カテゴリー「学会・研究会」の5件の記事

2008年4月26日 (土)

次回の学会発表

「宗教と社会」学会第16回学術大会(於南山大学、2008年6月14日、15日)で、下記の研究発表をします。

その他にも、新設学会へのお誘いもあり、その他にもう一つ学会に入ろうと思っています(これは、わたしにとっては初めて「日本」という国家名がついた学会です)。可能であれば、どちらかの学会で研究発表をしたいし、9月のキリスト教史学会でも研究発表をしたいと思います。

他にもいろいろ多忙ですが、何とか頑張ろうと思います。

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【発表趣意書】「軍事占領とキリスト教
       ─1940年代後半の沖縄における教会形成史の研究─」

 『キリスト教年鑑』(2007年版)によると、沖縄県の教会数は338(教派等の本部を含む)。信徒数は38,678人、県全体の人口の2.82%を占めている。沖縄県のキリスト教徒の割合が他よりも高いことはすでに知られている。しかし、教会、および、信徒の地域分布をみると、以下のように興味深いことが分かる。沖縄県の教会と信徒の9割以上は沖縄島に集中しており、これは沖縄県の人口分布とほぼ一致している。ところが、沖縄島では、人口の多い県都・那覇市を含む南部地区よりも、中部地区の方が教会数・信徒数とも多くなっている。また、信徒の対人口比でいうと、南部地区2.39%、中部地区3.76%で、中部地区の方が約1.5%も多い。

 一方、信徒対人口比では、宮古諸島でも1.89%、八重山諸島でも2.08%といずれも日本の他地域よりも高率である。これらの地域は、沖縄島の都市部よりも沖縄独自の宗教性が色濃く残っている。したがって、沖縄のキリスト教徒の割合が高いのは沖縄人の独特の宗教性によるという説は一定の合理性を持っている。しかし、それだけでは、都市化が進んでいる沖縄島南部地区に教会や信徒が集中しており、それ以上に中部地区に集中が見られることの説明がつかない。中部地区には多くの米軍基地が集中している (同地区の全面積の25.82%は米軍基地によって占められている)。このことは、戦後、再開された沖縄のキリスト教伝道が絶対的支配者である米軍の影響を強く受けており、現在でもそれが持続していることを物語っている。そこで、本報告では、沖縄のキリスト教に対する米軍や米国のキリスト教の影響に着目し、その原点である1940年代後半の沖縄のキリスト教や教会形成を分析の対象とする。

 これまで、1940年代後半の沖縄キリスト教史に関する文献史料はほとんどないとされてきた。しかし、当時の関係者が記した手記は未発表のものを含めていくつも存在するし、聞き取り調査も辛うじて可能な状態にある。加えて、占領軍と沖縄人の統治機構内の文書、新聞等々にキリスト教会に関する記述は散見でき、沖縄占領に参加した米軍兵士(沖縄系米国人等々)の手記も存在する。このように従来の研究で触れられてこなかった史料を活用すると、以下のような軍事占領下沖縄のキリスト教の実態が明らかになる。

 沖縄のキリスト教の戦後は、1945年の5月頃にはじまる。この時期、日本本土(以下、「日本」と表記)では空襲が相次ぎ、沖縄では嘉数高地や前田高地で日米両軍による死闘が続いていた。しかし、米軍の占領地であった北中城の島袋の民間人捕虜収容所では米軍のチャプレン(従軍牧師)によるキリスト教の伝道が開始され、6月には洗礼式が執行されたとの記録が残っている。こうして、沖縄戦で生き残った沖縄人信徒と米軍チャプレンやクリスチャンの米兵との出会いがはじまり、キリスト教の集会が形成された。そして、そこに未信者が集まるようになり、次第に教会が形成され、戦争により一時中断していたキリスト教伝道が再開される。

 当時、生き残った沖縄の地域住民は「集団自決」や日本軍による虐待を体験し、戦後は解放軍であったはずの米占領軍の暴虐に曝され、「戦果」や「体当たり」で糊口をしのぐ者もいた。この沖縄キリスト教の再出発を、あるキリスト者は「戦火によって焼きつくされた島における、砲火の洗礼を受け、国から見はなされ、異民族による軍事支配下に生きねばならない人たちの新しい、しかし希望を否定された歴史の始まりであった」と評した。本報告では、その含意をくみとりつつ、新しい史料を読み解くことで、従来の研究や通説化しつつある伝承について批判を加えながら、軍事占領というある種の例外状況下でキリスト教が果たした役割について明らかにしたいと考えている。

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2007年11月24日 (土)

招待状

気がつくと、もう、まるまる一カ月もブログを更新していなかった。そのことに気がつかないほど、とにかく忙しくて、珍しく体調を崩したりもしていた。

その忙しさに紛れて、ほおっておいた英文の手紙をさっき読んだ。なんだか大変なことになっている。「Oxford Round Table(「オックスフォード円卓会議」?)」というところからの招待状だった。来年2008年7月13日〜18日にオックスフォード大学のハリス・マンチェスター・カレッジというところで開催される会議に出席して、研究発表をし、35名ほどの学際的な小グループでのセッションに参加しないかというものだった。また、その発表原稿を機関誌に掲載するという。

セッションのテーマは、「宗教:平和と紛争の政治学」というもので、わたしの現在の研究と重なるので、興味はある。論文も書かせてもらえるということなので、ありがたい話なのだが、ちょっと心配なこともある。

最初は、新手の「フィッシング」かとも思ったのだが、ネットで検索するとそうでもないようだ。日本の国内でも同様の招待状を受けとって戸惑っている人もいる。また、どっかの教授や学長先生も喜んで参加しているようだ。

どうしよう。費用もかかるし。航空運賃とは別に一週間で宿泊費、食費込みで30万円って、わたしの経済感覚ではとっても大きいのだが、この種の会議では当たり前なのだろうか。

困った。その日は、もう予定はいっているしなぁ。誰か、言ったひと、詳しいこと教えてくれないかなぁ。

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2007年9月15日 (土)

学会発表、終わりました。

今回は、「国家、地域、教会─沖縄キリスト教をめぐる2つの国家と地域社会─」というテーマ。

大会全体のテーマが、「国家とキリスト教」なので、従来論じられてきたのではない、新しい観点を提示したかったので、このテーマにした。一応、成功か。

いままで、「国家とキリスト教」というテーマなら、一国内のキリスト教と国家との葛藤が論じられるのが常であった。つまるところ、キリスト教は反国家的な宗教として国家から理不尽な弾圧を受け、敗北してきた。しかし、それはキリスト教が正しかったからで………。というわけだ。

「キリスト教が常に正しかった」などというのは既に幻想であって、歴史上は決してありえないことは明白で。その上、占領下の沖縄では、沖縄キリスト教に関わった国家は、少なくとも日本と米国で、2つもある。それから、沖縄の地域社会は、そのどちらかに属しているというと、やはり正解ではない。

その辺を、論じることを試みたのだが、詳細は、また後ほど。

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2007年9月13日 (木)

新しい発見

詳細は、いま、述べることはできないが、今回の東京行きで新しい発見があった。

戦後間もない東京で、「沖縄人キリスト教団」が設立されたというのだ。代表者になっている人物は南洋方面の伝道にも関与した人物らしい。

戦後、「沖縄人」ということをアイデンティティに廃墟の首都・東京でキリスト教団が設立された。日本基督教団から離脱したのだろうか。それとも、………。

詳細はわからないが、「沖縄キリスト教史」の射程は、さらに、入り組んで、遠くに広がっていく。

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2006年12月25日 (月)

「痛み」と「癒し」考〜「落差」の一件から考える〜

先日書いた「落差 」に対して、おふたりの方からコメントを頂いた。それぞれ、わたしがこれまで漠然と考えていたことを簡潔に明示して頂けたように思う。こうしてわたしの問いかけに応答し、支えて頂けることはとてもありがたい。

慰霊や追悼と、災害や戦争による犠牲、もしくは、被害には明らかに因果関係がある。しかし、今回のフィールドワークのトークセッション「『痛み』の臨床と精神文化の諸相を知る」で問題となった「痛み」と「癒し」については、その両者間に必ずしもそうした関係があるわけではない。

聖書には苦しみや困難、難儀、「痛み」に類する記述がしばしばでてくる。しかし、そこから逃れる道筋は必ずしも明確ではない。極言すれば、ひとは死によって「神の国」にはいること以外、苦悩や苦悩、「痛み」から救われることはない、と聖書は言う。だから、わたしはキリスト教とは「苦難に耐える力を養う宗教」だと考えている。

結局、キリスト教は、苦悩や苦悩、「痛み」を簡単に「癒し」たりはしはないのだ。むしろ、苦しんだり、「痛み」を感じたりしている過程にこそ、その信仰の真価が発揮されるのではないだろうか。適当に、簡単に癒されたり、解放されたりする「痛み」はたいしたことはない。エジプトとバビロニア、ペルシア等々の大国に挟まれた小国のエルサレムは歴史上何度も蹂躙され、そこに住む人びとは他国へ拉致されもした。そのような土地に生まれたこと自体、すでに大きな苦悩や苦悩、「痛み」を負っていることである。そうであれば、そこからの解放など簡単に望んでも望めないことだ。ひとは、自分自身の努力では克服できない巨大で、根深い問題に直面したときに、神、あるいは、仏に頼り、そこに信仰が芽吹いていくのではないだろうか。だからこそ、人びとはその苦悩や苦悩、「痛み」に耐えるために祈り、「死による解放」を夢みながら懸命に生きたのではなかったか。

今回のフィールドワークで何回か眼にしたことであるが、何か大きな、つまり、民族的な、あるいは、人類的な「痛み」を措定した上でそれを稀釈し、解消しようとする、あるいは、それらによって「痛み」を負わされているひとや自然を救済すべく祈祷をする型をとった宗教がある。それについて、どうもわたしたちは、「犠牲を慰霊する」のアナロジーで、「痛み」があるから「癒し」が行われる、もしく、行わなければならないと錯覚してきたのではないか。しかし、琉球民族の反映や世界平和への祈りは、それをかなえることを目ざしたそれではないのではないか、としばらくして思うようになった。そこで出会った宗教者は、祈ることで自らや直面するできごとや境遇を上手く利用し、理屈づけをしているようにみえた。それが予定調和的にも見えるし、「事後予言」的でもある。また、現実と願望の乖離が厳然と存在するとき、自らの宗教の教義や理屈を媒介にして、現実の解釈を願望に近づける。そうすることで、現実から来る「痛み」に積極的な意味づけをし、自らを肯定する知恵を、出会った宗教者の方々の発言から感じた。

そのようなに考えると、キリスト教も、今回出会った宗教も、「痛み」を身にうけることを神や仏によるめぐみであると受けとめて、「痛み」をなめ尽くす過程で、人間として、宗教者としての自己を確立して行くように見えた。そのような型の宗教は、キリスト教以外にも多数ある。そのような宗教にとって、「救済」や「癒し」は、「痛み」に対応するものでは決してない。極端にいえば、「救済」や「解放」を自らめざしはしていない宗教すらある。それに加えて、キリスト教の場合、「救済」されるか否かは、信者個人の信仰の篤さに規定されるものではないとされている。「救済」は神の主権の範囲なのであり、個々の人間が救われるか否かは神のみが神の基準に基づいて決定するとされている。キリスト者はそのことに同意をして信仰を告白しているの(はず)であり、それでを「天に宝を積む」ために日々の生活を律して信仰生活を送っているの(はず)である。

その点でいうと、沖縄での「救済」や「癒し」のあり方は、古くは薩摩による搾取や、先島(宮古・八重山)における「孤島苦=島ちゃび」(琉球王府と薩摩による二重の搾取、あるいは、在番の役人が私腹を肥やすための三重の搾取)、近代以降の内国植民地化や、苛烈な皇民化教育、それに反して増大するいわゆる「沖縄差別」等々、直接本人には起因しない「痛み」を背負わされてきた歴史がある。そして、それらが存在したままでそれらに耐える力を養い、それらにこころを折られないよう、自己を励ましてきた。その大きな力になったのは、「字」や「門中(ムンチュー)」の人間関係であり、それらを単位に行われずっと維持されてきた祭でもある。また、民謡(島唄)や踊りもそうだった。『チャンプルー・シングルズ VOL.2 〜平和の願い(戦争と移民)』(東芝EMI)というCDがある。そのなかの、沖縄戦をうたった「戦世ぬセンスル節」(平良万吉唄)や、戦後の民間人捕虜収容所の生活をうたった「PW無情〜PW節」(金城実唄)、「屋嘉節」(松田永忠・石原節子唄)を聴いていると、自分たちのおかれた境遇を島唄というかたちで表現し、それをたくさんの人びとがそれぞれの想いでうたうことによって、悲嘆や決意等々の感情を共有してきたのだと感じた。

「慰霊」や「追悼」、それに「痛み」と「癒し」についてのわたしの視野は、これでも今回ずいぶん広がったように思う。

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