カテゴリー「震災」の3件の記事

2012年3月11日 (日)

1年、そして、半年………

東日本大震災から1年が経過した。そして、昨年9月11日、はじめて被災地を訪れてから半年が経つ。

先日のニュースで、女川漁港の映像が映し出されていた。中継は、「女川町地域医療センター」からということであったが、そこは、わたしが以前以下のブログでふれた「女川町立病院」のことだ(昨年10月に名前が変わったらしい)。

希望の先の深い絶望について、考えてみると、涙が出た。〜9.11。女川町立病院の建つ丘に立ってみて〜

あれから半年。しかし、中継を見る限り、高台にある医療センター(旧町立病院)のガケ側の防御柵だけが新しいものになっているだけで、何も変わっていないように見えた。見渡せる範囲ではほとんどが更地で、津波で横倒しになったビルもそのままだった。そして、やはり、人の気配がほとんどないことは、とても気になっている。

それにしても、今日一日、津波や地震の映像をたくさん見た。また、感動的な話や、被災者が直面した悲劇や奇跡についての話に耳を傾けていた。

そのなかで「またか」と思ったことがあった。それは、17年前の阪神大震災の時と同じで、関東(東京)でも、関西でも、関心はすでに首都直下型だの、東京湾北部だの、東海・東南海・南海の3連動などにうつっていて、津波がどこまで到達するかの予想を流しはじめていることだ(「アウターライズ地震」は今回の地震にも関係があるらしい)。東日本大震災の犠牲者の追悼と言いながら、もうすでに関心はほかの所に移行しつつあり、

人間は、理由をつけて、大事なことを忘れて、歩きはじめようとする。原発についてもそうだ。「思いを新たにする」というのは、このことは置いておいて、自分たちのことを考えて気をつけようということなのだろうか。

さて、被災から1年が経過したが、聞けば、仮設住宅では地震や津波で生き残った人の命が失われるような事態が起きているという。また、1周年を目ざして冬をなんとか越してきた人びとに春が来ようとしているが、その春は、決して明るいものではないかも知れない。

わたしは、そんなに上手に忘れられないと思う。仮設住宅のことが気にかかってしょうがない。それは、17年前に自分が被災したわけではないけれど、震災のあとで被害が続いていたり、拡大することもあったりする現実を身近で感じてきたからかも知れない。出来事のあとの経緯でその出来事の本質を知ろうとするのはわたしの歴史的思考であるけれど、阪神淡路大震災の時も、今回もそれは同じである。それから、しつこいようだけれど、阪神淡路大震災の後、数か月経つと世間は「オウム」一色になり、見事に震災を忘れて先へと進み始めていた。そのことを、いまだに、根に持っている。

また、ここ十数年、研究を通して沖縄に関わりを持っている。福島の原発について沖縄の基地問題との類似性を説く本も出版されているが(高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』集英社新書)。一方で、沖縄の問題はやはり福島の問題とは違うのだという議論もある。けれども、問題の本質は沖縄と福島が同じか違っているかではない。阪神淡路大震災の被災者が今回の被災とその後を他人事だとは思えないのと同様、沖縄の基地問題の当事者の多くは、福島の原発問題を他人事だとは思えないでいる。

わたしは、そのどの問題についても当時者性を持たない。そして、わたしは東日本の被災地のために、何かをすることができるわけでもない。しかし、自分に与えられた、また、自分が選んだ課題にこれまで通り真摯に取り組むことで、福島のことも、東日本の被災地のことも、ずっと覚えておきたいと思う。そして、こうした関わり方が、いつのひか、彼の地と縁を結ぶことができればと念願している。

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2009年1月17日 (土)

忘れ得ぬ日

14年目。神戸を離れて、その時を想っている。ここ東京には、すでにその痕跡すらなくなっている。もともと、1・17から数ヶ月後、東京は例の事件で騒然となり、それ以来、神戸の震災のことを忘れ去ってしまっている。それが、この国の首都の現実だ。そして、この大都市にも、いつか破局の地鳴りが来るのだが。

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2007年1月17日 (水)

忘れてしまいたいこと、聞いてほしいことと~12年目の「1.17」によせて~

いまだに、阪神大震災という言葉を聞いただけで動悸がして、涙が溢れてくる。震災とその後の出来事はわたしにとって忘れてしまいたいことであるが、同時にだれかに無性に聞いて欲しくなることでもある。

あの日、わたしは大阪府下T市のアパートで、小舟に乗ってゆっくりと、しかし強く流されるような夢を見ていた。そして、夢だと思ったのに、その流れが急カーブを切ったとき目が覚めた。

1995年1月17日は火曜日。直後の聖日礼拝で、わたしはT教会で礼拝の司式をした。司式者の祈祷で何を祈ったのか詳しく覚えていなが、神様に必死に訴えたことだけは微かに覚えている。その礼拝後、T教会ではかねてから予定されていた特別伝道集会が粛々と行われた。しかし、教会事務室では副牧師と青年会の数人がその時点で不明の教会員・求道者の安否を必死に確認していた。その震災後の教会の風景にわたしは強い違和感を覚えていた。また、T教会では社会委員会や青年会を中心に教会で毎月一定の額を継続的に集め、被災地に送る活動がはじまった。わたしたちはその募金が教会に関係なく被災地の必要なひとに届けられるものだと理解していたが、いつの間にかT教会の被災者のみに配られることになってしまっていた。

キリスト教は常に隣人とは誰かを厳しく問うてきた。しかし、震災後、「隣人」をめぐって教会内にはさまざまな亀裂が生じた。その亀裂は地域社会と教会の間にも生じ、やがて、わたしの信仰の中にも生じた。ごく一部の方々の奮闘を除いて、教会は、特に比較的被害の軽かった被災地周辺地域の諸教会は震災とその後の事態に対してほとんど無力であった。そのことだけは、歴史に明記しておきたいと思う。

さて、その他にもいくつも嫌なことがあった。そのたびに、教会に対するわたしの失望はいよいよ深くなった。わたしは、キリスト教の信仰を失ったのだ。と、その時感じていた。しばらくの苦悶の時を経て、わたしの足は遂に教会から遠のいてしまった。そんな鬱々たる日々を送っていたある日、わたしは以前読んだ『近代日本と神戸教会』のことをふと思い出した。そして、なお数週間の迷った末、1995年12月31日、神戸教会の礼拝にはじめて出席した。

その時点で、わたしの中にはある想いが確信となりはじめていた。「被災者や被災地のためにわたしができることはあまりない。しかし、神戸の教会に連なることで神戸ともにありたい」。その後、翌年4月神戸教会転入会。さらに97年3月神戸市東灘区に転居。ただ、わたしは震災のときもその後の自体が進行中である今日も、ほんとうに何もしていない。ただ、神戸と寄り添い、震災後の神戸や阪神間の移り変わりを見つめてきただけだ。そんなことしかできなかったが、それでも、それだけはできたのだと思っている。

ところで、震災に関する記述はいまだにそれぞれの個人的体験の集積の域を出ていない。一年に一度1月17日に繰り返される報道の中で語られるできごとは、それぞれがとても貴重なものであっても、震災の全体像を論理的にのべたものではなく、あくまでも自分や自分の周囲に起こったことを思い起こし、言語化したに過ぎない場合が大半である。したがって、体験者以外の人々にとって、それらは非論理的で、断片的な体験の羅列と感じられたかもしれない。しかし、震災時のその周縁にいたわたしは自分の似たような体験と重ね合わせて共感したり、忘れたい記憶を苦々しく思い起こしたり、欠けたピースを見つけたようにその断片を水からの記憶に加えたり、現状を見ながらそれを照らし合わせるなどして、それぞれに証言を理解することができる。

震災から12年。体験者と非体験者の記憶の格差と印象の落差はどんどん開いているのではないか。思い出したくないできごとはひとときでも忘れていたいと思う。しかし、だれかに聞いてもらわないと救われない。黙っていたら伝わらない。でも、話しはじめると気持ちをうまく伝えることができない。そんなもどかしさを、この12年のあいだ、ずっと、わたしは感じていた。

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