カテゴリー「日本キリスト教団(日本基督教団)」の15件の記事

2008年10月26日 (日)

対話を拒否する人

引きつづき、日本キリスト教団総会でのことです。

「風」の方々による「第36回教団総会速報Vol.19」によると(といっても、すでにソースは削除済みなので、それを見ることが出来ない方々には検証の手段が内のですが)、常議員に選出された北紀吉(おそらく、まだ、東海教区議長)は、選任の挨拶のときに、「『もはや対話はない』と威嚇的に挨拶し、議場の反発を買って多くのヤジが飛んだ」といいます。

この北氏はこのブログで例の東海教区の元会計担当者による詐欺・横領「事件」のさいに、最後まで(といっても、まだ決着はついていないのだが)この元会計担当者を擁護し続けた教区議長です。

さて、総会でのこの発言。わたしは、その場にいませんでした。「風」の記者さんの「威嚇的に挨拶し」というのは、すくなくとも主観的な感想です。また、北氏の発言も「」がついていますが、本当に正確な引用なのかわたしには確かめようがありません。

だから、「この発言が、もし事実だとしたら」という留保条件がつきますが、対話を拒むのであれば、牧師などという面倒くさい仕事は辞めた方がいいと思います。「威嚇的」態度も、これも間接的な情報ですが、例の東海教区の事件をめぐって北氏に直接会った人からの伝聞ですが、その時も、相手が信徒で、しかも女性であったせいか、大変威嚇的であったということです。こうした伝聞情報をつなぎ合わせると、北氏の人格や人間像が類推されます。

キリスト教は、ことばの宗教です。ことばによって、今日まで伝えられてきました。北氏をはじめとする方々がこだわっておられる「信仰告白」等々も、すべてはことばです。そして、キリストはそのことばをもって今もわたしたちに語りかけておられます。

キリストは対話の人であったか。聖書にはそうではないことを連想させることを書いていますが、力をもたない、弱く貧しい人たちの語りかけに、必ず応じておられました。キリストが対話を拒むのは、たとえば、キリストを試みたり、高圧的に真理を押しつけるものたちに対して、議論を拒むことで、本当の真理に気付かせようとする場合ではなかったかと思います。

さて、わたしの聖書には、自分を迫害する人のために祈りなさいと書いてあり、わたしの敵をわたしが愛しなさいとも書いてあります。北氏は、講壇で、「自分に逆らうものたちとは、対話はしてはなりません」とでもといているのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月25日 (土)

「聴き直す」という文法〜日本キリスト教団総会「議案第40号」に寄せて〜

※ 先に紹介した教団総会の速報サイトは、予告通り23日いっぱいで閉鎖されたようです。今回の速報を後から見直すと、議案の抜粋の掲載されており、大変参考になりました。どなたにお礼を申し上げたらいいのかわかりませんが、とにかく、そのご苦労に感謝いたします。

さて、議案第40号の「『合同のとらえ直し』を自分のこととして聴き直し、再度合同関連議案を提出するために、合同記念日を2月25日に設置する件」。

それにしても、わからん、この文法。東中国教区の方々の思いや、おっしゃりたいことはわかるのですが、しかし、やはりわからない、というより、納得のいかないことが、いくつもあります。

まず、相当ひどい文章です。主語と述語が一致していなかったり、意味不明なところが多数あります。沖縄の教会と本土の教団や教会との関係・歴史を知っていればある程度類推は出来ますが、それらの「予備知識」がないと理解するのはつらいのではないかと思います。文章的な問題は「提案理由」の第二段落の集中しているようです。失礼ながら、下書きかと思いました。

それから、「自分のこととして聴き直」すという文法ですが、そこにはある種の純朴なキリスト者としての誠実さと同時に、自己中心的な不誠実さが感じられました。その不誠実さとは、先の事情を知らない人たちに対して明らかに説明不足である点と通底するところがあります。もし、この議案の提案者がひとりでも多くの賛同者を得ようとするのであれば、全く事情を知らない人々にもわかるように丁寧に表現する必要があるのではないでしょうか。例えば、「議定書」のどこが問題なのか、また、「合同のとらえ直し」関連議案が何を目的として、どう展開したかを説明すべきなのではないでしょうか。

それから、「聴き直す」ということは、角度を変えていうと沖縄の教会の関係者に「しゃべらせる」ということです。そうとってしまうのは、わたしの誤解でしょうか。でも、謙虚さのなかに、ある種の傲慢さと強引さがあるように、わたしには思えて成らないのです。確かに、合同問題に限らず、沖縄の教会の歴史を調べるには、その関係者からお話をうかがうことは不可欠です。それは、よくわかっています。しかし、本土の教会、また、日本の教界の指導者がすべきことは、ほかにあるのではないかと思うのです。

また、沖縄の問題を自分のこととして捉えるということは、一見すると誠実な試みだと思えます。しかし、そうでしょうか。そのようなことを、沖縄の教会が望んでいるのでしょうか。また、捉え直すことは必要であったとしても、それは地道に進めればいいことであって、それを議案にして教団総会提案するべきことなのでしょうか。わたしには、それがわかりません。そう思ってしまうのは、わたしが事情を知らないからなのでしょうか。

更に、付け加えると、合同記念の日(「記念」ということばも日かかりますが)を「2月25日」にすることにいかほどの意味があるのか、この文章を読む限りでは、わたしにはわからないのです。それから、その「記念の日」に毎年「学び直し」の機会をもつとおっしゃっているようですが、そこもわかりません(文章もねじれています。一文が長すぎるので、3つぐらいの文章に分割するといいと思うのですが…)。学ぶのなら、ずっと、継続的に学び続けるべきでしょう。そして、それが、どうして沖縄教区の人を動かすことが出来るのか、説明が欲しいところです。

さて、沖縄教区との対話を進めるのならば、本土教界の指導者のすることはただ一つです。今すぐ、対話を拒否する教団の現執行部を退陣に追い込むことです。そのためには、まず、表面的には執行部に従順そうでありながら、無記名投票では執行部に批判票を投じるような人たちにゝ説得的に自分たちの考えを伝えて、賛同者を増やすかが必要だと思うのですが、いかがでしょうか。その上で、一般の信徒を含めて、真理に働きかけるように論理を鍛え、歴史的な事実を出来るだけ忠実に、公平に、明らかにすることだと思うのです。

最初のもいいましたが。東中国教区の方々の考えておられることは自分なりに理解しているし、わたしとしては是とするところも多いと思っております。だからこそ、残念でなりません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月24日 (金)

本土の教団・各個教会は、何一つ失わず、どこも傷つかない〜日本キリスト教団総会における沖縄の表象〜

先に紹介した『風』の方々が作成された総会の報告メールによれば、議案第39号「『合同のとらえなおしと実質化』特設委員会を設置する件」と第40号「『合同のとらえ直し』を自分のこととして聞き直し、再度合同関連議案を提出するために、合同記念の日を2月25日に設置する件」が否決されたという。

それからの議案の作成過程や提出者等々、わたしには情報がないので、詳しいことは何もわからない。しかし、報告メールを読んでいて、気にかかったことを二三書き記しておきたい。

まず、議論の全体的な経緯から、わたしが思ったのは、「日本基督教団」と沖縄キリスト教団との「合同のとらえ直し」を推進する側の言説を否定するために、「合同のとらえ直し」に反対する人たちが先のお二人のような方々の発言を利用しているのではないかということだった。そう。こうして沖縄はいつも日本本土からの圧力で分断されていくのだ。

それにしても、第40号議案にある「合同のとらえ直し」を「自分のこととして聞き直し」とは、どういう意味であろうか。原文を、まだ、詳細に見ていないので何とも言えない。しかし、その提案理由から推察するに、ある種の違和感を禁じ得ないのだ。この「自分」とは誰にことを指しているのだろうか。また、「『合同のとらえ直し』を自分のこととして」ということばの端々に、確かに、良心的キリスト者の真摯な自己反省を前向きな態度は読みとれる。しかし、そこにある種の欺瞞はないだろうか。沖・日両教団合同後の出来事は、いつに日本教団側が原因となっているのではなかったか。

沖縄教区が教団と距離を置くという日本キリスト教団史上初の「大事件」の責任は、執行部だけではなく、日本教団全体にあると思う。発言者や教団執行部、そして、教団総会に出席していたすべての議員、ひいては沖縄教区を除く教団全体にその責任の自覚が果たしてあるのだろうか。

また、この議案の議論の最中、沖縄からのお二人の「推薦議員」の発言があったという。与那原教会の知花正勝牧師と読谷教会の具志堅篤牧師である。具志堅牧師には一度お会いしたことがあるが、知花牧師には何度もコンタクトをとったけれども、結局会っていただけなかった。このお二人は、今年の5月まで沖縄教区の議長と副議長をなさっていた。

ところで、「推薦議員」とは、「日本基督教団教規」によると「教師または信徒で、常議員会の議決を経て教団総会議長の推薦した者30名」(第1条第3項)とある。こういう言い方をすれば、お二人に失礼かもしれないが、お二人の意識は別として、教団議長や常議員会で議長に近い人々たちはお二人とも“自分たちの側”の人間であると思われているのではないだろうか。しかし、そのお二人が議長・副議長であったときも沖縄教区からは教団総会に教区選出議員を送らなかった。今回もそうである。このように、沖縄教区では、それぞれの力が拮抗しているのだ。

わたしは、沖縄教区のことは沖縄教区で決めるべきであると思っている。これは、ごく、あたりまえのことだ。しかし、教団の本土教会から様々なてこ入れがはかられる過程で沖縄の教会は何重もの意味で分断されてきた。したがって、そのあたりまでで、極めてシンプルな「自己決定権」「自決権」が沖縄教区には保証されていない。具志堅牧師の「皆さんが言う『沖縄』とはどの『沖縄』なのか、合同のとらえなおしは一歩間違えば沖縄教区が分裂する事柄である」という発言は、はからずもそのことを露わにしている。

そして、この具志堅発言は、感情的発言などではないと思う。それを、そのように断ずるのであれば、沖縄の教会がどれほどのところまでせっぱ詰まっているのかを、全く理解していない発言であろうと思う。これらは、立場を越えて沖縄教区に広範に存在する危機感の表れではなかろうか。

沖縄教区のことは沖縄教区で決める。──そのためには、一度、本土教団が沖縄教区の離脱を認め(「離脱」という言い方は問題があるかもしれない。「合同」を解消するということ)、改めて、「再合同」へむけての話し合いをするのも、一案ではないかと思う。そして、それは、沖縄教区にとっては茨の道に踏み出すことになるだろう。しかも、本土の教団や各個教会は何一つ失うものはなく、傷つくこともない。

両者のこのような不均衡な関係性が、日本キリスト教団総会の沖縄教会をめぐる表象のなかに、かいま見えはしないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月23日 (木)

【紹介・緊急】日本キリスト教団総会

日本キリスト教団の第36回総会が終了した。

総会の様子やそこで話されている情報は、わたしのような一介の信徒には、当然ながら自ら求めなければ得られない。

今回の総会の様子は、このブログで何度も紹介をしている『風』の人々によって、逐一メールで送られてきている。そして、それは、ここで、pdfファイルにて閲覧することが出来る。

しかし、「10月23日24時で閉鎖」という。お急ぎアクセスを。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月31日 (日)

亀裂〜福音主義教会連合の歴史認識〜

こんな、サイトを見つけた。「日本基督教団(日本キリスト教団)資料」。いったい誰が作成したサイトなのか、一切、記載がない(怪文書ならぬ怪HP?)。ただ、ただし書きとして、「『教団紛争に関する資料集』を開始しました」とだけある。

内容は、

 (1)聖餐の乱れに関する資料集

・未受洗者の陪餐に関する信仰職制委員会の答申 (06年6月)
・2007年10月常議員会 議案「K教師に対し日本基督教団の教師退任を勧告する。」
・この間の常議員会に於ける経過と討議資料 (pdfファイル/07年10月)
・神奈川教区 聖餐についての学習会における発表 (07年7月)
・聖餐についての協議会発題 (05年7月)
・N教会報より (pdfファイル/07年12月)
・寛容論の現代的な誤解 (08年3月) 
・日本基督教団における未受洗者への配餐の問題 (pdfファイル/08年3月) 
・正確な議論を求める (08年5月) 
・声明  引用は正確に、適切に! (08年5月) 

 (2)「教団紛争」に関する資料集

・実録 教団紛争史 (1) (pdfファイル/07年7月〜08年7月)

最後の文書は、(1)だけではない。著者は「日本基督教団常議員」「福音主義教会連合常任委員」の小林貞夫氏。内容は、

第一章 教団紛争の輪郭    (『福音主義教会連合』№361、2007. 7.10)
第二章 教団紛争の前史    (『福音主義教会連合』№363、2007. 9.10)
第三章 暴発=九・一、二事件 (『福音主義教会連合』№365、2007.117.10)
第四章 教団の質的崩壊    (『福音主義教会連合』№367、2008. 1.10)
第五章 暴力の嵐・一九七〇  (『福音主義教会連合』№369、2008. 3.10)
第6章 教団史の空白      (『福音主義教会連合』№371、2008. 5.10)
第7章 クーデターと教師検定 (『福音主義教会連合』№373、2008. 7.10)

冒頭に「執筆の動機」がある。日本基督教団の歴史の半分以上は「教団紛争の歴史」であり、その体験者として「事実」を記して、現行の教団の記録を「紛争を意図的に隠」したものとして、それを糾そうとするものだという。

この論考は、一見すると歴史記述の体裁をとっているが、厳密な意味での、あるいは、学問的な意味での「歴史」ではない。それは、小林氏本人が述べているとおり、「体験談」に過ぎない。

その理由はいくつかあるが、最大の理由は、次の如し。本稿で、小林氏は教団紛争にかかわった人々を「問題提起者」「教会派」「中間派」の単純に分類している。これらのなかには、一般の、ごく普通の信徒へのまなざしは見られない。それはそれとして、結果的に、小林氏は「問題提起者」からの事情聴取(直接聞き取りをするとか、彼らの言動を紹介し、公平に批判するとか)をまったくしていないし、彼らのやってきたことを「暴力」として切り捨て、正当に評価・批判するような気はさらさらないようだ。

その一方で、「教会派」、つまり福音主義教会連合の言動の対してはほとんど歴史的評価を蜂起しているようだ。つまり、史料批判や吟味といった正当な手続きをまったく経ないまま、一方の主張を只一方的に述べているに過ぎない。

しかし、学ぶべき点もいくつかあった。わたし自身はその「紛争」を「体験」していないのだけれど、その過程でどんな立場に立った人々にも多少の違いはあるが行きすぎがあったことは事実だろう。それから、その時生じた対立は非常に感情的なものに発展しており、それを修復することは困難であること。また、一方的ではあるが、福音主義教会連合の主張の一端に触れることができた。それをもとに、小林氏の言う「問題提起者」や「中間派」のひとたちの主張を総合し、歴史を構造化していくのは、わたしたち歴史家の仕事かもしれない。

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月26日 (土)

承前:日本のキリスト教が抱える欠落、続報

前の記事(「日本のキリスト教が抱える欠落〜わたしたちは、だれに、“寄り添う”のか。〜」)について、『CHRISTIAN TODAY』の記事です。

アエラ『教会の性犯罪』報道 24時間体制の窓口設置で対応など

ここには、日本ホーリネス教団と日本キリスト教団九州教区の対応が掲載されています。日本キリスト教団は、教団としての声明等は出していないのでしょうか。これは未確認です。教団内の教会・信徒向けの声明等も、未確認です。御存知の方があれば、お知らせ下さい。

それにしても、「伝道する教会」・日本キリスト教団はこれでいいのでしょうか。以前も、「公開 「殉教」ではない。あなたたちは「迫害」されているのではない。〜「教師退任勧告」と「東海教区詐欺・横領事件」のこれから〜」等で指摘しましたが、黙殺は次の“犯罪”を生みます。そのなかには、防げるはずの“被害者”を生み、“加害者”も生みます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月10日 (木)

日本のキリスト教が抱える欠落〜わたしたちは、だれに、“寄り添う”のか。〜

数日前、戦後沖縄のキリスト教史の生き証人である方の訃報が届いた。その方には、以前、2時間ほどお話をうかがったことがある。この件については、後日、詳しく論じてみたい。

さて、『AERA』(vol.21-№16、2008年4月14日)に掲載されている「キリスト教会の『性犯罪』」(AERA編集部 田村栄治)を読んだ。ここには、日本の3つの教会で起こった「性犯罪」について紹介されている。日本聖公会高田基督教会(奈良県大和高田市)、日本ホーリネス教団平塚教会(神奈川県平塚市、現在は廃止)、日本基督教団熊本白川教会(熊本市)、それに、カトリックの教会について触れられている。

そして、某SNSなどでは、この件について議論されている。それらの議論のなかに、この一連の事件に対する日本のキリスト教が抱えている問題が垣間見える。

これを発表した雑誌が「左寄り」の朝日新聞だからキリスト教を攻撃しているのだろうという暴論はさておき(共産主義を掲げている中国は信徒数だけでいうと世界最大のキリスト教国になろうとしている。だから、共産主義や社会主義はキリスト教をはじめとする宗教を弾圧しているというのはまった現実に即していないということを、この人はきっと知らないのだろう)、議論の中心は「今、なぜ、この時期に」ということと、うちの(教会の、もしくは、教派の)牧師はやっているのかやっていないのかに終始しており、結論的には、「他の宗教も同種の事件があるのになぜキリスト教だけが採り上げられているのか」といったものや、「困った話だけれど、一部の教会の、おかしな牧師のことでしょう」等々で終わっている。

以前、このブログでも述べたことなのだが、日本のキリスト教は、明治以降、「迫害伝説」というのを構築してきた。これは、一部の教派や信徒、牧師等々がかつて泊がされたという事実を、キリスト教全体に敷衍し、恰も自らが迫害されてきたかのような虚構に基づいているのが特徴である。実際、部分的には教会や信徒、牧師、あるいは、キリスト教主義の諸学校が国家による監視の対象になり、暴力を伴う弾圧に曝されたことは事実である。しかし、一方で、日本のキリスト教界は権力と癒着したり、権力に積極的に協力することで、活動の自由を保障されてきたのも事実である。

そして、この「迫害伝説」は、自分たちを国家による弾圧や迫害による被害者として位置づけることで、その教義から「自分たちが正しいが故に、世の中から迫害される」というように、自らの好意を正当化する手段になっている。また、そうだから、「“わたしたち”少数のキリスト者は団結しなければならない」というふうに、教会・教派の組織固めに利用されてきた。そして、その副作用として、日本のキリスト者は絶えず日本社会を外部と捉えて、そこからの被害妄想に悩まされてきたのである。

さて、上記のようなやりとりの中で、完全に欠落しているのは、被害者に対する想いであろう。日本のキリスト者はこのような事件に際して、概して、「自分たちの代表者たる牧師がそのようなことをするはずがない」と強弁することで、暗に被害者とされている女性が虚偽の申告をしていると推定している節がある。または、被害者に全く想いが至っていない。

わたしは、イエスの教えの本質は、“寄り添うこと”であると解している。そして、“寄り添う”相手は権力を持っている者ではない。自らの同様であるが、力も富も持たない、弱くて不安定な立場に立っている者のなかにこそイエスが存在していると感じて、その人たちにこころを寄せ生きていくことがその含意にある。

ありもしない「迫害」の虚構におびえ、ひたすらに自らの保身しか考えていたところに、この問題の本質がある。そして、そのことに想いが至らず、したがって、自らを正そうとも、代えようともしないが故に、同種の事件は今後も続くであろうところに、日本のキリスト教の非力と悲劇がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月 7日 (木)

臭い〜『信じる気持』からはじめよう〜

人のは、その人特有の臭いがある。そして、そのような人が集団になった時も、独特の臭いが生まれる。「臭い」──それは、共通の行動や思考から来るあるに通った印象、とでも言おうか、そういうものが妙に臭ってくるものに、出くわした。

現代の異端審問」と題したそのサイトには、富田正樹『信じる気持ち はじめてのキリスト教 』(日本キリスト教団出版局、2007年)について、日本キリスト教団議長と幾人かの牧師から、同出版局に回収や、出版停止、廃版を迫る圧力が加えられたこと、そして、その本を理由に著者は依頼されていた大阪教区総会での開会説教の講壇から「引きづりおろされ」たことなどが、教団議長の私的公文書(なんのこっちゃ、教団議長)や大阪教区の常置委員会の議事録などがアップされている。

わたしは、富田氏の本を二冊程持っている(『キリスト教との出会い 新約聖書』(同出版局、2002年)と『聖書資料集 』(同、2004年) )が、肝心の『信じる気持」は持っていない。だから、これらのできごとについて議論することは出来ないのだが、みんなはこれらの資料をどのように読むのだろうか。関心がある。

また、少々違和感もあった。このサイトを主催しているのは著者の富田正樹氏自身のようだが、先の文書史料の人名はほぼすべてイニシャルであった。文書中にもあるように、お互いに言葉に(本文中では「説教に」となっているが、要するにそこで語られる言葉に命をかけていると云うことだろう)命をかけているといっているのだがから、名前を出しても何ら死傷がないのではないだろうか。現実に、それらの文書は公開されているのだし。だから、富田氏は、当該の牧師を批判しながらも、どこか、最後の一線では牧師どうし、庇い合っているような印象を受けたのは、やはり、わたしの穿ちすぎだろうか。

ともかくも、一般の信徒からすると、確かに「躓き」になる話であるが、だれがどんな発言をしたか特定することも含めて、しるべきことではないかと思う。

それから、こんなのも見つけた。このリンクは、いつまで残っているか分からないが、ここ、ヨハン早稲田キリスト教会で山北宣久・日本キリスト教団総会議長が説教をしたとのこと。これも、幸いというか、生憎というか、わたしのパソコンではどういうわけか見ることも、聞くことも出来ないのだが、どうやら、どこかでそのときの模様が見れるらしい。

現に、その教会で、信じて必死に祈る人がいるのだから、風評を鵜呑みにして同教会を一方的に「ああだ、こうだ」と決めつけることはさけなければならないが、そこで、軽いジョーク(例の「宣久、センキュー」という奴です)を飛ばしながら、喜々として説教をする山北氏の姿を思い浮かべるにつけ、わたしにはどこかから、この人の身体や人生からにじみ出てくる、ある種の「臭い」がどうしても感じられて仕方がない。

さて、『信じる気持』の気持、よく分かります。わたしもほとんどキリスト教とのいないミッションスクールで不遜にも「キリスト教学」というのを教えていて痛感します。彼女たちのほとんどは、キリスト教やキリスト教徒に偽善の臭いを感じたり、不信を抱いていたり、裏があるのではないかと感じています。そこで、どうやったらキリスト教を「信じる気持」を育むことが出来るのか。それは、並大抵のことではありません。みんな、キリスト教の話を聞こうと思って集まっている教会で、「神を信じなさい」なんていうのは、簡単なことです。ついでにいうと、信徒の大半は、自らの信仰を積極的には証すことなく、日常生活をおくっているのです。それは、なぜか。答えは簡単です。それを信じてもらうには、キリスト教の論理は役には立たず、じゃまにすらなっているからです。

だから、キリスト教の良い所も悪い所も、信徒や牧師、宣教師がしたいいことも悪いことも、公平な視点で提示し、それの判断を聞いている学生にゆだねること。そして、キリスト教の信仰をもっていることが重要なのではなく、そのような信仰をもっているかにこだわることが大事なのだということを、何度も何度も繰り返し、例を変え、表現を変えて強調するしかないのです。

さて、わたしも、他人から見ると、ずいぶん臭い人物なのでしょう。あるいは煙たい人物なのかしら。そう、自問自答してみます。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2007年12月24日 (月)

顛末は、まだだけど、お覚え頂きたいこと。

ここ数日間、このブログのアクセス数が以上の増えています。その多くが、「牧師退任勧告」や「東海教区」、「横領事件」などのキーワードで検索してたどり着いたものと思われます。また、東京からのアクセスは元もと多いのですが、それに加えて、東海教区にあたる静岡県や山梨県、長野県からのアクセス、また、神奈川県からのアクセスも、通常に比べて非常に増えています。それから、このブログの記述を自分のブログで紹介してくださっている方もいくつかあるようで、そこからのアクセスも毎日あります。

 

これは、日本キリスト教団に最近起こったこの二つの問題に対する関心の高さを物語っています。特に、共同通信社が東海教区の一件を配信し、『週刊新潮』が記事を掲載したことにより、問題は広がりを持つようになったようです。

それから、一昔前なら密室の会議のなかでの発言だったものが、いろいろな媒体を通して公になることもあり、そこから、牧師や教団指導者の思わぬ側面が露わ になることもありました。そして、そこでの記述が、こうしてブログや何かで増殖しているのです。これにより、また、教団現執行部とその周辺の傲慢さが浮き 彫りにもなりました。

さて、わたしの記述に対しては、そのアクセス数に比べると、コメントがほとんどないのですが、それでも、この問題が、教区の信徒・教職者、そして、それぞれの教会の求道者、それに教団・教会外の方々、できるだけ多くの耳目を集めることを、今後とも期待したい思っています。

しかし、一方で、仄聞するに、この件で教団の教会を離れたり、教会から足が遠のいている信徒がいることを、どうか、みなさま、お覚え頂きたいと思います。東海教区の詐欺・横領事件のケースでは、教区総会で決めたのだから、「外野」の意見に惑わされることはないのだ、という居直った発言も見られるようですが、それは、物事の本質から遠いことです。そして、その他の発言を含めた、一つ一つのできごとが、信徒に失望をあたえ、これから伝道がなされるであろう地域社会から教会が永年にわたって構築してきた信頼を根底から揺るがすことにもなりかねません。そこに無神経になったままでの伝道などありえないと思うのです。つまり、教会を離れていく人たちは、総じて、教会への関心が高い人で、教団や教区、教会をよくしようと発言するうちに、人に躓き、他人の信仰に躓き、そして、身を引いていくのです。

どうか、牧師・先生と呼ばれるみなさま。あなたたちの生活や保身のことは理解できないでもないです。しかし、できることなら、教団や同僚牧師を向いた牧会ではなく、信徒を、あなたが責任を持っている教会の信徒ばかりではなく、地域の信徒、教団の信徒を向いた牧会をお願いしたいものです。

そして、信徒のみなさん。わたしたちは決して一人ではありません。イエスがわたしたちとともにいてくださいます。そして、呻吟し、傷んでいく信徒の思いや姿が浮き彫りになるとき、わたしたちは祈りで連帯していけると思うのです。

明日は、クリスマスイブ。このことを覚えて、東海教区にある教会と信徒のため祈りたいと思います。それから、「教師退任勧告」を受けた方だけではなく、提案した側の人びと、そして、それぞれの牧師が牧会する教会の信徒、沿いして、所属する教区と教団のために祈りたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月15日 (土)

「殉教」ではない。あなたたちは「迫害」されているのではない。〜「教師退任勧告」と「東海教区詐欺・横領事件」のこれから〜

近代日本におけるキリスト教の特徴のひとつは、自らが日本社会におけるマイノリティであることの過剰な意識からくる「被迫害観」ともいえる歴史観を有し、それを神話化する傾向にあると思う。つまり、それは

自分たちは明治以降百数十年経ったにも拘わらず、いまだにこの社会では少数者に甘んじている。それは、この異教社会が邪教に支配され、真の神の支配を受けていないからである。自分たちは、真の神の教えを説いているから、間違っていて、邪悪な者たちから常に迫害や妨害を受けているので、いまだにキリスト教の教勢がのびないのである。

というものである。そして、そこには、しばしば「正しいから迫害されている」のではなく、「迫害されているから、自分たちは正しいのである」という論理の転倒が見られる。

このことを前提に、ここ数ヵ月間に日本キリスト教団に起こった出来事とそれに対する日本のキリスト教界の中枢部の反応を読み解いていくと、意外なことがわかる。

20071213ついに、日本キリスト教団東海教区の元会計担当者による詐欺・横領事件の記事が『週刊新潮』12月20日号に載った。タイトルは、「6900万『横領事件」』日本基督教団に『カルト化の危機』」(同誌、p.152)。教団や教区の幹部は、いまごろ、さぞかしあわてていることだろう。

しかし、これで、事態が収拾されるかというと、そう簡単にもいくまい。

この記事によると、教区議長は「取材の依頼をほぼ無視」しているらしいが、「監督責任すら問われなかった教区の議長は、今年、堂々と再任を果たしています。つまり、刑事事件を避けたのは、自分がポストから外れないためだったわけです(後略)」という信徒の発言が載っている。また、別の情報によると、北紀吉東海教区議長(愛宕町教会)は、共同通信の記事の配信をさして、自分を教区議長のポストから引きずりおろしたい勢力がやっていることである、というようなことを発言しているらしいのだ。

この心性は、冒頭の「被迫害観」から説明できないこともないだろう。つまり、「自分は正しいことをしているから、迫害されているのだ」と。これが、いつの間にか、「自分は迫害されているから、正しいのだ」という転倒を起こさないことを祈るのみだ。こうなると、事態の平和的収集は困難になってくるだろう。

一方、教団中央の「教師退任勧告」である。

実は、以前も述べた「教師退任勧告」について、日本キリスト教団の総会議長・山北宣久氏の言い分を知ろうと思って同教団の機関誌『教団新報』(第4640号、2007年12月8日)を買い求めた。

山北宣久「未受洗者配餐をめぐって/苦渋にみちた「勧告」に至るには」。このコメントは「聖餐にはバプテスマを受けた信徒があずかるものとする」という「教団教会」規則(準則)第8条①の但し書きからはじまっている。

全体的な印象として、オーバーな表現が多いなか、目をひいたのは、議長自身がいかに多くの敵に囲まれていて、その無軌道で邪悪な敵に自身が立ちむかって、「正しい聖礼典の執行」を守っているような表現であった。

「闇討ち、騙し討ちだとの意見が抗議として渦巻いています」。
「『勧告』はいかにも無茶だとする声も満ちています」。
「招聘制を破壊するものだとの声も湧き上がっています」。

いくつかの節の書き出しが、こうなっている。そして、この文書の特色は、

(1)反対する人たちのことを、集団として捉えていて、個別の意見の差異を捨象している。
(2)全体的に問題を正しいか間違っているかの単純な二分法で捉えていている。
(3)自分に反対する人たちの声を過大に表現したあとで、そのあとにいかに自分が正しいかを強調しているというパターンを多用している。

しかし、これらは明らかに事実の誤認や錯誤、あるいは意図的捏造である。実際には、常議員会では多数決でこの案が可決されたわけだから、少なくとも議長の意見は少数意見ではない。しかし、自分は多くの邪悪な敵に囲まれていると、主張しているのである。議長は、ひょっとすると、本気でそれを信じているのかも知れないが、事実はそうではない。このようなところに、議長は反対派を殲滅しようとしているのではないか、という疑心暗鬼を生じさせる余地が教団内に生まれはじめている。

これも、日本のキリスト教界に伝統的にみられる「被迫害観」に基づく自己正当化の手法である。これは、教団議長やその指示する人びとの信仰が、純粋性と単一性を追求するものであり、宗教的な心情としては間違っていない。しかし、それをこの世の現実を変えずに、無理矢理適応しようとすると、相当な問題が生じるので、同時にそのような問題をどう回避したらしいかを考えなければならない。しかし、それが、今の教団執行部には徹底的にかけている。反対派を排除するのでは、問題は解決しない。むしろ、反対派と対話し、意見を調整し、それをいかに理想に近づけるかの努力をしなければならないと思うのだが。

そして、それをしないのは、指導部の怠慢でさえある。

こうなると、いくつもの点から、問題の平和的解決はより困難になったといわざるを得ない。つまり、議論や対話などでこれらの問題を解決するのは絶望的なのか。教団の信徒や「世間」は固唾をのんでそれを見守っている。

双方に、問題解決の努力と歩み寄り、ねばり強い対話と旺盛な議論を望みたい。そして、そうさせてくださいと、神に祈りたいと思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年12月13日 (木)

ある若い牧師への書簡〜「あなたに、望むこと。」〜

※ 詳細・経緯は省略しますが、以下は、最近、わたしがある若い牧師に宛てた書簡(メール)です。これは、ここにある「あなた」だけではなく、「あなた」に関係のある、若い牧師のことを思い浮かべながら書いたものです。

あなたに、望むこと。

あなたとともに教会で過ごした人、今過ごしている人、そして、これからすごすであろう人びと、そして、あなたの説教を聞いた人、将来聞くであろう人たちのなかには、確実に、次のような人がいます。

人の命をあずかっていて、ちょっとしたミスも許されない職場で働いている人びと。お医者さん、看護師さん、運転手など。それから、ちょっとしたミ スでクビになるような弱い立場のアルバイトで生計を立てている人。そんな人は、あなたの記事をどう読むでしょうか。それを考えて頂きたかったのです。

牧師は、初めての礼拝でミスをしても、教会員からは温かい目で許され、牧師同士で慰め合えるだろうけれど、先に述べた人びとは、あなたがしでかし た程度のミスで生活の基盤を失うかも知れないのです。それを考えると、牧師というのは実にのんきな商売です。でも、果たしてそうでしょうか。

また、あなたは、そのようなつましい生活をしている人からも集められた献金で賄われる謝儀と祈りをもって、教会から牧師とし立てられているので す。わたしたち信徒は「神様のご用のためにお用い下さい」といって献金を差し出すのですが、その金額ではなくて、それらの思いの対価としての働きをしてい るのか、今一度お考え下さい。

………(中略)………

わたしは、仕事柄、いろいろな牧師を見てきました。そのなかには、バカな牧師やくだらない牧師、威張る牧師、ノー天気な牧師、信徒を裏切り上ばか りを見ている牧師など、いろいろいます。だから、ハナから牧師には期待をしておりません。だから、わたしは、特別な牧師でなくても、完璧な牧師でなくても、ただ普通のことが 普通にできる普通の牧師であればいいと思っています。

………(中略)………

さて、わたしがただ一つ、牧師に望むとすれば、以下のことでしょうか。それは、信徒や求道者の方を向いた牧会をしてほしいということです。教団や教区のお偉いさんではなく、同僚牧師でもなく、ただ、ただ、信徒の方を向いて牧会をして欲しいのです。

あなたは、あなたの教会や、あなたの教区、教団の信徒の方を向いていますか? 東海教区では、例の詐欺・横領事件の件で、信徒の方が動きはじめて いるようですが、わたしの得た情報では、あなたは、その協力の要請を断られたと聞いています。それは、事実でしょうか。あなたのその判断が、信徒ではな く、教区議長に向いた結果ではないことを祈るのみです。

あなたの生活を支えているのも、横領されたものも、すべて信徒が教会や教区に捧げたものであり、その額の多寡で、重要性がかわるものではないのです。そのために献金をした信徒たちの思いを、どうか、汲んで欲しいのです。

繰り返しのなりますが、今後とも、信徒や求道者の方を向いた牧会を、あなたには期待しております。

数々の、ご無礼、お許し下さい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月 9日 (日)

「亀裂に癒しを!教団に癒しを!」

『風』(教団ジャーナル)vol.22(2007/12/3)を読んだ。今号は北村慈郎・紅葉坂教会牧師に対する日本キリスト教団常議員会の「教師退任勧告案」可決に関する特集であった。これについては、すでに、ここで少しだけ言及している。総力特集として「現場ドキュメント こうして退任勧告議案は強行採決された」を読むと、事件の経緯があらまし理解できた。

これは、同「勧告」に反対する人たちによる記述なので、そうではない立場の人たちの言い分を聞かなければならないだろう。これについてhじゃ『教団新報』(第4,640号、2007年12月8日)に教団総会議長山北宣久氏のコメント「苦渋に満ちた『勧告』に至るには」があり、これについてはすでに西宮聖文舎で手に入れているので、近々コメントしたい。

さて、今回の『風』の特集でわたしの目をひいたのは、知花正勝氏(沖縄教区議長・与那原教会牧師)の「常議員会陪席所感」だ。詳しくは、同誌を購読して、全文を読んで欲しいのだが、以下では、その一部、わたしの心に残ったところについて考えたい。

この所感は、このブログ記事の題名通りの書き出しになっている。

亀裂に癒しを!教区に癒しを!これが常議員会に陪席した者としての思いと祈りです。(同誌、p.8)

知花牧師は、2006年、沖縄教区議長に就任されたが、それまでの山里勝一議長・大城実副議長の体制の「本土教団とは距離を置く」という方針とは違って、常議員会や教団総会にも出席している方だ。その知花牧師の思いは、この引用部分に集約されていると思う。

まず、知花牧師は、この「所感」のなかで、はっきりとこの「勧告」に反対しておられる。その主たる理由は、教団が教会や教区の自律性(自立性)を無視し、教会や地方教区(東京教区・西東京教区の教団中央部に近い大教区を除く教区のこと)の現況をまったく理解しないで、「人権侵害」を公然としたことに対する怒りであり、教団執行部・常議員会の一部がそれらの地方教区・地域教会との対話を一方的に拒絶するその姿勢に対する反発であったと理解している。知花牧師は、現在の教団の体制を「形式的民主主義」「丁寧な議論を重ねない会議は民主的暴力装置」であるとしている。そういえば、現教団執行部は常議員会を沖縄で開催すべきであるとの提案(沖縄教区をはじめいくつかの教区からのもの)をかたくなに拒絶している。ここにも、彼らの対話を拒否する姿勢が現れている。

さて、知花牧師は、最後に、今回の一連の出来事だけではなく、現況団執行部が「合同のとらえなおし(合同のとらえ直し)」の継続や同性愛者差別問題への取り組みを拒否し、「戦責告白四〇周年記念」への取り組みを拒否したことを「病」と捉えて、教団にはその「病識がない」と嘆いておられる。

翻って、こうしていくつかの教団の問題点をブログで発信しているわたしの行為は、知花牧師のこの祈りにも似た訴えに、果たして呼応するものなのだろうか。そのことを、深く胸に刻んで、今後の研究に是非とも生かしていきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月 8日 (土)

〔速報〕日本キリスト教団東海教区元会計担当者による詐欺・横領事件の新展開

以前から、このブログで触れている日本キリスト教団東海教区元会計担当者による詐欺・横領事件について、共同通信社からの配信が行われたようです。そういえば、数日前、集中的に、共同通信社内のPCから当サイトに何度かアクセスがありました。

記事は、ここで読めます。

問題解決のための第一歩が踏み出されたと思いますが、ここまでに至った東海教区信徒有志の方々のご努力に対し、敬意を表したいと思います。

このブログで何度も述べたことですが、東海教区執行部のこの事件の処理の仕方(=隠蔽)は、同じく最近ここで述べた教団執行部による一牧師に対する「教師退任勧告」の決議と、全教会への恫喝文書の配布の背景にある問題は同根であると、わたしは思っています。また、諸事情で事件の経緯が明らかになるまで書くことを控えている事件もいくつかあります。そこにも、同じ問題が見て取れます。

いずれにしろ、このような教団をめぐる不条理が、現執行部による「伝道する教団」の現実です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月 6日 (木)

ある牧師の品性〜いっていいこと、いってはいけないこと〜

■高砂民毅「東京教区や西東京教区の集めた分担金の六割近くは他の教区で用いられている。相互扶助の基盤は共通の信仰告白。北村〔慈郎=引用者註〕常議員が言われていることでは、相互扶助する必要はないというところまで発展していく。北村常議員が撤回されるか、また自分の信じるところに従い自分の道に向かって進んでいくというものまた一つだ。」(『教団ジャーナル 風』vol.22、2007年12月3日、p.6)

これは、去る2007年10月23日日本キリスト教団第35総会期第3回常議員会で教団議長から提案された「北村慈郎牧師に対し教師退任勧告を行う件」をめぐる議論で、可決間際に高砂民毅荻窪清水教会牧師(常議員会では陪席者)が、小林眞教団副議長(遠州教会牧師)に促されて発言した内容の要約である。

要するに、高砂氏が言いたいのは、「自分たちに言うことを聞かなかったら、経済封鎖をするぞ」ということだ。これを恫喝というのだが、恫喝しているのは牧師である。どんな牧師かと思って、Yahoo!で検索したが、たいした記事はない。Googleで検索すると………、ありました

 私たちは人生において、永遠に変わることのない真の慰めを持っているでしょうか。苦しい時、むなしい時、死に直面した時、ゆらぐことのない希望の確信を抱き続けることができるでしょうか。私たち人間は傲慢で、自己中心的な存在です。それでは真の慰め・平安は得られません。上記の信仰告白が示すように、心を開いて自分を主イエス・キリストに明け渡すのです。その時に真の慰め・平安は得られます。

 私たちの罪のため、身代わりとなって十字架についてくださったキリスト。このお方は三日目に復活され、信じる者には永遠の命が与えられることを約束してくださいました。このお方を一心に見つめ、ご一緒に礼拝を守りましょう。

                 牧師 高砂民宣
                 牧師 高砂民毅

また、

 この40余年の間、荻窪清水教会は礼拝を守る場所を確立すると共に、教会の在り方を模索してきました。 諸教派から多くのことを学びつつ、長老制度の教会を選択するに至りました。教会が拠って立つべき内的基盤、すなわち信仰告白の一致による協力と訓戒の制度を採択したと言えるでしょう。日本基督教団にありつつ連合長老会に加盟し、改革長老教会の伝統に立つ教会として、礼拝を重んじ、み言葉によって絶えず改革される教会の形成に努めています。さらに今後は、諸教会を覚えて祈る教会でありたいと願っています。(強調は引用者による)

荻窪清水教会のHPを見ると、彼の生い立ちや説教をいくつか見ることができる。たとえばこれ。それらによると、この発言の主は、齢70になんなんとする老牧師であった。昨年の春には、ご子息(青山学院大学准教授)と思われる方に主任の職をお譲りになっているようだ。しかし、分別のあるはずの牧会経験豊かな牧師が、なぜこのような晩節を汚すような言葉を吐いてしまうのだろうか。

さて、ここでは、個人攻撃が目的ではない。

キリスト教に限らず、宗教や信仰は人や人類社会、地球や宇宙の自然のためにあるのであって、それらが宗教や信仰のためにあるのではない。教団の規則や聖書の隻句を教条的に取り上げて、人を裁き、排除していくことがキリスト教の使命であるとは思えない。繰り返すが、聖書やキリスト教の信仰、教会や牧師は、人のためにあるのだ。そして、この「人」とは、信者(正式な教会員)をのみ指すのではない。教会にいる未受洗者、求道者、それから、今は教会やキリスト教と出会うことなど夢想だにしていないが、いずれそこに招かれるであろう市井の人々を指している。と、わたし思っている。

それから、教団は教会である。今回の高砂牧師の発言は、教会のメンバーに向かって、「自分たちの行くことを聞かず、教会の方針に逆らうのなら、教会を出て行け。どうせ、お前たちは教会を出たら、自活もできない貧乏人なのだから、文句は言うな」と、いうことである。これは、沖縄のキリスト教史を研究対象にしているわたしにとっては、決して看過できない発言である。このような牧師や執行部には、到底沖縄やその他「地方」の教会のことを理解することはできないであろう。

さて、もう一つだけ付言すると、こうして、組織内の反対派を排除し、教条的な協議に傾斜していく宗教のことを、「カルト」と呼ぶ。日本キリスト教団、少なくとも、執行部やそれに近い教会、あるいは、東京近郊の大教会では、ますます原理主義的な主張が大きくなり、カルト化が進みつつあるのではないかと、憂慮している。

※ 上記については、今後順次、書き足すことがあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月 3日 (金)

「職を辞する」という覚悟〜日本キリスト教団東海教区の横領事件をめぐって、新展開か?〜

「職を辞する」と、いうことですが、往生際が悪いアベ某のことでも、どういうわけかいまになって突如辞任を発表した絆創膏大臣のことでもない。

日本キリスト教団の有志が発行している『教団ジャーナル 風』のvol.20が先日届いた。今回は書く教区の教区総会報告特集だった。その東海教区の報告を聞いて驚いてしまった。というか、呆れて、開いた口がふさがらなくなってしまった。

このブログで何度か東海教区の会計による横領事件を書いたが、そのときの責任者であった教区総会議長が再任されたというのだ。記事によると北紀吉議長(愛宕町教会)はくだんの事件の責任をとり「再選を辞する意向を示し」たとある。しかし、結果的に議場は北議長を再任したという。

問題は、ふたつ。

ひとつは、本当に責任があると北議長が認識したのであれば、再選を固持すべきであろう。しかし、結果的に北議長は議場の意思を受け入れたのだから、彼にとって「禊ぎ」になったということである。これは、救いがたい誤りだと思う。

自分の教区ではないから勝手にすればいいのだが、東海教区の総会議員たちの見識のなさには驚愕させられる。それとも、よほどうまく情報操作をされているのか、強迫されているのか。そういえば、他の教区の報告者はすべて教会名、氏名を掲載しているのに、この教区の報告者のみ、「虎落笛(もがりぶえ)」と称し、実名を書いていない。書いた人物が特定されるとパージされてしまうとでもいうのであろうか。

今ひとつ。このブログの読者でもある、ある信頼すべき人物からの情報によると、2006年1月29日、横領した教区会計担当者の告白を受け、所属教会の牧師らとともに、北議長を訪問して事実を報告したが、その直後の1月31日にもこの会計は郵便貯金から¥5,334,477を横領している。

ということは、北議長がこの一件を知った時点で、この会計から貯金通帳や印鑑等を採りあげていれば、少なくともこの横領は防ぐことはできたということだ。東海教区では元会計氏を告訴しようと動いている人たちもいるようだが、それが当事者性の問題からうまくいかないので、教区を告訴人にしようと考えているという。しかし、教区や当時の議長も、告訴の対象になるのではないかと、わたしは考えている。

それでも、法の裁きを優先させるより、教区の経済的ダメージの回復を第一義的に考えて、責任の所在を明らかにし、再発防止策を充分に講じることがいいのではないかとわたしは思っている。なぜなら、それぞれの罪の裁きについては、神に任せればいいと思っていたからだ。

でも、もう、これ、救いがたいのではないだろうか。くだんの「虎落笛」氏の記事には「謝儀互助申請教会や申請額が増加している現状」があることが報告されている。ようするに、東海教区の諸教会は老齢化やなにかで、疲弊している教会が増加しているということ。そのような状態に追い打ちをかける「横領事件」。と、考えるのが普通なのが、この教区総会の会場にいた人たちは、どうやらこの二つの事柄を結びつけることができなかったらしい。

誠に、この想像力の欠如は、悲惨という他はなく、やはり、救いがたいことだ。

でも、「もう、勝手にせい」と敢えて言わないのは、これがこの日本キリスト教団の体質の特徴をよく表しているからだろう。「アベ」を打倒しない限り、この国の「美しい未来」は開け
内のと同様に、この東海教区の隠蔽体質を打破し、執行部を更迭できない教会では、この教団の未来もない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)