カテゴリー「書籍・雑誌」の5件の記事

2009年3月24日 (火)

本を探しています。

書きの本を探しています。御存知の方は、御一報下さい。

◎ 松岡政保『波乱と激動の回想─米国の沖縄統治25年─』(1972年)

Webcat Plus」で検索したら、全国で6つの図書館に所蔵されていることがわかったのですが、借りるより、出来れば買って手元におきたいと思っています。「日本の古本屋」で見つけたのですが、一足違いで店頭で売れてしまったそうです。

松岡政保は1964年から68年まで琉球政府行政主席だった人ですが、1945年には沖縄諮詢会の工務部長をしていました。彼のことは、当時の沖縄のあるキリスト者の日記にしばしば登場します。戦前に米国留学の経験があり、英語が堪能で、沖縄人と米国人の間にたってしばしば通訳をしていたそうです。

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2008年12月20日 (土)

「復帰」と「合同」〜教団は暗闇を見ていたのか〜

ノワール小説やハードボイルドというのは余り趣味ではないので、ほとんど読んだことがない。『不夜城』は映画で見たけれど、馳星周の小説も初めてである。

弥勒世(みるくゆー) 上 Book 弥勒世(みるくゆー) 上

著者:馳 星周
販売元:小学館
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弥勒世(みるくゆー) 下 Book 弥勒世(みるくゆー) 下

著者:馳 星周
販売元:小学館
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歴史は、理想やイデオロギーによって変わることもある(と、信じてる)。しかし、歴史は《きれい事》ではない。汚辱や憤懣に溢れていて、その上、捏造や隠蔽が日常茶飯に行われている。そんな薄い嘘事を引きはがすように、慎重にきれい事では済まされない歴史を描いてみたいと思っている。

本書の舞台は「本土復帰」前、米軍占領下の沖縄島。――そこには、沖縄人どうしによる宮古や奄美への差別があり、アシバー(遊び人、不良、または、ヤクザ)の暗躍があり、売春窟がある。そして、黒人米兵と白人米兵との間に根深い対立があり、米軍やCIAに飼われる「犬」がいる。「犬」は「犬」としての存在に悩み、やがて自我に目覚めたとき、その飼い主の喉笛を噛みきる。

さて、「吉原」は、本書にしばしば出てくる旧コザ市の「特殊飲食街(特飲街)」である。本書では、そこで売春が行われていると書かれているが、その「吉原」 の一角に、日本キリスト教団コザ教会はある。現在の会堂は1965年献堂というから、まさにこの小説の時代に重なっている。

以前、コザ教会で牧会経験がある牧師お二人にお話をうかがったことがある。それによると、コザ教会がこざ「吉原」に隣接する場所に建っているのは、決して偶然ではない。コザ教会は、早世したある神学生(沖縄出身者、同志社神学部の大学院在学)の提案で、「基地の街でも最も人間性が抑圧され、疎外されている地域の一隅」(日本キリスト教団コザ教会『未来への扉—沖縄戦の証言—』(同教会、1998年)p.130)を選んで建てられた。このような尊い志をもとにしてこの教会は建てられたのであるが、その志を通すには相当な困難がともなった。

この「吉原」は、「アシバー」の支配する場所でもあった。

ある日、吉原で働いているひとりの女性が牧師館を訪ねてきた。…(中略)…今のように自分この世界へ転落している原因を語り、生きているのがいやになると。また暴力団の管理からどう逃げることができるのかと、真剣に語った。…(中略)…彼女は、確か3回ほど礼拝に出席してから、それ以後ぷっつりとこなくなった。訪問してみたら、その店にはいないということだった。
教会へ行ったということで、男の人に殴られ、今どこに行ったか、だれも知らないとのこと。これまで教会の庭に来ていた彼女たちは、そのことがあってからは誰一人として来なくなった(名嘉隆一「基地の町に生きる教会」(前掲『未来への扉』に所収)pp.138-139)。

また、教会の前には現在でもちょっとした広場あり、現在はどうなっているか確認していないが、献堂当初はそとにトイレもあった。朝になると、広場の芝生には塵紙や汚物が散乱しており、トイレには嘔吐した後寝込んでしまった女性がいたという。また、広場である時は男女が重なり合ったまま眠り込んでいたともいう。当時は、教会の敷地のなかにあった牧師館に住んでいた牧師と牧師夫人の毎朝の最初の仕事は、それらの汚物や散乱する衣類を片付け、眠り込んでいる女性を起こすことからはじまったという。

その結果、「吉原」と教会の間にはブロック塀ができる。また、牧師は牧師館から離れ、教会と離れたところに住むようになったという。当時の牧師が牧師館を引っ越したその日に、牧師館はボヤで全焼した。これは、キリスト教の惨めな敗北ではない。苦闘の果ての、苦渋の決断であったろう。わたしたちは、この教会の信徒や牧師の苦悩を心に刻むべきであろう。

さて、B52の墜落事故、毒ガス漏れ事件とレッドハット作戦、コザ暴動。そのような混沌は米軍を頂点とする権力構造をも飲み込んでしまっている。そこにやってきた「活動家」と称する日本人たちは、そのような現状を全く把握できないでいる。それでいて、自分たちで沖縄に起こっている事態を解決できると信じ込んでいる節がある。彼らは、強烈な使命感があり(いったい誰に与えられたのだろうか)、その上、自らの良心を信じているだけに、その滑稽さが際だってしまっている。

そのような1970年を前にしたこの時代。日本キリスト教団(日本基督教団)は沖縄キリスト教団と合同した。

そして、その合同を実質化するという名目で、日本の教会関係者による「沖縄セミナー」が、1970年1月、沖縄で開催される。しかし、この試みは初回から躓く。

このセミナーの期間中(第三日)に全軍労の四十八時間ストが決行され、本土出席者の中には、自分の目でこれを確かめるため、また全軍労のストはセミナーに直結する問題であると考えて幾人かがこれに参加した。しかし沖縄ではこのようなことは日常的なことであり、セミナーに参加することこそ、全軍労の人々と行を共にすることである、という考えのようで、本土と沖縄の問題意識は食い違っていた。この二十五年の隔たりからくる意識の食い違いを直視することから、沖縄問題への取り組みははじまることを認識させられた。(「沖縄こそ教団の課題/沖縄セミ終わる」『教団新報』1970年1月24日)

合同した本土教団と沖縄教会の「隔たり」がはっきり現れた瞬間であった。そして、その「隔たり」の認識に沖縄教会は以後敏感になる一方、本土教団ではその後もほとんど自覚されていないように思う。セミナーに参加した本土教団の人々は少なくとも沖縄の教会を理解しようと努力し、いわゆる「沖縄問題」についても問題意識をもっていた。しかし、そのような人々でさえ、沖縄教会が本土教団に何を求めているのか全く理解できなかったということである。第1回沖縄セミナーの後、『教団新報』ではセミナーの参加者から全軍労のストへのカンパが何度も呼びかけられている。わたしは、そのことを批判することはできない。しかし、そこに沖縄教会の問いかけに応える用意はあったのであろうか。

これらに象徴される両者の認識の「隔たり」についての本土教団の過小評価により、わずか2回で中止された。

先述のコザ教会の試みは沖縄の他教会でも見られることであろう。そのような日常の伝道と宣教の営みに、寄り添うこと。それは、本土教団に所属するわたしたちにとって相当難しい、その解決継続中の課題である。

「弥勒世」。「弥勒」だから、現在仏教と強い結びつきがつよい思想というわけではない。しかし、そこに存在する憎しみや恨み、悲しみや苦しみ、混沌と暴力などを乗り越えようとする祈りがそこにある。その祈りに、当時の沖縄教会の人々は心を合わせていたに違いない。その祈りに込められた思いやその意味を、わたしは、少しでも理解したい。本書を読みながら、そう強く思った。

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2008年12月 6日 (土)

過ぎ去った“カコ”を、来るべき“ミライ”に〜池上永一『テンペスト』を読む〜

池上永一の『テンペスト』読了。


テンペスト  上 若夏の巻 Book テンペスト  上 若夏の巻

著者:池上 永一
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テンペスト 下 花風の巻 Book テンペスト 下 花風の巻

著者:池上 永一
販売元:角川グループパブリッシング
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あらすじなどは、野暮なので、詳細は省略する。両方で900ページぐらいの浩瀚な小説だが、数日で読了した。それだけ面白かったのだが、それに加えていくつか示唆を与えられることがあった。

まず、主要な登場人物やどうやら実在しないらしい。生憎、この時代の知識があまりないのだが、おそらくモデルになった人物はいるのだろう。だから、正確な歴史的事実を本書から読み取るのは無理だろうが、だからといって書かれていることは全くのフィクションではない。当然のことながら、一面では歴史の論文よりも当時の人物群像や時代状況が活写されていることはある。

さて、琉球王国は、大陸の中華帝国と「日本」に接する小国である。本書の舞台は、その琉球王国の滅亡期である。その頃には、英国、米国等々の欧米列強が中国から日本本土への足がかりとして琉球王国を席巻しようと、虎視眈々と機会を狙っていた。そんな小国でありながら、琉球王国は、1429年から1879年(72年に琉球王国は琉球藩となっている)の約450年もの間存在し続けたのである。途中、クーデタで王朝が交替し、1609年には薩摩の侵攻を受けて奄美を失い、「保護国」化することもあった。

しかし、それでも王国として存続し続けた。そこに、わたしたちが対面している琉球=沖縄の本質がある。本書で触れられているとおり、琉球王国には中国の科挙に相当する科試(コウシ)が行われていた。その内容は、中国の四書五経を中心とした確かな教養を基盤にして、「答のないところに答を見出していく能力」がタメされるものであったという。こうして、科試に合格した少数精鋭の頭脳集団が、論理の組み立てと文書の力だけによって、周辺の大国や「宗主国」からの無理難題に曝され、西欧列強に圧倒されかねない情勢の中にある諸国・琉球のあるはずがなかった新しい道を見出し、切り開きながら歴史を進んでいったことが、本書から読みとれる。

つまり、わたしが研究対象にしている戦後米軍占領下の沖縄に生きた人びとにもこのような論理の力に「情」による「血流」を生じさせ、難しい局面を切り開く潜在的な能力が備わっていたということである。その片鱗は、調査の過程でも感じていた。史料中の人物の動きや思考、そして、聞き取りや史料収集の過程で出会う人々には、豊かな教養と穏やかな物腰のなかにも芯の強さと渡り合っていく意志のようなものが感じられた。そして、それは『テンペスト』に描かれた琉球王国時代の評定所筆者(主人公が最初に就いた役職)のそれとつながっているのではないかと、わたしは感じた。

そして、わたしは、それを“ミライ”へとつなげてゆきたいと思う。ことばを紡ぎ、文書だけで誰にも打ち負かせない論理を構築し、答のないところに答を見出していく。それを、沖縄の“ミライ”につないでいきたいと思う。

大国は、強大なエゴイストだ。それを、指摘し、批判するだけでは、それがたとえ直接的な行動をもとなったとしても歴史は変わらない。外交と内政の最前線で、ことばで新しい論理を構築しながら、交渉し、相手を立てつつ説得して、自らの有利な方に情勢を導いていった本書の主人公たちのあり方は、その歴史を変えていくための一つの方策を示しているように思う。

彼ら/彼女らの試みは結果的に明治政府による琉球の併合という結果に終わったけれど、歴史は終わっていない。本書のなかで登場する清国の宦官の気味悪さと尊大さは、現在の米国のそれに通じているように思う。同時に、琉球に心を寄せつつも自らの利害にしたがって琉球を蹂躙せざるを得なかった薩摩の侍は、同時に日本本土のある種の人物像にオーバーラップする。筆者の池上氏はそのような暗喩を用い、少年(少女)官僚の思考と行動にに仮託しながら、現状を打破し、歴史を変える試みを、本書で提起しているように思った。

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2008年11月 1日 (土)

わたしの「思いやり」考

わたしは、40代半ば。いわゆる働き盛りである。だから、普通は電車やバスで席を譲られたことがないはずだ。しかし、40代の前半の一時期、バスでしばしば席を譲られたことがある。そして、わたしに席を譲ろうとしたのは、いずれもほとんどの場合わたしと同年代かそれ以上の人からであった。

さて、なぜ、わたしガバスで席を譲られたのか。それは、わたしがまだ乳児であった息子を抱いていたからであった。そう。人間は、ある日突然、「ハンディ」を背負うこともあるのだ。だんだん年老いて、だんだん席を譲られる機会が多くなってくるだけではない。

その時、わたしは、大袈裟に言えば人生観が変わった気がした。その転換を、今はうまくことばで説明することは出来ない。しかし、それは、「席を譲る」側から「席を譲られる」側へと立場が変化したことに起因していることは間違いない。そして、「席を譲られる」ことで、その人がどんな気持ちになるのか、ちょっとだけわかったような気になった。

「思いやり」にも同様のことがあるのではないか。

さて、その「思いやり」について、再考する機会を与えられた本がある。

思いやり格差が日本をダメにする―支え合う社会をつくる8つのアプローチ (生活人新書 270) 思いやり格差が日本をダメにする―支え合う社会をつくる8つのアプローチ (生活人新書 270)

著者:稲場 圭信
販売元:日本放送出版協会
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最初の断っておくが、本を読むときには、批判的な目で見ればいくらでも批判ですることが出来る。反対に、評価するつもりで読めばすばらしい点だけを述べることも出る。そのバラ ンスが大事なのだが、その点でいうと、本書はヴォランティアを目ざす人たちやその活動に関心がある人たちにとってはとても有意義であると思う。その上で、わたしの問題意識に引きつけて、批判的に、本書を読んでいきたい。

著書は、先日の釜山の学会ではじめて知り合った方である。その知り合い方に、わたしはある種の運命のようなものを感じているのだが、それはさておき、著者からのメールで発刊を知り、通勤の途上の駅上書店で買い求めた。

本書は、現在の各社社会の問題や「思いやり」、そして、著者が取り組んでいる「利他主義」について一般の読者にも分かり易いことばで書かれており、それらの諸問題群に近づき、そして、思考をステップアップさせるための文献についても、要領よく紹介されている。

しかし、いくつかの違和感が最後までぬぐい去れなかった。

そのひとつは、「思いやり格差」という本書のキーワードについて明確な定義がされていないようだったので、最後までこの概念がよく分からなかった。著者の意図は「格差社会」でおきている様々な問題を解決する手段を「思いやり」という観点から導き出そうとする者であろうか。

もうひとつは、冒頭の話と関連している。あえていうと、本書は、「思いやる」立場からのみ書かれている。そこでは、「思いやられる」立場が完全に客体化され、その主体性が剥奪されているように思えてならない。これは、筆者が英国に留学していたこともあり、その欧米でのボランティア体験や「思いやり」体験が相対化されていないからではないだろうか。

本書の題名に「日本をダメにする」とあるが、わたしには著者がそこまで言っていないように思える。ひょっとすると出版元の意向なのかもしれない。著者は現代日本社会の問題点を指摘し、それを解決する手段として英国社会に根づいている「思いやり」の様々な方法やそれを支える叡智を紹介している。それ以上に踏み込んではいないように、わたしには読めた。

それでも、実は、日本には近代以前から共同体の内部では助けたり、助けられたりする関係があり、それを維持するシステムや知恵があった。そこに、欧米流のヴォランティアリズムを携えたキリスト教が宣教師とともにやってくる。そこで、はじめて日本人は不特定多数の「隣人」に「思いやり」をもつということを知る。そのことには、重要な意味があった。

しかし、当時のキリスト教が社会の上層に受けいれられた(より正確には、社会のより上層にある人がキリスト教界で影響をもった)ことにより、「助けたり、助けられたりする」関係ではなく、助ける人と助けられる人が分離し、その立場が固定されたのである。

わたしは、かつて、論文(「世紀転換期におけるキリスト教メディアと『慈善』文化の創成」(『甲子園大学紀要 C 人間文化学部編』第1号、1997年))でそのことを指摘している。そこで、わたしは、1900年前後の世紀転換期に起こった自然災害や戦争、つまり、濃尾地震(1891年10月28日)、三陸大津波(1896年6月15日 )、日清戦争(1894年7月〜95年4月)、日露戦争(1904年2月6日〜1905n年9月)の際にキリスト教が行った「音楽幻燈会」という全国的な慈善活動をとりあげて、そこで近代以降日本にもたらされた「慈善」文化の問題点を論じた。

また、ここでは、詳細は触れないが、筆者がしばしば触れている新約聖書の「善きサマリア人」のたとえ話にも、わたしは違和感をもっている。

わたしは、「慈善」を行う者の「慈善」の対象者にむけられた“まなざし”が気になる。そして、それらの「慈善」意識が容易にナショナリズムに回収されたり、国境の壁を越えられなかったことが気になる。ロンドンの街角では至る所に監視カメラがあると聞くが、もしそれが本当ならば、英国には筆者が言うところの「思いやり」が溢れていると同時に、監視の眼が自らのうちにある「異人」や「異分子」にむけられてもいる。そのことは、どう解釈すべきなのであろうか。

歴史は、きれい事ではない。わたしは、その歴史をこれまでずっと観てきた。歴史は、矛盾に満ちている。だからこそ、わたしは、単純な説明や枠組みには組しない。わたしは、本書から多くを学んだが、しかし、なお、自らの問題関心を引きつけて考えると、筆者が触れなかった、いわば「死角」が気になってしかたがないのである。

最後に“つぶやき”:わたしも、早く、著書を出さなければ。まごまごしている場合ではない。

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2008年3月16日 (日)

「集団自決」を心に刻んで

証言沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか (岩波新書 新赤版 1114) Book 証言沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか (岩波新書 新赤版 1114)

著者:謝花 直美
販売元:岩波書店
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わたしとほぼ同世代の沖縄タイムス編集委員の著作だ。戦後生まれの著者が、「慶良間諸島へ毎週通いながら取材を重ねた」(p221)結果生まれた貴重な証言集である。これほどはっきりした証言があり、しかも、複数の証言の中にはそうとうの共通部分があり、それぞれが、違った立場、違った状況下でしている証言だけに、併せて読むと、より立体的に歴史的事実が浮かんでくる。

こうした「事実」がありながら、文書の不在を根拠に、今ごろになってその「事実」を否定しようとする者たちがいる。

沖縄戦の真実と歪曲 Book 沖縄戦の真実と歪曲

著者:大城 将保
販売元:高文研
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ここには、教科書検定の際の「集団自決」記述をめぐってのできごとと大江健三郎と岩波書店が元軍人とその遺族に訴えられた件の顛末が詳しく書かれている。ここには、沖縄戦での「集団自決(強制的集団死)」への日本軍の軍命・関与を否定するために、どのような問題の矮小化と詐術が、どのような場で行われたのかが詳述してある。つまり、「集団自決」に関する訴訟を起こし、それを理由に教科書検定を“後退”させる。このような試みは、従軍慰安婦や南京大虐殺を否定する主張を展開する時にも用いられたもので、それらを否定しようとする人脈は、繋がっているというのである。このようなことは、一部では周知のことであったが、本書で、認識を新たにした。

軍命は必ずしも文書で伝達されるものではない。わたしは以前沖縄に侵攻した米軍が日本軍から押収した「公式文書」群をマイクロフィルムで見たことがある。そこには、ありとあらゆる(と思われるほどの)命令書が前戦の部隊と司令部との間に交わされたことが見て取れた。弾薬・糧秣等々の要求と補給、 進軍計画などが細かく報告され、指示されていた。それをみながら、わたしは、戦争とは一面で、官僚機構による行政的な行為であることを知った。

しかし、だからといって、「集団自決」を命ずる軍命が、それらの文書群に存在しないことを根拠に完全に否定されるわけではない。それに加えて、軍の関係文書の大半は敗戦前後に破棄されていると見られる。自ら破棄したものを、あるいは、同じ勢力が破棄したことを確信した上で、“それ”はないと主張し、「真実」は隠蔽し、「事実」を歪曲する。

さて、謝花氏の地味だが粘り強く継続されてきた聞き取りと、それを可能のした氏の誠実さが閉じられた心を開いたことを、思う。わたしたちは、聞き取り調査の技能を一層磨き、その成果の社会への還元について真剣に考えたい。

この19日から沖縄へ行く。今回の調査の目的は「集団自決」とは別のところにある。しかし、わたしが研究の対象と指定戦後の沖縄の人びとは、多かれ少なかれ、「集団自決」や日本軍による虐殺、そして、米軍支配の暴虐を体験した人であることは、しっかりと心に刻み、調査にのぞみたい。

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