いささか、旧聞に帰するが、この時期に触れることは消して無意味ではないと思う。
先日、沖縄で行われた「教科書検定意見撤回を求める県民大会」の参加人数をめぐって、大会主催者の発表した11万人という数字に対して、主として右翼陣営から批判は出ている。
例えば、あるものは、会場となった公園の面積を測り、「人口密度」を出して、11万はあり得ず、多くて4,5万だろうという。また、新聞(どこの新聞かは明示がない。恐らく『琉球新報』や『沖縄タイムス』ではないだろう)に載った会場の写真に写った人間の頭をひとつひとつ塗りつぶして数えたそうである。そうして、積算された人数はせいぜい1万人だったという。
こういう数字は、特に主催者側のそれでは、おおめに発表されるのが常だ。もし、今回も相だとしても、1万人などと言うことはありえない。それより、一件実証的な手段や手続をとりながら、是が非でも、その数を少なく見積もろうとする、右翼・ネットウヨ連中の涙ぐましい努力が、かえって涙を誘う。
新聞に写った人間の頭は、もし、その数が正確だったとしても(それも、とっても難しいことだけど)、それは、その新聞に載った人間の数が1万人ということであって、参加者が1万人ということはないのだが、論理がすり替えられている。面積・人口密度説もしかり。このような主張をする人たちは、だれ一人として、その場にはいなかった(はず)。あたりまえだ。その集会には、阪大だもの。多少多めだとしても、その場にいた人たちのカウントより、その場におらず、机上の空論で算出された数字のほうが正確なんてことはありえない。そして、このような論法は、彼ら・彼女らのなかにしばしば見られる。つまり、「空論的実証主義」だ。もし、本当に正確な数字がそんなに必要で、しかも、それが実証的に正しいことを証明するのであれば、今からでも遅くはない。至急沖縄に渡って、沖縄県民約137万人ひとりひとりに参加したか、いなかを訊ねることをおすすめする。
ところで、ひょっとすると、このブログの前の記事で書いたように、右翼やネットウヨのみなさんは、沖縄について関心がなく、どんなところかも知らないので、沖縄の人口がとっても少ないと思いこんでいるのかも知れない。例えば、沖縄の人口が40万人だと思いこんでいたとすると、11万人も集まってしまうと、沖縄の4分の1の人が当日集まったことになってしまう。それは相当困ると、とでも思っているのではなかろうか。
当日の参加人数は、先島(宮古島と石垣島)で集まった数千人を加えて12万人としても、沖縄県全体の人口の約8.76%に過ぎない。そして、この12万人のなかには、相当数の本土からの集団が入っているので、沖縄在住の人に限ると、もっとパーセンテージは下がるだろう。だから、先の4分の1(これは、仮定の数字です。実際に沖縄県民の4分の1となると35万人ということになります)という数字なんてことはありえない。
それよりも、もっと大事なことがある。その会場にいなくても、また、自分の所属団体から例え動員されたとしても、例えば、会場までの臨時バスを運転した多数の運転手の方々は、その11万人と言う数字にはカウントされていないのではないか。そして、なにより、今回の問題については憤慨していて、検定意見の撤回をするのは当然だと思っていても、単なる時間の都合ではなく、自らの意思でその場には行かなかった沖縄人も多数いるだろう。つまり、あの場所にいた人間は、恐らく確実に、沖縄戦で起こった「集団自決」に日本軍の関与があったと確信しているだろうが、その場にいない人も、数はわからないけれど、相当数がそう確信していることは間違いない。だから、この11万人という数字は、実は、論理的に見て最低の数字であって、実際はその数倍、数十倍(テナ事はありえないが)の人数が、心の中で参加したり、参加しなくても、怒りや悔しさを共有しているのだ。
そして、今ひとつ。沖縄が、意見を言うときには、なぜ、「島ぐるみ」でないと、全島・全県一丸とならないと、それが日本人に聞き届けられないのだろうか。決して小さな島ではない、そして、広範囲に島々が点在し、そこにはいろいろな考え方の人が住んでいる沖縄。県外にも、海外にも、たくさんの沖縄人が生きて、生活している。そのような人々が「一枚岩」のわけがない。むしろ、そうでない方が健全とさえいえる。なのに、何で「全島・全県一丸」で、「一枚岩」なのか。
極論だが、例え一人でも、真摯に反対の意思表示をするものには、耳を傾けるべきである。そして、それは、自分と異なる意見であっても、その問いかけが、何か他の不純な目的をカムフラージュするものではなく、心からのものであれば、わたしたちは、それに耳を傾け、誠意には誠実で答えなければならないと思う。
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