カテゴリー「経済・政治・国際」の9件の記事

2009年11月23日 (月)

恥の上塗り

先述の小沢一郎民主党幹事長の「キリスト教とイスラム教は、独善的」発言に対して、日本キリスト教連合が、抗議文を送ったらしい。それで、ちょっと探すと本文がここにあったので、転載する。

民主党幹事長 小沢一郎殿

 貴職は11月10日「全日本仏教会」松長会長との会談後「キリスト教文明は非常に排他的で、独善的な宗教だと思っている。排他的なキリスト教を背景にした文明は欧米社会の行き詰っている姿そのものだ」と記者団に語ったと報道されています。
 この貴職の発言は、キリスト教に対する一面的理解に基づく、それこそ「排他的」で「独善的」な発言であり、日本の責任政党幹事長が世界人口の約3分の1のキリスト者がいる国際社会に向けて発言した言葉として、その見識を深く疑わざるを得ません。
 「汝の隣人を愛せよ」と説き、生命を捧げてすべての人とのために仕え切ったイエス・キリストを救い主と信じるキリスト教は民族・国境・思想等のあらゆる差異をこえて平和の実現のため努力しています。
 本連合会も教派教団を越えて一つなる歩みを重ね、日本宗教連盟傘下にあって「全日本仏教会」とも協力して広く差別偏見からくる排他性と戦っています。
 そうした働きを否定し、キリスト教を排他的と決め付ける言葉に抗議し、撤回を強く要求します。

 2009年11月11日

   日本キリスト教連合会    
    委員長 山北宣久 

山北宣久様、あなたはあなたの隣人を、本当に愛しているのでしょうか。そして、イエスがその命を捧げて、人類を救おうとなさったからといって、それを信じる人すべてが、同様というわけでないのですが、その点、何か、錯覚をなさっていませんか。

あまり大きな騒ぎになっていないのは、幸いだが、このようなことを「恥の上塗り」というのだろう。

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2009年10月24日 (土)

「沖縄」の決断か。国民の決断か。はたまた、政府の決断か。〜再び霧のなかの普天間・辺野古〜

────普天間基地の辺野古沖移設か、県外移設か、嘉手納統合か。

この問題を、鳩山由紀夫首相は次期県知事選や名護市長選で示された「沖縄」の民意にしたがうと一時期いっていたという。選挙で示された「民意」をみて態度を決めるというのは、単に民主主義の偽装に過ぎない。そもそも沖縄の米軍基地は「沖縄」の問題ではないのだ。それは、国家の問題であり、国民の問題でもある。それを、なにゆえに、沖縄県民や名護市民に判断するように強要するのだ。

米軍基地が決して日本国民を守るためのものではないことは明白だが、百歩譲ってそのような日米両政府の主張にしたがうにしても、それならなさら、普天間基地周辺の危険性も、守ってもらっている日本国民の問題なのだ。だから、自分が住んでいる地域に積極的に米軍基地を受けいれる意思がないのなら、せめて国民ひとりひとりの判断で、普天間基地の県外移設を足がかりに、沖縄の米軍および日本軍(自衛隊)基地の撤去を目ざして、発言し、日本政府(民主党・国民新党・社民党連立政権)に圧力をかけよう。

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2008年11月 9日 (日)

軽く見ていたかもしれません。

例の「タモガミ論文」事件です。わたしは、事態を少し軽く見ていたのかもしれません。結局、100名近い(まだ、出てくるかもしれませんが)自衛官が例の懸賞論文に応募していたようです

これは、一種のクーデターではなかったかと思うのです。わたしは経験がないので、最初事態を把握しきらなかったのですが、今回の一連の事件は武力こそ使わなかったけれど、まさに、政治的なクーデターです。

今回更迭された軍人は国家の意思とは違った自らの思想にもとづき自衛官を教育し、それを徹底するという周到な準備をしていました。その上で、民間人と共謀してその思想を公にした。政府(「防衛」相)は、事前にそのことを全く知らされていなかったようです。そして、その論文が公開寸前になって事態の深刻さにはじめて気が付く。

その後、政府は結局、この軍人を免職にすることができなかった。そして、さらに、今度は、国会でこの軍人が国民に向かって弁明する絶好の機会を与えてしまったというのです。左様、国会は野党も与党の緊張感を欠いています。

軍は、文民政府が統制する。軍は、文民政府の方針に絶対服従。これが文民統制=シビリアン・コントロールのあり方です。日本の軍人はこのことを防衛大学校等で骨の髄まで叩き込まれているのではなかったのでしょうか。

でも、事実は全く違っていたのです。今回、政府は軍を統御し、統制する意思も能力も持たないことをしめしてしまったに相違ありません。国会も然りです。このような物騒な事態がかくも自然に、穏やかに来ていることは、実は、わたしにとってとっても意外でした。しかし、事態はおそらく、クーデターの様相を見せ始めてきました。

さて、新しく航空幕僚長に就任した外薗健一朗氏は、自衛隊のことを「武力集団」と述べたといいます。そのような武力集団はこの国に必要なのでしょうか。ある人は、それがなければ国は守れないだろうといいます。しかし、わたしにはその「武力集団」の武力は、本当は、どこか得体の知れない「外国=仮想敵国」ではなく、国民に、あるいは国民の主権に基づいて形成された政府にむけられているのではなかろうか。そのことを、今回の「事件」で、感じた次第です。

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2008年11月 4日 (火)

いろいろいっているけど………

ちょっとだけ書きます。

田母神前空幕長が記者会見、スーツ姿で謝罪・反省の弁なし」ですが、退職金数千万円と雑文(※論評・論証するのもあほらしいほど、ウソ八百の羅列。あの秦郁彦でもあきれていた)の「賞金」300万円を受け取るとのこと。

いろいろいっているけれど、結局は、お金が欲しいからだったのではないでしょうか。「お金がいらない。主張がしたい」のならもっと別の媒体を選んだはず。

あまりにもくだらない。

この連休で論文を1本仕上げたのですが、気分が悪くなったので、寝ます。お休みなさい。

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2008年9月28日 (日)

「内向き」か………〜「島国根性」について考える〜

また、憂鬱な時がやってきた。「ウオッチング」を再開しなければならないのだろうか。

そして、その憂鬱の種になっている麻生内閣の閣僚のひとり、中山成彬国土交通大臣がいくつもの「失言」辞任した。彼の「失言」のうち、日教組に関することや成田空港の件については相当も問題がある。そして、「単一民族」発言についても問題があるのだが、その発言についてこれまで、何処でもほとんど問題になっていない件について、引っかかっているところがわたしにはある。

それは、「日本(人)は随分内向きな、単一民族」という部分の「内向き」ということばである。日本人は本当に昔から「内向き」だったのだろうか。列島の周縁部分に足を運び調査をしていると、現在でもそこは「内向き」では決して生きていけない「世界」であり、歴史的にもそうだったのではないかと思うことがよくある。近代以前、明確な国境や出入国に関する管理思想などなかった時代には、周縁地域の人たちは自由に他の国・地域の周縁と交流をしていた。そもそも、「周縁」という意識さえなかったのではないか。「周縁」は「中心」や「中央」が成立してはじめて生まれる概念ではないだろうか。

ともあれ、そのような環境に生きている人々は互いに言語が少々違っていても、コミュニケーションを上手にとっていただろうし、「外向き」の行動的な人たち(もちろん、皆がそうではないだろうが)によってそのような交流はになわれて来た。ただ、都や江戸の人たちはそれでも「内向き」であったろうとも思う。あるいは「藩」の「中心」にいる人たちもそうであったかもしれない。

さて、「内向き」な性格や思考・行動パターンと「単一民族」とは全く別個の問題であるが、中山元大臣のなかでは、そして、彼と同種の人間の頭の中では、それが短絡的に直結しているように思う。そして、それは、穿った見方をすれば、国民の統合のために、政治家や官僚は国民の「内向き」になるように願っているのではないかとさえ思える。「外向き」で世界的な視野を以て、海外で活躍するのは少数の政治的経済的エリートだけでよくて、「その他大勢」の国民はなまじ世界のことやこの国の名嘉にたくさんの外国人が生活していることなど知ってほしくないと、彼らは願っているように思えてならない。

しかし、彼らが思っているほど国民は「無知」ではない。また、生活は、普通の、何でもない生活は、それでもどこかで世界とつながっていて、それを生活者たちはいろいろな手段で、また、様々な機会に自覚している。働いても、働いても、自分の暮らしが貧しくなっていくのは、自分が不道徳で、怠け者であるからと、今どき、感じている人はいないだろう。それは、国際経済の要因や政府の無策でそうなっている。それを、とっくに国民は肌身で感じている。

だから、きょうび、とても「内向き」何ぞでは、生きていけない。命や生活が危うくなると皆感じている。

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2008年3月 3日 (月)

「間接的」〜支配、あるいは、ハラスメント〜

他者を支配する仕方として、直接的な力をこうして支配するよりも、間接的日〜を枯死することで支配する方法の方が、統治の仕方としてより高等である。治者が直接被治者に対峙すると、被治者の反感や反発、抗議等々が直接治者に向かう可能性がある。そこで、“賢い”治者(別に褒めているわけではありませんが………)は、間接的に被治者を統治しようとする。

そのテクニックは、様々だが、大体の場合、被治者の指導層を自らの側に取り込み、彼らを使って統治をするという方法が一般的である。その懐柔の手段は、例えば、植民地の場合、現地の優秀な若者をその宗主国の最高学府に留学させる。そして、治者の言語や思考、思想、それから、“先進的”な学問・知識・技術を学ばせる。そして、彼らが帰国すると官界・政界・学界・経済界等の新しい指導者として活躍させる。つまり、斯界の統治の成否は、治者と被治者の間に設けられた「中間層」の育成と規律訓練にかかっていると言える。

なるほど、日頃世話になっている人から、いろいろ言われると、それがかなり無理なことであっても無碍に断ることができない。そのようなパターナリズムを利用した宣撫の仕方は、しかし、問題が隠される傾向にあるが故に、大きな問題をはらんでいる。また、このような関係は、国家間、あるいは、植民地と宗主国、中央と地方との関係以外にも、職場や地域社会の人間関係のなかでも起こりうることである。

例えば、職場で、経営者が法令に基づかない理不尽な要求を現場の労働者にしたり、法律上認められている好意を不法に規制しようとする時、それを直接行えば、労働争議に発展しかねない。しかし、現場の責任者や事務担当者を通じて、間接的にその意向を経営者が貫徹使用とする場合には、現場の労働者はそこでの人間関係でそれになかなか抗することができない。

このような経営者のやり方は、一種の「パワー・ハラスメント」である。わたしの「現場」である大学教育の場では、「アカデミック・ハラスメント」というものあるが、これは、どちらかというと教師と学生との間に直接的に起こることが多いように思う。が、この「パワハラ」もないわけではない。問題はくだんの「中間層」が、学生やヒラの教職員の側に立っているのか、それとも経営者側の立場に立っているのかで、大きく変わってくる。

このブログで、沖縄の現状や歴史を述べる際に、必ずしも沖縄“全体”が反基地でもなく、反米でもなく、反日的でもないことの理由を、わたしはこれまでにも縷々述べてきた。このような事態も、また、治者(この場合米国だけではなく、日本政府も)が時間をかけ、根気強く、時には強引に、時には金を使ったりして、被治者と直接対峙し、自らの意向を汲んで動くという自在な「中間層」を巧く育成した結果であろう。そして、選挙のたびに問題になるのは、この「中間層」の争奪であり、権力を持つ治者は自分たちの立場に立っている「中間層」には手厚く補助を与え、敵対的な「中間層」に対しては徹底的に「力」を行使しつつ、その勢いと力をそいでいくことに腐心している。

さて、歴史の中で起こっていることは、決して、自らに関係しないことではない。それは、わたしたちの周囲でも、身近に起こっていことでもある。

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2008年2月21日 (木)

「記録する」ということ。

仕事柄、全国各地の公文書館や図書館をよく訪れる。公文書館や図書館は、よく「民主主義の砦」と呼ばれる。権力が覆い隠したり、バラバラにして、偽装したりしているものを、明るみに出すためには、地道に隠され、バラバラにされ、偽装されたものを、掘り出したり、つなげ合わせたり、暴いたりしなければならない。

さて、きょうも、沖縄でフィリピン人女性が犠牲者になる事件が発生。今度は、容疑者の米兵は基地に逃げ込み、まだ、逮捕されていない。

それから、イージス艦と漁船の衝突事故。「イージス艦、漁船団を避けず直進 僚船GPSで裏付け」とのこと。10数トンに満たない漁船の残したGPSの記録が、自衛隊が隠し、防衛「省」が隠しているかも知れないことを、暴き出している。

「記録する」ということ。やはり、これはわたしたちの民主主義を守り、権力を告発するための重要な手段である。

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2008年2月13日 (水)

霜柱〜沖縄での事件についてと「寒い感慨」〜

東京は寒い日が続いています。朝、公園を歩いていると、霜柱が立っていました。久し振りに見る霜柱。あっちにも、こっちのも。かなり大きいものもありました。それを、踏んでみました。すると、「寒い感慨」が身体の中に、湧いてきました。

霜柱は、寒い冬の日の、朝方だけ、出て、陽が昇ると融けてしまいます。
霜柱は、踏むとばりばりと音がして、靴の裏に軽い刺激があります。が、痛いというわけではありません。

沖縄で事件が起きて、それがたまに、思い出したように、本土で報道される。しかし、それは、靴の裏からの軽い刺激であって、決して、自分の足が痛む程ではない。そして、それは、日がたつと、消えてしまう。その間に、全く悪質な、論点のすり替えが起こり、達観と諦観により、物事の本質は稀釈されていく。

そんなことを、どのくらい、くり返すのでしょうか、この国は。

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2007年4月10日 (火)

「学」は、なにをなし得るか。

手短に書きます。

統一地方選挙の第一弾が終わった。現職全勝。ことに東京では現職知事が圧勝。しかし、一部には前回選挙より2位との差が100万票単位で縮まったとの指摘があり。いずれにしろ、単なる負け惜しみの感あり。現実は直視しなければならないでしょう。

さて、このと知事選挙の結果を示して、詳細は省きますが、「『学』は、何か役割を
果しているのだろうか」との問いがありました。

厳しい問いかけです。「学」が学問のことを指しているのであれば、「学」には現状に対して即効性のある力はありません。この期におよんで、「学」はなにをなし得るかというのは、正直、学問に対する過剰な期待です。第一、われわれの思惟がそのまま現状に反映し、現状を変えていくとしたら、それこそ“けったいな”世の中だと思っています。

もちろん、この国の現状をどうにかしようという意図はあります。そして、そのための努力もしています。ただただ、即効性がにだけです。「学」と重なり合う「教」の部分と一体化し、挫けぬように努力をすることが大事だと考えています。

現状を分析し、過去の様々な事例を発掘・検証していく。これは、「学」の役割です。そこから、正しいものは正しい、間違っていることは間違っている、そのことを厳しく弁別して、論理化し、言語化し、体系化していくのが「教」の役割だと思うのです。ついでにいえば、なにも知らない人に根気強く働きかけ、意識が希薄な人を啓蒙しつつ、その問題意識を発掘していくことは、「学」と「教」の共同作業だと思うのです。

「学」と「教」のはざまにあって、若者に働きかけるチャンスと義務を持っているわたしは、これまでもそうしてきたし、これからもきっとそうし続けることでしょう。結果は、すぐには出ません。わたしのいったことも、すぐには理解されないでしょう。しかし、何年か後、何十年か後、にそのことがどこかで実を結ぶことを念じならが、活動をしています。現状は、十年持たないかもしれない。だから、そんな悠長なことをいっていられないという指摘はごもっともなことです。しかし、それを承知で、何年か後、何十年か後、何百年か後を見据えながら「学」を構築していきたいと、わたしは考えています。

さて、「宗」は、それでは、今回のような事態に対して、どのような役割を果たしているのでしょうか。毎週日曜日に語られる講壇で、「宗」、すなわち、宗教はどのような役割を果たして、なにをなし得るのでしょうか。

市民運動関連のML(メーリング・リスト)の中では、今回の選挙結果で、内ゲバが起こっています。まさに、“敵”の思うつぼ。だから、「学」も、「教」も、「宗」も、なにをなし得るのかを冷静に考えて、ねばり強く、諦めないで、挫けないで、手を携えて力を合わせましょう。

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