カテゴリー「米軍」の4件の記事

2007年10月 1日 (月)

1995年の出来事。

1995年。阪神淡路大震災。オウム真理教事件。そして、その年の9月、沖縄で起こった事件。それから、大田昌秀知事による代理署名拒否と日本政府(村山富市(社会党)内閣)との裁判闘争の始まり………。

この年も、沖縄で大規模な県民大会が開かれた。場所も、今回の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」と同じ宜野湾海浜公園。

今回のできとは、確かに画期的で、新たな展開を予測させる出来事であった。しかし、2点、引っかかって仕方がないことがある。それは、今回の県民大会の参加任数を比較するときに1995年年のそれとの比較がなされることである。わたしが引っかかっているのは、1995年に起きた事件の名称がくり返されていることだ。

あの事件の当事者は、いまも、どこかで生活をしている。加害者のうち一人は、のちにも同様の事件を起こした挙げ句、自殺したという。その他の者たちは、どうやら今も生きている。そして、一方の当事者も。その方や関係者が、この報道をどう聞くだろうか。その配慮は、マスコミにはもないように思える。大会の主催者にも、その配慮はあるのだろうか。

それから、もう一つ。

きょうも、あるテレビで、キャスターが今回演壇に立った高校生の発言を引用している。あの2人の高校生の言葉は確かにインパクトはあった、しかし、キャスターなら自分の言葉で語らなければならないだろう(これは、自戒を込めた言葉です)。1995年の県民大会でも、やはり高校生の演説が、その後何度も、何度も、報道で引用されることになる。あの高校生は、のちに大学に進学し、もうとうに社会人になっているが、あの場に立って演説をしたことよりも、その後、たびたび自らの発言の断片がくり返されることで、人生を変えられたのではないかと、危惧している。

沖縄の、抱える問題は、その淵源がどこにあるのかと言うほかに、本当に重層している。差別や抑圧の構造は、何層にも折り重なり、主体・客体、すべて入り交じって、今も、なお、複雑化し、隠蔽され続けている。

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2007年1月28日 (日)

沖縄と米兵~「辺野古へ」のコメントへのレスポンス~

先日の「辺野古へ 」にccoさんからコメントをいただいた。毎度のことで、遅くなってしまったが、この場でお返事したと思う。

まず、ccoさんとは昨年12月のクリスマスにはじめて直接お会いした。また、それ以前から、わたしのブログにしばしばいらっしゃってくださっている。そういう方と、こうして意見のやりとりができるのは、ネットの世界ならではで、うれしいことだ。

さて、先の記事で辺野古に行きたいと行った彼女(わたしの講義の受講生)が沖縄や辺野古についてどう見ているのかは、わたしが知る由もない。ccoさんの質問の主旨は、おそらくわたしが辺野古の、つまり、辺野古で基地拡張の反対闘争をしている人たちをどう思っているなということなのだろうと解釈している。

わたしは基本的に地域のことは地域で決めるべきだと考えている。当事者性がなかったり、薄かったりする問題についてあれこれ介入することはよくないことだと思っている。また、ある問題のなかで当事者性のあることに限っては発言が許されると考えているものの、それ以外はなるべく当事者の意見を尊重すべきだと、基本的にわたしは考えている。

その上でのことであるが、辺野古の場合、それ(地域問題に関する地域の「自決権」)が貫徹されていないのではないかと思っている。また、別の側面では、辺野古でおこっている問題は、地域的な問題であるとと同時に国家的な問題でもあり、日米国家間の問題でもあり、グローバルな問題でもある。だから、日本在住の一市民であるわたしにもわずかな当事者性と発生している問題についての「責任」があるように思うので、控え気味にではあるが、発言する余地がわたしにもあるだろうと思う。

さて、地域の「自決権」「自己決定権」とは、どんなものであろうか。辺野古で起きている問題については、それを争点に選挙をして住民が意思表示をするにしても、名護市の選挙になると人口の少ない辺野古地区の人びとの意見は、それが例え一致していたとしても通りにくい。沖縄県の選挙だと他の争点に紛れてしまう。また、それは、この問題を争点化するのを避けたい人たちがする一種の隠蔽工作という側面もあるだろう。とにかく、辺野古の人たちは賛成にしろ、反対にしろ、自分たちに地域に関する「自決権」「自己決定権」を充分行使できないでいる。そして、その理由を住民の意見が割れていることに帰着させることは、やはり無理であり、間違っていると思う。辺野古地区外の大きな力、小さな力が無数に絡み合い、関連しあって、そこで起きた矛盾があの狭い地域に集約され、それが住民を引き裂いているのだろうと思う。

わたし自身は前の記事でも公言しているように辺野古での運動には距離を置いている。だから、辺野古の座り込みには参加したことがないのだが、辺野古には何度か訪れている。街のなかには「社交街」があって、たなびく星条旗が壁一面に殴り書きされている建物もみた。それは、辺野古という街が、米軍と米軍兵士と「共存」してきた証しなのであろう。ccoさんがいっている地域住民と米軍基地に駐留中の“プライベート”な関係もおそらく事実なのだろうと思う。そして、もっといろんなところで辺野古の住民と米兵とは「個人的」な交流をしているのだろうと思う。

なるほど。米軍が今後半永久的に沖縄、なかんずく辺野古に駐留するのであれば、地域住民の方々は米兵となるべく摩擦を起こさないように生活するように考えるだろう。それは生きるための方便であり、米軍や米兵も同じだと思う。米軍も沖縄に駐留するかぎりはそれぞれの地域でなるべく摩擦を起こさないように過ごし、米兵はできれば快適に過ごすために地域住民との交流をはかる。敵視や疑心の中で「共存」することは、つらいことだから。しかし、わたしがこれまでの占領下沖縄の研究の過程で得た認識では、それはけして米兵たちの「個人的」な友好や友情の証しなどではなく、米軍の軍隊としての作戦・工作の一環ではないかと思う。

沖縄に駐留している米兵は、何年も沖縄にとどまったりはしない。期限が来ると帰国したり、他国の基地に移っていく。それは、通常1年とか1年半とかのサイクルだと聞いている。辺野古の住民と米兵との友好・友情関係が個人的なものであり、かつ、深いものであれば、きっと離沖した米兵と個人的な関係が続いてるだろうと思うが、実際はどうなのであろうか。わたしがかつてした聞き取りでは、辺野古ではないが、他の地域在住の牧師のところへ近くの基地のチャプレン(従軍・基地内教会所属牧師)がやってきてたいそう仲よくなり、いろんなことを話したが、そのチャプレンが離沖したあとしばらく続いていた交流が突然とぎれたことが、何度かあるとのことだ。チャプレンが地元の牧師に近づいて何をやっていたのか、また、どんな思惑があったのかは知る由もないが、しかし、だいたいの憶測はつく。

わたしは沖縄の研究をするものでありながらも、辺野古できょうも、そして、いま現在も座り込みをつづけている人たちと、一定の距離を置いている。しかし、その人たちの行為が、無駄で、意味のなことだと思ったことは一度もない。実際に辺野古に座り込んでいる人の中にはいろんな立場の人がいるだろう。そこに「ヘリポート」ができると利害得失を最も被ると自社である地域住民の方々もいるが、なかには座り込みをすることで自分の立場の正当性を証明するためにわざわざ本土からやってくる人もいるだろう。

────辺野古の自然をまもるために座る込みをするほど自然保護に関心があるのなら、まず、自分のところの自然保護運動をして下さい。自分のところでは自然を犠牲にして快適で便利な生活をしながら、辺野古に来たときだけ自然保護を主張するのはおかしいでしょう。

────そんなに辺野古に基地ができることに反対するのであれば、あなたたちは本土に帰って自分のところに普天間基地の移転先を誘致して下さい。あるいは、あなたが住んでいるところの米軍基地を撤去するために動いて下さい。それが沖縄の、辺野古のためにもなりますよ。

以前、沖縄在住のある方からこのように向けられた問いかけの答えを、わたしは未だに探し続けている。

沖縄人であるccoさんの問いかけは、日本人であるわたしの沖縄に対する立場や視座を問いかけているものだろうと思う。そして、それは、沖縄でのわたしの活動の選択肢を著しく制限するかもしれない危険なものであるとも思う。でも、言わなくてはならないことは、いつかは言わなくてならない。

沖縄の住む方々が米軍基地がこれからもずっと存続することを望んでいるのであれば、わたしはその意思を尊重しなくてはなりません。しかし、その理由を米兵との交流に局限化したり、矮小化してもいいものなのでしょうか。

そんなことを沖縄人に向かっていう資格が本土日本人であるわたしにはないことは承知しています。しかし、那覇近辺を生活圏と指定人たちには、この問題について当事者性があるのでしょうか。沖縄に米軍基地があり、辺野古に新しい基地ができることで、回りまわってわたしはその利益の一端を享受するかもしれない。だから、ごくごく間接的で、部分的ではあるけれど、わたしには当事者性の欠片があります。

その責任の一端を担おうと思っているから、わたしは、今もこうして研究を続けているのだと思います。いつか、誰か、わたしがしたささやかな研究の成果を共有し、生かしてくれるのではないかと、淡い期待を夢見つつ………。

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2007年1月25日 (木)

辺野古へ

きょう、非常勤をしていたK女学院の「キリスト教学」の定期試験があり、本年度のK女学院での授業が終わった。今年も、1年間、沖縄の戦後キリスト教史について講義した。このブログで、昨年4月13日と20日に「ガイダンス」と「第1講」をアップして以来中断しているが、講義ではなんとか60年代まで語ることができた。

ところで、答案を回収し終えるとひとりの学生がやってきた。この春休み辺野古へ行きたいと思っているとのこと。以前友人が辺野古で座り込みをやっていたのだという。そこで、話しをきいて自分も行ってみたいと思ったとのこと。

聞けばまだ沖縄には一度もいってことがないという。彼女にとって最初の沖縄は、那覇でも首里でもなく、北谷や美浜でもなく、沖縄島西海岸のリゾートでも、石垣や竹富島、西表島でもなく、宮古でも与那国でもなく、辺野古だということになる。「いきなり………」という気もしないでもないが、どうかいろんなひとに会って、いろんなところを見て、いろいろな現実を知ってほしい。

彼女が辺野古へ行きたいと思ったのはわたしの講義を聴いたからではないが、すくなくとも講義の最後に、その意思表示をして、最初の「沖縄」に辺野古を選んだことが、わたしはとても嬉しかった。

わたし自身は辺野古でのできごとには常々関心をもっているものの、そこでの「直接行動」については距離を置いてきた。一応研究者だということで言い訳をしているが、やはり後ろめたい気持ちはある。それで、その代わりに彼女を、という気は毛頭ない。しかし、わたしにできないことを、ちゃんと決断して、行こうとする若い人に、自分はこの1年で何かを伝えられたのではないか。そう、秘かに自画自賛してみるのだ。

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2006年12月25日 (月)

沖縄のクリスマス

恵まれぬ ひとにとぞいい
         誰(た)がためぞ
   ヘリで飛来す  米兵サンタ

これは、ある人のもとめでその人の「日記」に投稿したものである。

わたしの沖縄の友人である社会福祉施設で施設長をしているG牧師(わたしに沖縄のことをいろいろ教えてくださるひとです)は沖縄のクリスマスについて以下のような話をしてくれた。毎年クリスマス近くになると米軍の関係者から多数「めぐまれない子どもたち」に何か贈りたいがという問い合わせがあるのだという。そこで、G牧師は「あんたたちが沖縄から出て行ってくれることが、わたしたちにとっての一番のクリスマスプレゼントだ」と言い返すのだそうだ。

わたしは、1945年から60年までの『琉球新報』(1951年以前は『ウルマ新報』『うるま新報』)と『沖縄タイムス』を読んだ。その中でも、イースターやクリスマスの時期になると、沖縄の「めぐまれないひとの施設」つまり、当時の孤児院の「厚生園」(現沖縄県立首里厚生園)や「愛隣園」、ハンセン病施設「愛楽園」、それに沖縄各地の児童施設・小学校等々に対して、在沖米軍の兵士や将校、そしてその婦人たちの個人や団体、基地内教会(チャペル)から贈り物が贈られたという「美談」が多数載せられている。

なかには、ヘリコプターで非番の兵士がサンタクロースに扮しておりてきたという記述もあった。「愛楽園へ空からサンタ 七五歩兵の友情」(『沖縄タイムス』    1955年 12月 17日)では、75歩兵戦闘連隊が軍公衛部福祉課リーバーメン少佐とともに愛楽園を訪問しプレゼントを渡したとある。また、「空からサンタ爺さん 与那原の愛隣園に」(『沖縄タイムス』    1956年 12月 24日)では、牧港にあるQM隊がヘリコプターに乗って愛隣園を訪れたとある。冒頭の短歌はこのことを思い出して詠んだものである。

「美談」は批判できない。『沖縄タイムス』は米軍占領下という言論統制下にありながら米軍の占領に対しては批判的な記事を載せていたのだが、このようなさすがに「美談」には抗することができず、結果的に米軍の宣撫工作の一端をになわされてきた(拙稿「戦後沖縄キリスト教史のなかの地域と教会−占領軍の統治政策とキリスト教児童福祉   施設・愛隣園の研究」(『キリスト教史学』第55集、2001年7月、pp185-198)参照)。

そのような構図が、「沖縄返還」(沖縄側から見れば「本土復帰」)後、34回目のクリスマスにもなお存続しているのであろうか。さすがに今日『沖縄タイムス』や『琉球新報』でそのような「美談」が採りあげられることはないが、しかし、そのような米兵の「善意」はこの時期に最もあからさまになる。そして、そのような行為が、米軍が沖縄になお駐留し、日本政府と米国政府が「再占領」統治する沖縄の現状と問題点を「隠蔽」し続けているように思えてならない。

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