カテゴリー「戦後」の7件の記事

2008年12月20日 (土)

「復帰」と「合同」〜教団は暗闇を見ていたのか〜

ノワール小説やハードボイルドというのは余り趣味ではないので、ほとんど読んだことがない。『不夜城』は映画で見たけれど、馳星周の小説も初めてである。

弥勒世(みるくゆー) 上 Book 弥勒世(みるくゆー) 上

著者:馳 星周
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弥勒世(みるくゆー) 下 Book 弥勒世(みるくゆー) 下

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歴史は、理想やイデオロギーによって変わることもある(と、信じてる)。しかし、歴史は《きれい事》ではない。汚辱や憤懣に溢れていて、その上、捏造や隠蔽が日常茶飯に行われている。そんな薄い嘘事を引きはがすように、慎重にきれい事では済まされない歴史を描いてみたいと思っている。

本書の舞台は「本土復帰」前、米軍占領下の沖縄島。――そこには、沖縄人どうしによる宮古や奄美への差別があり、アシバー(遊び人、不良、または、ヤクザ)の暗躍があり、売春窟がある。そして、黒人米兵と白人米兵との間に根深い対立があり、米軍やCIAに飼われる「犬」がいる。「犬」は「犬」としての存在に悩み、やがて自我に目覚めたとき、その飼い主の喉笛を噛みきる。

さて、「吉原」は、本書にしばしば出てくる旧コザ市の「特殊飲食街(特飲街)」である。本書では、そこで売春が行われていると書かれているが、その「吉原」 の一角に、日本キリスト教団コザ教会はある。現在の会堂は1965年献堂というから、まさにこの小説の時代に重なっている。

以前、コザ教会で牧会経験がある牧師お二人にお話をうかがったことがある。それによると、コザ教会がこざ「吉原」に隣接する場所に建っているのは、決して偶然ではない。コザ教会は、早世したある神学生(沖縄出身者、同志社神学部の大学院在学)の提案で、「基地の街でも最も人間性が抑圧され、疎外されている地域の一隅」(日本キリスト教団コザ教会『未来への扉—沖縄戦の証言—』(同教会、1998年)p.130)を選んで建てられた。このような尊い志をもとにしてこの教会は建てられたのであるが、その志を通すには相当な困難がともなった。

この「吉原」は、「アシバー」の支配する場所でもあった。

ある日、吉原で働いているひとりの女性が牧師館を訪ねてきた。…(中略)…今のように自分この世界へ転落している原因を語り、生きているのがいやになると。また暴力団の管理からどう逃げることができるのかと、真剣に語った。…(中略)…彼女は、確か3回ほど礼拝に出席してから、それ以後ぷっつりとこなくなった。訪問してみたら、その店にはいないということだった。
教会へ行ったということで、男の人に殴られ、今どこに行ったか、だれも知らないとのこと。これまで教会の庭に来ていた彼女たちは、そのことがあってからは誰一人として来なくなった(名嘉隆一「基地の町に生きる教会」(前掲『未来への扉』に所収)pp.138-139)。

また、教会の前には現在でもちょっとした広場あり、現在はどうなっているか確認していないが、献堂当初はそとにトイレもあった。朝になると、広場の芝生には塵紙や汚物が散乱しており、トイレには嘔吐した後寝込んでしまった女性がいたという。また、広場である時は男女が重なり合ったまま眠り込んでいたともいう。当時は、教会の敷地のなかにあった牧師館に住んでいた牧師と牧師夫人の毎朝の最初の仕事は、それらの汚物や散乱する衣類を片付け、眠り込んでいる女性を起こすことからはじまったという。

その結果、「吉原」と教会の間にはブロック塀ができる。また、牧師は牧師館から離れ、教会と離れたところに住むようになったという。当時の牧師が牧師館を引っ越したその日に、牧師館はボヤで全焼した。これは、キリスト教の惨めな敗北ではない。苦闘の果ての、苦渋の決断であったろう。わたしたちは、この教会の信徒や牧師の苦悩を心に刻むべきであろう。

さて、B52の墜落事故、毒ガス漏れ事件とレッドハット作戦、コザ暴動。そのような混沌は米軍を頂点とする権力構造をも飲み込んでしまっている。そこにやってきた「活動家」と称する日本人たちは、そのような現状を全く把握できないでいる。それでいて、自分たちで沖縄に起こっている事態を解決できると信じ込んでいる節がある。彼らは、強烈な使命感があり(いったい誰に与えられたのだろうか)、その上、自らの良心を信じているだけに、その滑稽さが際だってしまっている。

そのような1970年を前にしたこの時代。日本キリスト教団(日本基督教団)は沖縄キリスト教団と合同した。

そして、その合同を実質化するという名目で、日本の教会関係者による「沖縄セミナー」が、1970年1月、沖縄で開催される。しかし、この試みは初回から躓く。

このセミナーの期間中(第三日)に全軍労の四十八時間ストが決行され、本土出席者の中には、自分の目でこれを確かめるため、また全軍労のストはセミナーに直結する問題であると考えて幾人かがこれに参加した。しかし沖縄ではこのようなことは日常的なことであり、セミナーに参加することこそ、全軍労の人々と行を共にすることである、という考えのようで、本土と沖縄の問題意識は食い違っていた。この二十五年の隔たりからくる意識の食い違いを直視することから、沖縄問題への取り組みははじまることを認識させられた。(「沖縄こそ教団の課題/沖縄セミ終わる」『教団新報』1970年1月24日)

合同した本土教団と沖縄教会の「隔たり」がはっきり現れた瞬間であった。そして、その「隔たり」の認識に沖縄教会は以後敏感になる一方、本土教団ではその後もほとんど自覚されていないように思う。セミナーに参加した本土教団の人々は少なくとも沖縄の教会を理解しようと努力し、いわゆる「沖縄問題」についても問題意識をもっていた。しかし、そのような人々でさえ、沖縄教会が本土教団に何を求めているのか全く理解できなかったということである。第1回沖縄セミナーの後、『教団新報』ではセミナーの参加者から全軍労のストへのカンパが何度も呼びかけられている。わたしは、そのことを批判することはできない。しかし、そこに沖縄教会の問いかけに応える用意はあったのであろうか。

これらに象徴される両者の認識の「隔たり」についての本土教団の過小評価により、わずか2回で中止された。

先述のコザ教会の試みは沖縄の他教会でも見られることであろう。そのような日常の伝道と宣教の営みに、寄り添うこと。それは、本土教団に所属するわたしたちにとって相当難しい、その解決継続中の課題である。

「弥勒世」。「弥勒」だから、現在仏教と強い結びつきがつよい思想というわけではない。しかし、そこに存在する憎しみや恨み、悲しみや苦しみ、混沌と暴力などを乗り越えようとする祈りがそこにある。その祈りに、当時の沖縄教会の人々は心を合わせていたに違いない。その祈りに込められた思いやその意味を、わたしは、少しでも理解したい。本書を読みながら、そう強く思った。

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2008年8月 7日 (木)

ことばで伝える、広島8・6

63年目の「8・6」。この日の朝は、いつも、暑かった広島の夏を思い出す。

さて、最近、韓国からの留学生に広島のことを話す機会がありました。広島が、まだ、「廣島」だったころのいわゆる「加害の歴史」、原爆投下の経緯と理由、その後の「ヒロシマ」のことも話しました。また、広島・長崎での被爆と沖縄戦の比較、在韓被爆者など広島と韓国の関わりについても話をしました。

広島での出来事について写真集や編集されたビデオ(ちょうどわたしが広島で学生生活を送っていた頃「3フィート運動」というのがありました)など、視覚に訴えて話をすることも可能でしょうが、わたしは、文字と話にこだわりました。

広島大学の一般教養の講義であった「戦争と平和に関する総合的考察」で、二つの写真を見せられました。いずれもベトナム戦争時の写真でしたが、一枚はB52が爆弾を多数党化している写真、もう一枚は南ベトナム軍兵士が北のベトコンを射殺している写真。それらの写真を見せたうえで、講師はどちらの写真がより残酷であると思うか、学生に問いました。

大半の学生が後者の方が残酷であると答えたのですが、講師に指摘されずとも、前者に「写された多数の爆弾の行く末を想像すると、そこには阿鼻叫喚の地獄があり、多数の犠牲者が確実にいるのです。それなのに、目の前で殺されている一人の方が残酷だと、人間は思ってしまうのです。

だから、わたしは、文字とことばにこだわっています。

写真やビデオをただただ提示するだけでは、広島の被爆の意味が「戦争」に一般化されてしまう恐れがあります。また、徒に感情に訴えることは、単純なメッセージしか生みません。それは、それなりに力をもつのですが、わたしはそれに加えて考えてほしいことがありました。広島や長崎の原爆の特殊性を強調するためではありません。

戦争はどうして起こるのか。

その結末はどうなるのか。

そして、それを止めるために、自分や世界はなにができるのか。

そんなことを、これを機会に考えてほしかったからです。

さて、あしたから、また、「ヒロシマ紀元」からかぞえはじめた年数が一つ加えられます。

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2008年6月23日 (月)

沖縄の「戦後」〜6・23を考える。〜

きょうは、沖縄戦の慰霊の日。慰霊したり、供養したりするためには、日を決めて、年にいっぺん………。ということなのだろうが、この日に沖縄の戦闘は終わっていない。そして、この2か月余り前に戦争が終わっていたひともいる。

最近、調べている仲里朝章(沖縄キリスト教会理事長、沖縄キリスト教学院初代学長などを歴任)という人物は、この日の4日前、「三和村喜屋武」(石川政秀編『仲里朝章遺稿集・伝記』(仲里朝章顕彰会 1974年)所収の年譜の通り。「三和村」は戦後誕生し、現在は糸満市。かむじゃたん氏のコメント参照のこと)で米軍の捕虜になり、北部の捕虜収容所(宜野座)に送られた。

これで、彼と彼の家族は戦場から離脱したわけだが、当時校長を務めていた那覇市立商業学校の生徒を多数戦場に送り、娘の光子さんはひめゆり学徒隊として家族と離れ、落命した(光子さんはその後靖国神社に合祀されていることがわかり、御遺族の仲里朝治氏(朝章の息子さん)は訴訟を起こされている。このことは、ここにご自身が記されている)。

だから、だからそれで戦争が終わったというわけではない。 さて、朝章は、宜野座地区惣慶の収容所に滞在中チャプレンの誘いで伝道集会をはじめる。つまり、南部では激戦が続いているなかで、北部ではすでに「戦後」がはじまっており、そこでは礼拝や受洗式などが日常的に行われていたのだ。

朝章は、惣慶で収容されていた男女学生をあつめて戦後初めての共学中等教育機関である惣慶中等学院(後の宜野座高校。同校の校歌は朝章の作詞)を設立し、教育に携わる一方で、周辺に精力的に伝道活動を行ったという。

この件は、また、詳しく書こう。

いずれにしろ、片方では激戦が続いているなかで、他方では収容所に入れられ自由は奪われているが、衣食住が与えられ、礼拝が開かれているというような状態。いくつもの異なった局面が同時に進行しつつあったのが、沖縄戦の特徴である。 したがって、この6月23日は、そのような特徴を覆って、慰霊と供養のために区切りをつけるのである。

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2008年5月15日 (木)

4つ、それぞれの「返還」、そして、「復帰」

以下は、戦後米軍の占領下から日本に「返還」(それぞれから見れば「本土復帰」)された4つの地域(諸島)である。

(1)1952年 2月10日
(2)1953年12月25日
(3)1968年 6月16日
(4)1972年 5月15日

これらに先だって、1952年4月28日、「日本本土」は独立を回復した。因みにこの日は沖縄にとって、そして、恐らく他の3つの地域でも日本本土から切り離され、日本に切り捨てられた日として記憶されている。

さて、(4)は36年前のきょう。沖縄が「日本本土」に「復帰」した日だが、他の3つの日は人びとに36年前のきょうほど記憶されているだろうか。

(1) トカラ諸島
(2) 奄美群島
(3) 小笠原諸島

奄美では激しい復帰運動があった。小笠原では戦時中一般の住民は強制的に退去させられていたが、戦後しばらくして欧米系の島民(100数十名程度)に限り帰島が米軍より許可された。しかし、他の住民は「復帰」まで帰島が許されなかった。

最近、「芸域」を広げるため、また、軽度の「島フェチ」のため、小笠原のことを調べはじめている。小笠原になぜ欧米系の住民がいるのかについては話せば長いことになるので、ここでは省略するが、小笠原には他にも「南洋系」の住民もいる(いた)。

さて、「5・15」を記憶している人、そして、この日がどんな日かを知っている人は沖縄でも減っていると聞く。しかし、「2・10」や「12・25」、「6・16」について知っている人が、当事者以外にどれぐらいいるだろうか。そして、それまでの過程でどのような苦闘があったのか。それも、恐らく忘却されつつある。

「島フェチ」・「辺境人」として、沖縄に限らず、これらの地域についてもこれから少しずつ調べて行きたい。また、その先に、旧植民地等に視野を広げて行けたらと考えている。

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2007年8月16日 (木)

終戦ではない「終戦の日」によせて

8月15日。1945.8.15。この日は本当は終戦の日ではないことは、既にここで言及した。したがって、きょうは、本当は、終戦の日ではない。しかし、年にたった一度でも戦争と平和について考えることは、意味がある。

NHKの番組で「憲法9条」について議論が交わされていた。それをまじめに見ていたわけではないのだが、いくつかおもしろい意見があった。例えば、最初の質問で改憲か護憲かを参加者に聞いたときに、「改憲」の札を上げていたひとが、その理由を次のように言った。自分はこの「9条」では不十分なので、この条項を変えて、絶対に軍隊をもてないようにするべきだと。政治的選択としてはどうかと思うが、その思いは悪くない。

それから、「9条」を変えて軍隊をもつ、あるいは、自衛隊を「自衛軍」としたと思っているひとの中には、完全に軍隊に幻想をもっている人たちが多いと思った。「軍隊は、わたしたち国民を、必ず、きっと、絶対に守ってくれるのだ」という奴である。しかし、軍隊は国民を守ったりはしない。どの国の軍隊でも、どの時代の軍隊でも。軍隊には、そもそも、その能力も意思もない。

なのに、次のような意見。覚えている範囲で、それを記述すると、「わたしたちは、有史以来はじめて国民の軍隊をもった。それまでは、「皇軍」で、国民の軍隊ではなかった。だから、先の大戦で軍隊が住民を守らなかったことを引き合いに出すことはおかしい。わたしたちは、自分たちの軍隊をもつことができたのだから、自衛隊を軍隊として認知すべきだ」と。

でも、真相は、違っている。これは、屁理屈のたぐいだ。それを証拠に、その大戦で海外各地で闘って戦死・戦病死した人たちの遺骨の大半は、まだその土地に置き去りにされている。そして、戦後、政府が行った遺骨収集は、決して積極的と評価できるものではなかった。その事業を沖縄や海外で、62年も経って、必死に行っている人たちは、政府や自衛隊を含む行政の人間ではなく、一般人である。つまり、戦後、民主的に成立した政府であっても、日本国民である兵士の骸を、見捨てて、決して顧みもせぬ者たちが、一般の国民を守るという意志を持たないことは明白であろう。原爆症の認定も然り。原爆のような大量殺戮兵器の人道に悖った使用を国際社会に告発もしていない。

軍隊は、決して、市民を、住民を助けることはない。戦場に置いて生き残るのは、結果的に、ほぼ偶然に助かるのみである。わたしたちを戦争から守ってくれるものがあるとしたら、それは、自らが戦争をしないという意思表示のみではないだろうか。

さて、62年前のきょう、この夜。市民たちは、戦闘の、空襲のないこの夜を、どう過ごしたのだろうか。それぞれの胸中に去来する者は、どんな思いだったのだろうか。そして、「明日」から続く未来を、どう見通していたのだろうか。

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2007年8月 6日 (月)

留学生と「8・6」

「8・6」。原爆忌。

広島に住んでいたとき見上げたこの日の空の蒼さと、夏雲のことを思い出す。黙祷の静寂とセミの声を思い出す。早暁に川辺に蹲る老人の悲しみを、この日に、ありったけの想像力で想像してみる。8月7日、祭りの後のような広島の街を思い出す。それからまた1年、この街は、忘れ去られるのだ。果てしなく続く、核実験。大国も、小国も、豊かな国も、貧しい国も、核武装をしたがっている。

さて、ここ数年留学生向けの授業(「ニホンゴ・ニホンジジョウ」とかいう)を担当していると毎年必ず、韓国の留学生と原爆の投下についての議論になる。

韓国から来た留学生は、大多数が、広島・長崎への米軍の原爆投下は「しかたがない」ものであるとし、そのおかげで自分たちが解放されたとは言わないが、それによって戦争が終わったと認識している。また、彼らは、原爆投下により日本上陸戦は行われなくなり、日本人にも、米軍にも、“無駄な”犠牲者が出なくて済んだとも認識している。

このような認識は、一般的な米国人のそれと“瓜二つ”。恐らく、原爆関連の知識は米国や韓国駐留の米軍から得ているのであろう。

そのような認識は、明らかに、事実とは異なっているのだが、やはり、韓国人の彼らもそれを“信じて”いるのだ。その彼らに、わたしは以下のことを話す。

米国は日本が既に降伏の条件闘争(「国体護持」)に入っており、幸福寸前であったことを充分察知した上で原爆を投下している。それよりも、むしろ、米国はソ連の動向を注視しており、日本がソ連の参戦で降伏したという「事実」を既成化したくないと考えていた。また、米国は既に“次”の戦争、即ち、その時点での同盟国であるソ連とのイデオロギーをめぐる戦争(=のちの冷戦)の準備に入っており、そのために原爆の破壊力を実践で試し、できうる限りの情報を収集することが目的であった。つまり、米国にとって、広島・長崎への原爆投下は、20万人の一般市民(そのなかには、朝鮮人もいたし、米国人もいたが)を犠牲にし、それ以後の被害者をも対象とした「実験」であった。

そして、広島で被爆した朝鮮人のこと、そして、戦後、それらの朝鮮人に対する原爆症治療のための渡日治療に尽力した広島の医師たちのことや朝鮮戦争でも原爆を使用しようとして解任されたマッカーサーのことなども話す。

それでも、韓国人留学生たちは、じゅうぶん納得したわけではない。そんな彼らにわたしは、次のように説明を続ける。

広島で核廃絶を願っている人たちは、自分たちのことを一方的な被害者とは決して思っていない。日中戦争から太平洋戦争に暴走した日本軍が朝鮮半島や大陸などでしたことも充分学んだ上で、自分たちの背負った加害性も理解している。

それから、百歩譲って、原爆投下が、韓国人留学生の認識と同じ意味を持っていたとしても、そこで起こった事実は倫理的に容認できる範囲であるのか、広島に行ってそれを見て、聞いて、感じてみるべきだと、わたしは続ける。皇軍の戦争の非道の応報として、植民地支配や侵略の応報として、原爆を一般市民の上空で炸裂させるということは、論理的にも整合性がないし、当時の道徳や倫理でも決して容認しがたいということを、わたしは、彼らに直に学んで欲しいと思っている。

これまでに、留学期間内で広島を訪れた留学生はいない。しかし、わたしが彼らの心に投じた一石は、時間はかかっても確実に波紋を広げていくと、わたしは信じている。それは、核廃絶に向かう被爆者たちの絶対的な「正しさ」を信じているから。また、それを踏みにじって、その非道をなお意識しない米国人が核を保持し続けていることが、絶対に「普成」であることを信じているからである。

ヒロシマ紀元63年が、またやってくる。

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2007年7月16日 (月)

軍事占領下沖縄における“救い”と“癒し”の陥穽─キリスト教、国家、地域社会─(※ 仮アップ。大幅変更あり)

はじめに
 沖縄は、第二次世界大戦末期の沖縄戦の後、約27年間に及ぶ異民族による植民地的支配と軍事基地化を経験した。この理不尽な占領体制は、1972年5月15日、形式的には終了する。しかし、普天間(ふてんま)基地の辺野古(へのこ)沖への移転や沖縄国際大学への軍用ヘリ墜落事件とその事後処理を見ると、沖縄は日米両国協同による「沖縄再占領」という新たな段階に直面しているのではないかとさえ思える。したがって、表題にある「軍事占領下」とは、通常、沖縄戦から「本土復帰」までを指すが、ここでは復帰後の事象も含むものとする。
 このような歴史的経験をもつ沖縄で、外来の宗教であると同時に占領者の宗教であるキリスト教は、どのような“救い”や“癒し”を提示してきたのだろうか。そもそも、沖縄は、個人的なものと同時に、歴史的な(敢えていうならば、民族的な)苦難を背負い続けている。このような沖縄という地域が背負った歴史的苦難は、今後も根本的に除かれないまま、“救い”や“癒し”を求める祈りが延々と続けられているのである。
 さて、本稿は、日米二大国のはざまに置かれた沖縄地域社会で語られ、祈られ、実践されてきた“救い”や“癒し”を政治的・軍事的・歴史的な文脈でとらえなおすことを目的としている。そうすることで、「沖縄のキリスト教」に向けられたまなざしの問題を析出し、「沖縄の」という虚構へと誘う陥穽の正体と対峙できるのではないかと考えている。

Ⅰ.沖縄のキリスト教の多様性と「周辺化」
 沖縄のキリスト教は、他の地域のそれと同様に、その形態や信仰の表明方法等々は、実に多様である。それを「沖縄のキリスト教」として表象するときに、何をもって代表させるかによってそこに見える風景は異なってしまう。
沖縄(本)島は県の政治・経済の中心で、人口の約90%が集中している。また、その約20%は米軍基地として「占領」(他に自衛隊基地もある)されており、北・中部に集中している。これらの地域では米軍が駐留することで経済的な恩恵がもたらされる一方で、いわゆる「基地被害(事件・事故、騒音・汚染等の環境破壊等々)」が横行してきた。
 キリスト教会は、沖縄島に全体の約9割があり、普天間や嘉手納(かでな)といった大規模基地がある中部には、そのうちの半数近くが集中している。県都・那覇市がある南部は中部より人口は多いが、教会数は若干少ない。しかも、沖縄バプテスト連盟(以下「沖縄バプ連」)所属教会や福音主義系の諸教派、単立の教会が多い。こられは米軍関係者の信者が多くいたりすることから、沖縄島中部への教会の偏在は米軍基地の存在と無関係ではない。中部では、沖縄人教会員でも軍用地主や基地雇用者等々基地に生活を依存者も多い。そうした中部の教会で語られる “救い”や“癒し”の福音と、大都市の那覇市近辺で語られる福音、また、同じ沖縄にあっても戦後一貫して大規模な米軍基地が存在しなかった宮古(みやこ)・八重山(やえやま)諸島(先島(さきしま))等で語られる福音は、いずれも同一ではない。
 極東最大の嘉手納基地があるコザ(現沖縄市)には米兵相手の売春街である「特殊飲食街(特飲街(とくいんがい))」がいくつかあった。その一つ「吉原(よしわら)」に隣接している日本基督教団(以下、「日基教団」)コザ教会は、基地の街でも最も人間性が抑圧されているこの地を選んで建てられた。しかし、特飲街への伝道は、そこに利権を持つ暴力団に阻まれたりして必ずしも成功していない。そこでは抽象的な平和の福音はまったく説得力を持たない。そして、これらの困難さを顧みず、沖縄のキリスト教を平和運動に直接結びつけるような短絡や、現実から逸脱した“救い”や“癒し”語る安直さは、沖縄のキリスト教の多様性と問題性を単一的なイメージに押し込め、特異性を過剰に強調することで沖縄を日本の「辺境」「周縁」に固定化することになるのではないか。
 他方、沖縄には、キリスト教に限らず、大国に依存しつつもそこから利益を得ることで、国家や国境を相対化し、国家と一定の距離や緊張感を保つバランス感覚がある。そこにも外来者が沖縄の宗教やキリスト教を見るときに陥りがちな陥穽が潜んでいる。また、沖縄には、東アジアの冷戦構造等々の国際情勢を源とする様々な「力=ベクトル」が集中しているため、沖縄で起こっている出来事は皮相の部分だけではとてもとらえきれない。そこで、筆者は、さしあたり「依存と自立」「統合と分断」「包摂と切断」という相矛盾する力学が沖縄では同時に働いていると考えている。

Ⅱ.占領体制の構築とキリスト教伝道の開始
 第二次世界大戦中、沖縄の諸教会は沖縄戦を前に事実上消滅していた。戦局悪化で日本出身牧師の大半と沖縄人牧師は信徒と教会を置き去りにして疎開船で本土へ渡った(なかには、「犬死にしたくない」と去った沖縄人牧師もいる)。沖縄戦終了時、生き残った牧師は3名。そのうち1人は45年8月にマラリアに倒れ、他の1人は伝道師、残りの1人は病身の身であった。ようやく生きのびた信徒たちは民間人捕虜収容所で、米軍のチャプレン(従軍牧師)や米兵たちの指導のもとで集会をもち、信徒指導者たちは互いに按手礼を執行して伝道者となった。戦後の沖縄教会を「信徒の教会」と呼ぶのは、それ故である。
 1945年8月15日に石川(現うるま市)の収容所に生き残った指導者が集められ、沖縄諮詢(しじゅん)会が組織されると、その主要ポスト3つをキリスト者がしめた。當山(とうやま)正堅(せいけん)は文化部長として伝道者を諮詢会職員として俸給を与え、米軍の支援を得て伝道にあたらせた。また、彼は、米本土やハワイの民間団体から届いた支援物資の集積と配分を担った。伝道者たちの互助的組織として46年初頭沖縄キリスト聯盟が組織された。これは、1950年6月、「全琉球プロテスタントの超教派的単一教会」をめざして沖縄キリスト教会となった。
 しかし、これらの見方はあくまでも沖縄人から見た戦後の沖縄の教会形成史である。米軍は当初から沖縄人キリスト者や教会を「宣撫工作」に利用した。宗教団体の指導を分掌する文化部文化課では「軍政府所属牧師」の指導が明記されていた。また、47年1月に改正された「沖縄キリスト聯盟会則」で顧問として軍政副長官(沖縄の現地最高司令官)と軍政府牧師、それに民政府知事(志喜屋(しきや)孝信(こうしん))が顧問として名を連ねていた。
 また、米国キリスト教協議会の外国伝道部門・北米外国伝道局(FMCNA)にあるメソジスト教会等を中心とした「沖縄特別委員会」では、沖縄伝道のための基本計画が1940年代には出来上がっていた。それは、宣教師による沖縄教会の組織化、合同教会の創設、カレッジの設立、病院の運用、米国の神学校への沖縄人派遣のための奨学金の創設で、これらは50年代にほとんど実現されている。
 また、既に、日本本土では、Douglas MacArthur(GHQ総司令官)が個人的に在米キリスト教各派に1,000名規模の宣教師派遣を要請したが、沖縄伝道に際しても占領軍は最大限の支援を約束した。49年5月、東京の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民間情報教育局での会議の席上、John H. Weckerling (GHQ琉球課長、准将)やBill Woodard (同宗教局代表)、比屋根(ひやね)安定(あんてい)(同宗教顧問、沖縄出身の高名な宗教学者)は、約20名のキリスト教各派の宣教師に沖縄伝道を強く働きかけて便宜を図ることを約束した。また、Weckerlingは比屋根にキリスト教による沖縄の精神的復興を目的として沖縄への伝道旅行を要請した。
 このようにGHQが日本や沖縄伝道を各派に働きかけた背景にあるのは、1940年代の終盤から50年代初頭に次々起こった東アジアの国際情勢は劇的な変化であった(中華人民共和国の成立、朝鮮戦争、対日講和条約と日米安保条約の締結)。米国は極東の防共と軍事拠点として沖縄の半永久的軍事占領を既定路線化した。そのために、沖縄の治安や社会情勢の安定は日米両国にとって重要事項になってくる。キリスト教はそのための「宣撫工作」の手段となっていったが、これは沖縄の教会関係者や沖縄人たちは知る由もなかった。
 戦後沖縄のキリスト教のもう一つの特徴は米占領軍の誘導・先導による教会組織の形成と伝道であり、その外形的目的は沖縄戦によって深く傷ついた沖縄人への“救い”や“癒し”であったが、他にもう一つ、占領地の宣撫工作という、隠された大きな目的があった。以下ではそのことの証左をいくつか挙げながら、支配者のそのような意図に対して沖縄のキリスト者はどう対応してきたかについて論じる。

Ⅲ.沖縄の軍事化とキリスト教
 1950年代FMCNAから沖縄にはじめて派遣されたOtis W. Bell宣教師は、たまたま米軍による暴力的な軍用地強制収用を目撃する。そして、それを“The Christian Century”(1954.1.20)に「沖縄人に対して公平にふるまえ」という題で寄稿する。この論文により、日米で沖縄の基地問題がはじめて顕在化した。その結果、55年10月に米国議会下院軍事委員会調査団(「プライス調査団」)が派遣された。ところで、このように大きな働きをしたBellは、55年1月、沖縄からの異動を命じられ日本本土に転任させられる。もちろん、彼の論文がこの異動の原因になったか否かは定かではない。しかし、これ以降、反軍的な発言をする米国人宣教師は沖縄から排除されるという事実が続くことになる。
 また、この年、沖縄教会が決定した信仰告白の異端性を宣教師団が指摘し、経済的援助の凍結を盾にその破棄を迫った「信仰告白」論争が起こる。米国人宣教師が、沖縄教会に異端信仰のレッテルをはって批判する。これは、さながら、植民者の被植民者に対する態度である。また、自らの主張を通すために経済的制裁をちらつかせる手法は、占領軍の沖縄人に対する恫喝そのままである。さらに、この論争を仕掛けた2名の宣教師、Harold C. RickardとMario C. Barberi Jr.が事態収拾に失敗したと見たFMCNAは、翌年年配の老練な宣教師を沖縄に派遣する。そして、それぞれ時間をおいて両宣教師を八重山に転任せさ、2人は沖縄島に戻ることはなかった。60年代になると、はっきりと軍のサイドに立ち、米軍のベトナム攻撃を防共の観点から肯定し、東アジアの安定のために沖縄人たちに忍従を強いる宣教師も現れたという。
 また、1953年11月、沖縄キリスト教会を離脱した沖縄バプ連では、同連盟普天間バプテスト教会のWilliam T. Randall牧師が反軍言動が理由に同連盟から宣教師を解任された (「ランドール宣教師解任事件」1979.6)。その背景には、この教派の複雑な事情が絡んでいる。沖縄バプ連最大の教会Central Baptist Church in Okinawaは「英語教会」「アメリカ人教会」と呼ばれており、会員のほとんどが米軍将兵またはその関係者である。この大教会とコザの二つの教会によって、米軍占領下の沖縄バプ連は支配されていた。また、その代表のEdward E. Bollinger宣教師等は在沖宣教師を沖縄人牧師・信徒と同様に指導の名のもとに監視し、反軍的言動をする宣教師を発見すると、「精神的な異常」を理由に沖縄から退去させ、一方では、沖縄の教会には潤沢な伝道資金を援助しつつ、教会を通して沖縄の地域社会に反米感情が広がらないように工作をした。
 このように沖縄の教会は、実は多様な価値観を有しており、さまざまな力学が集中する中で複雑にねじれながら存在している。

Ⅳ.沖縄の“痛み”と共犯への誘惑
 1945年〜60年の『うるま新報』、『琉球新報』、『沖縄タイムス』等々には、クリスマスやイースター等々の行事のたびに米兵個人や部隊が「恵まれない人びと」の施設に対して多くの贈り物や奉仕が行われたことが掲載されている。米兵たちが沖縄人にとって「善き隣人(Good Samaritan)」であることを、軍政当局はことあるごとにアピールした。また、将校や軍チャプレン、宣教師が米兵と沖縄人との間にできた子どもをひきとるという「美談」も繰り返し報道されたが、父親である米兵に養育を拒否され、路頭に迷っている母子がいかにして生まれるかについての言及はほとんど見られなかった。
 愛隣園は沖縄キリスト教会が在米キリスト教児童福祉団体からの資金援助で立てられたものだが、当時の理事長・Walter W. Krider宣教師の次のことばに占領体制下でのこの施設と沖縄教会の米国人による位置づけがよくあらわれている。「創設以来混血児(GI・チルドレン)が十三名収容され、その内五名は現在留まっているが、八名はすでにアメリカの家庭に養子となってアメリカに渡って行った。沖縄の子供はまだ貰われた事はない」。つまり、米人は孤児や要保護児童を父親がだれであるかで平然と選別しているのである。
 結局、愛隣園や沖縄教会はそこに米軍基地があることで社会の底辺に必然的に生じる“痛み”をともなった社会問題の解決の一端を担わされてきた。しかし、その“痛み”は絶えず再生産されており、米兵たちの慈善行為により隠蔽されているのである。しかも、これらの善意で沖縄人自身が救う側と救われる側に分断され、固定されている。同時に、救う側の沖縄人は占領体制強化のため宣撫工作を行う非公式部門に吸収されていく。そのような構造が占領下の沖縄には存在し、キリスト教会は明らかにその末端に組み込まれていた。
 60年代になると、それはより広範で露骨になった。この頃、クリスマス等になると沖縄の牧師は米軍基地に招かれ、将校用のレストランで饗応を受けることが慣例になっていた。ある年、那覇空軍基地に招いた牧師たちを、チャプレンは最高度の軍事機密であるスクランブル・エリアに導いた。そして、遠回しに米軍が沖縄や日本にとって必要であることを沖縄の地域住民に沖縄人牧師の口から伝えてほしいといわれたという。その場にいた、数人の牧師は自分たちが米軍の宣撫工作に利用されていたと認識して翌年から基地内での行事に参加しないよう申し合わせた。
 この出来事とほぼ同時期、平良(たいら)修(おさむ)(当時沖縄キリスト教短期大学学長)による「新高等弁務官就任式における祈祷」事件がおこる(1966.11.2)。平良は米国の神学者・Reinhold Niebuhrのことばを引きながら「神よ、願わくは、世界に一日も早く平和が築き上げられ、新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように、切に祈ります」と新高等弁務官と占領軍首脳、琉球政府関係者を前にして祈った。この一件は在沖米国人宣教師にとっては衝撃的な内容であったようで、平良が原稿をネイティブ・チェックのために事前にある米国人宣教師にみせたところ、彼は宣教師代表をともなって平良に「最後の高等弁務官…」の個所を削除するように強硬に申し入れをしたという。宣教師団は、自分たちが占領軍と沖縄教会の仲介をして様々な便宜を図ってきたのに、この祈祷で両者の “良好”な関係が破壊されるというのである。
 この事件の前までは沖縄キリスト教団総会や沖縄キリスト教短大の入学式・卒業式には軍装のチャプレンが来賓として臨席していた。沖縄教会はなにより戦後焼け野が原の中で信徒の教会が伝道をはじめてからチャプレンや米軍関係者から多大な援助を受けてきた。また、平良ら若い牧師たちの大半は、基地内の軍教会からの献金で奨学金を得て日本や米国本土の神学校で教育を受けてきた。これは、被植民者と統治者との関係そのままであった。その関係から沖縄教会が脱却を図ったとき、それまでの蜜月の時期の便宜供与の裏返しとして、被植民者たちは植民者からの監視と恫喝を受けることになる。新任のチャプレンがその交替の度に武装した兵士をともなって彼らの教会に「挨拶」に来たという。
 占領下にあって、その地域住民の“痛み”と日々向き合っている沖縄教会の牧師や信徒のすべてがこのように「反基地」の旗幟を鮮明にしたわけではない。しかし、沖縄のキリスト教は占領者の宗教であることから、沖縄教会は占領当局に対しても沖縄の住民に対しても微妙な距離感をもっていた。そのなかで、ある者たちは軍からの「共犯関係」の誘惑を断ち切り、反基地闘争・祖国復帰運動に傾斜する地域住民の立場にたって、その者たちの“痛み”を共有する選択をした者もいた。

おわりに─キリスト教と国家との相剋─
 沖縄のことばわざに、「物(むぬ)呉(く)ゆ者(むぬ)ど我が御主(うしゅ)」ということばがある。このことわざは2つの相対する意味があるという。ひとつは、文字通り自分たちに利益を及ぼす者であれば、どんな者であれ支配者と受け入れるという沖縄人の対権力への関係性を表している。今ひとつは、支配者が自分たちに利益をもたらさなくなったら、自らの手でその支配者を放逐するという革命の論理である。沖縄人たちはこうして日本や中国、そして、米国との国家権力の間でバランスをとりながら今日までその存在を維持してきた。そして、このような行動原理は沖縄教会でも機能しているが、それは表面にはなかなか現れない。沖縄戦や異民族による軍事支配という過酷な歴史的経験を経ても、なお逞しく生きているように見える沖縄人や沖縄教会にとっての“救い”や“癒し”を理解する困難さはここにある。
 また、沖縄の“痛み”もまた、複雑な構造と背景をもっている。それでも、敢えてその“痛み”を一言で表すならば、「恵(めぐみ)と災いを同時にもたらす“痛み”」とでも言わざるを得ない。それが災いや苦難のみをもたらすのであれば除去すればいい。しかし、それは同時に人びとの生活に深く根ざしており、生活を支え、利益や便宜を与え続けている。そこに沖縄教会で “救い”や“救い”をことばにし、行動に移すことの困難がある。つまり、その“痛み”は単純に取り除いてしまうと、自らを傷つけてしまうものであるからだ。
 沖縄は“癒し”の島と呼ばれている。その「体験者」たちが持ち帰る思い出の中の「沖縄」は予定調和的で、思い描いたとおりの「沖縄」でなければならない。そのため、戦争は遠い過去のこととして認識され、今なお続く生々しい沖縄の“痛み”は捨象され、無視され、隠蔽されている。こうして、現実とは違う「沖縄」が内外に流布されていく。研究者もまた、このようなまなざしから決して自由になってはいない。沖縄の宗教がもつ“救い”や“癒し”の力を強調する背後に、沖縄を後進的地域として認識し、そこから「失われた日本」を探索する試みがあるかどうかを、われわれ研究者は常に注視しなければならないのではないか。また、沖縄の土着的宗教や外来宗教の受容形態を日本のそれと比較し、自らの特殊性を顧みることなく、その違いをすべて沖縄の独自性に収斂させていくこと手法はまさにポストコロニアル的なそれといわざるを得ない。このような視線や手法は、沖縄で、今日もなお日々生み出されている“痛み”を沖縄が置かれた国際的・政治的位置を一切考慮に入れることなく、個人的な事象に矮小化することで、なお強化されている。

《参考文献》

  • 池上良正『悪霊と聖霊の舞台 ─沖縄の民衆キリスト教に見る救済世界─』どうぶつ社、 1991年
  • 石川政秀『沖縄キリスト教史 ─排除と容認の軌跡─』いのちのことば社、 1994年
  • 一色 哲「戦後沖縄キリスト教史のなかの地域と教会─占領軍の統治政策とキリスト教児童福祉施設・愛隣園の研究─」『キリスト教史学』第55集、2001年7月
  • ────「軍事占領と地域教会─1950年代中盤の沖縄教会を事例に─」『キリスト教史学』第57集、2003年7月
  • ────「戦後沖縄キリスト教史研究の方法と課題─地域教会形成とキリスト教交流史の試み─」『キリスト教史学』第59集、2005年7月
  • ────「沖縄理解のための方法と課題─戦後沖縄キリスト教史から学んだこと─」『福音と世界』第60巻第12号、2005年12月
  • ────『米国占領下沖縄におけるキリスト教会の自立と共生』 (科学研究費補助金基盤研究(C)(2)研究成果報告書 ; 2002年度〜2005年度)、2006年6月
  • ────「日本基督教団における沖縄教会観の起源とその変遷」『キリスト教史学』第61集、2007年7月
  • 小川 順敬「民俗宗教からキリスト教へ─ある沖縄のキリスト教会の物語─」『駒沢大学文化』第17号、1997年3月
  • 小林紀由「沖縄バプテスト連盟と『祖国復帰』」『精神科学』(日本大学哲学研究室)第38号、1997年11月
  • ────『戦後沖縄キリスト教の諸相』エーアンドエー、1999年
  • ────「「日本復帰」後の沖縄バプテスト連盟と米国教会--宣教師解任事件をめぐって」『研究紀要』(日本大学文理学部人文科学研究所)第59号、2000年
  • 日本基督教団沖縄教区編『27度線の南から─沖縄キリスト者の証言─』日本基督教団出版局、 1971年
  • 日本キリスト教団沖縄教区編『戦さ場と廃墟の中から─戦中・戦後の沖縄に生きた人々─』日本キリスト教団沖縄教区、 2004年
  • 日本基督教団宣教研究所教団史料編纂室編『日本基督教団史資料集 第3巻第3篇 日本基督教団の再編 : (1945〜1954年)、第4篇 沖縄キリスト教団の形成 : (1945〜1968年)』日本基督教団出版局、1998年
  • 古澤健太郎「信仰告白制定の経緯に見る『沖縄キリスト教会』の特質」『基督教研究』第68巻第1号、2006年8月
  • ─────「沖縄におけるキリスト教受容─沖縄バプテスト連盟と土着信仰に関係に見る─」『宗教と社会』第13号、2007年6月

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