カテゴリー「キリスト教史」の26件の記事

2009年11月22日 (日)

学会参加、雑感

21日、22日と国際基督教大学で「キリスト教史学会」があった。この学会は、こじんまりとしていて、実にアットホームな雰囲気である(実際には、内部で、ときどき、いろいろなことが起こったりもするが………)。毎年同窓会のような雰囲気で、皆に会うことだけでも、とても楽しみな学会だ。わたしと同年代の研究者たちは分野が相当違うものの、互いに切磋琢磨しながら、年を重ねてきている。みな、それぞれに、とてもいい年の重ね方をしている。

しかし、危機は確実に近づいている。今回、24名の個人発表があったが、そのうち院生は、なんとたったの1名。ICUの隣の某神学校や関西のふたつの神学校からは、参加すらなかったのではないだろうか。わたしは、わたしで、自分のことをまだ若手だと思っているのだが、ほんとうの若手のはつらつとした発表がなくなってしまった。

8月の日本基督教学会では神学校からもたくさんの参加があり、院生の発表者もたくさんいた。しかし、あそこはあそこで、別の深刻な問題をかかえているように思う。詳しくは、別の機会の論じたいが、両学会とも存亡の危機は、突然、急にやってくるだろう。それを、ずっと未来のことではなくて。

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2009年11月18日 (水)

キリスト教(特にプロテスタント)の排他性〜寛容で協調的なキリスト教は存在するか〜

民主党の小沢一郎幹事長が、先日の仏教関係者との会談で、「キリスト教は排他的」と述べたとのことである。実際には、キリスト教だけではなく、イスラム教も排他的であると述べたという。この件に関して、記事の最後は「キリスト教やイスラム教に対する強い批判は、今後、波紋を広げる可能性もある」とあるが、この記事を読んで、反発するキリスト教関係者もいるだろうが、内心その通りだと思っている関係者もいると思う。

実は、わたしも、キリスト教はだいぶん排他的な宗教で、その排他性を売り物にしてこれまで日本で伝道してきているのではないかと思う。先の小沢氏の発言は無論キリスト教やイスラム教の内実を知った上での発言ではなく、仏教の寛容性を強調したものだろう。その仏教は寛容かといえば、それはすべてそうとは言えないが、頷ける側面もある。だから、少なくともキリスト教は世間様から排他的と見られているということを、キリスト教関係者は肝に銘じるべきであろう。

さて、そのキリスト教の排他性であるが、それは、「外部」に対する排他性だけではない。キリスト教、特にプロテスタントでは、他教派や教派内の対立するものどうしは相当対立しており、互いに排他的でもある。その排他性が、宗教としての伝道活力にもつながってるのだろうが、しかし、この問題は相当深刻でもある。その対立や排他性に関するいくつかの例をあげて、それでも、協調的で寛容なキリスト教のあり方を模索したい。

まず、「プロテスタント日本伝道150周年」をめぐる問題である。わたしの理解では、「日本」のプロテスタント伝道は、欧米の宣教師たちが、ベッテルハイム等による琉球伝道を足がかりに、今から150年前に横浜・長崎に上陸したことするという、琉球伝道と日本本土伝道が連結された“一連”の出来事により開始されたと思われる。そして、日本でのプロテスタントの本格的伝道はそれから数十年を待たなければならなかった、ともいえる。

しかし、プロテスタントの内部にはこうした琉球におけるベッテルハイムの伝道を認識しつつも、頑なに横浜伝道150周年が「日本伝道150周年」であると主張しつづける人びとがいる。この件については、以前にも批判的に述べた。重ねていうが、わたしはこの人たちの排他性が気になってしかたがない。彼らの排他性の刃は、明らかにキリスト教、プロテスタント、そして、日本キリスト教団の内部に向かっている。

そして、最近になって、ベッテルハイムが離琉したあと、ベッテルハイムが沖縄社会でどのように表象されてきたかを調べている。実際には、文献史料は乏しいわけだが、それでも、戦前から少なくとも以下の5回にわたってベッテルハイムに関する記念行事が開催されている。

  (1) 19265月:「博士ベッテルハイム渡来満八拾年記念伝道講演会」「博士ベッテルハイム渡来満八拾年記念礼拝」(5/2)「ベッテルハイム渡来八十年記念運動」(5/18-20)

  (2) 19375月:「ベッテルハイム来島90周年記念式典」と関連行事。ベッテルハイ ムの孫・ベス・プラット夫人来沖。

  (3) 19549月:「ベッテルハイム百年祭行事」:1)頌徳碑修復(琉球政府文教局)2)ベッテルハイムに関するパンフレット出版、3)頌徳記念碑除幕式(9/1)4)「ベッテルハイム百年記念式典並講演会」(9/1)

 (4) 19665月:「ベッテルハイム師沖縄上陸百二十年記念式」(5/3)

 (5) 19965月:「ベッテルハイム来沖15096おきなわ 聖書展」:聖書展・ミニ講演会・特別講演会・ビデオ上映(5/8-13)

そして、特に(1)(3)では沖縄の政界や医師会などを中心にキリスト教徒ではない市民が多数参加している。(2)では、護国寺の名幸芳章住職外2名の仏教関係者の名前も見える。本土復帰後開催された(5)では、本土やカトリック関係から招いた講演者による連続講演会が、教会施設ではなく、複合商業施設で市民に公開された。

こうした、公開性や開放性、エキュメニカルを越えた、宗教の枠を越えたつながりは、「閉鎖的」の対極にあるのではないか。

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2008年11月16日 (日)

問われる歴史観〜首里教会創立100周年とベッテルハイム沖縄伝道162周年〜

沖縄の首里教会(現在は日本キリスト教団)は、今年、100周年を迎えた。世の中は、「プロテスタント日本伝道150周年」、そして、先日の「植村正久生誕150周年周年」と、「周年記念」が続いている。

首里教会創立100周年の記念式典の後、1846年に来琉したベッテルハイムの講演が成されたのは、沖縄のキリスト教のある種の特色を表している。そして、壮大なアイロニーにも見えた。

1908年沖縄県公認の首里教会(日本メソヂスト首里教会)は、その頃の沖縄教会でも最も早い時期に教会形成を行っている(那覇地区の教会の方が教会形成の時期が早い)。だとするとベッテルハイムが1954年に離沖した後、1900年までの約40〜50年間、沖縄ではキリスト教の空白期に当たるということだ。

この空白期が生じた原因を、わたしは、かつて、「日本伝道への橋頭堡」ということばで表現した。つまり、中国伝道に行き詰まりを感じていた欧米各教派の宣教師たちは、そして、それらの宣教師を派遣している教派は、日本伝道に教勢のさらなる拡大の可能性を見出そうとしていた。しかし、日本は「鎖国(海禁)」状態で、キリスト教の禁令が布かれていた。そのため、宣教師・宣教師団は、まず、当時の琉球王国に到来し、日本開国の時期をまった。そして、日本本土でキリスト教が「解禁(実際には、黙認)」されると、日本本土に殺到し、沖縄の魂はほおっておかれた。そして、19世紀末になって、やっと、日本人による沖縄伝道が開始された。

この時点での沖縄伝道には、もちろん、欧米の宣教師も参加していた。そして、説教等は日本語で成されたのではないかと、わたしは推測している(なかには、沖縄のことばの達者な日本人牧師もいたらしいが)。沖縄人に対して、日本人の牧師が、日本語で説教をする。これは、朝鮮半島でも、台湾でも見られた構図だ。その一方で、これらの日本人牧師は、沖縄の青年に重大な感化を与え、そして、その感化をうけた幾人かは本土で活躍をする宗教学者になり、沖縄で伝道をする沖縄人伝道者となった。

首里教会の100年は、こうした、《 ベッテルハイムの沖縄伝道 → 50年にわたるキリスト教伝道の中断 → 19世紀末の日本人伝道者による沖縄伝道の開始 → 沖縄人伝道者の育成》の延長上にある。そのことを、まず自覚しなければならない。

そうすると、1846年からのベッテルハイムの沖縄伝道は、沖縄におけるプロテスタント伝道の端緒となり、当時は、まだ、独立王国であった琉球王国を、現在の国境線に則りそれを日本の一部であると解釈すると、それは日本伝道の端緒であると評価しうる。しかし、それは、直ちに現在存在する沖縄の教会の起源であると言い切れるのであろうか。

ベッテルハイムの沖縄伝道では、さきの首里教会創立100周年の照屋善彦氏の講演によると、数名の受洗者を得たという。しかし、それらの受洗者、あるいは、その子孫が今日の沖縄教会に連なっているのだろうか。その可能性は、限りなく低いのではなかろうか。だとすれば、19世紀後半は沖縄ではキリスト教伝道が断絶していたことになる。そして、沖縄戦だ。当時の伝道者の大半は様々な理由と名目で日本本土に「疎開」した。また、ある伝道者は戦場で落命した。しんとも、然り。疎開する者、戦場死する者。そして、1945年4月頃から米軍従軍牧師(チャプレン)の支援で集会を開き、やがて、教会堂等を整えていくことになった。それが、今日の沖縄教会に連なっているのであって、沖縄戦で戦前の教会とは断絶をしていることになる。

だから、首里教会の「100周年」はおかしいといっているのではない。そのような例は、他の日本の都市、とりわけ、原子爆弾で破壊された広島でもある。しかし、その断絶を、歴史家は漏らさず記述し、その「断絶」の意味を厳しく問うていかなければならないと思う。

それから、もうひとつ、首里教会の100周年で、腑に落ちないことがあった。それは、その「100周年」で日本メソヂスト教会に属していた「日本メソヂスト教会首里教会」(大保富哉牧師)のみが強調され、まったく無視されていた「日本基督首里教会」のことである。この教会は、1910年代に創立。沖縄人の伊江朝貞が牧師を務めた。この教会はおそらく日本基督教団首里西部教会となり、沖縄戦の前まで、多くの琉球讃美歌を残している新垣信一牧師が牧会をしていた。さて、首里教会の戦後2番目の牧師に就任した仲里朝章は、戦前の信仰歴等々や戦時中の働きからいっても、日本基督教会の系列にはいるはずである。首里教会が創立100周年で、この旧日本基督教会系列の「首里西部教会」を全く採りあげないのであれば、この教会は、その後どうなったのであろうか。

ひるがえって、今日の日本基督教団と沖縄の教会(同教団沖縄教区)との関係でいえば、両者の対立の要因は主として両者の歴史認識の相違にあるといってもいい。だからこそ、歴史はだいじにしたいものである。

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2008年11月11日 (火)

植村正久生誕150周年〜その遺産と今日の日本キリスト教界〜

たいそうな題名ですが、わたしは、そんなに植村正久に詳しいわけではありません。先日、休日を利用して「植村正久生誕150周年記念シンポジウム」に出かけてきました。会場は、植村が牧師として勤務していた日本キリスト教団富士見町教会でした。

最初に開会礼拝があり、その後、「植村正久と日本伝道」という主題でシンポジウムが行われました。

主 題 講 演 :大木英夫 聖学院理事長
ディスカッション:五十嵐喜和 日本キリスト教会茅ヶ崎東教会牧師
          戒能信生 日本キリスト教団東駒形教会牧師
          星野靖二 國學院大學助教

会の冒頭、武田清子氏が挨拶をされた。氏を間近で見るのは初めてのこと。思えば、いまから、20年以上前、日本キリスト教史を勉強しはじめたとき、彼女の著作を何度も繰り返し読んだ。いわば、自分の中では「伝説上の人物」であったが、さすが、「植村正久」、さすが、「富士見町教会」といったところであろうか。

実は、この富士見町教会、このブログで何度も登場している仲里朝章が徴年長老として使えてきた教会である。パネラーの発表のあと、質疑応答で植村正久の教えを受け継いでいる物の広がりについて議論が及んだとき、わたしは真っ先に仲里のことを思い浮かべた。戦前の植村による沖縄伝道(確か、植村自身が直接沖縄に行っているはずだ。もっと調べなくては)の成果について、戦後のことが一段落したら、もっと調べてみたい課題だ。小塩節フェリス理事長の父・小塩力(力の父は、家庭学校で留岡幸助の同労者であった小塩高恒)も八重山伝道を行っているのだ。

さて、パネラーのお三方は、いずれも研究会・学会でお顔を拝見したことはある。それぞれ、興味深い発題であった。その中で、戒能牧師が最後に次のような趣旨のことをおっしゃられた。

植村正久は自らの福音信仰とキリスト教の社会的役割について自覚的で、その前半生は社会的活動を重視し、後半生は福音的であったという評価は間違っている。現在の日本のキリスト教界で植村の遺志を受け継ぐといっておられる方々のなかには植村の社会的活動を無視して、福音的であることがすなわち植村を継承することだと考えておられる方がいるが、それは間違っている。

本当は、もっと簡潔な言い回しであったが、大要は間違っていないと思う。まさに、そうだ。人物を歴史の文脈に起き、そこに起こる様々な不幸や災禍などより生ずる人間の懊悩と葛藤しつつ聖書とキリストの教え・行動に導かれていく姿を見据えていくことが、わたしたち歴史家の役割である。それを、再認識した、いい会であった。

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2008年11月 9日 (日)

憧憬と超克〜沖縄のキリスト教会がもつ活力〜

この間の3連休で仕上げた論文は、昨年、キリスト教史学会で研究発表したものです。

題名は「軍事占領下における軍隊と宗教─沖縄地域社会とキリスト教─」。基本的には歴史の論文ですが、沖縄のキリスト教の現況にかかわる問題でもあります。

沖縄のキリスト教との割合は以前ここでも書いたように日本の他府県に比べると約3倍に当たります。その原因についてはこれまでもいくつか議論ありました。その中には、沖縄の宗教的風土をとりあげて、そこにその原因を見出すもものがあり、一見説得力があるように思われました。しかし、沖縄のキリスト教との人口分布を詳細に検討すると、沖縄でも宗教的な伝統が残っている地域、例えば、沖縄島の南部・北部の一部や先島・離島地域では沖縄のなかではキリスト教との比率は低いのです。だから、別の原因もあるはずなのですが、それで、わたしは、戦後の米軍との関わりに注目して、その原因を探ったのです。

今回、昨年の発表を原稿化する過程で、この問題を再考してみました。そして、最後の部分を、こう結びました。

 このように日本の教界での沖縄の教会の存在感が希薄なまま1972年の沖縄の「本土復帰」(日本側からみると「沖縄返還」)が実現する。しかし、依然として米軍は沖縄に駐留したままである。このような状況下にあって、沖縄のある教会は様々な問題をはらみながらも「祖国」日本の教会にではなく、沖縄のなかに存在する米国人の教会や米国人キリスト者たちに寄り添いながら伝道を行っている。また、別の教会は社会的な問題には全く関与せず、ひたすら沖縄人の魂の救済を専らとして伝道活動を展開している。その一方で、日本の反戦・反基地団体と連帯し、社会的な関心をもってそれらの活動の最前線に立つことで自らの信仰を証する集団もある。こうした三者三様の教会のバランスのなかで、現在でも沖縄での伝道が行われていることになる。
 こうしてみると、沖縄教会にとって米国のキリスト教とオーバーラップする軍事占領はいずれも二重の意味を持っていることがわかる。すなわち、米国のキリスト教は沖縄の教会やクリスチャンにとってあこがれであると同時に、克服すべき対象でもある。その憧憬と超克の二つの力が共存し、ある時にはせめぎ合うことで、沖縄のキリスト教は新たな活力を生みだしているのではないか。

日本のキリスト教伝道を語るときに「社会派」と「福音派」の対立がよく議論されています。このような議論のなかでは、両者は同じ教派・教団に属している場合もあるけれども、互いに理解不能で、敵対的で、大概に互いを論破するだけではなく、お互いの消滅を願い、実力を行使しているようにさえ思えます。

しかし、実際には、そうなのか。これが今回論文を執筆していて感じた率直な実感です。日本の他の地域ではどうでしょうか。それぞれに、「社会派」と「福音派」の“濃度”は違っていると思います。一般的に、「社会派」が多いところと、「福音派」が多いところ。それぞれのなかで、両者の多少はともかく、存在感として両者がせめぎ合っているところでは、案外、キリスト教が“盛ん”なのではないでしょうか。これは、仮説で、今後立証することは可能であろうと思います。

沖縄の場合、信徒の数や教会の数・規模でいうとおそらく「福音派」が「社会派」を圧倒していると思います。しかし、「社会派」はその発言や行動で沖縄の地域社会にそれなりの存在感をもっていると感じます。そして、それぞれが戦後教会を形成し、信徒を集めてきました。その過程で、全く正反対の意味で米国のキリスト教、米軍のキリスト教と拘わってきました。

「社会派」については、自覚的には1960年代になってはじめて現れてきたと思います。その「社会派」は米国・米軍をアンチテーゼ、あるいは、批判の対象としてそのキリスト教を受容し、地域社会の現状から生まれる不条理に対峙するために、米国のキリスト教を「超克」しようとした。「福音派」は、米軍や米兵を通して体感した米国のキリスト教への憧憬を抱き、それに寄り添うことで、おそらくそこから様々な支援や感化をうけたことでしょう。その沖縄のキリスト教の二つの流れは決して対決的ではなく、お互いに距離を置き、牽制しつつも、一方でお互いを気にかけているのようにわたしは感じています。

だから、例えば、日本キリスト教団という一個の集団を、どちらかひと色に染めようとすることは、明らかに間違っています。大概に互いを批判しながらも、切磋琢磨し(できるかな? でも)、併存することが日本のキリスト教の活性化につながるのではないでしょうか。思えば、日本キリスト教団にとって、現総会議長が総括した「荒野の40年」こそ、実はそのような可能性を時代ではなかったかと思うのです。しかし、実際には「福音派」が退場し、対話を拒絶し続けていました。そして、体制が整うと、クーデター的手段で「政権」を奪取したのでした。

さて、もうひとつ書き忘れていたことがあります。それは、沖縄にはいまだに魂の救いを必要とする人々や状況が存在しています。だから、キリスト教だけではなく、様々な宗教が重要な役割を果たしているのです。「信仰告白」は何のためにあるのか。教団は何のためにあるのか。もはや「救うべき魂」がなく、そこに届かない祈りや告白ばかりの教会・教団は、この地域社会に必要なのでしょうか。

沖縄のキリスト教会の強みは、一枚岩の団結の強さではなく、魂の救いに至る多様性が保証されていることろにあると思うのです。そして、その保証は、沖縄のキリスト教徒によって成されています。

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2008年9月23日 (火)

キリスト教史学会と「神学校」の役割

キリスト教史学会での研究発表も無事終わりました。年間4本の学会発表は、わたしにとってチャレンジングなことでしたが、何か自信のようなものが自分の中に生まれました。

しかし、気になったこともありました。それは、今回の学会に同志社大学神学部、関西学院大学神学部、そして、東京神学大学からほとんど教員も院生も研究発表をしなかったことです。同志社の神学部長である原誠さんは参加しておられましたが、熊本バンドに関する基調講演をされただけで、自分のゼミの院生や学部生をつれてこられてはなかったような気がします。わたしの見落としでしょうか。それに引き替え、先週参加した日本基督教学会ではそれぞれの「神学校」から教員が多数参加していたし、院生も活発な研究発表・討論をしていました。だからこそ、なおさら、その落差を感じています。

神学校、特に大学の神学部の一義的役割は、専門的な知識や技能を持った伝道者を養成することにあります。しかし、それだけではなく、それぞれの関連学会で日本の神学を代表し、先導していくこともそれらの神学校の重要な役割ではないかと思うのです。

その点で、同志社や関学の神学部は、キリスト教史学会を見限ったということでしょうか。この学会は、日本基督教学会に比べると確かに神学プロパーの専門性では劣っているように見えます。しかし、この学会には牧師や神学部の教師・学生だけではなく、キリスト教系ではない大学の出身者やそのような大学で学んだり、教えたりしている人たちも多数参加しており、伝道者の歴史神学ではない、信徒としてのキリスト教史学を大いに論じています。その点で、これから伝道者になろうとしている人や神学校で神学を講じている碩学にも得るところの多い場であると思いますが、いかがでしょうか。

いま、日本のキリスト教界では「プロテスタント宣教150周年」の奉祝を契機に、その問題性が鋭く問われはじめています。これは改めて論じたいのですが、ベッテルハイムの琉球伝道を日本キリスト教史にどう位置づけていくのかや、そもそもなぜ「プロテスタント」だけなのか(フォルカード神父は、ベッテルハイムより早い1844年から2年間琉球に滞在したといわれる)など論じるべき問題は多くあると思います。

このようなテーマは、神学部やキリスト教史学会などで論じるべき大きなテーマになりうると思うのですが、しかし、わたしの出席した両学会ではそれについての言及はただの一度きりであったと思います。

さて、批判ばかりをしてきましたが、日本基督教学会での院生たちの熱のこもった研究発表を拝見して、思いました。それら熱のある学生をこれからどこに導いていくのか、神学校やそこで教鞭ととっておられる方々の責任はきわめて重いと。

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2008年9月17日 (水)

「平信徒の神学」は、あるのか。

今回の学会発表で、今年は3本目。あと1本ある。

さて、研究発表したのは「日本基督教学会」。わたしが所属している学会で唯一「日本」が就いている学会である。この学会には今年度の初めに入会したばかりだ。入会したてで研究発表をさせてもらえるとは思っていなかったのだが、だめもとでエントリーしたら受け付けられた。

研究発表は全部で47本。3会場に分かれて30分の持ち時間で日頃の研究成果を発表した。わたしは、二日目、第3会場の最後の発表。発表者は研究者もいるが、同志社と関学の神学部の院生、それも、相当数の留学生(韓国出身者が多いような印象)。いずれも、力の入った研究発表であったと思う。熱心なそして、少数だが東神大からの発表もあった。それぞれの神学校の教員も多数参加していた。それから、東大と京大のキリスト教学関係者の八票も多くあった。

もともと、わたしがこの学会に入会したいと思った理由はいくつかある。その最も大きな理由を自分の研究発表の冒頭に述べた。

わたしはこれまで10年あまり米軍占領下の沖縄キリスト教史の研究を続けてきました。その過程で、大変重要な史料に出会いました。しかし、その史料を読みすすめるうちに、わたしは自らの非力を自覚しました。わたしは、その史料を読み解く力を身につけたいと思っています。つきましては、この学会で、そのための研鑽を積みたいと思っています。

だいたい、以上のような内容であった。わたしは神学校(神学部)で専門的な神学教育を受けているわけではない。また、大学や大学院でキリスト教学について専門的な知識を得たわけでもない。加えて、宗教学についても、誰かに師事してその神髄を学んだわけでもない。つまり、キリスト教学にしても、宗教学にしても、専門家から見れば素人同然である。しかるに、なんどか「キリスト教学」や「宗教学」の公募に応募したこともある。今から考えれば、正に、無謀。しかし、当時は差し迫った事情があった。いまは、そのような事情とは全く質の違う事情がある。

専門的神学教育を受けていない。それは、戦争直後、按手礼をうけた沖縄の伝道者たちも同様であった。彼ら、彼女らとわたしを同列にしているのではないのだが、しかし、実際、わたしはそこのところに大変共感を持っている。そして、キリスト教学、神学の専門家を前に、自分が専門的神学教育を受けていない平信徒の自分が、同じような平信徒から伝道者となった人物が自らの神学を確立しようとする姿を、わたしは共感を持って描きたいと思った。

「キリスト教業界」の一部では、「日本プロテスタント宣教150周年」をめぐって囂しい論議がおきている。そこには、日本本土の教派・教団・教会が沖縄のキリスト教・キリスト者・教会を蔑んできた姿が現れている。それは、この一連の動き・行事に賛成する側にしろ、反対する側にしろ、見られることである。確かに、1846年から54年までベッテルハイムは沖縄に「滞在」した。しかし、結局のところ、沖縄にキリスト教は定着し得ず、19世紀の末になって日本人牧師の伝道により本格的キリスト教伝道が成されるのである。つまり、ベッテルハイムはまだしも、他の欧米宣教師は琉球伝道には全く関心を示さず、日本が開教されるまでの時間稼ぎとして琉球に滞在・通過していったに過ぎない。つまり、琉球=沖縄は日本のキリスト教にと欧米宣教師のとって「橋頭堡」に過ぎなかったのである。

「沖縄に対する蔑視」とは、そのようなことに、認識が至らないことをさしている。つまり、あからさまに、あるいは、声高に、沖縄を蔑む人物はいないが、結果的に沖縄自身の価値を認識せず、否定してしまっていることを、それは指している。「沖縄の教会・キリスト者が沖縄で伝道を進めるのに際して有利になるように、沖縄の伝統的民俗的宗教を取り込みながら伝道を進めてきた」という言説は、正に、その典型ではないだろうか。

沖縄戦後、「祖国」日本に見捨てられた体験(あるいは、沖縄戦中に、すでに、日本軍の虐待を経験してきた体験)をもち、異民族の支配を受けざるを得なかった戦後の沖縄のキリスト者が、沖縄がまだ独立国であった琉球王国時代のことを調べ直し、そこでの誇りを語るときに、それでも、それは単なる伝道のための便法であったといえるのだろうか。また、自らの民族的経験に鑑み、自分たちの「国」を「エデンの園」、あるいは、「第二のエルサレム」と呼ぶときに、それを「単に沖縄の民族的民俗的独自性」に矮小化していいものであろうか。今回の発表は、第一にそのような動きや研究動向に対する義憤もあった。

そして、仲里朝章が残した1940年代の文書(「もんじょ」。仲里が残した文書はこれだけではない)を見ていくと、自らの「貧しさ」に対する認識とそれを解消しようとする倫理的・道徳的・信仰的取り組みが明確になってきた。また、仲里自身が常に聖書に立ち返りながら、世界平和を訴え、米軍による理不尽な占領体制に対する非暴力に抵抗を常に思考していったことが跡付けられたと思っている。

そこには、異民族による軍事占領体制といった例外的情状可に置かれたキリスト者が、自らの体験を通して「平信徒」としての「神学」を構築していったのではないか。わたしは、そのように、戦後沖縄のキリスト教界をリードしてきた「第一世代」の平信徒上がりの伝道者たちの神学を、再評価したいと考えている。

さて、研究発表は、おおむね成功であった。フロアからは若干とんちんかんな質問もあったが、有益なものもあった。仲里朝章は1940年代にはロマ書やイザヤ書、ヨブの物語、それに福音書の研究を行っていた。しかし、わたしはその意味をまだ十分に評価するだけの力がない。そのことは自覚してはいたが、それを質問のなかで指摘されたのは、ありがたかった。

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2008年8月19日 (火)

祈りをもって送り出されて………。

その人は、待ち合わせの場所に自家用車を運転してやってきた。最初からお年のことを書くのも失礼かと思うが、御年93歳。白髪の老牧師で、気品と威厳があり、なお、矍鑠(カクシャク)としておられた。戦後一貫して沖縄のバプテストの指導者でっあた、I・S氏。

それから、一時間半。1940年代後半、占領初期の沖縄のキリスト教界について、いろいろ、貴重な話を伺えた。

その中で、終戦直後、伝道者となった方々が、沖縄諮詢会文化部の職員として、当時としては破格の高額の俸給を与えられていたという「伝承」について、事実ではない可能性が深まった。この点は、以前から気にかかっていたことの一つであった。当時の関係者のご家族に話を伺ったり、当事者の手記を読んでいると、当時の伝道者の生活は概して困窮しており、信徒からの農産物の差し入れや諮詢会・民政府、軍政府からの聖書・讃美歌、紙や文房具等の至急の事実はあったようだが、「給料」をもらっていたという記録も、証言も得られなかった。それが、I氏のお話でいよいよ確信に近づいた。

それから、沖縄キリスト聯盟についても、実際の資料をつきあわせての記憶の呼び起こしにねばり強くつきあっていただいた。その結果、いくつか残っていた疑問を解決することができた。

この聞き取り調査の成果については、9月に熊本で行われるキリスト教史学会の全国大会での発表に生かしたいと思っている。

さて、お話の最後にI氏は、目をつぶられ、両手を広げてわたしの前に差し出され、わたしとわたしの研究のために祈ってくださった。こうして、祈りをもって研究の場に送り出されるということは今まであまり経験をしていなかったのだが、大変感激した。そして、責任の重大さに身が引き締まる思いであった。

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2008年8月 5日 (火)

ある沖縄人キリスト者の被占領体験と新しい神学の創造〜仲里朝章の場合〜

はじめに―沖縄におけるキリスト教の概観―

 17世紀、沖縄(当時の琉球王国)に伝来したキリスト教は、その後数度の中断を経て19世紀末から本格的に広まっていく。沖縄の青年たちは日本本土(以下、「日本」)からやってきた少壮の伝道者から多くの感化を受け、次代を担う俊英となった。沖縄学の祖・伊波普猶と弟の伊波普成(ジャーナリスト)、比屋根安定(宗教学者)、比嘉春潮(歴史家)などがそれである。また、後にハワイで牧会の傍ら労働運動を指導した比嘉静観、米国ロサンゼルスで「黎明会」を結成し、社会主義思想に傾斜していった屋部憲伝や宮城与徳などは、活動の場を世界に広げた。彼らは日本のキリスト教伝道史上でもきわめてユニークな存在である。にもかかわらず、日本キリスト教史による研究はほとんどない。
 沖縄戦の最中、それまでいったん中断されたキリスト教伝道は、すでに1945年5月頃、民間人捕虜収容所ではじまっていた。そこでは、米軍のチャプレン(従軍牧師)の協力を得て、生き残った信徒を中心に集会が開かれた。また、1945年8月には、沖縄人自治的組織である沖縄諮詢会が組織され、その文化部長にクリスチャンの當山正堅が就任した。當山はキリスト教による沖縄の復興をかかげて、伝道者に優先的な位置を与えた。また、46年頃には沖縄キリスト聯盟が組織され、それまで信徒の立場で活動をしていた者たちに按手礼が授けられ「信徒の教会」と呼ばれる基礎が築かれてた。
 本発表では戦後沖縄の代表的なクリスチャンである仲里朝章をとりあげて、彼が沖縄戦や米軍占領下での体験を通して、どのように思索を重ねていったかをみていきたい。

Ⅰ.仲里朝章とその時代

 仲里朝章は、戦後沖縄のキリスト教の最も有力な指導者の一人であるだけではなく、優れた教育者であり、農業経済の研究者、思想家、そして、平和運動の推進者でもあった。本章ではそのような朝章の思想形成をたどってみたいと思う。
 朝章は、1891年、沖縄の首里当蔵(現那覇市)の旧琉球王国の士族の家に生まれた(1)。琉球処分から10年、沖縄では清国の力を借りて琉球の再独立を目ざす頑固党がまだ力をもっており、仲里家は日本への帰属に協力する少数派の開化党に属していた。朝章は、1906年に沖縄県立第一中学校に入学し、後の日本共産党の指導者・徳田球一等と級友となる。卒業後、朝章は1911年に鹿児島の第七高等学校造士館に入学する。そこで朝章は偶然にも同宿であったカント哲学者で内村鑑三の門下でもあった天野貞祐(2)の知己を得る。
 1916年には東京帝国大学文学部史学科にひきつづき、同大学経済学部経済学科で学んだ。朝章は、在学中の1921年、友人の比屋根安定の導きで「寂寥感から」キリスト教に接近し、日本基督教会富士見町教会で植村正久より受洗。そして、東京を離れた時期を除いて朝章が沖縄に帰る1939年まで同教会に在籍し、長老として信徒の指導に当たった。
 また、朝章の帝大入学と前後し、家族も旧琉球王家の家扶(3)の職を得て上京した。この東京帝大での6年間、朝章は毎日深夜まで図書館で研究に没頭したという。その研究はその後も続けられ、朝章はその成果をいずれは出版するつもりであったが、収集した資料等は沖縄戦で灰燼に帰したという。朝章は、卒業後3年間長崎で女学校の教師をし、1925年に帰京。私立三輪田女学校に奉職する。この頃、沖縄は「ソテツ地獄」とう破滅的な経済的危機に見舞われており、朝章の研究の主眼は「沖縄救済論」と沖縄の経済的自立への模索であった。また、その研究成果を沖縄出身の在京大学生と分かち合うために1927年に自宅で「耕南グループ」を組織し、沖縄の次代を担う世代のなかにしっかりとした問題意識を育てた。ここに朝章の優れた研究者・教育者としての一面を見ることができる。
 1939年に父親の看病のため沖縄に帰り、那覇市立商業高校の校長に就任。日本基督教会首里教会に属し、日曜学校長を務めた。しかし、太平洋戦争に突入後、戦況が切迫してくるとクリスチャン教師である朝章は県視学(地方教育行政官)や憲兵の監視の対象となった。また、沖縄戦では軍の要請に応え、朝章は教え子たちを鉄血勤皇隊等へ派遣し、結果的に多くの生徒を戦死させている。朝章の長女もひめゆり部隊の一員として戦死した。この時の激しい後悔が戦後の朝章の思想や行動を規定していく。
 1945年6月中旬、朝章は激戦が続く南部の喜屋武村(現糸満市)で米軍の捕虜となり島北部の宜野座村惣慶の収容所に送られる。そこで、チャプレンのハイラー大佐や軍医のルニアン・ワグナーに出会い、彼らの協力で伝道集会や日曜礼拝をひらく。そして、沖縄初の男女共学の中等教育機関として惣慶中等学院(後の宜野座高等学校)を創設した。朝章は教師のかたわら、1947年12月には按手礼を受ける。朝章は専門的神学教育を受けてはいなかったが、日本基督教会の中心教会である富士見町教会で長年長老の任に耐え、戦中には無牧の首里教会で牧師代理を務めた実力があった。こうした経験により育まれた神学は戦後「信徒の教会」として出発した沖縄のキリスト教一つの特徴と言える。
 以下では、その仲里朝章が沖縄戦と米軍による軍事占領で培った「新しい神学」を彼の歴史観、米国観、そして、沖縄救済論の側面からみていくことにする。

Ⅱ.沖縄戦の体験と「国際的平和の島」を目ざして

 仲里朝章はよく観る人であり、よく看る人であった。それは、歴史家の眼であった。
沖縄がようやく復興しつつある一方、米軍政当局が非民主的で横暴な政策を強行していた1957年の4月9日、沖縄キリスト教学院が創設され、朝章はその初代学長に就任する。彼はその開学の辞で同学院の設立の目的を次のように述べている。かつて「太平洋の孤児」と呼ばれた沖縄は複雑で矛盾をはらんだ現実に直面していたが、その沖縄を「国際的平和の島」とするためにはキリスト教の精神を身につけた人材の要請が急務である(4)、と。
 朝章が、沖縄を「国際的平和の島」とするためのモデルと考えたのがスイスやスウェーデン、デンマーク等、小国でありながら高度な「福祉社会国家」を構築している国々であった(5)。また、かつての琉球が、朝鮮半島や中国の終戦諸国だけではなく、広く東南アジア一帯の国や地域と「平和的貿易」を進めていた歴史をふまえて、国際的な交流ができる人材を養成することで「悲運の運命の島を真に解放」しようとしたものである(6)
 第Ⅰ章でも述べたとおり、朝章は沖縄戦で不本意ながら自分の教え子たちの多くを戦死させている。それに対する深い後悔と反省が、朝章をして平和運動へ駆り立てた。朝章は、まだ日本との交通が自由ではなかった1950年8月、比嘉善雄や稲嶺一郎と広島での第1回原水爆禁止大会に参加している。また、賀川豊彦等のかかわった世界連邦運動の主旨に共鳴し、世界連邦建設同盟の琉球同盟を組織する。1951年6月23日には沖縄のキリスト教界だけではなく各界の著名人に呼びかけて「世界平和促進大会」を那覇市で開催した。
 このように、仲里朝章は世界史の研究と琉球史のそれを連結させるという歴史観をもっていた。彼は、その歴史観をもとに沖縄戦で体験した悲劇を再びもたらさぬように、沖縄が大国による保護や日本への帰属ではなく、国際的な連帯を重要視して世界平和を実現していこうとした。

Ⅲ.「理想の米国」像と軍政との対峙

 仲里朝章はよく学ぶ人であり、よく知る人であった。彼は、優れた社会科学者であった。
朝章はこれまでまとまった著作を残していないといわれてきた。彼の死後編まれた遺稿集には沖縄キリスト教会の機関誌に残された十数編の散文が載せられているに過ぎない。しかし、遺族の手元には約270部に及ぶ日記、メモと説教の原稿が残されている。それらから彼の思考の特徴がわかる。まず、朝章の説教用原稿には経済用語や時事用語が多用されている。また、1950年代になると米ソ冷戦を反映し「資本主義」「共産主義」「自由主義」「社会主義」の用語が頻出しており、ワシントン、フランクリン、カーネギー、ワナメーカー、フォード等米国の著名な政治家や経済人の思想が紹介されている。それらの例から朝章は物質主義的思考や利己主義を批判し、欲望にまかせて暴利をむさぼることを誡めている。さらに、朝章は資本主義や民主主義に対して価値を見出していることもわかる。
 このように、朝章はことあるごとに米国の民主主義や経済の発展について肯定的に語っている。また、朝章は米軍の軍事占領に対し先頭に立って異議申立をすることはなかった。しかし、朝章は米軍の理不尽な支配を無条件に容認しているわけではなかった。むしろ、公正で正義を実行する理想的な米国・米国人像を強調することで、実際に沖縄に駐留する米軍政当局や兵士等関係者の行動や思考を批判した。
 沖縄(本)島近海の伊江島で米軍に奪われた土地奪還運動を粘り強く続けた阿波根昌鴻が、キリスト教界に協力を求めた際、沖縄の教会は冷淡であったといわれている。しかし、先の朝章の史料群には阿波根たちの行動について彼が強い関心をもっている記述があり、別所には朝章が収集したと思われる伊江島土地(闘争に関する文書ファイルが残されている。つまり、朝章は米軍政当局の横暴に対して実力で抗議したり、全面的に対決をしたりしないが、米国の建国当時の理想や米国人の良心を紹介することで、米軍と距離を置き、自省と内省を求めるという手法をとっていることがわかる。

Ⅳ.沖縄の自立と「沖縄救済論」

 仲里朝章は、人を育てる人であり、沖縄を耕す人であった。それは、彼が生涯教育者という側面をもっているからであり、同時にいかに沖縄の現状と将来を憂い、沖縄とそこに暮らす人々に対する愛着と愛情の表象であった。
 朝章は1946年、沖縄島中部を念頭に、沖縄戦で働き手を失い子どもをかかえて苦闘する母親のための授産所兼教養・娯楽の場として「母之村」の建設を構想している(7)。この事業は朝章が首里に帰った1949年に実現するが、その趣意書には「村の主は実に救世主イエス・キリスト様なる事」ときされている(8)
 朝章は、青年時代、内村鑑三の「デンマルク国の話」に感化され、デンマーク式の農業研究を重ねてきた。朝章は沖縄の後進性を経済的だけではなく、道徳や倫理にも拡大しつつ、大国に挟撃されている沖縄の地理的状況をデンマークの小国主義と重ねて、沖縄救済への処方箋をたどる道筋を見出していった。朝章は、大国に依存してその分け前に与るという選択ではなく、敢えて自立の道を選んだ。そして、そのような朝章の「沖縄救済論」は戦前の東京時代の耕南グループなどで沖縄の若者と共有された。朝章は、その晩年、沖縄の日本本土復帰を目前にした1972年1月30日に季刊誌『耕南時報』を自ら発刊する。そこには、若者を育て、沖縄を耕す術を模索する朝章の生き方が貫かれている。

おわりに―信徒の生きる場の神学形成を目ざして―

 「沖縄の神学」とはなんであろうか。本報告は、その試論にあたる。
 1879年、実質的に日本に併合されて(「琉球処分」)以降、沖縄の人々が経験してきた近代は、本土との格差からいわれのない差別に晒されることであり、太平洋戦争末期の沖縄戦で破壊であり、その後、27年間にわたる異民族の支配であった。1972年5月15日の日本復帰後も米軍基地は解消されず、それに由来する様々な危険や暴虐に晒されていても日本政府からの積極的な支援はまったく期待できない状態にある。このような事態は、まさに日米両国による沖縄の「再占領」状態といっても過言ではない。
 そのようななかで、沖縄のキリスト者たちは時に米軍の関係者やチャプレン、米国人宣教師、また、本土の教会関係者から支援を受けながら教会形成を続けてきた。そんな専門的神学教育も受けていない沖縄の“信徒あがり”の伝道者に自ら教会を建てていく独自の神学などあるのだろうか。大半の研究者はそのような先入観を抱いているのかもしれない。しかし、沖縄の歴史や現状が過酷であれば、信徒の生活の場であり、伝道の場でもある地域での信徒や教職者による体験や救済への模索からその地域特有の神学が生まれていたのではないかと、報告者は考えている。そして、それはら「解放の神学」や「民衆神学」に通じるところがあるのではないかと考えている。

【註】
(1) 本章での記述は、大城実「廃墟の中から—信徒伝道者の軌跡—」(日本基督教団沖縄教区『27度線の南から—沖縄キリスト者の証言—』(日本基督教団出版局、1971年)に所収)、および、石川政秀「仲里朝章先生略伝」(石川編『仲里朝章遺稿集・伝記』(仲里朝章顕彰会、1974年)に所収)による。
(2) 1884年〜1980年。哲学者・教育者で、戦後は第一高等学校校長や文部大臣を務めた。
(3) 皇族や華族(尚家は侯爵)の家で、家令の下で家務・会計に携わった人の役職名。
(4) 沖縄キリスト教学院大学のwebページ(http://www.ocjc.ac.jp/gakuin/gaiyou/souritu.htm)より。
(5) 仲里朝章「沖縄キリスト教学院開校の辞」(仲里朝章「DIARY」(1952年12月-1959年、手稿))。
(6) 同上。
(7) 仲里朝章「母之村建設趣旨」(1946年5月28日、手稿)。
(8) 仲里朝章「母の村建設の趣旨」(仲里朝章「首里母の村会員名簿」1949年1月14日に所収、孔版)

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2008年7月31日 (木)

明日から釜山。

明日から8月。1日から4日まで釜山に行きます。昨年、春についで2度目。釜山の東義大学校国際館で、東アジア宗教文化学会の創立記念国際学術大会が開かれ、それに出席するためです。

わたしは、この学会で研究発表をします。演題は

ある沖縄人キリスト者の被占領体験と新しい神学の創造
          ─仲里朝章の場合─

初めて、キリスト教史ではなくて、思想史っぽいことに挑戦しています。戦前、日本基督教会富士見町教会で植村正久から受洗し、その薫陶を受けた教育者である仲里朝章。仲里が沖縄戦を経験し、米軍の占領下にあって伝道者として建っていく中で、その困難な状況のなかで独自の神学や思想を産み出していったことを何とか伝えられたらと思います。多分、研究者の多くは、沖縄などに独自の神学があったなんて思っていないでしょうから。

6月中に報告のための原稿を提出しており、それを、日本、韓国、中国の留学生等で翻訳が行われ、当日それらが配られます。また、今月中旬には、急遽、韓国の院生の発表の指定討論者に指名されましたので、発表を日本語で読んで、コメントをします。

わたしの報告に対する指定討論者は韓国在住の日本人(?、だと思う)です(原則は日本人の発表者には韓国か中国の研究者が指定討論に立つのですが………)。そのコメントが昨日届きました。さて、日本人は案外沖縄のことを知りません。韓国や中国の研究者はなおさらです。届いたコメントを読んでいると、若干、相手方に理解不足のところがありました。それも、しかたのないことかもしれません。

わたしの使命は、沖縄のキリスト教のこと、教会のこと、キリスト者のことを世界中のなるべく多くのひとに理解してもらうことです。

会期中にはフィールドワークもあります。わたしが関心をもっているのは、鎮海にある海軍士官学校で「軍隊と宗教」に関する見学がることです。これは、占領下の沖縄のキリスト教を先行しているわたしにとっても、とても、興味があります。

さて、今回は、どんな出会いがあるのでしょうか。

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