磨もまた、それぞれ、違った意味で、“国際的”な街である。また、神戸は明治初期には北海道開拓のため神戸と旧三田藩の人々により結成された「赤心社」の本拠地になり、奄美や沖縄等の南東からの人々を吸い寄せた。神戸は、戦前から戦後にかけて、ブラジル等にゆく移民の収容施設があった。

実は、今回不発弾が見つかった深江あたりに、戦前、欧米から来た芸術家たちが別荘を造っていたらしい。しかし、現在このあたりの住んでいる人たちは、そのような人たちではない。以前、用があり、阪神深江駅で下車し、しばらく海側に歩いたことがあった。時刻は、ちょうど、昼下がり。そこですれ違った人びとは、ポルトガル語かスペイン語らしきことばを話していた。

梶原久美子「神戸市東灘区における日系ブラジル人コミュニティを考える」(関西学院大学社会学部、 2000年度安田賞受賞論文、『社会学部紀要』第90号に所収)によると、ここに暮らす日系ブラジル人や中国人、韓国人たちはこの周辺にある食品工場で主としてコンビニで販売されている弁当やおにぎりなどをつくっているという。くだんの東灘区の広報で使用されている言語はこのような人たちのためであったと推察される。

けれども、それでも、心配なことがある。この間の避難について、ネット上のいくつかのサイトでは避難する、しないをめぐって日本人が議論している。また、市は警察力を動員して、一軒一軒家をめぐるという人海戦術で避難するように住民を説得しているという。そのような説得は、ここに暮らす多くの外国人・日系人に届くのであろうか。また、そうすることが、彼ら、彼女らのためになるのだろうか。しや警察は、「震災の経験に基づいて」というけれど、このようなところにもその経験が生きているのだろうか。

数年前のこの街をあるいたのは、阪神深江駅から国道43号線を通り越して海側にしばらく歩いたところにあった「多文化保育園」を訪ねたときのことであった。そこは、ポルトガル語、スペイン語、英語、中国語、韓国語のできる保育スタッフがいて、日本人の子どもも受け入れていた。しかし、この保育園も2005年8月に閉園したという。そこに通っていた子どもたちやその親たちは、その後どうなったのだろうか。そして、今回の不発弾処理をめぐるできごとをどう思っており、どのように行動するのであろうか。

異国で暮らす外国人たち、なかんずく、子どもたちはこの日をどのように迎え、どのように記憶していくのだろうか。なかには、不発弾、地雷等々が日常生活にあったところから来た人もいただろう。そして、平和な国・ニッポンに来たはずだったのに………。

現実の平和国家・ニッポンには、もっと深刻で過酷な現実がある。そこにあるわたしたちの目に届きにくい亀裂や断裂が、しかし、たしかに存在するこの街に、今回のできごとは「騒動」としてわき起こり、短時日に記憶され、そして、忘却されるのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)