カテゴリー「戦争」の18件の記事

2008年11月17日 (月)

明日の神話(改)

※ 試しに、携帯でブログに投稿してみたので、文章を打ち込んでいませんでした。

岡本太郎の「明日の神話」です。東京・渋谷の京王井の頭線へ向かう通路では、数ヵ月前から工事が行われていいました。この日(今月17日)夕方に通りかかると、完成していました。当分はガードマンがつくそうです。

     明日の神話
 

         明日の神話

さて、わたしは、どちらかというと「広島贔屓」なので、この壁画、やっぱり広島にあるべきではないかと思う次第です。しかし、この通路、どこにそんなにひとが住んでいるのか、一日に35万人の人が通るそうです。35万人といえば、宝塚市の人口の約1.5倍。高知市や吹田市の人口に匹敵する規模。多くの人に、見てもらいたいということなのでしょうか。

この日は、最初だからみんな(わたしもそうですが………)携帯をかかげて、ぱちぱちやっていました。しかし、毎日眺めていると、風景化しそう。35万人とときどき通るひとり(わたし)は、何を思うことなく、通り過ぎていくような気がするのですが。

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2008年8月15日 (金)

忘れる速度ととどまること〜8・13と8・15〜

沖縄で8月15日を迎えるのは、ひょっとすると初めてではないか。1945年のこの日のことは、去年もブログに書いた。沖縄にとってこの日は「終戦の日」ではない。しかし、一応(というと、あれだが)、きょうの正午には黙祷があるらしく、調査の昼休みによった食堂では、遠くから聞こえてくるサイレンの音に「黙祷、黙祷」と呼びかけるひともいた。

それから、仕事を終えて、夕方、「パレットくもじ」に開かれている「     」を見に行った。2004年8月13日の金曜日、沖縄国際大学の構内に米軍のヘリが墜落してから4年目になるが、その間、一般の市民からよせられた写真(多くはいわゆる「写メール」で送られてきたという)が、それを撮った一人一人のコメント付で展示されている。写真は事故直後からはじまって、被害を受けた大学の事務棟の解体、新築までとかなりな期間続いている。

この写真展を進めてくれた沖縄在住のGさんによると、「今年も、意地でも続けている」とのこと。会場では、一見すると大学関係者には見えない女性が小学生ぐらいの子どもと一緒に店番をしていた。

さて、会場には、その日の号外や翌日の朝刊(いずれも、『沖縄タイムス』と『琉球新報』)も展示されていた。その翌日の朝刊の記事を見て、いろいろ記憶が甦ってきた。それには、一面の片隅に「アテネオリンピック、未明に開幕」とあった。そうか、4年前なのか。ちょうど北京でオリンピックが開かれている。わたしは、この年、ヘリ墜落の数日後、現地にGさんに連れて行ってもらった。そして、アテネの野球の準決勝で日本がオーストラリアに負けた(今も阪神タイガースにいるウイリアム投手のせいです)ことは、なぜか鮮明に覚えているのだが………。それにしても、その二つの記憶が同じ年の記憶として、どうも結びつかないでいる。

当時は、しっかりと心に刻みつけようと思っていたのだと思う。そして、本土ではこの事件の記事よりも、「ナベツネ」辞任のニュースが大きく扱われていたことに、憤っていたはずだ。また、今年も13日を意識はしていた。しかし、記憶というものは、こうして次第に後退していくものなのだろう。

「もう一度」、と思うけれど、沖縄でも記憶が風化しているのだろう。そして、それを必死で防ごうとしている人たちもいる。しかし、普天間基地の移設の問題は他のいくつもの変数をかかえ、説くことが不可能な連立方程式になっていて、あれ以来一歩もすすんでいない。

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2008年8月 7日 (木)

ことばで伝える、広島8・6

63年目の「8・6」。この日の朝は、いつも、暑かった広島の夏を思い出す。

さて、最近、韓国からの留学生に広島のことを話す機会がありました。広島が、まだ、「廣島」だったころのいわゆる「加害の歴史」、原爆投下の経緯と理由、その後の「ヒロシマ」のことも話しました。また、広島・長崎での被爆と沖縄戦の比較、在韓被爆者など広島と韓国の関わりについても話をしました。

広島での出来事について写真集や編集されたビデオ(ちょうどわたしが広島で学生生活を送っていた頃「3フィート運動」というのがありました)など、視覚に訴えて話をすることも可能でしょうが、わたしは、文字と話にこだわりました。

広島大学の一般教養の講義であった「戦争と平和に関する総合的考察」で、二つの写真を見せられました。いずれもベトナム戦争時の写真でしたが、一枚はB52が爆弾を多数党化している写真、もう一枚は南ベトナム軍兵士が北のベトコンを射殺している写真。それらの写真を見せたうえで、講師はどちらの写真がより残酷であると思うか、学生に問いました。

大半の学生が後者の方が残酷であると答えたのですが、講師に指摘されずとも、前者に「写された多数の爆弾の行く末を想像すると、そこには阿鼻叫喚の地獄があり、多数の犠牲者が確実にいるのです。それなのに、目の前で殺されている一人の方が残酷だと、人間は思ってしまうのです。

だから、わたしは、文字とことばにこだわっています。

写真やビデオをただただ提示するだけでは、広島の被爆の意味が「戦争」に一般化されてしまう恐れがあります。また、徒に感情に訴えることは、単純なメッセージしか生みません。それは、それなりに力をもつのですが、わたしはそれに加えて考えてほしいことがありました。広島や長崎の原爆の特殊性を強調するためではありません。

戦争はどうして起こるのか。

その結末はどうなるのか。

そして、それを止めるために、自分や世界はなにができるのか。

そんなことを、これを機会に考えてほしかったからです。

さて、あしたから、また、「ヒロシマ紀元」からかぞえはじめた年数が一つ加えられます。

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2008年7月19日 (土)

沖縄、狙い撃ち

そのお粗末な内容に、わたしは半ばあきれてしまった。だから、買ってまで、また、借りてまで読む価値がないと思うので、敢えて誌名を書かないでおくが、ある月刊誌の8月号に、沖縄戦の「集団自決」に関する、まったくひどい特集が組まれている。

なにがひどいかという、まず、数人の執筆者が同じ雑誌にいくつもの記事を書いている。これは、物書きとしてのモラルの問題であろうし、この問題に関して「軍命がなかった」と強硬に主張する人材の払底を露呈している。加えて、かつての別の号や雑誌等での記事の重複だけではなく、同一誌のなかに同じ内容がくり返されている。よっぽど、「攻撃材料」に困っているのだろう。そりゃそうだ。もともと、無理な立論なのだから。

それでも、いくつか「目新しい」内容がないわけでもないが、それがかえって執筆陣の焦りを著していると思われる。そのなかには、すでに言いがかりとしか思えないお粗末な記事もある。

そのひとつは「S日報(T協会(教会)の下部組織が発行している新聞)編集委員」のKM氏の記事である。K氏はこれまでも著書や数々の証言で自ら肉親を手にかけてきたことを告白し、「集団自決」において日本軍の軍命があったと明言されてこられた金城重明氏ことをを殺人者であり、嘘つきであると断じている。

その手法は、背景をよく知らない者に説得力があると思わせるような、巧妙な詐術が含まれている。K氏の手法は、金城氏の数々の証言や文章について、文献のみを詳細に検討し(重箱の隅をつつき)、自らの論に都合のいいところだけを全体の文脈から切り離して井雲のであり、それらのK氏がいうところの「事実」と「事実」の間を悪意にみちた推論や邪推でつないでいくというものである。

それから、この記事を読むかぎり、K氏は金城氏に一度も直接取材をした形跡がない。取材そのものをしていないのか、直接話しをきいたけれどもその内容が載せられなかったのか、また、法廷等でその証言を直接聞いたのは判然としないが、ともかく、自分が徹底的に批判しようとする人物に対して、可能であるのに直接取材をしていない(または、そのさいの出来事を公表しない)ことは、ジャーナリストとして杜撰ではなかろうか。

以上、詳細に検討することも時間の無駄と思われるような代物であるが、しかし、このままなにも表明しないでおくと、この世界(ネットの世界)でもそれが「事実」として定着されかねないので、一言、書いておく。

人間、取り返しのつかないことをしてしまったときにでも、その後も人生を生きていかなければならない。改心したと言っても、許してくれないひともいるだろう。また、神様は、はっきりと許したという意思表示をされるものでもない。「贖罪」ということばは、とても重い。金城重明氏にはこの件とは別の件で何度か一対一でじっくりお話しを聞いたことがある。氏は、その時も、そして、今でも贖罪の日々を生きてこられている。

そのような人物に正対せず、背後から脳天を打ち抜こうとする輩がこの世にはいる。そして、その輩は、ひとの志を踏みにじることで、いったいなにを守ろうとしているのだろうか。

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2008年6月23日 (月)

沖縄の「戦後」〜6・23を考える。〜

きょうは、沖縄戦の慰霊の日。慰霊したり、供養したりするためには、日を決めて、年にいっぺん………。ということなのだろうが、この日に沖縄の戦闘は終わっていない。そして、この2か月余り前に戦争が終わっていたひともいる。

最近、調べている仲里朝章(沖縄キリスト教会理事長、沖縄キリスト教学院初代学長などを歴任)という人物は、この日の4日前、「三和村喜屋武」(石川政秀編『仲里朝章遺稿集・伝記』(仲里朝章顕彰会 1974年)所収の年譜の通り。「三和村」は戦後誕生し、現在は糸満市。かむじゃたん氏のコメント参照のこと)で米軍の捕虜になり、北部の捕虜収容所(宜野座)に送られた。

これで、彼と彼の家族は戦場から離脱したわけだが、当時校長を務めていた那覇市立商業学校の生徒を多数戦場に送り、娘の光子さんはひめゆり学徒隊として家族と離れ、落命した(光子さんはその後靖国神社に合祀されていることがわかり、御遺族の仲里朝治氏(朝章の息子さん)は訴訟を起こされている。このことは、ここにご自身が記されている)。

だから、だからそれで戦争が終わったというわけではない。 さて、朝章は、宜野座地区惣慶の収容所に滞在中チャプレンの誘いで伝道集会をはじめる。つまり、南部では激戦が続いているなかで、北部ではすでに「戦後」がはじまっており、そこでは礼拝や受洗式などが日常的に行われていたのだ。

朝章は、惣慶で収容されていた男女学生をあつめて戦後初めての共学中等教育機関である惣慶中等学院(後の宜野座高校。同校の校歌は朝章の作詞)を設立し、教育に携わる一方で、周辺に精力的に伝道活動を行ったという。

この件は、また、詳しく書こう。

いずれにしろ、片方では激戦が続いているなかで、他方では収容所に入れられ自由は奪われているが、衣食住が与えられ、礼拝が開かれているというような状態。いくつもの異なった局面が同時に進行しつつあったのが、沖縄戦の特徴である。 したがって、この6月23日は、そのような特徴を覆って、慰霊と供養のために区切りをつけるのである。

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2008年5月15日 (木)

〔遅報・学会発表要旨〕国家、地域、教会〜沖縄キリスト教をめぐる二つの国家と地域社会〜

沖縄キリスト教史において「国家とキリスト教」という問題を措定すると、日本本土(以下「日本」)の他地域のそれとは異なった課題が生じる。近代以降も、沖縄は日本とは違った経験してきた。また、日米の二つの国家に挟撃される沖縄の位置を考慮すると、そのキリスト教史を自立的に論ずるならば、国家とキリスト教、あるいは、国家と教会との間に、地域社会を中間項に設定しなければ、そこで生じた歴史的事象をとらえきれない。

それを前提に米軍占領下の沖縄キリスト教史を粗描するならば、その構成要素は、①沖縄人(地域住民、キリスト者)、②米国人(米軍人・軍属とその家族、チャプレン(従軍牧師)、米国人宣教師)、③日本人(国民、日本の教会関係者)の三者が考えられる。そして、それぞれがそれぞれの思惑で思考し、行動する過程で、国家意思がどう実行され、貫徹されていったか、その解明が課題となる。

ここに沖縄における教会形成と国家の関わりを示す興味深い資料がある。『キリスト教年鑑』二〇〇七年度版によると、沖縄県の教会は三三〇余り、信徒数は約三九,〇〇〇名で、県人口の二.八二%が教会員となり、日本の他の地域に比べて三倍近くになる。さらに各地域別に教会数・信徒数・対人口信徒比を見ていくと、沖縄キリスト教のある特徴が鮮明になる。教会と信徒は人口分布通り、約九割が沖縄島に集中している。ところが、沖縄島でも米軍基地が集中している中部地区には、県都・那覇を含む南部よりも人口が少ないにもか拘わらず沖縄全体の四三.二〇%の教会が集中し、信徒の割合は三.七六%にもなる。これは全国平均の四倍弱である。さらに、中部地区の教会はペンテコステ系やいわゆる「福音派」系の教会が多いことがわかる。

これは、単なる偶然ではない。発表者の聞き取りによると、中部地区の「福音派」系諸教会のいくつかは、米軍基地に頻繁に出入りでき、基地内の信徒やチャペルで交流をもっているという。また、このような「福音派」系諸教会には積極的に平和運動を行っている教会もあるが、それでも米軍批判の言動はあまり聞こえてこない。沖縄におけるキリスト教人口と教会の偏在は、米軍の駐留との関連を想起させる。そして、そのような関係は、日米両国の圧力により歴史や政治の矛盾が沖縄地域社会に収斂した結果でもある。このように、駐留軍が、国家意思に基づき牧師や信者、教会を通して沖縄地域社会に自らの有用性や友好的姿勢を顕示するとき、沖縄の教会は自ずと二分されていく。

本報告では、そのような沖縄教会の現状をふまえて上で、沖縄教会と国家の関わりを省察するために、チャプレン(米軍従軍牧師)と宣教師(団)の実態とその役割について考察した。

その結果、以下のことが明らかになった。まず、一九五〇年代に本格化する米国人宣教師による沖縄伝道は沖縄占領軍や東京のGHQの奨励と支援の元で実現された。そのような宣教師は、多くの場合、米軍の沖縄駐留には肯定的で、なかには沖縄の基地外で「英語教会」と称する米国人の教会をつくり、それらを背景に沖縄のキリスト教界に大きな影響力を及ぼそうとした宣教師もいた。

また、一九六〇年から七〇年にかけて、在沖米軍基地には二〇余りのチャペルがあったが、そこで牧会にあたっているチャプレンは、牧師であると同時に現役の将校でもあった。彼らは、時に、兵士たちを軍の意向にそって教導し、監視したりもした。また、チャプレンは最寄りの教会の牧師や信徒を通じて沖縄の地域情勢に関する情報を入手し、占領軍当局の意向をそれとなく地域住民に伝えるように促した形跡がみられる。

このように、沖縄在住の米国人のキリスト者、つまり、宣教師やチャプレンたちは程度の差はあれ米国の立場を擁護する役割を担っていた。そのため、沖縄の地域住民にとっては、キリスト教は米国の宗教であり、米軍の宗教であるという認識が強く、沖縄教会は地域社会で伝道する際に米国や米軍の動向に配慮せざるを得なかったのである。

米軍基地の駐留を巡りつねに分裂を余儀なくされている沖縄地域社会と、伝道する際に地域社会の亀裂を無視できない沖縄教会の「現況」は、こうした環境下で形成されているといえる。

(「キリスト教史学会第58回大会」(2005年 9月15日、於恵泉女学園大学)での研究発表要旨。『キリスト教史学』第62集(2008年7月)掲載予定)

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2008年3月28日 (金)

さあ、これからの、長い、長い道のり〜岩波・大江「集団自決」訴訟〜

きょうは、早朝から京都行き。まさに、きょう、地裁の判決が出る『沖縄ノート』などをめぐるいわゆる岩波・大江「集団自決」訴訟のことは頭にあったが、日本基督教学会関西支部会の集まりに出かけた。まだ未加入の学会なので親しい知り合いは皆無。入会しようとしたが、紹介者がないのであきらめた。誰か紹介者になって下さい。

さて、その休憩中、沖縄の友人からのメッセージで今回の訴訟の“勝訴”を知った。帰って、沖縄の新聞のWebをチェックすると………

岩波・大江「集団自決」/訴訟『集団自決』軍が関与 岩波・大江訴訟」(『琉球新報』)
元隊長の請求棄却/「集団自決」訴訟軍命に真実相当性/大阪地裁『深く関わった』」(『沖縄タイムス』)

とある。

私事だが、大江健三郎氏は、わたしの高校の先輩。それだから、応援していたわけではないが、ともかく、一区切りついたようだ。それにしても、大江氏、だいぶん老けたのだろうか。

さて、原告は、無論、控訴するという。確信犯だから。これからも、息の長い、闘いになると思う。新聞やテレビの報道で金城重明さんが出るたびに、お元気なのだろうかと案じる。今度沖縄にいったら、是非、お会いしたいものだ。

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2008年3月20日 (木)

沖縄のキリスト者〜その、いくつもの顔〜

夕方、ホテルに帰って、朝買った『琉球新報』に目をとおすと、「『殺され、なぜ殉国死』 沖縄戦犠牲者の合祀批判」という記事の写真に、たったいままで話をしていた人の苦渋に満ちた顔を見た。向かって左から2目はNさんだ。

Nさんは、見るからに篤実なクリスチャンである一方、ご夫婦とも社会問題に高い関心と見識を有している方でもある。そのNさんは2002年に今回と同様の訴訟を起こす。Nさんの姉上のお一人M子さんは、沖縄戦で「ひめゆり部隊」の一員として伊原第三外科壕でなくなられている。M子さんはその後1955年に家族の了解なしに靖国神社に合祀されたという。この間の経緯は、Nさん御自身がその訴訟でしめされた「原告意見陳述書」に詳しい。

そして、Nさんの信仰に基づいた思想と行動は、Nさんのお父上のそれと繋がっている。だから、Nさんの語る姿はとてもおだやかなのだが、揺らぎがない。

その一方で、きょう、Yさんという信徒と面会した。彼のお父上も、Nさん同様、戦後沖縄のキリスト教伝道草創期を支えた牧師の一人である。Yさんは、日本キリスト教団ではない別の教派の信徒だが、沖縄の他のクリスチャン同様、他教派の事情には関心があるらしい。それで、教団のN中央教会のあららし牧師の人事や、自家用車の横っ腹に反基地のスローガンを書いている牧師のことを指して、牧師が沖縄の社会運動や政治問題に関わることに疑問をしめされた。

Yさんの考え方はわたしの考え方とは違っていて、わたし自身はどちらかというとNさんの考えに近い。しかし、Yさんの考え方もアリで、決して頭から否定すべきではないと思う。そう感じたのは、ここ数ヶ月のYさんとのやりとりからだ。Yさんは、Yさんなりに、信仰にかけて、筋を通そうとして上司と常にぶつかっていたお父上のことを、非常に親愛を込めて、肯定的に評価されている。

教会や牧師、信徒の社会運動や政治運動に消極的で、常に聖書の御言葉を生活の基盤として、絶えずそれを口にしながら、それに忠実にあろうとする信徒は、沖縄に多い(社会運動や政治活動に熱心なキリスト者が、聖書を軽んじているということはないのだが)。そのような信徒でも、やはり、抑圧や権力の横暴には敏感で、権力や権威とは距離をとりながら批判するところは批判している。

わたしは、Nさんのような仕草や表情が作れるキリスト者になりたいと思う。だからといって、Yさんの信仰を否定したりすることはできない。そんな権利はないのだ。

さて、明日は、どんな沖縄のクリスチャンやノン・クリスチャンに出会えるのだろうか。

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2008年3月16日 (日)

「集団自決」を心に刻んで

証言沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか (岩波新書 新赤版 1114) Book 証言沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか (岩波新書 新赤版 1114)

著者:謝花 直美
販売元:岩波書店
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わたしとほぼ同世代の沖縄タイムス編集委員の著作だ。戦後生まれの著者が、「慶良間諸島へ毎週通いながら取材を重ねた」(p221)結果生まれた貴重な証言集である。これほどはっきりした証言があり、しかも、複数の証言の中にはそうとうの共通部分があり、それぞれが、違った立場、違った状況下でしている証言だけに、併せて読むと、より立体的に歴史的事実が浮かんでくる。

こうした「事実」がありながら、文書の不在を根拠に、今ごろになってその「事実」を否定しようとする者たちがいる。

沖縄戦の真実と歪曲 Book 沖縄戦の真実と歪曲

著者:大城 将保
販売元:高文研
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ここには、教科書検定の際の「集団自決」記述をめぐってのできごとと大江健三郎と岩波書店が元軍人とその遺族に訴えられた件の顛末が詳しく書かれている。ここには、沖縄戦での「集団自決(強制的集団死)」への日本軍の軍命・関与を否定するために、どのような問題の矮小化と詐術が、どのような場で行われたのかが詳述してある。つまり、「集団自決」に関する訴訟を起こし、それを理由に教科書検定を“後退”させる。このような試みは、従軍慰安婦や南京大虐殺を否定する主張を展開する時にも用いられたもので、それらを否定しようとする人脈は、繋がっているというのである。このようなことは、一部では周知のことであったが、本書で、認識を新たにした。

軍命は必ずしも文書で伝達されるものではない。わたしは以前沖縄に侵攻した米軍が日本軍から押収した「公式文書」群をマイクロフィルムで見たことがある。そこには、ありとあらゆる(と思われるほどの)命令書が前戦の部隊と司令部との間に交わされたことが見て取れた。弾薬・糧秣等々の要求と補給、 進軍計画などが細かく報告され、指示されていた。それをみながら、わたしは、戦争とは一面で、官僚機構による行政的な行為であることを知った。

しかし、だからといって、「集団自決」を命ずる軍命が、それらの文書群に存在しないことを根拠に完全に否定されるわけではない。それに加えて、軍の関係文書の大半は敗戦前後に破棄されていると見られる。自ら破棄したものを、あるいは、同じ勢力が破棄したことを確信した上で、“それ”はないと主張し、「真実」は隠蔽し、「事実」を歪曲する。

さて、謝花氏の地味だが粘り強く継続されてきた聞き取りと、それを可能のした氏の誠実さが閉じられた心を開いたことを、思う。わたしたちは、聞き取り調査の技能を一層磨き、その成果の社会への還元について真剣に考えたい。

この19日から沖縄へ行く。今回の調査の目的は「集団自決」とは別のところにある。しかし、わたしが研究の対象と指定戦後の沖縄の人びとは、多かれ少なかれ、「集団自決」や日本軍による虐殺、そして、米軍支配の暴虐を体験した人であることは、しっかりと心に刻み、調査にのぞみたい。

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2008年3月 9日 (日)

聞き取りは、史料としての価値があるのか〜ある大学院生の問いに答えて〜

きのう、一(大)仕事終わって、きょうからからしばらく東京です。

きのうの仕事というのは、キリスト教史学会関西支部会での研究発表でした。わたしの報告は、「1940年代後半の沖縄教会─新たに発見した史料から見る─」。戦後沖縄キリスト教史研究で、11940年代の史料これまでほとんどないといわれてきました。しかし、その壁を何とか突破しなければ、その後の歴史も描けないと思っています。

そして、一生懸命探したら史料はけっこうあったのですが、それでもそれが充分に使えないこともあります。その理由はいくつかありますが、現代史はまだ歴史になっていないということが最大の問題です。わたしたち歴史の研究者の仕事は、公表されている事実ばかりではなく、隠されあり、忘れ去られていたりしている事実を幾つもつなぎ合わせて、それらを歴史の文脈に位置づけていくことです。その過程で、いままで顧みられなかった事実を明らかにすることもできるし、時には卑しめられ、貶められている方々の汚名を結果的に雪ぐこともできるのです。

しかし、その一方で、わたしたちが明らかにした事実で、忘れたいと思っていたことが思い出されたり、人を傷つけることになったりすることもあります。特に、論争があったり、対立があったりする事実については、その歴史的評価に公平性を保証しようとすればするほど、そのジレンマは高まります。そして、それは、研究者だけではなく、現代史の場合、それぞれの立場に立った当事者やその遺家族ならば、より強く感じることではないかと思うのです。

わたしが、正に先述の壁を前にして直面しているのは、このようなジレンマです。ちょっと立ち止まっているのですが、でも、何とか歩いていこうと思っています。

さて、その後の懇親会で、某大学の神学部の院生(4月から牧会の現場に出るそうです)からこんなことを聞かれました。

聞き取りの史料って、史料的な価値があるのですか?

わたしの今回の報告は、公刊され、それを研究者が検証しないでそのまま引用することで一種の権威がつけられた“事実”を正しく批判し歴史に位置づけるために、そこで批判されたり、無視されたりしている“事実”を他の未刊行の史料や聞き取りによって検証していくと、「正史」に書かれていない“事実”がたくさん見つかるというのが主題でした。

このようなわたしの意図は、なかなか理解されないことは分かっています。だから、我慢強く語っていかなければと思います。で、その院生には、聞き取りも、その方法や扱い方次第で主観的な語りから客観的な史料に近づいていくことを実例をあげて丁寧に説明したつもりです。

が、少し言い忘れたことがあるので、ここでつけ足します(彼の院生君はこれを見ているだろうか。そういえば名前も聞いていませんでした………)。沖縄戦下の「集団自決」の「語り}については、またすぐに書こうと思っているのですが、言い忘れたのはそのことです。

「集団自決」については多くの聞き取りの成果があります。それが、政治的に利用されているわけですが、ここでも書かれた文書と聞き取りのどちらが信用できるかという議論があります。文書がないのだから「集団自決」の軍命はなかったのだという人がいます。一方で、「集団自決」の軍命はほとんど口頭で伝えられ、多くの人が軍命を感じたと証言しています。後者に、「はっきりとした軍命があったのですか」ときくと、多くの人は「なかった」と答えるでしょう。でもそれで、軍命がなかったと判断することが公正で公平であるといえるでしょうか。

最初に結論があっての聞き取りは意味がないと思います。そのような聞き取りは、全く資料的な価値はないとおもいます。どうでしょう。体験者がいっている「軍命を感じた」という言葉と、「文書がない。したがって、軍命はなかったのだ」という当時の責任者である軍人の言い逃れと、どちらが「真実」に近いのでしょうか。

問題の本質は、そのようなところにあると思うのです。

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